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望月 鏡翠
2022-12-31 16:07:43
70411文字
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リアタイ
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Dear Mr.Cellophane
#祝福の塔3_ミスターセロファン/1P序/2P盲目の街/3P信仰の街/4P愚者の街/5P孤独の街/6P現実世界
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証言者⑦ ■■ ■■
話さなかったことがある。
僕と鷹道くんの間に起こったことについて。
――
お前、あいつのこと好きなの。
あのひ、鷹道くんの言葉に頷いた。
それ以外は許されていなかったからだ。全ての言葉にはいと言って従う以外のことをしたら、ひどく殴られた。痛いから、嫌だった。
だから本当は、その子のことなんてどうでもよかった。正直、顔もよく知らなかった。いつも下を向いて、誰とも目を合わせないようにしていたから。
好きじゃなかった。知らない子だった。
好きなのかって聞いてきたのは、たぶんあの子が僕に声を掛けてきたからだ。
僕の味方をしそうな奴を、鷹道くんは徹底的に潰した。でもその頃にはもう僕は、村の中では誰も味方なんてできないことがわかっていた。
人に手を伸ばすことを諦めていた。
どうせみんなに見てもらえない僕だから、誰のことも助けない。
だから、体育館倉庫に呼び出したのは、僕にとっては知らない女の子だった。
彼女が鷹道くんに抱かれていることなんて、正直どうでもよかった。僕に見えていたのは鷹道くんの背中。
その両脇から生えたみたいにしてぶらぶらと揺れている女の子の足。そこに引っかかった下着。くぐもった悲鳴がだんだん力を失って、太腿が力なく揺れるだけになっていく。
薄暗い倉庫には刷りガラスから斜めに光が差し込んで、傷一つない背中を白く照らしていた。僕の背中はいつだって殴られ蹴られて、あざだらけだった。
押し込められた跳び箱の中は狭くて息苦しくて埃っぽかった。汗に埃が張り付いて、体がベタベタする。徐々に体温を上げて薄赤くなっていく鷹道くんの背中を、僕はじっと見つめていた。
口にガムテープを貼り付けられた僕も、徐々に息を激しくしていった。苦しかったのかもしれないし、無関心を装っていたけれど動揺していたのかもしれない。
もしかしたら、別の何かだったのかも。
僕は鷹道くんを見ていた。
鷹道くんは僕を見なかった。
僕と鷹道くんの関係が、本当に始まったのはあのときだ。
彼は女の人を抱く姿を、見せつけたがった。
自分の方が優れていると僕に示さなければ気が済まなかった。
同じ金髪碧眼なのに僕がハーフだから駄目で、鷹道くんが許される理由は、彼の家が地元の名士で、みんなに認められている家の生まれだったから。
母親がイギリス人で、綺麗な金髪と青い瞳を持っていることが誇りだったのだ。母子家庭で貧乏でよそ者の子供が同じなんて、絶対にあってはならないことだった。
それなのに、同級生が鷹道くんの後ろ姿を僕と間違えた。
僕を徹底的に潰しにかかったのは、その日からだった。
僕が引っ越して来たから、彼は特別な子供ではなくなってしまったのだ。彼は自分の優位性を僕に剥がされたことを、ずっと怒っていたのだ。僕に鷹道くんの影のように振る舞って、従順で惨めでいることを求めた。
僕はそれに応えた。僕には鷹道くんしかいなかったから、それに縋った。
大学生になって地元を離れたのに、僕たちはいまだに一緒にいた。
東京に出たとき、ずっとここで育ちたかったと思ったけれど、過ぎたことはどうしようもなかった。
閉鎖環境から出て少し大人になった僕は、そのときには自分のことを俺と言っていた。変わったことといえばそれくらいだった。
家を追い出された鷹道くんは、ホストをしてお金を稼いでいた。
その頃から、彼は俺に自分のことを『ミチくん』と呼ばせるようになった。店で本名を呼ばれるのを嫌がったけど、俺にはお店に来て欲しがった。
直接お金を渡すのではなく売り上げとして渡さないと、お店の中での鷹道くんの立場が良くならないから。
あとそう呼ばせていたのはたぶん、俺のことをお客さんの女の人と同じに扱っていたからだ。
でもさ、俺はちょっと嬉しかったんだよ。
ミチくんって呼ぶの、なんか友達っていうか、本当の兄弟になったみたいで、いいなって、俺はずっと思ってたんだよ。
よそ者があんなに叩かれる田舎に、金髪碧眼の子供が二人もいるの、ミチくんは不思議に思わなかったの?
鷹道は、俺が大学にいく学費がどこから出ていたのか、知らないと思う。奨学金の推薦も受けられなかった俺に、本来ならそんなお金はあるわけがない。
でも鷹道は、裕福な家で愛されて育った子供だから、もしかしたらそういうことを何一つわかっていなかったのかも。
俺たちが大学に進学して東京に出ていく頃に、鷹道の両親が離婚して苗字がファリントンに戻っていた。鷹道の父親は理由なんて言わなかっただろうけれど、母親にはわかっていたはずだ。言わなかったのか、言えなかったのか。
俺の方がいい大学に受かった。宿題を全部やらされてたし、勉強が唯一の逃げ場で他にやることがなかったから成績が良かった。
それを知ってあの男は、自分の妻と鷹道を見限って俺に乗り換えたんだ。学費と生活費を引き換えに、俺を息子として買い取った。
その瞬間の俺は確かに求められていた。孤独ではなかったし、透明ではなかった。
でも俺の母さんの復讐だってことを知っていたから、受け入れられなかった。
鷹道が捨てられた時点で、復讐は完了した。
やりたいことをやり遂げて、すごいよ。全然、尊敬できないけど。
そもそもこの村に引っ越してきたのだって、自分を捨てた男に対する当て付けだ。認知してもらえなかった息子と、正式に家族に迎え入れられた息子を比べさせて、俺の方が優秀であればいいと思っていたんだ。
声をあげればよかった?
俺が強い方になればよかった?
嫌だよ。
そんなことしたって、俺と鷹道の関係が入れ替わるだけじゃん。
俺と母さんがここに暮らしているだけで、鷹道の家はめちゃくちゃになる。
母さんに、聞きたかった。
俺たちが住むのは、ここじゃないところじゃダメだったの。どこでもいいけどさ、ここじゃないところの方がいいよ。
もっとど田舎で人が住んでないところとか。誰も俺たちが誰であるのかを気にしない都会の方とかがいいよ。
俺が目立って優秀だったら、鷹道と鷹道の母さんが傷つくんだよ。
だから俺は黙って、鷹道の影になった。
でも鷹道は俺が影でいるだけでは、満足しなかった。徹底的に支配して、蹂躙したがった。
抱いてやるから言うこと聞けって言われたとき、何て言えばいいのかわからなかったんだ。俺が拒否すればするほど、鷹道は喜んだ。
俺たちは半分血が繋がってるからダメだよなんて、言えなかった。
鷹道の両親が黙ってたことを、俺が言えるわけがない。
なんて言えばいいのかわからないでいるうちに殴られて、抵抗しようとしてまた殴られた。声は出せず、体は動かなくなった。
そして、俺たちは間違えた。
間違えたまま、二人でどん底まで滑り落ちていった。
鷹道の母さんは、俺が鷹道にされていることに気付いていたんじゃないかと思う。だからこそ本当のことは、言えなかったんじゃないだろうか。
この関係は手遅れだったから、悍しい真実には蓋をされた。俺もそれに従った。
大学を出る頃には、経済的に自立できるようになっていた。地元を出ていたから、差別的な視線を向けられることも、見た目を理由に共同体から排除されることも減っていた。
学費の援助の見返りは地元に戻ることだったけれど、俺はその声を無視した。
母さんは俺にとって卑怯な復讐者でしかなかったし、父親はクズだと思っていた。
鷹道もたぶん悪人で、人を騙すことをなんとも思っていなくて、笑顔で懐柔するのが得意だった。
でも大事にされるのが当然で、ずっと守られて愛されて育ったから、自分に向けられる悪意も裏切りもわかっていなかった。
俺たちの関係がどんなものであるのかに、本当に気付いていなかった。
母さんの悪意を全く知らなかった。
父親に見放された理由も、正しく理解できていなかった。
俺にはずっと鷹道しかいなかったけれど、鷹道にももう俺しかいなかったんだ。
だから俺は鷹道のために、精一杯をしてたつもりだよ。
何をしてやれるのかわからなかったけど、何かしてやりたかった。
半分しか血は繋がっていないけれど、俺と鷹道は確かに兄弟だった。
鷹道が俺を見ないのは、傍にいることを信頼してたからだと思ってた。
殴るのは、俺を見てくれているからだと思っていた。
だが、落とされた。
身代わりにするために。俺の生活を奪うために。
落とされたときに、頭に浮かんだのは疑問だった。
なんで?
なんで落とされたんだ。
お前、俺がいなくても生きていけるの?
落ちて死ぬまでの数秒の世界の中で、考えていた。
自室②
鷹道・ファリントンは喧嘩に強い。傲慢で、自信家。
敗北も、失敗もない。
そんな弱い鷹道の姿は、見たことがない。
だからこれは何かの間違い。俺が弱いから。鷹道になり切れていないから。
振り下ろされる拳を見つめながら、手も足も出なかった。殴りかかってくる男は喧嘩慣れしていて、細やかな抵抗などなんの意味もなかった。拳から体を庇う腕に、もう力が入らない。
無防備になった顔に拳が当たる。
鼻の骨が折れた。血が溢れて息ができない。反抗の言葉が濡れて音にならない。
側頭部を殴りつける衝撃。
ああ、吐きそうだ。
殴られるたびに、瞼の裏に散る火花が鮮やかだ。
そのまま意識が落ちて、気がつけば朝になる。
そのはずだった。
目が開いた。
やっぱり夢だったんじゃないか。
例えば腫れ上がって開かない目や、血が溢れて息がしにくい鼻、切れた唇。痛みが飽和して熱が鼓動に合わせてじわじわと内側から苛んでくる感覚。そういったものがない。
綺麗さっぱり消えていた。
夢?
だがここは記憶のままだし、倦怠感と頭がぐらぐらとする感覚は残っている。
馬乗りになってきた男に殴られたときの体勢で床に倒れている。俺を殴っていた男は涼しい顔で、部屋の中の設備を確かめていた。
ここで一ヶ月過ごすんだもんな。
あれはいつもの癖で煙草を手に取ろうとしたけど手元になかったので、苛ついているときの動き。
鷹道が同じことをよく、やってたな。
他人事のように考える。
袖や手を見る。拭ったはずの血液もない。
(あー、もう死んでるもんな)
天使と話したときに、そんなことを言っていたかもしれない。もう死んでいてこれから生き返るんだから、この場所で命を立ったところで死ぬことができない。
途中脱落はなしってことだ。生きられない人間も、逃げさせてはもらえない。
残酷だ。
……
ようやく終わったのに。
「なぁ、あんたってさ」
声を掛けると男が振り向いた。気味が悪い物を見る目をしていた。
わかるよ。気持ち悪いよな。
あんなになるまで殴ったのに、一瞬で怪我が治っている。
だがそれはここのシステムの問題だ。諦めてくれ。
「そんな壊れ物みたいな可愛い顔で煙草とか吸えんの? 咽せちゃわねーの」
すぐに消える痛みなら、耐えられる。一瞬で消えてしまうのなら、大した問題じゃない。
ほら、やっぱり鷹道には敗北も失敗もない。
「女扱いされるのが嫌で、こんなふうに噛み付いてくるのか? 残念だったな。この通りだわ」
殴られたときは体に変化がなかったから、傷に対して無条件に修復が反応するわけではないらしい。治癒には一定の基準はあるのだろう。だが、少なくとも一ヶ月は終わりがない。
「手加減してくれたのか。既に死んでる人間なのに殺すのは怖いのかよ。こんな部屋にまで逃げ込んで。可愛い面の男は考えることも小さくて可愛いなぁ?」
この男は暴力によって俺を排除することはできない。
「殴り返さないでおいてやるよ。女みたいなかわいい顔に傷がついたら大変だしな」
男は、俺のいうあらゆる言葉に無言を貫いた。
思い返せば、それは今までのどの瞬間よりも怒っていたんだろうと思う。しかも心の底から。
炎を巻き上げるほどの軽やかさを持たない硬く重たい怒りが、瞳の奥では燃えていたのだ。
俺はそういう心の機微が、全く理解できない人間だった。
子供のときだって、なんで殴られるのかもなんで疎まれるのかも、わからないままだった。
この世には相手を組み伏せ抱くことを、暴力として用いる人間がいる。
そういう種類の暴力を奮ってくる人間がいると、よく身に染みてわかっていたはずなのに、気がついたのは振るわれる瞬間になってからだった。
顎を蹴られた。
頭が揺れている。覆いかぶさる男が、ズボンに手を掛ける。
肌が空気に晒される。
太腿を掴まれたとき、俺は抵抗するべきだった。足首に爪を立てて男から逃れたときのように、無我夢中で逃げるべきだった。
なのに俺ときたら、体の中に他人が押し入って来たときの恐怖と痛みを思い出して、体を硬らせていた。腰を掴む手に、体が反応する。
痛み。熱。内側が擦られる。
「あっ」
背中に覆いかぶさる男を押し退けようと伸ばした手は押さえつけられ、床に頭が叩きつけられる。暴力で抵抗する力を削っていたが、そんなことをされなくても体は動かなかった。
乱暴な振る舞いが、どうしようもなく体に刻まれた習性を思い出させる。痛みの中から湧き上がる快楽が肌の上を駆け上がり、ざわざわとする。
床を引っ掻く爪は、縋っているのか求めているのかわからない。
声を殺すために、口元を塞がなくてはならなかった。
違う。鷹道は、こんな風にならない。
腹の内側を乱暴に擦られて声が出る。
一度、堰をきって溢れてしまった喘ぎが止められない。
やめて、やめてやめて。
俺を引き剥がさないで。
僕を支配しないで。
ミチくんみたいに振る舞わないで。
殴られる度に腹の奥が疼く。
どんなに乱暴でも痛くても、触れ合う肌は温かいのだ。
同行者① 舞下 縁
ファミリー向け冒険映画の筋書きみたいな、ご都合主義な夢を見た。
死んだ人間が、巡礼の果てに祝福されて生き返る。
人生が終わったやつが、許される。
そんな浮ついた夢を自分が見るなんて思っていなかった。
あんなに泥を啜ったのに、まだ人生に絶望が足りないのか。案外、図太いな。
薄明るさの中で、目を覚ます。
痛み。いつだってそれが、俺に現実を教えてくれる。
夢に感じられた方が、現実だったことを思い出す。俺は死んで生き返った。
これは高熱のときに見る夢ではなく、現実が高熱なのだ。風邪ではなくて、殴られた場所が熱を持っているから、体が熱い。
ベッドがあるのに、寝ているのは床の上だ。そのせいで節々が痛む。痛むということは、二度目に殴られてから朝までは、ずっと生きていたということだ。
体の向きを変えようとして、背中と下肢の痛みに呻く。
無理やり腹の中に押し込まれた痛みと殴られた痛みは種類が違うが、どちらも体はよく覚えている。この程度、慣れている。だから耐えられる。顔に出すな。全て押し殺してなかったことにすればいいだけの話だ。
息を細く吐き出し、吸い込む。
思い切って体を起こす。服に汚れはない。バスルームにあった鏡を覗き込む。うつ伏せだったから、顔に目立つ痣は残っていない。幸い服が体を覆う面積が多いから、傷もどうとでもごまかせる。
シャワーを浴びたあと髪の毛を乾かし、シャツを着て外に出た。
巡礼とやらが始まるはずだ。街があるのだから、煙草がどこかに置いているかもしれない。
鷹道は、煙草を好んだ。だから吸っていないのは不自然だ。
ラウンジには、たくさんの巡礼者が集まっていた。一ヶ月かけて行われる巡礼の旅とやらがここから始まるのだ。
やがて床が振動する。壁が動いているように思う。どうやら巡礼者が集まっているこの場所自体が、塔を登っているらしい。自分の足で螺旋階段を登らなくていいのは楽だ。
塔を登る、という話だったはずだ。その中に街があると言う話も聞いていた。
だが、それは建物の一つの階などという規模ではなく、もはや一つの世界だった。
空がある。景色がある。気温と空気の匂いすらも、別物として存在していた。
そしてこの街の主を名乗る人物が俺たちを出迎え、街についての紹介をする。
信仰の街。しかしその場所は正義を名乗っているように聞こえた。
信仰の街の主の立ち居振る舞いは古臭い軍人のそれだった。和風の建物が多いようにも見えるが気候は砂漠のそれで、首元まで覆うスーツは動きにくくて暑かった。
街並みや建物にはエキゾチックな趣がある。漂ってくる食べ物の香りもスパイシーだ。具体的にどこと場所や時代を特定しにくい、まるで映画セットのような街並みの中に、確かな人の営みがある。
作り物めいているくせに生活感のある街並みの中に、生活がある。思想や理想をぶつけ合わせるという、最高に人間らしいくだらないことを繰り返しながら。
不可思議なものはたくさん見た。
消える階段。ありえない規模で上昇するエレベーターとなっているラウンジホールや自称天使の存在、死の実感を持ちながら生きている事実。
それら以上に。その街のあり方が俺にようやくこの場所が現実ではないということを実感させた。
街を見て回ると、他の巡礼者の姿もちらほらと見えた。ここで活動しやすい格好に着替えているようだ。確か、ある程度は街の住人も協力的だという話は聞かされていた気がする。
声を掛ければ貸してくれるのかもしれないが、和服の着付けはよくわからない。着るところまで手を貸してくれればいいのだが、この街の治安をそこまで信用していなかった。
あたりを見廻したときに、見知った顔を見つける。
「なぁ」
初日にラウンジで会った騙しやすそうな女だ。確か名前は舞下 縁だったか。彼女からは、人を騙す悪辣さは感じなかったし、いざとなれば力で勝てる。
「ミチさん」
にこりと笑う縁に近づいて、肩を組む。
「着替えたいんだけどさ、俺、和服よくわかんなくて困ってるんだ」
「和服
……
ですか」
「聞いたら貸してもらえそうなんだよね。部屋も貸してもらえそうだからさ、縁ちゃんが手伝ってくれると嬉しいんだけどなぁ」
肩に回した手に無頓着で、見上げてくる顔には警戒など欠片もない。
「個室、とかでどう?」
「そうですね、お借りしましょうか」
まぁ、男に個室に誘われてのこのこついてくるんだから、そういうことだよな。
騙される側の人間の油断を利用して、何が悪い。
街の人間に見立てを頼むと、動きやすさと機能性を考えて書生服
――
と現代ならば言われているであろう組み合わせ
――
が良いのではないかという答えが返ってきた。
和服についての知識がないから、俺は縁と街の人の間のやり取りの全てに応と答えて必要なものを受け取った。
着替えのできる場所を借り、服を脱ぐ。
「あの、ミチさん」
「ん、なに?」
ようやく自分が罠に誘い込まれた違和感にでも気が付いたか。
にこやかに、そのまま押し通すつもりでいた。だが彼女が気が付いたのはそちらの違和感ではなかった。シャツを脱いだ背中に視線が注がれている。
「あの、手当てしませんか?」
油断。というより無自覚だった。
体に残る痣と傷痕を人が見たらどう思うか。暴力をなんとも感じない人間としか関わらなければ、気にする必要もなかったからだ。同室のあの男も、この背中の傷は見たはずだが、何も言わなかった。いくつかはあの男につけられたまだ生々しい打撲痕として残っている。
和服の内側に着るシャツで素早く肌を隠した。
「放っておけよ。早く終わらせろ」
「痛くないですか?
……
わたしは、体の不調が治っていたんですが、そういう人だけじゃないんですね」
痛みに心を動かすのは贅沢な嗜好品だ。逃げ場所がなく癒す手段もなければ、そのうちに痛みを感じることすら嫌になる。
こんなものは痛みではない。だから、痛くない。
「余計なこと、人に言うなよ」
着替えを手伝う縁に言い捨てる。妙な勘ぐりを入れられるのは、ごめんだ。
哀れみの視線も必要ない。
「言いませんよ。そんなこと。手当てするつもりがないなら、言ったってミチさんが辛くなるだけです」
淡々と着替えを手伝っていた縁は目を伏せた。
「でも気が変わって手当てをしたくなったら、教えてください。お手伝いします」
気が変わることはないからその言葉を聞き流した。服を脱いだあとしようとしていたことを続ける気はとうに失せていて、今は早く着替えを終えてしまいたいと願うばかりになっていた。
シュルシュルと布ずれの音と共に、着物を纏わされていくのを待つ。
「ミチさんは、生き返ったときその場所から逃げられますか?」
「ふは、なぁに俺のこと心配なの。惚れちゃったァ?」
逃げる必要が、どこにある。俺が選んでそこにいるのに。
「ふふ、惚れませんよ」
そのまま言葉を躱すついでに、遠ざかってくれればいい。
「だってそんなに傷だらけなら心配にもなりますよ。そんな風にされたら、痛いじゃないですか」
触れるな。それはあんたじゃ、どうにもならないことだ。
縁の口を塞ぐ。顎を掴む手に力を込める。
「あんたは傷なんて見てない。オーケイ?」
少し脅した程度で引いてくれるのが、面倒がなくて一番いい。
だが、手を話した途端に縁は話し始める。
俺にはそれが危機感の欠如に見えたし、こちらが殴らないだろうという無責任な確信に見えた。
「ミチさん。わたしは、あなたを害するつもりは無いです。でも、それで大丈夫なんですか
……
? わたしが言う痛みは、体の事だけじゃないです」
「それはあなたの心ですって?」
有名アニメのセリフみたいに。
幸せな世界の人間は、それが大好きなんだろう。心とかいうやつ。
「いいね、縁ちゃんロマンチックで。でも覚えといて欲しいんだけど、俺はそういう綺麗事いうやつ大っ嫌いだから。体の痛みが増える前に直した方がいい」
「綺麗なんかじゃないです。心の傷は綺麗なんかじゃない。体の傷は目に見えるけどもっと生々しいじゃないですか。わたしは、これを、綺麗事だとは思いません」
「忠告、二回目な? 口閉じてくんないと俺黙らせないといけなくなるんだけど、女の子にそんなひどいことしたくないんだよね」
傷なんて、存在しない。
勝手に人を弱者に落として、憐むな。
これ以上、話はない。あるのは暴力だけだ。
「わかりました。叩くほうも手が痛いですからね。えっと、ただ、一つ、その
……
ミチさん、わたしのこと、女の子だ、と
……
?」
「わかってもらえてうれ
……
ん、は? どういうこと」
思考が渋滞して、言葉が止まった。
「女の子、だよな?」
なんで女の子だと思われていることに、疑問を抱くんだ。
縁の顔がみるみる赤くなる。
「ご、ごめんなさい。隠してるつもりは無かったんですけど
……
わ、わたし、男です
……
! というか、女の子だと思ってお着替え手伝わせてたんですか⁉」
答えが頭に辿り着くまでに時間がかかった。
そんなわけがない。だって顔が。
そう言われれば骨が太い気がする。前もこんなことがあった。
この巡礼には女顔の男しかいないのか?
「はぁ〜? テンションくそ下がるんだけど。道理でのこのこついてくると思ったわ」
「勝手に勘違いしておいてその言い方はないじゃないですか! わたしが女の子だったらこんな無防備についていかないですよ
……
多分。というかそういう目で見てたんですか、ミチさんのエッチ!」
「あんたが紛らわしいから悪いんだろ。あーくそ、騙しやすい女だと思ったのに。あー、でも別に従順ならあんたが男でも可愛がってやるけど?」
「そんなに女の子っぽく見えますかね
……
?」
両頬を手で挟んで首を傾げる様は、男と聞いてなお女性のように見える。
「見えるな」
「あはは、残念でした。むしろ、わたしがミチさんを女の子だよって騙す側だったら騙されてますね?」
それに関しては返す言葉がなく、押し黙った。
「? 可愛がるってどうするんです? 私、男なのに」
「知らねぇなら知らねぇままでいんじゃね? まあ男ってわかったらむしろ気ぃ遣わなくていいから楽だな」
避けられるならその方がいい。
「そうなんですか? それなら、そうしておきます。でも、女の人連れ込んで酷いことしちゃダメですよ? 少なくとも、一か月は一緒に過ごすんですから」
「あーはいはいわかったわかった。服あんがとね。騙されんなよ悪い奴に」
「あ、わかってない人の言葉ですね。もう。ふふ、ミチさんが言うんですか? 優しいですね」
「俺から見て騙しやすいからいってんでしょ」
使われて奪われる側の人間。どうせ自分が搾取されていることにも気付かない。
「そうなんですか? ミチさんはどんなふうに騙すんですか?」
「優しくしてたら、向こうが勝手に期待して騙される」
それが鷹道のもっとも得意なやり口だった。いつだってとろけるように優しい笑顔で、親しげに微笑んでいて、入れ込む女はそれに騙された。
「そうなんですね。じゃあミチさんが優しいときは気を付けなきゃ」
着付けが終わり、肩がポンと叩かれた。
「はい、完璧です! うん、かっこいいですね」
「そうだろ? まあ俺は最高に格好いいからな」
俺が本物の鷹道じゃなくてよかったな。
鷹道にならなければいけないから、鷹道がやっていたように人に接する。それは他人を騙して懐柔するための手段だったが、真似しているだけの俺にはその先に欲しいものがない。
だから手を出さずにいるだけだ。
男とわかると興味が失せて、早く着替えを終わらせようと、わからないなりに縁の着替えを手伝う。着付けについてわからなくとも、ここと言われた場所を押さえていることくらいはできる。
「着物を着るのは久しぶりです。どうでしょう?」
「やー、かわいらしいんじゃねぇの」
和装に着替えた縁は、やはり女性にしか見えなかった。
実際可愛らしく、その服装をみると間違えるもやむなしではないかと思えてくる。返答には、皮肉の声が混じった。
「可愛いほうが良いかと思ったんですが、違いました? だって、かっこよくしたミチさんの隣を歩くならそれなりにしないと。ね?」
鷹道ならば、確かに和服を着たら様になるだろうが、自分の顔を把握している俺にそれは皮肉に聞こえる。
「顔がよけりゃどっちでもいいよ。視界に入れて歩くならブスより美人だろ。その点あんたが男の格好でも女の格好でも気にしねーよ。したい格好しろ」
自分に合わせて行動されるのは好きではない。というか人に合わせて行動する人間が、好きではない。自分のやりたいようにやればいいと思う。
この好悪はいったいどちらのものだろう。俺自身から出た何かなら、消さなければいけない。
「そんなこと初めて言われました。ふふ、褒め言葉として受け取っておきます」
そんなわけないだろうと思うが、俺が触れることでもない。
二人でそのまま信仰の街を散策するために街に出た。
初見の印象は薄気味が悪くて気に入らない場所だ。住人と話してみれば何か変わるかもしれない。それに少なくとも食べ物は美味しそうだった。
「なんで髪伸ばしてんの?」
別に、男が髪を伸ばしてはいけない理由など一つもないが、その後ろ姿が縁を女性的に見せているのは確かだった。
「いろいろありますが、お母さんらしくしたかったんです。父にもミウちゃんにも、お母さんが必要だったから。変ですよね。でも、髪を伸ばす前から〝おかあさん〟はあだ名だったので、わたしとしては違和感がないんです」
ミウちゃんが何者なのかは知らない。世話をしている子供だろうか。実の子供がいてもおかしくない年齢ではあるのかもしれないが、少なくとも縁は自分よりは年下だろうと推測していた。
「〝お母さん〟って年かよ。笑えるな。人にご奉仕すんのが趣味?」
「奉仕
……
になるんでしょうか? 世話好きではありますけど。趣味というか、性分というか。中学校の頃にはふざけて、おかあさんって呼ばれてましたから」
クラスメイトにお母さんなんて呼ばれる人間が、他人に都合がいい存在でなくてなんだというのだろう。それは搾取される側の何かであったはずだ。
「
……
それはそれは。随分と平穏無事な学生生活だな。使う側には都合が良い趣味だろうけど俺には理解できないな」
「はい、恵まれました。運が良かったのかもしれません。ミチさんはどちらかといえば『使いたい側』なんですね? わたしは、誰かが喜んでくれるのが嬉しいんです。そういうと、確かに利用されやすいかもしれませんね」
使われる側になるから、死ぬ羽目になる。俺みたいに。
鷹道は今頃、俺に成り代わってどこかで新しい生活でも始めているんだろうか。求められた通りに、俺は頭から地面に落ちた。顔が潰れていても身元がはっきりしていれば、DNA鑑定までは行われないだろう。
俺を使って、平穏を手に入れた。
自分のために、俺を完璧に使って見せた。
痛みが正しくないもので避けるべきだと思っているのが、本当に本人の考えならば避けるべきだ。
(どうでもいいんだけどな)
ここでも、夜中に一度死んだ。
自分を殴り殺し犯した男に対し、反感はあっても嫌悪や恐怖はない。そういうものの方が慣れていて楽だ。受け取り方を知っている。
内心で、自分を殴ってくるような相手のことを望んでもいたのかもしれない。
痛みを感じていれば、少なくとも不安はない。
なし崩し的に同室することになったその男について、まだなにも知らなかった。年齢も、名前もわからないままだ。名乗っていないから向こうも俺が誰であるのか、知らないままだろう。
ただ相手を避けた結果、野宿するという選択肢は持っていない。あいつにもないだろうから、またあの部屋に帰ることになる。
顔を見た瞬間に、同じ匂いがすると思った。
俺と似た人間であることを嫌悪し、鷹道と同じ性質であることを求めた。
だから、街で声を掛けられたときにも、逃げるという選択肢は存在しなかった。
「よぉそこの男前な兄ちゃん。その怪我どうしたんだ? 横に連れた女でも守ってやったのか?かっこいいな」
ともすれば女性的にすら見える幼い顔立ちに皮肉を浮かべた男は、相変わらず攻撃的だった。
慣れているとは言ったが腹が立たないわけではなく、腹が立っているときの俺は冷静さに欠けている。
「はァ? 一晩寝ると頭の中身も空っぽになんのか。 ついでに目玉も節穴だな。ついに男女の見分けもつかなくなったか? 俺にエスコートして欲しいならその可愛い面でせいぜい着飾ってこいよ。優しく守ってやるぜレディ」
顔だけなら縁といい勝負だ。着飾っていたら、さぞかし美人に見えることだろう。
隣にいた縁がものいいたげな顔をしていることに関しては見ない振りをする。余計なことは口に出してくれるなと願う。
「懲りねぇな」
間髪入れずに、拳が鼻を打つ。鼻の奥にジンと響く痛みのあと、熱が溢れる。膝をついた。
鉄臭い味が喉に流れ込んできて、血の味を感じた。
「横にいるレディが何か言いたそうにしてるぜ」
「うるせぇ、くそ」
立ち上がり反撃するつもりでいた。だが向こうは、そんなことを許すような奴ではなかった。
蹲った次の瞬間には、膝が顔を狙っているのが見えていた。
「なにするんですか!」
青海波の小袖が視界に割り込む。縁が前に立ったのがわかった。
膝を上げたところを突き飛ばされた男が、よろめいて二三歩下がったのが見えた。
「いいから、下がってろよ。あんたには関係ない」
腕を掴んで後ろに下がらせようとする。
たぶん、そいつは相手が女かどうかなどは関係なく、暴力に躊躇いがない。そしていちいち警告もしないだろう。綺麗事で首を突っ込んで、怪我をするのは縁だ。
「そういう問題じゃありません!」
縁は俺が掴んだ手を振り払う。
「いきなりどうしてそんなことができるんですか。ミチさんも、煽られないでください!」
「うるさい。人の喧嘩に首突っ込むな。迷惑だ」
どうしてなんて、理由はない。聞いたところで理解はできないだろう。相手と言葉をやりとりする代わりに暴力をやりとりする連中がいるなんて、知ったところでどうなる。
その中でもこの男は、だいぶ手が早くて容赦がないタイプだとは思うが。
普通はもう少し、予備動作というか怒りの予兆を感じさせるものだ。
「頭の中身が空っぽだとすぐに手が出て嫌になるよなァ? お前、どこの猿だ」
言葉を返した俺の頬を打ったのは、縁だった。
「明らかに不利でしょうが! そんな相手を余計に煽ってどうするんですかあなたは⁉ 馬鹿ですか⁉ 正気ですか⁉ あなたもこれ以上やるなら、人を呼びますよ!」
頬を叩かれた。あいつじゃなくて俺が。
理解できなくて反応するのが少し遅れた。頭の中が疑問符でいっぱいになる。
「なんでお前に俺が殴られるんだよ。おかしいだろうが!」
殴るなら俺じゃなくてあいつだろ。
「そうでもしないと止まらないでしょ!」
そんな間抜けなやりとりをしている間に、殴られてもおかしくないと思っていた。だがあいつも手を出してくることはなかった。縁が乱入してきたときは面白そうな顔をしていたのに、今は冷めきった顔をしている。
何の言葉もなく立ち去るのを見たとき、言いようのない敗北感が胸を満たし、戻ってこないのを確認すると体から力が抜けた。
「なんであんな無茶したんですか」
ハンカチを差し出してくる縁の手を振り払う。
俺もこの場所から早急に立ち去りたかった。
見逃された。逃げられた。それとも、見捨てられた?
俺には殴る価値もなかった。
「さわんな。別に無茶はしてない」
立ち上がろうとしたところを、肩を押さえつけられる。
「待ってください。
……
あれが無茶じゃないですって? あなたは、私の前でボコボコになるのが望みだったんですか」
「見たくないなら、あんたが俺の前から消えろ。助けてくれとも関わってくれとも頼んでない」
俺とあいつが居合わせれば、こうなる。
そこに縁が居合わせたのは運が悪かったが、暴力を見たくないなら逃げればいい。見守ってくれと頼んだ覚えはない。
「
……
もう一度聞きます。それが望みだったんですか? それが望みなら、見たくないとは言いませんよ。それに、わたしの性格はわかりやすいはずですよ。あなたからすれば」
「俺は自分のやってることを人に口出しされんのが嫌いだ。〝放っておけ〟それが望みだ。見過ごせないなら、俺を目に入れんな」
縁が唇を噛む。
その内心で起こっていることを、俺は知らない。知りようがない。
わかりやすいと言われたって、俺に他人のことなどわかるはずがい。
「あなたは
……
どうして。どうしてこんなにも悲しいことを」
「あんたが悲しいと思うのは自由なんだろうな。俺は悲しいと思ってない。自分のことは自分で決める」
「その望みだけは、聞けそうにありません。善処します。だから傷の手当だけでも、させてください」
「お断りだ。あんたみたいなタイプはせめてこれだけでもとか言って、じりじり踏み込んで、引き際きても引き返せないだろどうせ」
縁は何か言葉を飲み込んだ。その先にあるものは察しようがない。
わかりやすい性格と言われても、人と関わってこなかった俺には他人のことなどわかりはしない。
自分の心の在り処だって、わかりはしないのに。
「引き際を間違えたそのときは、突き飛ばしてください。あなたは、手を離すのなら得意でしょう?」
「なら、今離す。離れろ」
ため息が出た。一人になりたいだけなのにどうしてこんなに手こずるのだろう。
笑えるのは、これが死んだあとだということだった。
生きている俺を助ける人間はいなかったのに。
「なぁ? わかるだろ。ダセェのは自分でわかってんだ。しばらくそっとしておくくらいの優しさ見せてくれてもいいんじゃねーの?」
相手が飲み込みやすい言い方に変える。
長い沈黙のあと、縁は笑った。
その笑みは俺にとってはよくないもののような気がしたが、こちらから藪を突くつもりはなかった。
付き合いはこれきりだ。面倒だとわかっていれば、距離をおけばいい。
「わかりました。暫く、そっとしておきます。ハンカチ、使ってください。男前が台無しですよ」
ハンカチを握らされたあと、ようやく手が離れた。
「どーも」
鼻血を拭う。
まずは、水場を探さないといけない。街を見て回るどころではないな。
借り物の服が、鼻血で血塗れになっていた。
同行者② 千烏 明慶
信仰の街に来て辟易したことの一つは、気温と土埃だ。服を着替えて、それらは多少マシになった。だが街で借りた服も、この街の気候にあっているとは言い難く、文化を継ぎ足したようなどこかチグハグな印象が拭えなかった。
その男性のことを最初は街の人間かとも思った。だが無案内な様子で物珍しげに街を見て回る姿を見て、自分と同じ巡礼者だということがわかった。相手も俺を見て同じことを思ったらしく、何かに気がついたような、ハッとした顔をした。
色白で線の細い男だった。儚げで、繊細で壊れそうな人間。
好戦的には見えなかったし、腕が立つようにも見えなかったので、俺は彼が声を掛けてくるのを、そのまま受け入れた。
「何か面白いものはありました?」
「こんなところに投げ込まれたら、見るもの全部面白いだろ?」
「あはは、確かにそうですね」
男は楽しそうに笑う。
「 あんたは何か面白もの見つけたのか。煙草とか扱っている店どっかに見かけたら教えて欲しいんだけどな」
煙草はいまだに手元にない。
鷹道を演じる上で手元に煙草がないというのは、由々しき問題だった。もしこの街に鷹道がいたら、己が快適に生きるために絶対にそれを探しただろう。だから俺も探さなくてはいけない。
「うーん、そうだなぁ。色々ありますけど
……
やっぱり風景が面白いですよね、なんだか、西部劇と時代劇が混ざったみたいで。あ、残念ながら煙草屋さんは見覚えがないですが」
「ふ、確かにな。やっぱねーか煙草屋」
街の文化レベルを見るに、存在しないということはなさそうだが、街を見て回ったらしい彼も見つけられなかったらしい。
男は言葉を切ってから、何かを思い出した顔をした。
「あっ、すみません、私、
……
千烏 明慶といいます」
深刻な顔をしているから何かと思えば、自己紹介を済ませていない件らしい。
「千烏明慶さんね、どーも。俺、鷹道・ファリントン」
「鷹道さん、
……
失礼ですが、ハーフ、えー
……
ダブルの、方でしょうか?」
わざわざ言い直したのが、面白かった。
善良で、繊細。だが生き辛そうだ。
「んっはは、あんた配慮が行き届いた言い方するんだな。繊細で人を気にしすぎるタイプ」
千烏は話をそらすように咳払いをした。
「ン、ン。そうですね、
……
いや、ちょっと、接客業をしているもので、気にしてしまって」
そうだろうか。接客業でも無神経な人間は大勢いる。千烏は色白だが、日本人であることを疑われるような外見はしていない。ハーフという言葉で傷つけられたことはないはずだ。それなのにその言葉を使われて俺が傷つくかもしれないと気になった。
負ったことのない怪我の痛みが気にかかるのは、他人に理解できない痛みを味わったことがあるからだ。
少なくとも、俺はそう思う。
「俺にそんな丁寧にしなくていいよ。ハーフなの。母親がイギリス人」
「イギリスの、なるほど、そうでしたか」
「まーでも、そういう、人に触れるのが優しい人のこと、俺は嫌いじゃないよ。ストレス溜まりそうだけどな」
煙草屋の有無が聞けただけで用件は終わっていたが、自己紹介をもらったタイミングで話を切り上げるというのも、味気なく感じられた。相手の様子を伺いながら、それでも慎重に触れてくる丁寧な人懐こさは、嫌いではなかった。
もう少し、話してみたくなったのだ。
「面白いよな。映画のセットみたいな無茶苦茶な組み合わせをだけど、人がまじで暮らしてんのがいい。正義だ信仰だは鼻につくけどな」
街の主は気に入らない。
だがチグハグなくせに確かに生活が根付いた空気は、嫌いではなかった。為政者とそれを盲信する人間が気に入らないところも含めて、それらしい。
「本当に。でも一週間も宿代無しで見て回れるなんて、お得な観光旅行ですよね。ああ、街の人が言っていることですね? まぁ暮らしてみないとよくわかりませんが。どの世界どの時代でも人間やることは同じだなぁとは、思いますね」
「確かに。死んだから天国みたいなところに行けんのかと思ってたけど、案外みんな人間のままっていうか俗っぽいよな」
だから生々しく本当に生きているようにすら感じられる。
「そう! まさにそうなんですよね
……
ある意味等身大で馴染みやすいというか
……
よそ者の我々に深くはわかりませんが、問題がない街でもなさそうです」
巡礼ではなく観光旅行といった。
旅が好きなのかもしれない。声を弾ませた千烏からは、未知の文化や生活に対する興味がありありと伺いしれた。
「ちょっとくらい問題があった方が面白いだろ。俺はこの街の主はすげー気に入らないと思ったけど、見て回ったら案外好きになれそうだった」
理想との間に齟齬を生じさせ、人同士でぶつかり争っている。そういう愚かしさは人間らしくて嫌いではない。それを見たときようやく俺はこの街を人間と認めて、受け入れられた。
「あら、本当ですか?
……
そういえば、鷹道さんはゼロ地区って、行かれました?」
街の主の話に出てきた確か前の街の統治者が住んでいるエリアだっただろうか。
口ぶりからして友好的な関係を築いているとは思えず、あの主を嫌っているのがどんな人間なのか気になった。敵の敵は味方というわけではないが、少なくとももう少し話が合うかもしれないと思っていたのだ。
「あー、これから行こうと思ってたとこ。まだなら一緒に行くか? あんま治安良くないらしいし、あんた喧嘩弱そうだしな?」
「本当ですか? よかった、そうそう、そうなんです。なんだか
……
ね。かと言って行かないのも勿体無いしと思っていたところで。おっしゃる通り喧嘩もからっきしなので、ふふ、すみません」
実際のところ、俺は鷹道と違って喧嘩はしたことはないんだが。
せいぜいトラブルに巻き込まれないことを願うばかりだ。
そうして俺はゼロ地区を回る間、千烏と行動を共にすることにした。
自室③
部屋に戻るときの憂鬱の中身は、自業自得の敗北と失態を演じた相手の前に戻らなければいけない恥と、一抹の不安。
もう他の部屋は埋まっているらしく、移動先は見つかりそうにない。野宿をしている巡礼者もいるらしい。確かにこの場所では死にはしないようだ。それは身を持って体験した。
街では服や食事をもらうことができそうだったし、風呂も頼めば貸してもらえるのではないだろうか。
睡眠も食事も必要ない。だがそれだけ保証されていればいいというわけでもない。プライベート空間がないというのは、大変なストレスになるし、寝ないでいても時間を持て余すだろう。
部屋を既に見つけた誰かに一角を貸してくださいと頭を下げるのは、プライドが邪魔をする。何よりこの部屋から出ていくという行為自体が、あの男に屈して逃げ出すという敗北に他ならず、結局戻ってくるしか選択肢はないのだ。
ドアを開けるときにノックはしなかった。
ここは俺の部屋だ、という自己主張だ。
あの男は、何をするでもなくベッドに腰掛けていた。黙って座って過ごすには、睡眠も食事も必要ないこの場所は沈黙が長すぎる。そして文化水準が全時代的な信仰の街には、現代社会に慣れきった人間を癒してくれるような娯楽もなかった。
電波は当然通じていないから、携帯電話の類は無用の長物。
本でもあればよかったのかもしれない。この街にある読み物が趣味に合う気はしなかったが、多分ないよりはましだろう。明日になったら、探してみるのもいいのかもしれない。
どちらにしろ、そういうのは全ては明日にやるべきことだ。
こんな沈黙をやり過ごすときに必要なのが、煙草だ。
鷹道になるための必需品である煙草は、幸いあのあとに街で手に入った。
鷹道はいつも煙草を吸っていて、他人とコミュニケーションをとり、奉仕させるツールとしても使っていた。
そういう熟れた人間関係が俺には再現できないから、鷹道の真似をしてもどこか違うものになる。他の巡礼者と話しているとそのことを痛感する。滑らかさからは程遠い嘘のコミュニケーション。
体に残る痛みを与えてきた相手から、遠ざかることもできない間抜けな自尊心。
ままならない苛立ちのままに、煙草の箱を投げつけた。
こいつも煙草を探していたはずだ。そんなことを言っていた気がする。部屋の中に煙の匂いはないから、まだ見つけられていないということだ。
「持ってきてやったんだから感謝しろよ、雑魚」
軽い煙草の箱は、思いっきりぶつけたところで大した威力にはならない。ぽす、と背中にあたりベッドに落ちた。
怒りだしてもおかしくないと思っていた。そういうことをしたから。
だがベッドに座っているまだ名前も知らない男は、肩越しに振り向くとにぶつかった箱を見やり、手にとって封を切ると一本咥える。
「なんだ、気ぃ効くじゃん。慣れてんの?」
慣れてはいる。たぶん。
人が求めるところを為すことが、体に染みついている。
だから煙草を口に咥えたあと、火を欲しているのだということもわかった。
鷹道のためだけに持ち歩いていたライターは今の俺の手元にはなく、街で手に入ったジッポは使い勝手がよくわからなかった。戸惑いながら火を付ける。そのまま相手に差し出しかけて、我に返る。
らしくない行動をしている。
「てめーでやれ」
ジッポを投げる。
男はそれを無言でキャッチすると、慣れた動きで火を付けた。ごっこ遊びの喫煙者ではなさそうだ。
俺も煙草の味を口に馴染ませておきたい。たぶん、口に慣らしておかないと吸ったときに咽せる。鷹道のふりが完璧にできない。だが後先考えなしにジッポを投げつけたせいで、手元には火がなかった。
「お前が付けろよ」
少し迷って煙草を差し出す。
蓋をはねあげるときの金属音。灯った火を煙草の先端で受け取った。
「なんだよ調子狂うな」
頼んだのは自分だが、まさかそんな風にあっさりとやってもらえるとは思っていなかったのだ。
煙草を渡したときもそうだが、相手が反発してくることを想像しながらやっているから、肩透かしを食らった気持ちになる。
「なんだよってなんだよ。お前殴られたいの?」
「
……
違う。お前いつも喋る前に殴ってくるだろ。ちゃんと口きけたんだな?」
作り物みたいに整った顔を覗き込む。拳を振るうときの苛烈さを知らなければ、中性的で可愛らしい顔だとしみじみ思う。
整っていて、感情が読めない。
俺を見ているか見ていないのかわからない目に、不安を覚える。鷹道も何を考えているのかわからなかったが、嫌悪とか怒りみたいな感情だけは伝わってきていた。
奴はニコと少しも心がこもっていない笑顔を浮かべ、俺が指に挟んていた煙草を手にとる。
何を、という疑問の答えは首筋の皮膚が焼ける痛みだった。
薄い皮膚とその下の肉を煙草の高温が貫き、灰を肌に焼き付けた。
声も出なかった。
首を押さえ、仰け反って床をのたうちまわる。痛みを追い払う方法はなく、動いたときに昨晩殴られた傷も疼いて、全身に熱が伝播したようだった。
「そういうところだバカ!」
痛みのピークが過ぎてからなんとか体を起こす。目の前に跪いた俺を見下ろし、あいつはとっくに笑みを消してつまらなさそうな顔をしていた。
「気に入らないことあんなら先に口で言えよ!」
たぶん、こうなる前にもっと踏むべき段階があるはずだ。怒りとか、そういうの。
静謐からいきなり暴力に振り切れてくるこいつの行動は読めないから、受け身も取れずにそのまま受け取ってしまう。
対して、男はひどくつまらなさそうな顔をしていた。
それは退屈?
それとも諦念だろうか。
「出会ってたった数時間なのによくそんなセリフばっか出るもんだな。お前らが俺に何求めてんの? そんな奴に何か言うと思うか? 期待に応えてるだけのつもりだよ」
図星だった。
俺は暴力を期待している。暴力を振るってくる相手を求めている。
だから他人に無礼に振る舞い、挑発的になる。
俺は鷹道に依存していた。
正確には、その暴力に。他に縋るものがないから、死んでまでもその言葉に逆らえないでいるくらいには、心を縛られている。
鷹道になれと言われた。代わりに死ねと言われた。
だから俺は鷹道・ファリントンを名乗り、死んでいる。
もしかしたら今までの人生のどこかで、手を差し伸べてくれる人はいたのかもしれない。塔に来てからそれらしい優しい言葉をかけてきた人間はいた。
彼らに対して己を晒す強さがあったらよかったのかもしれない。
だが結局のところ、俺にはその手をつかむ勇気なんてなかった。生きている内に助けてくれなかったくせに、今更なんだよと内心で思っていた。
だから自分だけの世界に閉じこもって、振るわれる暴力が自分への興味なのだと縋り付いて生きていた方が楽だった。
その内、俺には本当に鷹道しかいなくなって、離れられなくなった。
鷹道は俺を見ない。俺には、鷹道しかいないのに。
殴られている間は、俺のことを見ているし触れてくれる。
温もりなんて知らないけど、そのときだけ人肌を感じることができる。
結局のところ、自分を殴る相手としか繋がれないような人間として終わっている俺には、暴力を振るってくれる相手が必要だった。
関心を引くことができて、自分の言葉に反応し、触れてくれる相手が。
「何が気に入らないのか俺にも分かんない。なんかムカつくだけだ。それで先に手が出るのも昔から変わらない。好きにしろよ。もう死んでんだし何しても自由だろ。何言っても何しても自由だ」
言いながら、男が頬を撫でる。その手に身を委ねそうになる。
煙の匂い。煙草の火のついた側が口に入れられようとしていて、振り払った。
「は? 出会って数日なんだからお前がどんな人間か探って確かめるのなんか当然だろうが。わかってたらお前の反応なんて確かめねぇよ」
殴ってくれる奴が、必要だったんだよ。そうだ。それを求めてた。
お前はそれに応えてただけ?
その顔に張り付いてる退屈と諦めは、俺に対する感情なのか。
誰にも見てもらえないんなら、悪意に貫かれていた方がマシだ。
それさえも失ったら、どうすればいい。
暴力でしか人と繋がれない、人間の終わりの行き先はどこ。
「自分が何にキレてんのかもわかんないって、お前今までの人生でずっとそうやってそっぽ向いてガキみたいにふてくされてきたのか。あー、だからそんな手負いの獣みたいに噛み付いてくんだな。少しは頭使えよ」
全部に見放された人間未満の俺が怒ってる。口から出てくる言葉が止まらない。
「言っとくけどな、もう死んでる以上、何が気に入らなくてもお前は俺を視界から消せないし、お前も俺から逃げられないんだからな」
何にもないなんて嘘だ。好きにしろなんて思ってないだろ。
目の前に誰かがいるのに何も思うところがないんなら、たぶんそいつが目には写らない透明人間なんだ。
返ってきたのは無反応。
殴る気もないらしい。
やめろよ。俺を突き放すな。
「何しても自由なら、俺もこういうことするけど」
ベッドに座っていた男を押し倒す。手首を押さえつけて体重を掛ければ、多少の力の差があっても押さえつけられた。
「気分じゃない」
顔を背けただけだった。
「その〝気分じゃない〟は俺に聞き入れてほしい気分じゃないなの? それとも関係ないけど勝手に言ってるだけの気分じゃない?」
沈黙。
動かないならこのまま事を進めてやろうと思ったあたりで、ようやく口を開いた。
「関係ないのかもしれないな。いや、わかんないのかも。でも今はお前を抱こうという気にはなれない。今はなんの気力も無い。死んだときと似た気分」
「は? なんでお前が抱く側なんだよ。抱かれる方だろこの状況」
なんで押し倒されて押さえつけられた状態で、自分が抱く側だと思い込めるんだ。
俺に抱かれるなんて、嫌なんだろ。
嫌なら嫌と、言えばいい。
死んでいるなんて嘘だ。
一度死んだ俺たちだけど、まだこうやって思考して動いている。まるで生きているみたいに。
現実ではもう死んでいて、命のごっこ遊びをしているだけだったとしても、今自分たちはここを現実だと認識している。
無関心で無感動を装っていても、心の内側には何かあるはずだ。
そうであってくれと、思っている。
先ほどの沈黙と違い、今度はどれだけ待っても返事はなかった。
死者に徹することを、決めてしまったようだった。
「わかるまで考えろよ」
首筋に顔を寄せる。
そのまま歯を立てようと思ったが少し迷って、服で隠れるあたりにした。シャツの内側に顔を埋め歯を立てる。口の中に血の味が広がり、組み敷いた男の体がもがき、身を捩った。
殴り掛かろうとして、動けないから諦めたらしい。
「痛い」
呻くように声を漏らし、眉を顰めている。
当たり前だ。爪を立てられたくらいで痛がるやつが、血の出る痛みが平気なわけがない。
「ふ、関係ないっていってたのに、痛いのはわかるのか。お前、俺の言ったこと聞いてた? 答え、出たのかよ」
あるだろうが。今お前が心に思ってることが。
諦めた振りしてないで、口に出せ。
「お前が、やりたくないっていったら、やらねぇよ。そうでないなら、ここで喉笛噛みちぎってお前を一旦殺してでも、やる」
自分より力が強い人間を無理やり抱くのは難しいが、死んでいれば無抵抗だ。生き返るまでの間に、押さえつけてしまえばいい。
「
……
できるの?」
「できるだろ。今できなくても塔の中にいる限り俺からは逃げられないだろうが」
現実世界なら、死んでしまえばよかったんだろう。不都合な現実も痛みも、煩わしい関係も、死人には関係ない。
だがここは死んだ人間が来る場所で、巡礼者に死という現象は起こらない。だから、何もかも捨てて逃げ出してしまうことはできないのだ。
「絶対痛いから嫌なんだけど。掘られんのも嫌」
ようやく言った。
「いーよ、わかった。お前が嫌ならやらない」
言葉を引き出したという達成感と、ここまでしないと喋らないのかという呆れ。
ため息が出た。
俺は男を解放する。
即座に反撃される可能性もあったにはあった。
だが、あいつは押さえつけられていた手首を痛そうにさすり、首を傾げて俺を見つめてくるだけだった。
「お前さ、なんでそんな構うの? 普通あそこまでされたら避けるもんだと思うんだけど。甘い
……
? よな」
それは、俺が自分を殴ってくるやつとしか繋がれないおしまいの人間だから。
「何、俺に興味出たの?」
さっきまで全部どうでもいいって顔、してたのに。
「お前と一緒だよ。なんでなのかわかんない。だからわかるまで、俺から逃げんな」
お前の関心が、欲しかったんだ。
……
なんて、教えてやるつもりはないが。
「
……
ああ、そう」
興味がなさそうな返事をするから、俺はまたつい余計な一言を付け加える。
「明日、お前についていっていい?」
「なんで?」
「ジッポ一個しかない。共用で使うしかなくね? 調達したの俺なんだからそれくらい譲歩しろよ」
「そう? まぁでもライターひとつしか無いしな。お前使えるかわかんないし」
「ふは、俺ジッポ使えないと思われてんのウケるな」
嫌そうな顔をされた。
何が逆鱗なのか、ツボがよくわからない。わからないがわかろうと思って観察をすれば、その反応は随分とわかりやすくて可愛げがあるように見えてくるから不思議だ。
「でも使い慣れてないのは確かだな。つけられなかったらダサいからお前に頼むか」
鷹道なら喫煙具の類は完璧に使いこなせたのだろうが、生憎俺は鷹道の振りをしているだけだ。
「そうしろ」
唇の端が少し上がっている。見間違いでなければ嬉しそうな顔をしていた。
俺は俺で、自分のためにわざわざ何かをしてくれようという人間に会ったのが初めてで、にやけていた。
暴力でしか人と繋がれない俺に届くのは、お前くらいだった。
だからお前に俺をちゃんと見てほしいと思ったし、お前の言葉をちゃんと聞きたいと思ったんだ。
これってどういう気持ちなんだろうな。
自分の思ってることを言葉にして、相手から言葉が返ってくるのを待つだけ。
ただのコミュニケーション。
馬鹿みたいだよな。
そんなこと言ったら、怒りそうだから口にはしなかった。
俺たちはこんな人間の初歩の初歩みたいなこと、死んでから今更始めたんだ。
◇◆◇
睡眠も食事も必要ないということは、代謝をしないということなのだろうが、中途半端に感覚が残っているせいで、同じ服をずっと着続けることに違和感がある。
昨日は着付けてもらって和装をしていたが、今日は何を着ればいいだろう。
同室は、寝るとき以外は塔に来たときのままの格好でいるらしかった。
「お前は着替えないの?」
正直なところ、信仰の街は暑すぎてスーツでいるのは苦しいのだが、この男はあの長袖で過ごして平気なのだろうか。
「まぁその服動きやすいからいいのか
……
。着付けてくれる人探す社交もなさそうだもんな?」
素直に人に何かを頼む姿が、全く想像できない。そういう可愛げがあったらもう少し親しみやすかったのではないかとすら思う。
気に食わないことがあるとすぐに殴ってくるから、ある意味ではわかりやすくはあるのだが。
「着付けくらい一人でできるわカス。ああ、自分のこと言ってたのか。悪かったな着付けてくれる人居ないから着替えない仲間探ししてることに気付けなくて。俺が綺麗なおべべ着させてやろうか?」
着付けできるのかよ。
「へー、ひとりぼっちのやつはなんでも一人でできてすごいよなぁ、尊敬するわ。お前こそ可愛い顔にお似合いの着物早く見繕ってこいよ。いたぜ、振袖来てる女の子とかな」
やめときゃいいのに、相手に噛み付いてしまう俺の悪癖。
返答の代わりに首を押さえる手があった。息が苦しいと思うより前に意識が遠ざかる。目の前が真っ白になった。
で、俺は天井を見上げて横になっている。
何があったのか、意識はない。
「
……
お前、今殺したか?」
だが、死ぬ前に体に残った火傷はそのままで、指先が触れた瞬間にじんわりと痛みがあった。死んだら肉体の時間が塔に来たときに巻き戻るんだったか。ならまだ死んではいない。
男は俺が死ななかったことが、不愉快で仕方がないという顔をしていた。
「どう考えてもお前が悪いだろ。今のはされても仕方ねぇよ」
それは、そうなのだが。
だからって本気で絞めるか。現実世界なら犯罪だぞ。ここは現実世界でもないし、死にもしないのだが、そうであっても痛みはある。
先に挑発をしたのは、昨日も今日もこちらだ。
言うべきことはわかっているのに、プライドが邪魔をして言葉にするのに時間がかかった。
曲がりなりにも昨日、学んだはずだ。
考えていることを言葉にすること。
相手の言った言葉を、ちゃんと受け取ること。
ため息。
「悪かった」
「素直じゃん、怖」
「お前、昨日同じことで俺が驚いたら煙草押し付けてきたからな?」
目が泳いだ。図星だったらしい。
ここで揚げ足をとっても仕方がないから、とっさに口を突いて出かけた言葉を飲み込んだ。
「で、着替えんの?」
「う〜ん
……
どうしよ。お前は着替える?」
着替えられないというのが正解だ。和服の着付けはできない。やるなら貸してもらえそうな服を改めて探しに行かなくてはいけない。
「
……
俺は、着付けできねぇから」
「俺がやってやるよ。着物と袴までならできるし。俺の近く歩くならそれくらい着てもらわないと」
一緒に歩いていい、という約束は有効らしい。
そして着付けもやってくれるのか。
こういうところだけ妙に素直だ。
で、これを皮肉ってしまうから、俺は殴られる。
少しだけ、目の前にいる相手のことがわかってきた。
俺はこれにどう返すことができるんだろう。相手の揚げ足取らないで、素直に貸せばいいんだ。
自分に言い聞かせる。相手の言葉をそのまま、受け取って返せばいいんだ。
「いや、じゃあ
……
よろしく、お願いします」
何が嬉しいのか、嬉しそうにニコニコしている。
着流しを体に着せるとき、男の指先が首筋の火傷痕をするりと撫でていった。
同行者③ 同室の男
この街の主とやらは、何度か入れ替わっているらしい。
宮殿は太陽神とやらが街を支配していたときの名残だろうか。
――
昔、その天辺から大きな鳥が落ちて死んだらしい。
その噂はあまりにも寓意的だった。
それは本当に鳥だったのか。
反射的にそう思ったから、その場所を見に行こうなどという悪趣味を提案する気になったのだ。俺だけでなく少なくない巡礼者がそう思っているらしかった。
同室の男も、特にこれと言って目指す場所はなかったらしく反対らしい反対はしなかった。
着流しは歩きにくかったし、姿勢が悪いから何度か直される。悪いと思うが歩き方はそう簡単には変えられない。日本文化のエッセンスを無理やり砂漠の街に流し込んだかのような街に、着流しで歩く二人は中途半端に馴染む。
巡礼者という立場にふさわしいような気がした。
見学自由という宮殿に、足を踏み入れる。
宮殿の上は、景色がよかった。
日が傾きかけていて、太陽の周りは赤く染まり反対側には夜が染み出している。
高い場所に登ったとき特有の、体を持っていくような強い風は確かに知っている。だが乾いた空気だけが、記憶の中と違う。香辛料が入り混じった香りは、やはり砂漠の国のものだ。
足元がぐらつく気がして、俺は思わず蹲み込んだ。
落ちたときのことを思い出したのだ。
数秒のはずなのに、時間が無限に引き延ばされるような錯覚。
あの瞬間に、俺は確かに落ちたことを後悔していた。
怖すぎて、鷹道のためだなんて思えなかった。
「思ったより、なげーんだよな。地面に落ちて死ぬまでが」
それは独り言だった。
何か喋らないと、不安になる。
隣に同室の男がいることを失念していたのだ。
この独り言は彼の目には、死因を聞いて欲しいというくだらない自己承認欲求に見えたかもしれない。
言葉が深刻になりすぎる前に、俺は自分の言葉を茶化してごまかすことにした。
「俺、落とされたんだよね。この背中殴ったのとおんなじやつに。ダセーよな」
この男は、背中の傷を見たはずだ。
消えない煙草の火傷の痕。殴打されて青や紫や黄色に変色した肌。悪趣味な落書きみたいになった体をもう見せているから、隠すものはない。
返ってきたのは軽妙な笑い声だった。
「お前レベル相手に死角からしか殴れないとかクソダセェ雑魚じゃん」
同情するでも忌避するでもなく、笑い飛ばしてくれた。そのことに救われた。
「雑魚、なのか。そうだったのかな。お前、喧嘩強いもんな」
鷹道とこいつが殴り合ったら、引き分けるのかもしれない。
「ただ、あいつは俺のことすごくうまく使ったよ。自分の都合の悪いこと全部俺が背負って死んだからな。今頃新しい人生始めてるのかもな」
俺が鷹道になった代わりに、鷹道は俺の身分を使って生活していく。そういうことなんだろう。要領が良いのは、昔からだ。
鷹道は、俺を自分の影にして使いこなすのが、誰よりもうまかった。
今度は笑い声は返ってこなかった。
元より、面白くもない自分語りだ。
返事など求めようがない。
会話が途切れれば、日が傾いて世界が赤くなっていくのを眺めるだけだ。
俺はまだ足が震えて立ち上がれない。
「お前はなんで死んだの? まさか俺ほど間抜けな死に様じゃねぇだろ」
見上げると微笑み返してきたが、けして友好的な笑顔ではない。むしろ威圧感を感じる笑みだった。
「死にたくなったから首吊った」
「痛くなかったか?」
「痛くは無かった気がする。なんか
……
めちゃくちゃ眠くて目閉じたらすぐ眠れるときみたいな感じだった」
「なら、いいわ。お前、痛いの苦手だから」
「ふふ」
今度の笑いの意味は、なんだろう。
わかったような気になった途端にわからなくなる。近づいたり離れたり、波が揺れるようだ。
「死んでみた感想どう?」
「感想ぉ? 〝やっと〟って思ったんだけどなんか
……
こんなとこ来てなんか。どうでもよくなったな。嫌だなって感じ」
死を語るとき、お互いの言葉に悲嘆はない。恐怖もない。
特段、悲劇的な出来事ではなかった。
それは俺たちみたいな人間が、行き着くべくして行き着く先だからだ。
「もし、死んだあとも人生が終わらないなんてわかってたらさ、自殺する奴なんて半分以下になると思わね?」
苦しいのが嫌だから逃げたのに、そのあとも道が続いているなんて。
しかも、生き返されるだなんて。ひどい悪夢だ。
逃げられないなんて知ったら、自殺を選ぶやつなんているわけがない。
「俺も、自分で終わらせたらよかったのかも。どうせ、殺されなくても俺はずっと、おしまいだった」
生きているときから、どうせ人間未満のクズだった。
鷹道に使われる影でしかなかった。
苦しいも痛いもわからない人形だった。
「笑えるよな。言われたんだよ、ここで。〝そんな環境からは逃げればいい〟って。どこに? どこもねぇよ。行くとこなんて。お前はすごいよ、ちゃんと自分で決められて」
逃げ道があったら、こんなところには誰も好き好んで落ちてこない。
安全圏から、好き勝手言いやがって。
俺は、ずっとそういう反感を持っている。
口には出すときもあるし、出さないときもある。
今更助けようとしたって遅いっていうのが、本音だ。
殺される前に死んでたら、間抜けじゃなかったか。
もう少し惨めじゃなかっただろうか。
ここでしゃがんだまま膝を抱いて、震えを押さえつけるようなことにはなっていなかっただろうか。
どのくらいそうやっていただろう。
いつの間にか風が冷たくなっていた。
砂漠の夜は、冷えるらしい。
そんなことを考えながら膝を抱いていた俺の頭に、何かが触れた。
隣に立っていた男の手だと気づくのに、そう時間は掛からなかった。
「撫でられたのはじめてだわ」
その初めてをくれた手が、自分を殴ったのと同じ手だと思うと笑えてくる。
「マジ? 小さい頃は流石にあるでしょ」
あの母親が、俺を?
自分の復讐のために虐められるとわかっていて、わざわざ本妻の子供がいる学校に息子を投げ込むような女が?
あったのかもしれない。俺がいうことを聞かないと困ったわけだし。
だが少なくともそれは、愛情の記憶としては残っていない。
「あったのかも
……
少なくとも記憶にはない。俺の存在なんてのはさ、ただの当て付けだよ。母さんはさ、自分を捨てた男に復讐したかったんだ」
頭を撫でていた手が、不意に首元に滑り、火傷に触れた。
鮮やかな痛みに貫かれ、体が跳ねる。
「いッ、なに⁉︎」
俺が痛がるのを見て、満足したように手が離れた。
いや、なんでお前そんな嬉しそうな顔してんの。
「ゴミしか居ないとこで生きんのも大変だな。お前はさ、そいつらより強いから。お前を殺した奴ら、俺がボコしてきてやるよ」
誰を。
俺を殺したやつ。
鷹道を。
生き返ったところで、どうせ死ぬか殺されるかするだけだって思ってたのに。
「んははは、それ、最高だな。生き返ったら次は何で殺されんだろって思ってたけど、そうか、お前がいるのか」
お前、生き返ったあとの俺のこと迎えに来てくれんの。
「そしたらもういくところねぇから、お前についてっていい?」
俺の言葉に驚いたような顔をしたあと、あいつは笑った。
そんなこと考えもしなかったという顔をして。
「あはは! 俺が居ること前提かよ」
ああ、そうか。
お前、自殺したんだもんな。
助けてはくれるけど、その後はない?
聞けないでいる俺の代わりに、向こうが言葉を続けた。
「
……
いいよ。色々止められてるけど」
答えがもらえたことが嬉しくて、俺は食い気味にその言葉に飛びついていた。
「いなくなるときも連れてけよ。お前が死にたくなったら、俺も一緒に行く」
「うん」
太陽が消えて全てが夜の色に薄青く溶けていく。
薄闇の中でも俺には笑った顔が見えていたし、見失いたくないと思ってじっと見つめていた。
笑うと、可愛い。
「
……
俺も、お前のこと、撫でていい?」
悩んでいる顔をしている。
「お前が嫌だったらやらない」
言葉を付け加える。
しばらく悩んだあとに、いいよと許可が与えられた。
立ち上がっても、もう膝は震えていない。立っている場所の高さは怖くない。
きっと夜になって周りが、よく見えなくなったからだ。
抱き寄せてから、反対の手で頭を撫でる。
あまりにぎこちない動きが面白かったのか、肩口で笑った気配があった。
もう少し相手の何かが欲しくなり、そっと額に唇で触れる。
夜風が冷たいから、抱き寄せていると男の体が余計に暖かく感じる。
「冷えるから、そろそろ戻らね?」
「ゔぅ
………
そうだね」
肩口に頬をすり寄せられたとき、俺はわけもなく動揺した。
隣を歩いて、部屋まで帰る。
戻る場所が同じならそれは当たり前のことなのかもしれないが、その当たり前が俺にはひどく不思議なことに感じられた。後ろでもなく一人でもなく隣を歩くことを許される関係。
視界に入らないようにしていなければならないのに、呼べばすぐに来る場所にいなければいけなかったときとは、違っていた。
その距離は、俺に対等を誤認させる。
対等だと言い切れるほどの強さがまだ俺の中にはない。
俺の代わりに、殺した連中を殴ってやると言われれば、正直なところ嬉しい。俺を守ってくれるやつなんて、いなかったから。
だがそれだと隣に立つ男に、暴力を支払わせてしまう。
俺のためとか考えてないって言いそうだし、そうじゃなくてもお前は人を殴るんだろうけど。
でも人のために怒れる奴なのに、そのせいで周りの人に誤解される。
(俺のせいでっていうのは、嫌だな)
誰か人を殴らなくちゃいけないときは、俺が殴るよ。俺が招いて、縋って、背負ってきたものだから。あそこから出るときは俺が片をつける。
それで、その上で俺は、対等になりたい。
何かお前のために、なることがしたい。
大事にしたいし、大事にしていることが伝わればいいと思っている。
そのやり方がよくわからない。
鷹道に捨てられた俺が、縋る相手を新しく見つけただけなんじゃないか。
生きているときからなにひとつ変われずに、相変わらず一つに縋って、周りが見えていないのかも。
生き方を変えたら、今までの自分が全部ダメになって否定されたような気になるから、逃げられないでいるのかも。
そうやって空いてしまった穴に、他の誰かを当てがいたかっただけじゃないって今は言い切れない。
だから伝えられないでいる。
(お前のことを助けてくれるやつ、探したらたくさんいるのかもしれないけど、お前がどうにもなれなかったときに一緒に落ちてやれるのは、たぶん俺だけだよ)
幸せになれた方がいい。前を向いて人生を歩み出せる方がいい。
わかっていても、そんな風に生きられない。
俺たちは正しくなれなくても、誰に許されなくてもいい。
部屋に戻って、扉を閉めると安堵する。
他の人間がいない場所でなければ、俺たちは許されない。
正しいも幸せも求められない二人だけの空間は、砦だ。
隣にいる男の形のいい唇に、煙草の匂いが残る指で触れた。
「なに?」
困った様子を見て慌てて指を引く。
「わり」
話を聞く。言葉にする。
そう思っていたのに、勝手に指が触れていた。
どうして触れたくなったのか、自分に問う。
「キスしていい?」
「え、や
……
う〜ん」
すぐに却下されなかっただけ、大分受け入れられている。少なくとも反射で気持ち悪いと拒絶されないくらいには。
だから結論を出すまでの唸り声がどれだけ長くても、待つことができた。
「歯、しっかり磨いてきて
……
べろも磨いてきてくれんならいいよ」
「いーの?」
いいのか。
「じゃ、すげーうわついて用意しちゃうけど」
「うわつくか? 初めてって訳でも、もしかしてしたことない?」
「そんなわけあるか」
と強がっては見たが、怪しいところだ。
ない、わけではない。
少なくともここで一回。
鷹道は人との距離が近いやつだったから、それを真似して俺も人をからかうのに触れた。あの一回を、キスと数えていいのなら。
歯を磨く間に思い直してみても、生前に唇に触れられた記憶は出てこなかった。
体に触れてきそうな距離にいた相手は、鷹道か母親。
母親に期待などするだけ無駄だったし、鷹道との間に、相手とキスするような柔らかいやりとりはない。あいつは俺の顔が嫌いだった。だから触れてくるときだって、必ず顔が見えないように犬のように地面に伏せさせた。
気持ち悪い。こっちを見るな。それが口癖だった。
「歯、磨いたらしていいんだよな?」
確認してから、顔を近づける。
唇が、触れた。
緊張で、息が止まった。
苦しくなるまでそうしてから、離れる。
そっと目を開けると、そこにある顔はニタニタと意地の悪い笑みを浮かべていた。
なに、と口にする前に腰に手が回る。体が引き寄せられた。
薄く開いた口を見たとき、俺は噛みつかれると思った。
痛みを予期して身構えたが、硬く閉じた唇に触れたものは柔らかく濡れていて、温かかった。
(何⁉︎)
動揺する俺を尻目に、舌が無遠慮に唇をこじ開けて口の中に入ってくる。相手の舌には、まだ煙草の匂いが残っている。
焦って身を引くと、あいつは挑発的に首を傾げて俺の顔を見ていた。
「怖くないよ」
「は? 怖がってねーだろ」
答えた途端に唇に痛みが走り、口の中に血の味が広がった。
噛みつかれた。こっちの痛みの方が、馴染み深い。だが、そのまま血の味と唾液を混ぜるように入ってくる舌は、完全に未知の感覚だった。
逃げようとするが腰が抱き寄せられていて背中が反る。
抵抗を試みた手がつかまれて、引き寄せられた。
噛みつき貪るようなその行為を、なんと呼べばいいのか俺は知らない。
粘膜が絡み合う。濡れた音。
奪われたことは、幾度もあった。だが反応を確かめながら、求める触れ方は胸を満たす甘さがある。激しくされているのに、怖くない。
唇の噛み傷に舌先が触れるときの疼痛が、かろうじて正気を引き止めている。
吐息が、漏れる。
口の中を弄ばれるたびに、肌がざわざわとする感覚が体の深いところから湧いてくる。俺の知らない感覚。暴力とは違う触れ合い。
わからない。こういうものを俺はどうやって受け取ればいい。
体から力が抜けそうになり、目の前の体に腕を回し背にすがり付く。
何もかもを、委ねてしまいたかった。
縺れるように、ベッドに倒れ込む。
ようやく解放されて、息を吸い込む。
「もっと、したい」
抱かれているときより、もっと体が熱くて昂っている。
口の周りについた血と唾液を拭う。
見上げた男の顔が満足そうに見えるのは、俺の錯覚かもしれない。
それでもいい。
肌を粟立たせる熱が、消えない。
足の間に膝を押し込む。服越しに、相手も昂っているのがわかる。
「フェラしていい?」
「いいよ」
覆いかぶさっていた体が退く。
ベッドに横になり、ズボンの前を寛げられたので、足の間に顔を埋める。
「お前ってイケメンなのにこういうの好きなのな」
それは、笑える。俺は、鷹道じゃない。だから顔立ちも顔も平凡だ。
雰囲気だけ似せても、それらしく見えるのか。
唾液と血を絡めたものを一度口から出し、指先で弄ぶ。
「そんなこと、お前に初めて言われた」
「そりゃ今初めて言ったから」
手でしごきながら舌先でくすぐっていると、男が息を詰めるのがわかった。素直な反応が返ってくると、愛しさがこみ上げてくる。
「や、俺、ずっと気色悪いって言われてたから、人に受け入れられる見た目じゃないんだろうなと思ってた」
自分を客観視できるほど、俺は冷静ではない。
人からどう見えているかなんてわかりもせずに、与えられた言葉を食べている。
気色悪いと言われるのには慣れているが、外見を褒められるのには慣れていない。馴染みがないから、つい疑ってしまう。
美醜について語るのであれば、目の前の男の方が余程綺麗な顔をしている。
「面の気に入ったやつにしか、こんなことしたくないから。お前の顔、すげー綺麗で好きだよ」
鷹道を喜ばせるために教え込まれた動作ではあるが、それをしたいと思ったのは俺の意思だ。こうすると男の体が喜ぶというのを俺は知っている。
「お前から綺麗って言われんのはなんか
……
悪くはない、のか、なぁ
……
? お前が気持ち悪いのは見た目じゃねぇよ」
外見を褒められるのは、嫌いなんだろうか。
髪の毛を撫でる手がそのまま、頭の後ろを抑えて押し付けるようにした。
何を求められているかわかったので喉奥に招き入れると、息を荒くしたのがわかる。男の精液を、そのまま口で受け止めた。
喉を鳴らし、呑み下す。
それは、そうしろと言われていたから当たり前にしたことだったが、顔をあげると男の顔は強張っていた。
射精のあとの虚脱感とも、違っているように見えた。
「飲んだの? どんな味?」
体が強張る。
「お、おいしいです」
教え込まれ刻み付けられた習性で、俺はそう答えていた。
髪の毛を撫でる手。微妙な顔をしていた。
「気持ち悪いね」
俺はたぶん、その言葉を投げかけられたとき、少し傷ついたんだと思う。ただ傷つくことに慣れていたから平気な顔を装えた。
「ふ、元々俺のことなんてよく思ってないだろ?」
「初対面でアレならそれはそうでしょ」
太腿を抱え、もう一度口に含む。
「なら、いいよ。お前には気持ち悪いと思われてても。こんな俺は薄汚いだろ?」
暴力でしか人と繋がれないくせに、男を喜ばせるやり方だけは教え込まれている歪んだ惨めな人間だ。
たとえそれが気持ち悪いと思っている相手でも、舐められていれば体が反応してくるらしい。再び息が上がってくる。びくびくと口の中で震えだした性器を口からだし、動きを止めて焦らす。
頭を押さえつけようとする手を拒む。
「何して欲しいのか、ちゃんと言えよ」
俺は、お前の言葉が聞きたいんだ。
言葉を探すように口をパクパクさせた。
「飲むのやめて」
「飲まなくていいんだ?」
口に出すやつは、そうさせたくてしているのだと思っていた。
飲まなくていいなら、飲みたくはない。
舌を絡めるたびに反応し、腕で押さえつけた太腿が跳ねる。髪に通す指に力が籠る。口の中に、精の熱さが広がった。
「出して来いよ今すぐ」
言われた通りに、洗面所で口を濯いでくる。
「お前のこと、よくわかんねぇ」
あの状況で何して欲しいと聞いて出てくるのが、早く続きをしろとかいう催促ではなかったことが、意外だった。
「俺もわかんねぇ」
首を傾げる。
相変わらず俺たちは自分のことすらよくわからない。
「でも俺汚いの無理だから、お前は汚くないってことだと思う」
「お前が言うならそうなのかもな。そうだったら、俺が救われる」
「そう」
こいつなら、知られてもいいのかもしれない。
聞いてくれるかも知れない。
「俺、本当はわかんねぇんだわ。精液飲んでもコーヒー飲んでも。初めは苦くてまずいって思ってたかも」
吐きそうだったのは覚えている。あのときは、確かに苦味がわかった。
だが鷹道が俺を殴り、跪かせて口の中につっこみ、射精して、そして美味しいといえと命令した。従うまで殴り、俺に苦いものを飲ませた。
あの日以来、俺は苦いがわからない。
「俺に何か欠けてても気づくやついなかったし。お前が初めてだった」
嫌ならやめていいと、言ってくれた。
五味の欠損が味覚全体にどれくらいの影響を与えているのかわからない。少なくとも煙草の味はわからないまま、煙とヤニの舌触りだけを感じながら吸っている。困ったのは料理をさせられているときくらいで、レシピを正確に守ることでしか味の保証ができない。
それが本当はどんな味がするのか確信がもてないままの食事を、十年近く続けてきた。余計なことを話しすぎていると思ったが、話してしまったことは覆せない。
「ふーん」
男は大したことがないふうに聞き流し、同情を傾けてきたりはしなかった。
ただ俺をベッドの隣に招く。慰めるように抱きしめてくれる体を抱きしめ返す。
その日の眠りはいつもよりも、深かった。信仰の祝福
信仰の街を出ていく日、主は改めて祝福の内容を告げた。
それは声を聞き届けてもらう力。他人に意思を伝え、物語の主人公となるに相応しくなる力だった。
それは俺の人生を変えてくれるだろうか。
助けてくれなかった周りを恨んでいるくせに、人の優しさが信じられず、差し伸ばされた手を取ることもできない。
壁の方を向いてふてくされてるガキというのは、あいつじゃなくて俺のことだ。俺に手を伸ばす人間がいたところで、今更なんだよとしか思えない。
めんどくさいやつ。
暴力以外の何かを受け取る心が死んでいるから、それでしか人とつながれない。
言葉で傷つけ拳で傷つけ、痛みを感じたときに俺はようやくそこに誰かがいて、俺を見ている誰かがいることを気づく。
そんな俺は、もう人間としてはだいぶ〝おしまい〟で、救いようがない。
なら、とっとと死ねばいい。死んで当然だったって、正直なところ思ってるんだ。
倫理だの道徳だの正義だの優しさだの平等だのは、人によって態度を変えた。
人を殴ってはいけないけれど、俺はよくて。
人はみんな平等だけど、俺は違くて。
大人は子供を守ってくれるけれど、俺は別で。
成績が優秀なら奨学金を受け取ることができるけれど、俺は駄目で。
だから俺は、平等を謳う奴が嫌いだ。
正しい奴が嫌いだ。
優しさで人に触れ合うやつが嫌いだ。
騙して信用させてから殴ってくるやつと、初めから俺を殴ると言ってから殴ってくるやつの、どっちが好きって問題。
お前のこと殴りかからないと言う奴が信用できない。
鷹道だけが、違った。
鷹道は、自分が好きか嫌いかで周りとどう付き合うかを決めていた。使えるか使えないかでしか、他人を判断しなかった。
正しさは常に俺を裏切った。他の人と俺を別に扱った。
鷹道の暴力だけは、一貫していた。他と俺を区別せず、好きか嫌いかというみんなと同じ土俵に俺を乗せてくれた。クラスメイトの女子も、鷹道に逆らった人間も、使えなかった取り巻きも、〝みんな同じ〟だった。
優しいなんて思ったことはないよ。嫌われてることも疎まれていることも、知っていた。
鷹道は、俺のこと馬鹿にしてたよ。
知ってる。
でも、鷹道の悪意の鋭さに貫かれているときだけ、俺は透明じゃなかったんだ。
俺は、主人公じゃなくていい。
全ての人間が光を浴びて、幸せになれるわけじゃないから。
それに、声を上げたかったわけでもない。
黙って消えた方がいいことも、この世にはたくさんある。
じゃあ、どうしてもらったら俺は幸せになれたのかって聞かれても正直まだよくわからない。だがそれに必要なのは少なくとも声のデカさではない。
たぶん、それを手に入れたとき、俺は自分の声がデカすぎて、声を聞いてくれる人たちに酔いしれて、俺みたいなみんなの中に入れない奴の言葉を聞き逃すんだろう。
やっぱ、俺、あの男のこと嫌いだな。
少なくとも今は、隣にいるやつの話をゆっくり聞きたい気分なんだ。
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