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2026-07-10 21:06:11
34865文字
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太陽を待っていた

 
 漫画「ゴールデンカムイ」、アシリパさんと杉元さんのひと夏と、その追憶。

 映画「アフターサン」パロです。パロ未満、映画の設定やシチュエーションのみをお借りしているようなストーリーです。杉元さんとアシリパさんは親子ではありません。
 前世の持ったふたりが生まれ変わり、現代に暮らしている世界です。他のキャラクターたちは登場しません。
 カップリング要素は原作程度。
 現代を生きる杉元さんの誕生日が夏になっています。アシリパさん視点。アシリパさんの見た世界。





5.

 目覚まし時計が鳴った。朝、8時。目が覚めたらおはようよりも先に、杉元の誕生日を祝うつもりだった。なのになぜかすぐに声が出ず、高いベッドの上から、隣のベッドで横たわる杉元を見下ろすばかりだった。杉元に「誰のお祝いなの?」と言われることが恐ろしかったのだ。そんなこと、少し考えればあり得なかったのに。隣のベッドではまだ眠たいのか杉元がモゾモゾとシーツの中で寝返りを打っている。しばらくすれば杉元も目が覚めるだろう。迷っている時間は無い。
「スギモト……
「んー?」
「誕生日、おめでとう」
 杉元が身体を起こして私を見た。その目に、私の不安がはっきりと写り込んでしまっている。どうかそれに気が付かないで、と願った。私をまっすぐに捉える杉元の瞳が潤んで、瞳の中にいた私が歪んで消えた。杉元が鼻を鳴らしながら照れくさそうに顔を伏せる。杉元は畏まってベッドの上で正座し、深々と頭を下げる。
「ウン。ありがとう、明日子さん。いい誕生日の朝が、迎えられました」

 杉元へのプレゼントを選ぶときに、思い浮かんだのはギプスが取れたての杉元の白い右手だった。病院の気配がこびりついたままのいびつな腕。ここにお守りのようなものがあればきっと、杉元はもう二度と階段から落ちたりなんかしない。
「これ、誕生日のプレゼントに。杉元に、似合うと思ったから……
「俺に選んでくれたの?」
「うん」
 小さなビーズが編み込まれた青色のミサンガを、差し出された杉元の右手に結ぶ。昨日立ち寄った土産屋で見かけて、こっそり2本買ったのだ。青色と、赤い色のと。今の私にはそれしか手に入れることができなかった。子供みたいで恥ずかしかった。でも、14歳の私は正真正銘の子供だった。それ以上のことなんてできやしなかったし、そして例えばあの誕生日祝いの美しい絨毯に勝るものなんて、この世のどこを探しても見つからないと分かっていた。
 杉元は手首を明るい窓の方に向け、手をくるくると返しながらじっくりとそれを見つめる。
「ワッ、キラキラでかわいいね」
「今日だけでいいんだ、つけていて欲しい。私のと、お揃いにしたくて」
「どうして今日だけなんて言うんだい? ずっと着けてるよ。……アア、嬉しいなぁ、みんなに自慢しよう。ありがとう明日子さん」
 互いの手首を突き合わせて私の赤いミサンガと見比べる。お揃いのせいで私たちはいっそう兄妹みたいだ。でもそれでかまわない。杉元が自分の右手を見るとき、怪我をした時の痛みでもこびりついた包帯の跡でもなく、真っ先に私と過ごした誕生日のことを思い出せるのならなんだって。





 杉元の誕生日をどうにか特別な日にしたかった。杉元と街を散策しながら、私はそのことばかり考えている。
 街の歴史資料館を訪れた帰り道のことだ。杉元は傍の緑地公園に出ているコーヒースタンドを見つけ、休憩がてら公園でピクニックをしようと提案した。歩き疲れたろうからと私を東屋のベンチに座らせ、私の注文を聞くとひとりでスタンドへと歩いて行った。私もついてゆく、とは言わずに素直に杉元の背中を見送ったのは、このわずかな時間にも何かしらのチャンスがあるかもしれないと考えたからだ。
 公園を見渡すと、目の前の図書館の建屋が作る陰の中で小さな輪になって歌の練習をしている大学生らしき集団を見つけた。聞けば彼らは地元の大学のコーラス部だそうだ。思い切って、「兄の誕生日を祝いたいんだけれど、一緒に歌ってくれないか」と頼んだ。彼らは喜んで私の頼みを引き受けてくれ、「お誕生日にぴったりの歌を知ってる。すぐに覚えられるし、教えてあげるから一緒に歌おう」と私に提案した。
「明日子ちゃんのお兄さんのお名前は?」
「スギ……あー、サイチ」
「サイチさん。オーケー」
 杉元が原っぱの向こうからサンドイッチとコーヒーを持って戻って来るのが見える。私がなぜか大勢の大学生に囲まれているのを見て、明らかに困惑しているのが遠目からでも良くわかった。私は「別に絡まれている訳じゃない」の意を込めて顔にめいっぱい笑顔を作り、杉元に大きく手を振る。大学生たちも私に合わせて杉元へ手を振った。杉元はコーヒーを二つ抱えて両手の塞がった手を少しだけ上に掲げ、それから大学生たちに会釈をした。さしずめ「どうも、うちの明日子さんがお世話になっています」とでも言うように。杉元が十分に私たちに近づいたところで、私たちは顔を見合わせて合図を送り合い、そして声高らかに歌った。「せーの、」

「For He’s a Jolly Good Fellow! And so say all of us! 」。それから、「Happy Birthday to you! Dear サイチさん!」……

 杉元は唇を引き結んだまま、歌う私たちの前に立ち尽くしていた。緊張しているようにも見えたし、単に照れているだけにも見えたし、一方で何かをじっと考えている風にも見えた。私たちが2曲歌い終わると、皆の期待の視線を向けられていることに気がついた杉元が「どうもありがとう、ございました」と畏まって深々と頭を下げた。学生たちは杉元に代わって朗らかに口笛を吹き、歓声をあげ、拍手をし、そして私と手と手を打ち鳴らしあいながら爽やかに去って行った。去り際、彼らの「良い1日を!」の言葉に、私たちは手を振って応えた。
「私が頼んだんだ、一緒に歌ってほしいって」
「ウン、びっくりしたよ。明日子さんが何か企んでるなって、遠くからでも見えてたんだけど……
 覚えたての歌を上手く歌えたこともありその達成感から清々しい心地ではしゃぐ私とは対照的に、杉元は終始静かだった。それは言葉も、その表情も。恥ずかしがっているとか、困っているだとかはたまた怒っているだとかそういう類の静けさではなく、眩しくて目を細めているときだとか、強い風が吹いてそれに耐えているときに咄嗟に何も言えなくなるような、そういう静けさだった。
 私たちはあらためて東屋のベンチに並んで腰かけ、杉元からカフェオレとサンドイッチを受け取る。ハムのサンドイッチとサーモンのサンドイッチだ。杉元は先に私に選ばせてくれた。カフェオレは熱く、キュウリと分厚いハムのサンドイッチはしっとりとしていて想像以上に美味しかった。遠くから風に乗って、練習を再開したコーラス部の歌声がここまで届いていた。杉元は一口だけコーヒーに口をつけ、ベンチにカップを置いてサンドイッチに取り掛かっていた。先ほどからずっと、杉元の声も動作もどこかぎこちなくて、すべてがよそよそしかった。
「はじめにうたった歌は外国だと定番の誕生日の歌なんだって。杉元は知ってたか? ふた文章覚えたらすぐに歌えるよって、さっき教えてもらったんだ」
「知らない歌だったなぁ。明日子さんが英語で歌ってたの、カッコよかったよ。まるで知らない人みたいだった」
「うまく歌えてたと思うか?」
「うん。上手だった……。明日子さんの歌声が、一番よく聴こえてきたよ」
「よかった。歌の意味も、杉元にぴったりで良いと思ったんだ」
「意味?」
「『彼は良い人だ、みんながそう言ってる』……
「うん……
 その返事を最後に杉元はすっと顔を上げ、それきり、こちらを見なくなってしまった。手元のサンドイッチに集中するでもなく、少し冷ましておいたコーヒーのことを思い出すわけでもなく、かと言って遠くの景色を楽しむわけでもない。杉元はまっすぐ前を見据えたまま、まるで電池が切れたおもちゃのようにじっと動かなくなってしまった。時々ゆっくりとまばたきをしたり唇を噛んだりするから、意識はあるのだと分かる。考え事をしているのかもしれないからと、私はしばらくの間できるだけその沈黙の邪魔にならないよう杉元の横顔をそっと伺っていた。
 それまで聞こえていたコーラス部の僅かな歌の切れ間に、見計らったかのような強い風がひとつ吹き上がった。ベンチの上のコーヒーカップが、頼りなく風に揺らいでいた。杉元の右のまぶたのふちから風に煽られた涙がぽろんとひとつぶこぼれ落ちた。あまりにも静かだったから、その瞬間を目撃していなければきっと永遠に気づけなかっただろう。
 涙が落ちた先を視線で追った杉元の顔が下を向く。その拍子にまた、両目からぽろぽろと涙が落ちて杉元の腕や膝に小さな跡を作った。杉元は咄嗟にそれを私に隠そうとした。それさえできれば、全てがまた大丈夫になると信じているみたいに。けれども、杉元の意に反して、涙は顔を隠す指の隙間から堰を切ったようにこぼれ落ちてゆく。杉元はそれをごまかそうとして、無理に笑顔を作って私の方を見た。
「明日子さん、これはね、」
 杉元の声はもう、すっかり鼻声になっている。表情も私と目が合った瞬間からみるみるうちにくしゃくしゃと崩れてゆき、最後には「アッ、」と小さく声をあげたきり、顔を伏せたまま動かなくなる。
 それきり、しばらくの間、杉元は途方に暮れたように静かに泣いた。握りしめた右手を額に当て、何かに祈るような格好のままで。まるで、もうこれ以上何にも耐えられにないと訴えるみたいに。涙は堰を切ったように後から後から溢れて杉元のシャツの胸元や膝にせっせとシミを作った。杉元の喉奥から震えるような吐息が漏れていて、胸が大きくふくらむたびにそれが痛々しく響くのだった。
「スギモト、」
「大丈夫、違うんだこれは……なんか、ウン……ね。急に、あはは、感極まっちゃったというか……
 こうなってしまってもまだ、どうにか私に笑ってごまかそうとして無理やり引き上げた口角がただただ痛ましかった。杉元はそれが無意味だということにすぐに気がついて笑うのをやめ、ズボンのポケットにしまっていたホテルの鍵を取り出すと私に握らせて言った。
「ごめん、ごめんね、訳わかんないよね……。明日子さん……ちょっと俺、歩いてから帰るから先にホテルに戻っていてくれるかい?」
「うん……
「まっすぐ戻るんだよ? 道が分かんなくなったら、タクシーを呼べばいいからね」
 杉元だって、と言いかけてやめ、私は黙って頷く。杉元は涙濡れのままニコリと微笑み、ゆっくりと立ち上がるとふらふらと歩き始める。杉元に行く当てがあるとは思えなかった。私は杉元の姿が見えなくなるまでそこにいて、握りしめたホテルの鍵の輪郭を指で確かめていた。私も、歩くしかなかった。ここにいても杉元は戻ってこないことだけは分かっていた。





 ホテルまでの道順は分かっている。ここから歩いて15分程の距離だ。まだ陽も明るいし、どこかに寄り道をしたっていいだろう。そんな気なんてないのに、「杉元の言いつけを破ってしまおうか」と企んでしまうことを止められなかった。なにか別のことを考えたかった。

 結局、私はまっすぐホテルへ帰った。そうするしかなかった。杉元が先に戻ってきていないかとも思ったけれど、私たちの部屋のドアはきちんと施錠されていて、部屋のようすも朝に出て行ったときのままだ。洗ったコップふたつ、シンクの水切り棚に伏せられている。それを横目に私は履いていた靴をそこらに脱ぎ散らかし、床を裸足で歩いた。全ての部屋を意味もなく点検してまわり、部屋中の窓を開け放った。不必要にスーツケースの中身をベッドに並べてから、元に戻した。冷蔵庫に入れていた水を少し飲んだ。シワの寄ったシーツをきちんと伸ばしてベッドメイクし直した。ため息を吐けば、部屋中に私の声が響きわたった。
 部屋を見渡して私は思い知る。杉元がいなければ、この部屋のどこにも私の目的地なんて無いのだと。ほんとうは、杉元についてゆきたかったのだと。杉元が涙を流す理由を心から理解し、傍で慰めたかった。私が隣にいることで、杉元に決して自分が孤独ではないのだと思われたかった。不安に勝るこの猛烈な惨めさは、私の無力に対する悔しさそのものだ。
 ダイニングテーブルの、杉元の定位置にかける。肘をつき、日が暮れゆく窓の外を眺めた。杉元を待っている間だけ、太陽はスピードを上げて沈んでゆくような気がしてくる。杉元の心に何があったのかを、きっと杉元は私に打ち明けないだろう。それは私が子どもだから。きっと何か適当な理由をつけて、あるいは何も語らず昼間の出来事は誤魔化されてしまうのだろう。杉元との歳の差はどうにもならないことだけれど、それならば早く大人になりたかった。杉元と一緒にお酒を飲んだり、並んで一緒にタバコを吸ってみたい。そうやって、杉元と夜の暗闇を共有してみたい。薄暗いものを薄暗いまま受け止めたい。子どもは早く寝ないとだなんて、その冷たい場所から追い出されたくなかった。

 杉元が戻ってきたのは、日が沈みきり、外が完全に暗くなってしまってからだ。私はその頃、昨日市場で購入しておいた食材で夕飯の支度をし終わり、キッチンの後片付けをしていた。きっと腹を空かせて帰ってくる杉元に温かいご飯を食べさせたかったから。不意に私たちの部屋のドアを遠慮がちに叩く、コツコツというノックの音と「明日子さん」と控えめに私を呼ぶ声がして、私は手を止める。
 扉を開けると、杉元が肩を落として申し訳なさそうな顔で立っている。杉元は私を見るや真っ先に「明日子さんを一人にしてしまってごめんなさい」と頭を下げた。杉元からはすこし潮風の匂いがした。海にでも行っていたのだろうか。私は頷いて、杉元の冷えた手を引いて部屋の中へ招き入れる。杉元がちゃんとここに戻ってきてくれたことが、今はなによりも一番大事だった。
「ご飯を食べよう、杉元」

 杉元は私の作った夕食をぺろりときれいに平らげた。何がどう美味いかを丁寧に語りながらおかわりもした。あんなに苦しそうに泣いていたことが嘘のように、すっかりいつもの杉元に戻っていた。食事のさなか、いくぶん顔色の良くなった杉元が話を切り出した。
「昼間はヘンに取り乱したりしてごめんね」
「ううん……。もう大丈夫なのか?」
「うん、たくさん歩いてきたから」
 それってつまり、ただ杉元の涙が止まるまで歩き続けただけなんじゃないのか? とは言わなかった。
 起きてしまったことを無かったことにはできないけれど、少なくとも、いまの杉元がそう振る舞えるくらいには立て直すことができたのかもしれない。今はそう思うことにした。それに杉元がそうしたがっているのだとしたら、私もそれを尊重したい。いつか、杉元の中で打ち明けられる決心がつく日が来ることもきっとあるだろう。それを急かす必要はない。
 しばらくの間、私たちの間に小さな沈黙が降りた。杉元は少し気まずそうに、「明日子さん、」と私に呼びかける。
「あのね、これは罪滅ぼしみたいになっちゃうんだけど……。これ、あったんだよ」
 杉元が差し出したのは、祭りで落としてしまった筈の青いガラス玉のヘアゴムだ。決してそれは、新しく買い直したものではない。その独特の青の色味も、手触りもガラスの中で煌めく小さな水泡の位置も隅々まで覚えている。紛れもない、杉元が似合うからと私にくれた宝物だ。もう見つかりっこないと諦めていたのに。
 昼間に杉元と別れた地点から、祭りがあった神社まではかなりの距離がある。それに、更にそこからホテルに戻るまでに海を経由していたのだとしたら、杉元はたった半日でとんでもない距離を移動したことになる。私になんでもない顔をして「大丈夫」だと言えるようになるまで、その距離が必要だったのだろうか。
「探しに行ってくれたのか? わざわざ?」
「気に入ってくれてたでしょ? だからどうしても気になってて。……境内に残ってたんだよ。誰かが拾って、近くの樹にかけてくれてたんだ。キラキラ光ってたからすぐに見つけられたよ」
「嬉しい……。ありがとう、杉元」
「うん、どういたしまして」
 杉元はようやく一日の緊張が解けたかのように顔を綻ばせる。例えるなら、何かからようやく赦しを得たような。杉元のくしゃりと笑った顔にはいつも、優しさの中にどこか憂いがあってこちらをどきりとさせる何かが秘められている。ひたすら優しくて、そしてとても寂しい。それはいつの時代どの瞬間も変わらなかった。
……それと、明日子さん」
「うん」
「お昼に、みんなとお祝いしてくれてありがとう。歌も、ありがとう。言いそびれてしまったけど、とても嬉しかったんだよ」





……それじゃあ消すよ? 明日子さん」
「うん」
「おやすみ、明日子さん」
「おやすみ、杉元」 
 杉元の合図で部屋が消灯される。暗がりの中で杉元がそろそろとベッドに潜り込む音がした。杉元と過ごす、最後の晩。この旅行中ずっと不思議な気分だった。明かりを消しても、暗闇の向こうに杉元の気配がある。たとえ目を閉じたって杉元が居なくなることはない。
……杉元?」
「はあい」
「呼んでみただけだ」
……明日子さん?」
「何だ?」
「呼んでみただけだよ」
 私のベッドの向こう側で杉元がクスクス笑う声がする。
 1年前の私は、杉元佐一を知らなかった。その名を呼べばこうして返事があることも。杉元と再会した日、杉元は私に「会いたかった」と言った。杉元は私を探してくれていた。だとすれば杉元は一体いつ、昔の記憶や私のことを思い出したんだろう? 今日までなんとなく、私は杉元に昔の記憶について訊きそびれ続けている。杉元がその話題に触れることを避けているからだ。話したいことは他にもたくさんあって尽きなかったから、それはこの先も無理をして話せなくたっていい。そもそも忘れるべき記憶だってたくさんあるのだ。いまの杉元がそれをわざわざ引き受ける必要はない。 
……杉元はいつか、北海道に住むのか?」
「ううん。きっとこのまま、東京にいると思う」
「どうして?」
「俺にとってはもう、いまの北海道に、俺の居場所はないように感じるんだよ」
「そうか……
 私はできるだけ平然を装って、「そうか」「そうだよな」と口先だけで繰り返した。私は、山の中を歩いたあの日々に戻れなくとも、心の奥底で当たり前にまた杉元と一緒にいられるものだと期待していた。杉元がそれを当然のように望んでくれているとも。声が震え始め、たちまちに頰が熱くなり、まぶたまでもが熱くなる。なんだか恥ずかしさに似た悲しみがせり上がってきて、私はただひたすら、顔を枕に押し付けてそれをやり過ごすしかなかった。もっともっと前に杉元と出会えていたらこうはならなかったのかなと、考えるのも虚しかった。
「それでも、いつでも、私のうちに遊びに来て」
「うん」
「私の家族も、みんな杉元のことがだいすきだし……来てくれたら、嬉しいから」
「うん、うん。ありがとう明日子さん」
 会話はそれきり続かなかった。じっと天井を眺めていると、部屋の中の暗闇がどこまでも伸びてゆく様な気がした。いつまで経っても目が慣れず、部屋は暗いままだった。眠れないと永遠に朝がやって来ないような気がしてくる。

 少しして、杉元の寝息が聞こえてくる。遠慮がちに沈黙の隙間にそっと分け入り、手探りで自分の居場所を探しているみたいな小さな音だった。それに耳をすませていると、レタラの伸びるような遠吠えや焚き火がはぜる音をすんなりと思い出せた。北海道の夜はどの季節も不思議と賑やかだった。生き物たちが夜の闇の中でうごめく様が脳裏にありありと思い浮かぶ。ある晩寝ぼけて火に近づきすぎた杉元が外套の背を焦がした時の匂いさえ蘇ってくる。その記憶に包まれていると、私は自分を取り戻すことができた。そこに幸せを感じていたのだと思い出すことができる。これを忘れなければ、私はきっと生きて行ける。
 杉元ともっと話がしたかった。杉元と同じ記憶を共有したかった。けれどももう杉元の身体は明日の朝を迎える準備をし始めていて、私だけが独り今日の夜の中で足踏みをしていた。名残惜しくてたまらないけれど、追いつかなければならなかった。杉元は明日、東京に帰らなければならない。このまま、朝なんて永遠に来ないでほしかった。