マチ
2026-07-10 21:06:11
34865文字
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太陽を待っていた

 
 漫画「ゴールデンカムイ」、アシリパさんと杉元さんのひと夏と、その追憶。

 映画「アフターサン」パロです。パロ未満、映画の設定やシチュエーションのみをお借りしているようなストーリーです。杉元さんとアシリパさんは親子ではありません。
 前世の持ったふたりが生まれ変わり、現代に暮らしている世界です。他のキャラクターたちは登場しません。
 カップリング要素は原作程度。
 現代を生きる杉元さんの誕生日が夏になっています。アシリパさん視点。アシリパさんの見た世界。





4.

 夕暮れになると、私たちは港の市場へ夕食の材料を買いに出かけた。
 私が得意になって新鮮な魚の見分け方を披露すると、杉元は目を輝かせて私の話に耳を傾けてくれた。杉元はきっと旬のものを食べたいだろうからと、市場の隅から隅まで歩き回りめぼしいものをこだわり抜いて揃えた。帰りは二人で食材の詰まったバッグを持ち合い、来た道を戻った。
ここで何度かの夜を過ごし、部屋のキッチンで食事をこしらえるたびに私たちは市場へと通った。この地域の住民たちに混じり、いまや私たちだって地元民の一員なんだという顔をして、すっかりよく知った道のりを歩く。片道十三分。そしてこの道を通る時、杉元はいつも決まった場所で足を止めた。
「ね、見て、明日子さん」
「うん」
 その道すがらで杉元が決まって声を弾ませ、指を差す物があった。機織物を扱う店先のショーウィンドウに、美しい紋様を描く絨毯が広げて飾られている。ガラス窓にぶつからないぎりぎりの距離まで顔を寄せ、私たちは並んでそれを眺めた。白や黒や深い青が海を思わせる自然的で優美な曲線を描いているのに、全体としてはそれらの線が繰り返すことによって幾何学的な紋様を作り出している。そこに緑や赤や茶色の点や線が混じり合い、秩序を乱すことはなく全体的にさらなる調和をもたらすのだ。見事な作品だった。それはそれは美しかった。素人の目からしても、それはショーウィンドウの一番の特等席に飾るにふさわしい品物だと思えた。織物品は他にもいくつか並べて飾られていて、杉元は礼儀とばかりにそれら全てを丁寧に見物するけれども、やはり一番はじめに魅入ったこの青基調の絨毯のところに戻ってくるのだった。結局杉元にとって、この店で足を止める目的はこれひとつしかなかった。杉元は織物の隅々までうっとりと見入ってため息を吐く。杉元はここでその絨毯を目にするたび、まるで今日初めてそれを目撃したと言わんばかりに新鮮に歓声を上げるのだった。
「綺麗だねえ……
「そうだな」
「ほんとうに素敵だなあ。どうしたってここで足を止めずにはいられないよ。きっとみんなそうなんだ……
 まるで明日には誰かに買われて行ってしまうことを恐れているような口ぶりだ。それは伝統工芸品と呼ばれるそれは職人の手を尽くされた一級品で、手に入れるとなると決して安い買い物にはならないだろう。ここからそうそうあっさりと消えてしまうようなものではないように思う。けれども、毎日ここで足を止めるたび、杉元はこの場所からその美しい工芸品が消えていないことを確認せずにはいられない。杉元の表情や言葉から察するに、きっともう杉元の頭の中ではそれを購入する算段さえ出来上がっているに違いなかった。私も、これを杉元が持つにふさわしいと確信していた。海を思わせる濃紺の鮮やかな色が、杉元にはきっと似合うだろう。
「買うのか?」
「そうしたいなぁ」
「まだ迷う理由がある?」
「ウーン。……不思議なんだけど、俺はこれまで、何かを猛烈に欲しいと感じたことがなかったんだ。だから、いまそれにすごく戸惑ってるって感じ」
「私は、欲しいと思った気持ちを大事にすべきだと思う。それが初めてならなおさらに」
 杉元は私をまっすぐ見つめ、少しの間何かを考えていた。それからまた絨毯の方に目をやり、「よし」と小さく頷いて私に向かい直して言った。
「ウン、そうだね。ありがと、明日子さん。決心がついたよ」
 その日の杉元はとうとう意を決したようで、店の重い引き戸を引き、中で作業をしていた店主らしき人物に声をかけに向かった。杉元が店内から照れながらショーウィンドウの方を指差す。一瞬、店主と杉元ふたりの視線が窓の外にいた私を捉え、それからさっと絨毯の方へと移ってゆく。私は終始外にいて、杉元がいかにその作品が素晴らしいかを語る様をショーウィンドウ越しに眺めていた。店主が嬉しそうに頷き、やがて店の奥へと引っ込んで行った。そしてすぐにもう一人奥から年老いた男を連れて杉元の元へと戻って来る。きっと製作者だろう。杉元は目を輝かせ、老人と握手を交わし、何かを熱心に語り合っていた。

「待たせちゃって本当にごめんよ。手続きをすませてきたんだ。……アア、思い切ってよかった。この旅が終わる頃、東京に送ってもらえるように頼んだんだ」
 時間にして30分程だろうか。店を後にした杉元は興奮で頬を真っ赤に染めたまま、私のところへと戻ってきた。杉元は照れたように頭をかき、嬉しそうにまたショーウィンドウの中の青を振り返った。今は値札が下げられていて、代わりに「売却済」の札が掲げられている。それだけでなんだか杉元の手に届くことを心待ちにしているふうにさえ見えてくる。杉元はいつまでもそれを誇らしげに見つめていた。
「じゃああの絨毯はもう正真正銘、杉元のものなんだな」
「うん。そう、そうなんだよ」
「よかったな、杉元」
「うん、うん……。あは、マア、もうすぐ誕生日だし……。こういうのも運命っていうんじゃないかな」
 杉元は照れながら何度も自分に言い聞かせるみたいに「うん」「良かった」と繰り返した。抑えきれない興奮や照れを宥めながら、「楽しみだなあ」と声を弾ませる。杉元の脳裏にはきっといま、東京にある杉元の自宅にあの絨毯が届いているさまが浮かんでいるのだろう。いいな、と思う。あれがどんな場所に置かれて、どんなふうに馴染んでゆくのだろう。杉元はその上におずおずと座って、絨毯の見事な文様を指でなぞりながら、零さないようにゆっくりと好きなお酒を飲む。朝の光の中の淡い白、夕方に輝く赤と茶色、深夜の深い紺色……。絨毯の文様が時間帯によって違う美しさを見せるのを、杉元はうっとりと眺めるのだろう。いいな。私もその場に立ち会えたらいいのに。


**


 最も夜が深くなる夜明け前。ふと目が覚めたのは、部屋を横切る誰かの気配を感じたからだ。大方杉元がトイレにでも行ったのだろうと、目を閉じたまま足音の行方に耳をすませていた。私たちがいるベッドルームのドアが持てる全ての慎重さを駆使して開かれ、そしてひとつの音も立てず閉じられていった。それきり、10分経っても20分経っても、杉元はなかなかベッドルームに戻ってこなかった。もしや外にでも出かけるつもりなのかと耳をそばだてていたけれど、玄関扉の錠が開く音は一行にしなかった。杉元はまだ、部屋の何処かに留まっている。不安のせいか中途半端に目が覚めてしまっていたから、そのまま眠る気にもなれなかった。それに、朝になっても杉元が戻ってこなかったらと思うと、このまま呑気に眠りにつくことが恐ろしくなるのだった。

……眠れないのか?」
 杉元はリビングにいた。明かりもつけず、リビングの海を見渡せる大きな窓を開け、そこに寄りかかって外を眺めていた。月明かりのせいか、目が慣れると思いの外部屋は明るく見えるのだった。
 私が声をかけると、杉元は特に驚いた様子もなくゆっくりと振り返って私を見た。窓枠に腕をかける手元に小さな明かりが灯っていた。杉元がタバコを吸うなんて思いもしなかった。タバコを持つ手元をジロジロ見ることが余計なプレッシャーになるかと思い(タバコを消して欲しわけではなかった)、私はなるべくタバコではなく杉元の顔の方を見続ける。つまらない動揺が表情に出てしまわないように努めた。
……ウン。時々ね、急に眠れなくなることがあるんだ……
 杉元はそれ以上何も言わなかった。私がそばに寄ると、まだ火をつけたばかりの長いタバコをさっと揉み消し、少し端に寄って私が座る場所をこしらえた(後にも先にも、杉元がタバコを吸ったのはこの時一回きりだった)。窓が開いているから外からは川の音や虫の鳴き声がよく聞こえた。「今日は、」少ししてから、杉元が言った。
「良い天気だったね」
 ぼんやりとした声だった。心ここに在らずの。まるで沈黙を恐れてとっさに口をついただけの、他人行儀な挨拶みたいだった。杉元に外のざわめきは聞こえていないのかもしれない。
「うん」
 風の強い一日だった。朝に丁寧に櫛で整えた私の髪は終始風に煽られてぼさぼさのままだった。夕方には通り雨が降った。冷たい雨だった。私たちは傘を持っておらず、立ち寄ったリゾートホテルのラウンジのソファに腰を下ろし、上等なカップで提供される熱いコーヒーに恐る恐る口をつけながら雨が止むのを待った。天井まで続く大きなガラス窓の向こうをじっと眺める杉元の横顔だけが、場違いに美しかったのを覚えている。
 この場には到底相応しくないのだと言わんばかりの、申し訳なさげに縮こまった杉元の背。いつまでも消えない炎のように、杉元の体のあちこちから漂う「あの日々」の記憶たち。私は今日ここに生きているのに、気がつくとそれにばかり気を取られている。
「明日は浜の市場の、屋台通りまで歩いてゆこう。明日子さんの好きなものをたくさん食べようね」
「うん……
「雨、降らないといいねえ」
「そうだな」
 杉元の体に寄りかかる。杉元の腕が私の腕と背にそっと触れた。優しすぎる手つきだった。繊細な糸でできた見事なレース生地を台無しにしてしまわぬよう受け止めるときのような。そのくせ私はいま、何があったって離れないよう強く強く握り返してくれた傷だらけの指先を思い出している。二人でここにいるのに、二人ともここに存在していないような気分だった。いま、私たちは同じものを見て、きっと全く違う記憶を思い出している。
 杉元の体は熱かった。汗っかきなんだといつかはにかみながらそう教えてくれた。これは、激しさの中で懸命に生きるいきものの熱だ。ぶれることのない、清く強く美しい魂が宿った身体。私はその熱に触れるたび、泣きたくなるのを堪えなくてはならなかった。私はどうしてもいま、杉元にこう呼んで欲しかった。
 アシリパ、と。