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マチ
2026-07-10 21:06:11
34865文字
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太陽を待っていた
漫画「ゴールデンカムイ」、アシリパさんと杉元さんのひと夏と、その追憶。
映画「アフターサン」パロです。パロ未満、映画の設定やシチュエーションのみをお借りしているようなストーリーです。杉元さんとアシリパさんは親子ではありません。
前世の持ったふたりが生まれ変わり、現代に暮らしている世界です。他のキャラクターたちは登場しません。
カップリング要素は原作程度。
現代を生きる杉元さんの誕生日が夏になっています。アシリパさん視点。アシリパさんの見た世界。
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3.
ホテルに併設された屋内プールに行くため、バスルームで水着に着替える。可愛いフリルがたくさんついた、水色のセパレートタイプの水着。せっかくの旅行にスクール水着じゃないほうがきっと良いだろうと、と母親と一緒にデパートに買いに出かけたのだ。肩紐がねじれていないか、うっかりタグを切り損ねていないか、フリルに変なシワが付いてないかをバスルームの鏡で念入りに確かめる。水着の上から白と青のチェックのワンピースを上から羽織り、裸足の足にサンダルを履く。
部屋に戻ると、先に着替え終わっていた杉元がシャツに短パンの姿で、備え付けの一人がけのソファに身体を預けて眠ってしまっていた。半分膨らんだビニールの浮き輪を膝に乗せ、スニーカーを裸足の足でぺちゃんこに踏みつけながら。私は音を立てないように杉元の向かいのソファにかける。部屋は杉元の寝息が聞こえるくらいに静かだ。開け放った窓からは時々心地よい風が吹き込み、気まぐれに杉元のシャツの袖を揺らしていた。
コーヒーテーブルに肘をつき、杉元の少し開いた口元や鼻の頭を眺めた。窓からは時々バスや車が通り過ぎる音がしたり、鳥のさえずりが聞こえてくる。ドア越しに誰かが会話をしながら私たちの部屋の前を通り過ぎて行った。杉元はそのどちらにも反応を示さず、ぐっすりと眠ったままだ。
ワンピースがしわくちゃになるのも構わず、ソファに浅くかけてだらしなく背にもたれかかる。サンダルを脱ぎ、ソファの上で体育座りになった。その姿勢でドレッサーの引き出しで見つけた聖書に目を通してみる。けれども何が書いてあるのかなんてさっぱり分からなくて、すぐにテーブルへと投げ出す。結局私はほとんどの時間、杉元の頰や力の抜けた指先に気を取られていた。ちっとも目を覚ます気配のない杉元。起きろとも思ったし、起きないで欲しいとも思った。
かつて杉元の顔にあった傷跡をできるだけ詳細に思い出し、いまの杉元の頰の上をなぞってみる。思えば私が傷跡のない杉元の顔を見たのは、この世界が始めてのことだ。他に傷跡がないからか、ギプスが丁寧に巻かれた右腕がただしく痛ましく見えた。きっとあの頃の杉元には傷ひとつひとつを丁寧にいたわる時間が、本当は必要だったのだ。
「
……
明日子さん、」
次に杉元に呼びかけられた時、私はいつの間にかベッドに寝かされていて、肩にまできっちりとブランケットが掛けられていた。申し訳なさそうな顔をした杉元が私を見つめている。窓の外はすっかり日が暮れて真っ暗になっていて、いつの間にか窓はきちんと閉じられていた。聖書も見当たらない。きっと元の場所に仕舞われてしまったのだろう。
「起こしてごめんね。晩御飯の時間になっちゃったから
……
。そもそも、俺が先に居眠りしちゃったのに」
「ううん、私も昼寝したい気分だったから。
……
杉元はよく眠れたか?」
「うん、おかげさまで」
「なら良かった」
杉元の頰にヨダレの跡がうっすらと残っているのを見つけて指摘すると、杉元は照れながら私の口元とお揃いだと笑った。
私たちはあちこちに寝跡をつけたまま、服の下に水着を着たままの格好でホテルのレストランへと夕食に向かった。予約していた時間がもうすぐそこまで差し迫っていた。
*
父親に教えてもらった手順で電源を入れる。昨日のうちにバッテリーが満タンになっているかどうか確認しておいたから、本体も問題なく起動した。モニターを確認し、撮影ボタンを指で押し込むと、画面上に撮影中のマークが点滅する。すぐそばでカバンの中身を整理していた杉元に、ビデオカメラのレンズを向けた。
「杉元、こっち見て」
ぼんやりとしていた映像の中心にすっと焦点が合うと、画面が鮮明に杉元の姿を捉えた。杉元は初め私の声に反応して嬉しそうに顔をこちらに向けたのに、それが撮影だと分かるや否やレンズからさっと目を逸らして手で顔を覆ってしまう。私はめげずに杉元の前に回り込んだ。嫌がられては困るのだ。このカメラは杉元を撮るためにわざわざ父から借りて来たのだから。
「ええ? 撮ったら恥ずかしいよ
……
いま変なシャツ着てるし
……
」
「うそつけ、今日はそれ着て出かけるってさっき言ってたろ」
「やーん」
私がカメラを持って追いかければ、杉元はレンズをさっと避け、何かを掴んで扉の開け放たれたバスルームの中へとそそくさと逃げてゆく。その後を追い、開いたままのバスルームを覗き込んだ。杉元はまさか私が追ってくると思いもしなかったのが、ぎょっとした顔で私の方を振り返る。その手にはなぜかハサミが握られていて、まるで凶悪犯がふたり、うっかり鉢合わせてしまったみたいだ。杉元はやはり顔を隠そうとして私に背を向ける。杉元が珍しく頑なな態度をとるので、私もいよいよ意地になって杉元をバスルームの隅へと追い詰めてゆく。杉元が私をどこまで許してくれるのかを試したいという気持ちもあった。本気になれば私なんて簡単に押しのけて逃げることもできただろうに、杉元は私のカメラを見てはただ小さく「やだぁ」だとか「きゃあ」とか呻くばかりで、空のバスタブに身を隠せる場所を求めて逃げ回る。
「ねえねえほんとに撮るの?」
杉元はバスタブの角に追い詰められ、威嚇時に体がものすごく細くなるフクロウみたいな格好になって私を見下ろした。本当はその姿だってぜんぶ記録に残しておきたいのに。
「だめか?」
「ウーン、じゃあ後で撮ってもいいから、いまは撮らないでね? それでいいかい?」
「分かった」
杉元は私が自分のベッドにカメラを置いたのを見届けるとようやくバスルームから顔を出した。友達のうちにいる、病院に行く気配を察した猫みたいだ。
「ハサミで何をするんだ?」
「これ、取りたくなってさ」
杉元は右腕のギプスをハサミの刃で叩いた。こつこつと聞いたことのない乾いた音がする。私の脳内に、忘れていた病院の匂いが呼び起こされる。はじめから匂いなんてしていないはずなのに、それは具体的なイメージを伴って杉元の身体にしつこくまとわりついて離れない。
「ギプスって病院で取ってもらうものだと思ってた」
杉元は浴槽の淵に腰を下ろし、腕とギプスの隙間に無理やりハサミを差し込んで力任せにギプスを切り刻み始める。ギプスもハサミもどちらともが、まさかこんな扱いを受けるなんて思いもよらなかったとでも言いたげにぎちぎちと悲鳴をあげた。ギプスからこぼれた石膏がポロポロとこぼれ落ちて、杉元の紺色のハーフパンツとタイル床が白く汚れた。どう見たって正しいやり方には思えない。その手つきからはむしろ新しい怪我が増えそうな危うささえ感じるほど。
「うーん、そうかもね
……
」
杉元は上の空の返事をするばかりで顔も上げない。鼻先や頰に落ちた影のせいで杉元の表情はほとんど私からは見えず、いま杉元が悲しんでいるのか楽しんでいるのかも分からない。
「プールにギプスで行くのはちょっと、なんだか、やっぱり、格好悪いからね
……
」
少なくとも市販の裁ちバサミでむしり取ることが正しい手順でないことは知っている。でも、どこへ行ったって目立ってしまうそのギプスを外してしまいたい気持ちはじゅうぶん理解できた。最後はほとんど力づくの左手でむしり取られたギプスは部屋の小さな屑籠の中に押し込まれて役目を終えた。数分前まで杉元の一部だったものだ。もっと丁重に弔うべきなのではと思う。けれども私は、たとえば手術で身体から切り取られた腫瘍がその後どう扱われるのかを知らない。
ギプスを剥がされた杉元の右腕は左腕と比べるとなんだか白くほっそりとしていて弱々しい。けれども、少なくともそう見えること以外に、なにかしら目立つような大きな傷や痣が残っているわけではないようだった。皮膚の内側にある骨も完璧に元通りになったのだろうか? 例えば手を振っただけで、またぽきりと折れてしまったりはしないのだろうか? だってさっきまでその腕は、ギプスの力が必要だったんだから
……
。私の心配もよそに、杉元は両指や両腕を力強く組んだり握りしめたりストレッチをしたりする。ギプスが取れたばかりの右腕をあまりにも乱暴に扱うので、それで折れていない箇所までうっかり折れてしまうんじゃないかとにわかに不安になる。杉元はそれほどヤワな男ではない。けれども現に、彼は階段から落ちて骨を折ってしまっているのだ。
「触ってもいいか?」
「え、腕に?」
それを止めさせるために咄嗟に口をついて出たのは不自然な提案だったけれど、好奇心も少なからずあったと思う。杉元はストレッチをやめ、あっさりと私に右腕を差し出す。
「いいけど、ちょっとざらざらしててきもち悪い触り心地かもよ」
右腕を両手で受け止めて引き寄せれば、おのずと杉元も私に身を寄せる。けれども私はそれからどうするのかなんて考えてもいない。扱いに困ってしまって意味もなくその皮膚を撫で回した。杉元はされるがまま、少し居心地悪そうにしている。
「折れたのはこの辺りか?」
「もう少し上だったかな」
「こんなに、太い骨が折れたのか
……
」
「折れるときは意外とあっさり折れるものだよ」
「痛かったか?」
「少しね」
杉元は少しだなんて冗談めかして言うけれど、痛くなかったはずがないのだ。なんで私はこんなマヌケな質問をしてしまうのだろう。
杉元の言う通り、皮膚はざらざらとしていて、それはかぶれかと思いきや単にくっきりと包帯の跡が残ってしまっているだけだ。鱗を持つ生きものの皮膚はこんな触り心地だろうか。皮膚に写った細かな網目のひとつひとつをじっと眺めていると、こみ上げるようなゾワゾワとした気味の悪さを感じるのも確かだ。杉元が振り払いたがった腕の違和感の一つはこれかもしれない。この包帯の跡はいつまで経ってもなかなか消えなかった。そこにギプスが無くとも日焼けしていない右腕の肌は他よりほんのりと白く、遠目からみると発光しているようにすら思えた。まるでここが弱点だと明かされているみたいに。杉元は時々鏡の前に立ち、いつまでも違和感の残る右腕の様子を眺めていた。まるでそこにうっかり異なるパーツを間違って取り付けてしまったみたいに、杉元はしきりにそこを気にするのだった。それならばギプスを外さなければよかったと、杉元が後悔しているとして。私はその小さな仕草の中に見える葛藤の狭間で「その腕だって格好いい、なんにも問題ない」と言っていいものか、それとももっとふさわしい言葉があるのか、ずっと考えあぐねていた。
**
ワンピースの下に水着を着て、私たちは今度こそホテルに併設されている宿泊客用のプールへと向かった。長さが25m、コースが6レーンある大きなプールだ。コースを区切るロープは外してあるから広々としている。天井がガラス張りになっていて、日光がプールの底にまで届いていて明るかった。プール利用者は思いの外まばらで、私たちの他にはプールサイドのベンチで日向ぼっこをしている老夫婦と、若いカップルが1組、そして腰にコルセットを着けた青年が1人いるだけだ。私たちはプールに一番近いベンチに荷物を置き、二人で向かい合わせになって準備体操をする。杉元は「トレーニング前は特に肩と足首を柔らかくほぐしているんだよ。怪我をしないようにね」とストレッチの手本を見せてくれた。
二人して水泳キャップに髪を押し込み、ゴーグルを着ける。なんだか間抜けに見えるけれど、プールに入ってしまえばそれも気にならなくなる。小学校のプールで練習した成果を杉元に見てほしかった。
まずはクロール。これが最も自信のあるフォームだ。次に背泳ぎ、そして平泳ぎ。25mならば一度も足をつかずに泳ぎ切れる。もっと自由に泳げるところを見せたくて、今度はプールの最深部に立つ杉元の周りをサメのようにぐるぐる泳いで回る。小さく旋回しながら泳ぐのはただまっすぐに進むよりもうんと難しい。
「明日子さん、泳げるようになったんだね」
「まだそんなに長く潜れないけど、いっぱい練習した」
「上手だよ、とても。こんなに泳げるなんてすごいよ。練習がんばったんだね」
杉元はそう言って顔を綻ばせた。そう言いながらも杉元は私のそばを離れず、さり気なく私の泳ぎをアシストしてくれた。常に私の手が届く範囲に浮き輪を寄せ、私が深く潜水する時には同じ深さまで身体を屈めて私の様子をしっかりと観察する。水中で私が手を振ると、杉元が両手で私に手を振る。鼻と口からたくさんあぶくを吐き出しながら私に何かを呼びかける。「水泳選手みたいだ」と言っているように見えた。私は思い切って杉元の下に潜り込み、コバンザメのように振る舞ってみる。プールの底から杉元を見上げると、杉元は両手の親指と人差し指でカメラを構えるポーズをしてみせ、水底を泳ぐ私をカメラに収めた。私はそれにピースサインを作って応える。
私たちから一番遠いコースでは、コルセットの青年がプールの端から端まで何度も繰り返し手で水を掻き分けながらひたむきに歩き続けていた。プールサイドで日向ぼっこをしていた老夫婦は、私と目が合うたびに小さく手を振ってくれた。プール監視員が時々プールサイドを巡回して、そしてまたどこかに去って行った。
水から顔を出すたび、杉元はすごいよ、上手だねとしきりにそう言って私を讃えた。私はいよいよ得意になって杉元の周りを何周も泳いで見せた。指先がふやけてシワシワになるのも、顔にゴーグルの跡がくっきりと残ってしまうのも、髪が水泳キャップの中でぼさぼさになってゆくのも気にならなかった。プールに私たち二人以外誰もいなくなっても、お腹が空いてへとへとになるまで泳ぎ続けた。それこそ、願わくば杉元が東京に帰ってしまった後も、いつでも私の泳ぎが上手だったところをすぐに思い出せるくらいに。杉元が喜んでくれることが、嬉しくてたまらなかった。
いつの間にか貸切状態になったプールサイドのベンチに寝転がり、買っておいたジュースを飲んだ。杉元はジンジャエールを、私はりんごジュースを。天窓から差し込んでくる陽の光が水面に反射してきらめき、そしてその光が私たちの身体に複雑な模様を浮かび上がらせている。顔に広がった波の文様がまるで魚の鱗みたいだと私が言うと、杉元がとてもいい例えだと褒めてくれた。ギプスを外した杉元の腕にも同じように鱗模様がゆらゆらと漂っていて、それが私に魚の腹の色を思わせた。
**
杉元は時折、疲れた顔を隠して笑った。短期間で積み重なったストレスからではなく、なにかもっと長く深い大きな疲労を抱えているように思えた。内から込み上げてしまう「何か」を、杉元はなんとか私に見せまいとしていた。だから私はそれに気がつくたび、できるだけ無邪気に「杉元、お腹空いてないか?」と声に出した。本当は「どうして元気がないんだ?」と聞ければよかったのだけれど、杉元がそれを望んでいないのは明らかだった。
そして私は杉元の前で大人びた対等な存在でいたかった。杉元のことをなんでも知っている相棒でいたかった。けれどもどうしたって、杉元の前にいた私は小さな子供でしかなくて、できることも思慮も分別も何もかも、足りなかったのだ。
「明日子さん撮ってるでしょ?」
杉元は私が向けるカメラのレンズをじっとりと見つめている。私に撮影を止めて欲しいのだ。けれども私は怯まずカメラを杉元に向け続けた。杉元と何気無く言葉を交わしているうち、この旅の途中で杉元が26歳の誕生日を迎えることを知った。杉元がそれを狙ってこの旅の計画を立てていたのか、本当に単なる偶然だったのかは分からない。あらかじめ教えてくれていたのなら何か準備もできたのにと私は少し憤慨しながら、思いつきでカメラを回し始める。誕生日を迎える自分に向けてメッセージを残してもらおうと、インタビュアー気取りで杉元へ声をかける。
「なあ、杉元。杉元が私と同じ歳の頃、将来は何をしていると思った?」
「明日子さん、撮らないで
……
」
杉元が大きな手のひらでそっとカメラのレンズを覆い隠した。一緒に映ろうと提案したときには絶対に断らないのに。カメラを掴む手つきは一切乱暴ではないけれど頑なだ。杉元が一向に質問に答えたがらないので、私はしぶしぶカメラの電源を切る。
「14歳の誕生日に何をしたか覚えてる?」
「アー
……
」
杉元はしばらくそれきり黙り込んでしまう。考えるふりをして私とは反対側の窓に顔を向けた杉元の表情が、暗がりの窓に反射してこちらからでもはっきりと見えていた。少しして、杉元は「あんまり愉快な話じゃないんだけどね」と前置いてから話し始めた。
「両親が祝ってくれた。朝、俺が起きてリビングに行くと、両親が二人揃って俺を待っていた。日曜日だったんだ。おはようよりも先に、お誕生日おめでとう、と声をかけてくれた。なのに、俺はその日が俺の誕生日だったことをすっかり忘れてたんだ。自分に誕生日が来ること自体、忘れていたような気さえする。
……
そのせいなのかな。俺の第一声は、今日は誰のお祝いなの? だった。両親のショックを受けた顔を、今でも鮮明に思い出すんだ
……
」
「そうか
……
」
「時々
……
自分がものすごく残酷な人間なんだって思い知らされるんだ」
「私が、杉元が誰よりも優しい人間だってことを知ってる。だからそんな風に言うな」
「ウン、そうだね
……
。ありがとう明日子さん」
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