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2026-07-10 21:06:11
34865文字
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太陽を待っていた

 
 漫画「ゴールデンカムイ」、アシリパさんと杉元さんのひと夏と、その追憶。

 映画「アフターサン」パロです。パロ未満、映画の設定やシチュエーションのみをお借りしているようなストーリーです。杉元さんとアシリパさんは親子ではありません。
 前世の持ったふたりが生まれ変わり、現代に暮らしている世界です。他のキャラクターたちは登場しません。
 カップリング要素は原作程度。
 現代を生きる杉元さんの誕生日が夏になっています。アシリパさん視点。アシリパさんの見た世界。


1.

 小蝶辺明日子としてこの世に生を受けて13歳になるまでの私の人生を思い出せる限り遡ってみる。ありきたりで平凡な私の暮らしの中に時折、いびつで不可解な記憶が入り込んでくる。飼ったことのないはずの狼みたいに大きな白い犬が私の頰を舐める。制服を着て登校する私の記憶に横やりするように山の中で鹿を獲る私の姿が混ざり込む。袖を通したことのない民族衣装の着方が分かる。雪が積もった寒い森の中で火を起こして体を温めている。顔に大きな傷のある男の人が、私に知らない名で呼びかける……。そういうことが、時々起こった。
 それらはある日急に火花が立つようにぱっと脳裏に思い起こされて、私の膨大な経験と記憶たちの中で堂々と居座り続ける。そうなれば、もう二度と忘れることなんてできなかった。もしかすると、無意識に忘れないでいようとしていたのかもしれない。
 これらをそれとなく家族に話してみて、やはり記憶の全てが出処不明であると判明した。誰も知らない記憶。両親はおおらかで、私が何を言い出しても「いつの間にそんな大冒険をしてきたんだ?」だとか「不思議なこともあるね」と微笑ましく受け入れて私を慰めるだけだった。大事にならなかったのは、テレビや本で得たフィクションや、いつかみた夢と現実とを混同している可能性も否定できなかったから、というのもある。それに記憶の混濁は頻繁に起こるわけではなかったし、私の暮らしや人生を妨げるほど大きな効力が有ったわけでもなかった。何より、私が小さな子供だったからだ。得た記憶を何か他のものと結びつけられるだけの、知恵や経験が全く足りなかった。青色のパズルのピースを一つ得たからといって、それが空や海の絵かもしれないとは考えても、生き物の血や瞳の色だとはすぐに思わないように。だから私は長らくそれが私以外にも起こり得る、成長過程で発生する一般的な現象のひとつだと信じて疑わなかった。

 14歳の誕生日を迎える、7日前のことだった。なんでもない日だったのに今でもすみずみまでよく覚えている。その日、私は長い長い夢を見た。風邪を拗らせて、丸一日解熱剤を飲んで眠っていたのだ。夢の中で私はある、一人の女の子の一生を見た。アシリパという名のアイヌの女の子の、苛烈な人生を追体験する夢だった。
 目覚めた時、私はもう単なる13歳の女の子ではなかった。夢の形をしていたけれど、それは紛れもなく人ひとり分の生の記憶だった。遠い遠いむかし、いま胡蝶辺明日子の体にあるこの魂は、過去にアシリパとして生きた魂だったのだ。
 13歳の私にその全てを受け止められるはずがなかった。目が覚めた後はひとしきり泣いて、そして苦し紛れに、得た記憶のいくつかを永遠に放棄した。そうするより他なかったのだ。違う人間の記憶を得たからといって、その日から胡蝶辺明日子の人生すべてをすっかり変えてしまう訳にはいかない。「アシリパ」の記憶に今の私が支配されてしまわぬよう、どうしても取捨選択が必要だった。
 どれを捨てたっていい。思い出すにはあまりにも辛い記憶もあった。ほとんど「アシリパ」の意志にしたがって、私は涙か止まるまでそれを繰り返した。けれども、どれだけ苦しかろうと「アシリパ」の記憶が最後まで絶対に手放さなかったものもある。それが「杉元佐一」にまつわる全てだった。アシリパが出会い、共に旅をし、添い遂げた男。アシリパにとって、杉元佐一との日々はどこまでも美しく健気で愛おしく、眩かった。
 
 アシリパの記憶を引き継いだ私が猛烈に惹かれたのは、やはり杉元佐一との日々だった。杉元佐一もこの世界のどこかに必ずいる、きっと会える……。私はそう確信し、来たる日をじっと待った。たとえ離れ離れになっていても、私たちはきっと運命的に出会える日が来るだろうと私は根拠もなく信じていた。それはカムイたちの導きでもあまた存在する神々の思し召しでもなく、13歳の女の子が持てる全てで導いた精一杯の「慰め」の落とし所だったのだ。あとで思い返してみればその時の私は、会いたいという気持ちに名前と理由が欲しかったのだと思う。どの時代に生きていても、私は杉元佐一のことがただ恋しかった。





 大きな力に導かれていると思わずにはいられなかった。その後14歳になった私は考えていたよりもうんと早く杉元佐一と再会する。その日のことを、単に偶然という言葉では片付けられないだろう。運命と呼ぶのもきっと違う。長い間行方がしれなかった無くしものがようやく持ち主の元に戻った……そんな例えが相応しいように思う。

 その日、私は祖母の手伝いで小樽を離れて札幌を訪れていた。札幌で一人で暮らす大叔父が腰を痛め、手すりのついた介助ベッドを購入することにしたのだ。それが晩に家に届くのを見届けるのだという。念には念をと、私たちは昼間のうちに大叔父の杖を買うために市内へ3人で出かけ、昼食後に百貨店へと赴いた。杖を選ぶ間、少し気晴らししてきても良いよと小遣いを握らされて、私はぶらりと百貨店の外へと出る。天気は良かったけれど、風はまだ少し冷たかった。
 どこかのカフェにでも入ろうかと目抜き通りで思案していると、傍の定食屋から揃いの紺色のスーツを着た団体がぞろぞろと大通りへと現れた。店から一番最後に出てきた男が、よく通る声で店内に向かって言った。「ごちそうさまでした」と。気持ちの良い声だった。私はなぜだかその声につられて足を止め、男の方を振り返った。東へと歩き去ってゆくその団体の一番後ろを一人、つかず離れずの距離を保って男が歩いてゆく。背筋のぴんと伸びた、姿勢の良い男だった。きっと先ほどの声の持ち主は彼だろうな、と思った。そして、私はすぐにその男から目が離せなくなった。
 筋肉質な体格だ。スポーツ選手だろうか。スーツを着ていてもそれがよく分かる。サイズの合ったスーツを身につけ、髪をワックスできちんと後ろに流していて清潔感があった。肩から襷掛けした、旅行カバンほどの大きな鞄が彼が歩くたびに彼の身体にぶつかって揺れていた。
 本当に不思議なもので、私の中の頼りは記憶しか無かったというのに、その背中のシルエットを少し見ただけで分かってしまったのだ。それが、間違いなく「彼」であると。彼の姿形が全く変わっていない保証など、どこにも無かったというのに。
「す……、」
 杉元、と呼びかけようとして私は咄嗟に逡巡した。果たして、そのまま呼びかけて良いものかどうかを。それに知らない年上の男性にかつてのように呼び捨てで話しかけることの無礼さだったり、そもそも名前だって「杉元佐一」のままではないかもしれないということ。そして仮に彼本人だったとして、私を覚えている保証なんてどこにもないじゃないか……という迷いのせいだ。
 それでも声は迷いを振り切って飛び出してしまっていた。それがそのまま、列の一番後ろを歩いていた男の耳にまっすぐ届いた。男がぴたりと足を止め、こちらを振り返った。
 男の顔に、顔を横切るあの大きな傷跡は見当たらなかった。髭の剃り残しもなければ、出来立ての生傷もない。まだらにできた日焼けもいつもおでこにくっきりとついていた帽子の跡もなにもかも、見当たらなかった。まるで別人のようだった。別人のようだったけれども、別人ではなかった。彼は間違いなく、杉元佐一そのひとだった。目と目が合う。
「すぎもと……
 私の声はほとんど祈りに近かった。あなたが、いまも「杉元佐一」でありますように。男が息を呑んだのが離れていてもよく分かった。
「アシリパさん……?」
 男は今にも泣き出しそうな顔をして、私の「前」の名を呼んだ。私は迷いなく頷く。すると杉元の表情がまるで悪戯を咎められ、そしてようやく赦しを得た子供のようにくしゃくしゃと歪んでいった。私は杉元がそのまま声を上げて泣き出してしまうのではないかと思った。そんな姿を見たことなど、「アシリパ」の生涯の中で一度もなかったというのに。そして当然、そうはならなかった。杉元はただその場に立ち尽くし、私を見つめて顔を歪めるばかりだった。
 杉元の手が思わず、とばかりに私に触れようとして前に出される。けれどもそれが中途半端にぴたりと止まって、それからおずおずと引っ込んでいった。それがいまの私と杉元の、正しい距離感であると自身に言い聞かせるみたいに。なぜそこまでして躊躇ったのか、私には分からなかった。
「アシリパさぁん」
 杉元はその場に立ち尽くしたまま、まるで迷子を探すみたいに私を呼ぶ。だから私は今度こそ迷わず、杉元の胸元へと飛び込んでいった。杉元も今度こそ私を全身で受け止めてくれる。その腕に受け入れられたことが嬉しかった。私たちは大袈裟なくらいに互いの身体を強くつよく抱きしめあった。往来であろうが誰が見ていようがかまわなかった。きっと、はたから見れば私たちはようやく巡り会えた哀れな迷子に見えていただろう。
「会いたかった……
 私たちが感情を分かち合うにはその一言だけで十分だった。

 いまの杉元は記憶の中の一番瑞々しい彼の姿から比べるとずいぶん大人びて見えた。年齢や服装が彼をそう見せているわけではなく、ただ彼の表情に疲れや痛みのようなものが浮かんでいるせいだ。彼がスーツを着ている理由が、彼に何かしらの負担を敷いているのだろうか? 私には分からなかった。
「アシリパさんはこっちに住んでいるのかい? 俺は昨日東京からこっちに来たんだ。飛行機でね。ええと、俺は今実業団でアイスホッケーの選手をやってて、今日は試合前練習と本社の壮行会があって、だから札幌に来ていてそれで……、」
 杉元は仲間の集団が少しずつ遠ざかってゆくのを横目で気にしながら早口でそう言った。
「ああごめん俺ばっかり……。どうしよう、行かなきゃ、ごめんねアシリパさん、改めて連絡しても良いかい」
 私が頷くと、杉元は胸元に仕舞われていた革の名刺入れから名刺を一枚取り出した。そして自分の名や所属や会社のロゴが潰れるのも気にせず、表面に大きく携帯電話の番号をさっと書きとめ、「良かったらここに」と私にそれを握らせた。
「会えて良かったよ。ほんとうに、本当に嬉しかった。またね、また会おうね、アシリパさん……、」
 訂正する暇もなかった。彼は終始私をアシリパと呼び続けた。杉元は何度も何度も確かめるように私を振り返りながら、手を振りながら去っていった。杉元の姿が見えなくなるまで、互いに手を振り合った。いつまでも別れ難かった。時間にしてほんの数分足らずの、けれども全てを永遠に変えてしまうような勢いを伴った、嵐とも言うべき出来事だった。

 杉元と別れた後、ふと思い立つことがあって私は杉元に電話をかけるよりも先に、私は市の図書館へ赴いた。そして、司書の女性に声をかけて「杉元佐一」の名でヒットする文献を調べてもらった。どうしてこれまで一度もそれを試さなかったのか、今更不思議に思った。司書はすぐに日付が2年前のスポーツ新聞と、選手名鑑を持って閲覧室へと戻ってきた。
 新聞には杉元がアイスホッケーの選手としてプロデビューした旨を知らせる記事が写真とともに載せられており、今よりも2歳若い杉元がはにかみながらカメラの前でインタビューを受けていた。記事は、小さいながらに杉元への選手としての期待が熱意たっぷりに綴られていた。
 一方選手名鑑の方は今年の4月に発行されたもので、こちらの写真の杉元は視線がおぼろで定まらず、その代わりに固く結ばれた唇と力のこもった眉が彼を必要以上に強面に見せている。まるで何かに怒っているみたいに。
 「杉元佐一、23歳、FW、XX社所属、期待のアイスホッケープレーヤー」……。記事の一節を声に出して読み上げる。不思議な気分だった。杉元は私が生まれる10年以上も前からこの世界にいて、学校に行ったりご飯を食べたり家族と過ごしたり仕事をしたりスポーツに勤しんだりしていた。それがどうにも私の中でうまく飲み込むことができなかった。私はなんとか頭の中で、杉元の学生服姿やスポーツをする様や顔がよく似た家族と仲睦まじく過ごしている様を思い浮かべようとした。何ひとつうまくいかなかった。頭の中の杉元はこの世界のどこにもうまく馴染んでくれなかった。じゃあ私は一体誰を、この世界で探していたというのだろう。

 翌日、昼過ぎに大叔父のうちの電話機を借りて、杉元が教えてくれた番号に電話をかける。少し緊張していた。もしも杉元が慌てて書いた番号に間違いがあれば、あるいは私が一つでもボタンを押し間違えていれば、杉元には繋がらない。コールが4つ鳴った後、杉元が電話口に出る。「もしもし?」。少し不安げな声だ。見知らぬ番号からの急な連絡に、少し戸惑っているような風だった。
「もしもし、胡蝶辺と申します。杉元さんのお電話でしょうか」
 期待していたような反応でなかったことが悲しくて、私は茶化したい気持ちでわざとかしこまってそう切り出した。ひと呼吸おいて、杉元の「なあんだ」と明るく笑う声が聞こえてくる。それからすぐに「アッ、」と戸惑う声がして、杉元が慌てて私に聞き返す。
「コチョウベさん……?」
 私はそれに「うん」と返し、もう一度ゆっくりと名乗った。「胡蝶辺です。コチョウランのコチョウに、キシベのベ」と。
「じゃあ下の名前は、」
「明日子。あしたのこ、と書いて、明日子」
「そうかアスコさん…….。ごめんね、昨日、名前を間違えて呼んでしまってた」
「ううん。いいんだ、そんなこと」
 それきり、少しの間沈黙が続いた。私はなぜかその瞬間、いま電話がここで途切れてそのまま永遠に繋がらなくなるかもしれないという不安に駆られた。恐ろしくなって、すぐに「杉元?」と呼びかけると、「はい」と朗らかな声が返ってくる。
「明日子さん。あらためて、こんにちは。杉元佐一です。杉の木のスギに、元気のゲン、ニンベンに左でサ、イチは漢数字のイチです。きっと、明日子さんが覚えている名前のとおりだよ。昨日は会えて本当に嬉しかった」
「こんにちは、杉元。うん、私も嬉しかった」
 そこからまた唐突に沈黙が訪れたけれども、もう二度と先ほどの不安が蘇る事はなかった。畏まることに急に照れて思わず笑ってしまうと、電話口の向こうで杉元もそれにつられて笑った。杉元と私は手短に互いの近況を教え合う。私は主に北海道での暮らしと、学校生活のことを。杉元は自身が所属するスポーツチームでの活躍の様子を。
「もし良かったら、時々こうやって電話しあえたら嬉しいよ」
 電話を切る直前、杉元が遠慮がちにそう申し出る。私もそうしたいと伝えた。次の連絡はいつ頃にするかを決め、そして小樽の自宅の電話番号を伝えて電話を切った。会話が終わっても耳の奥にはまだ、杉元の声が響いているような気がした。名残惜しかった。杉元が気まぐれを起こしてすぐに電話をくれないかなと願ったけれど、いつまで待ってもそんなことは起こらなかった。
 私は内心、本当は電話のやりとりだけでは足りない、できれば会いたいし、一緒に過ごしたいのだと言いたかった。思い切って「また会いたい」と言えば良かったと後悔した。杉元は、私と同じように思ってくれているだろうか。


**


 私と杉元との交流が始まって数ヶ月が経った。

 私が携帯電話を持たないから、杉元はいつも私の自宅へ電話をかけてくれた。はじめのうちに杉元と私の両親が電話越しに話をし、「札幌で偶然知り合った娘さんにとてもお世話になった」と伝えたようだった。電話を掛け合う仲になったのは、その「両親への電話」をきっかけにしようということにしていた。私たちは前世で一緒だったのだ、とは口が裂けても言えなかった。そもそも言ったところで信じてもらえないだろう。両親に内緒で、杉元と二人で秘密の口裏合わせをするのは子供心にとてもわくわくした。
 杉元から私の両親への電話の後、杉元から我が家に、重ねてお礼の旨を綴った丁寧な手紙が添えられたお中元が届いた。いつの間にか私の両親と杉元は互いの住所を交換していたのだ。
 両親は「杉元佐一」の存在を知っていた。北海道ではおなじみの企業所属のプロスポーツ選手ということもあってか、ローカルニュースで何度かその活躍を目にしていたそうだ。だからか杉元と私の両親は互いに面識がないままでもすぐに打ち解けあい仲良くなった。両親から見ても、杉元は絵に描いたような好青年だった。「明日子が懐くのだから、彼はきっと悪い人じゃないんでしょう」「テレビで見た通りの人柄だった。杉元くんは良い子だねえ」というのが彼らの評価だった。
 父や母は私が一体どうして杉元と出会うに至ったのかを深く問いただそうとはしなかった。いつも電話を受けると、「杉元くんから電話だよ」と、私よりも嬉しそうな顔をして私に電話を代わってくれた。
 杉元からの電話はいつも待ち遠しかったけれど、頻度が増えることはなかった。通話時間が約束よりも伸びることもなかった。決して破られることのないルール。決められた時間、決められた頻度、友人としての節度ある距離感……。私たちは友人とはいえ10以上も年齢差があるうえ、何より私はまだ中学生だ。杉元は持てる全てで私たちに誠実であろうとした。杉元が私に対して心配していることも、取るべき振る舞いも理解できる。けれどもやはり月に数回きりの電話だけでは物足りなくてたまらなかった。だとしても、つまらないワガママを言って優しい杉元を困らせたくはなかったのだ。

……ねえ明日子さん、もうすぐ学校は夏休みだよね? 俺、いろいろあって近々北海道に行くんだ。しばらく滞在しようと思ってる。もし明日子さんさえ良ければ、一週間くらい一緒に、北海道のどこかへ旅行にでも出かけないかい?」
 そんなある日のこと。杉元から電話越しにそう切り出されたのは、互いに近況報告をし終わり、雑談をし、さあそろそろ電話を切らないとねという空気が漂い始めた時だった。なぜか私はすぐにその誘いを喜ぶことができなかった。杉元の声は明るかった。終始、会話の中で変わった様子も無かったはずだった。なのに、いま私が感じているのは大きな不安だったのだ。終わるはずがないと信じてきたものにも、終わりがあるとにわかに気がついたような。ふっと胸に冷たい何かが沸き立った正体不明の心細さはいつまでも私から離れてくれなかった。だって不思議だったのだ。どうして杉元は、急に「そんなこと」を言い出したのだろう?
「あはは……急に、変なこと言ったね。困らせてごめん明日子さん、深く考えないで断ってくれて良いんだよ?」
 杉元と旅行に出かけることはもちろん、とても嬉しい誘いだった。何も考えず手放しに喜んで誘いに飛びつくことができたら良かったのだけれど、あまりにも突拍子のない提案が私を必要以上に動揺させた。そして杉元もいま、私の動揺と沈黙を誤って受け取っていた。もはや杉元は私に早く断られたがっていた。きっといまものすごく気まずい思いで杉元は私からの返答を待っていることだろう。
 その言葉の裏に何かもっと大事なメッセージは隠されてはいないだろうか? 私は子供ながらに、杉元の言葉の裏にある種の予感めいた何かを感じ取っていた。いまこの人を、独りぼっちにさせてはいけないと思うほどの。これを断れば次はもう無い気がした。私はできるだけ大きく明るい声で杉元が身を引いてゆくその手を引き止める。だって嬉しかったのだ。それだけはなんとしても伝えなければならない。たとえ私が子どもで、それをうまく言葉にするすべを持っていなかったとしても。
「もちろん行く! 絶対に行きたい。嬉しいに決まってる。私も杉元と一緒にいたい」
……うん、うん。ありがとう明日子さん。じゃあ、まずはどこに行くか決めないとだね」