暗闇の、まどろみの中でジョンは、まぶたを緩めた。喉が張り付くほどに乾いている。いつもの値の張るだけあって柔らかな寝台で、体調は、もう長いこと悪化の一歩を辿っていた。寝ても覚めても、体の軋みが苛み続ける。老いのせい、だけではなかった。外は変わらず嵐で、荒天が唸り続けている。小さく咳込んで、より増す喉の痛みを無視して、再び眠ってしまおうと目を閉じようとした。
寝台の傍らで何かが動く気配がした。人の気配は安心どころか強い警戒にしか繋がらない。口元に添えられたコップに、怖気が走って顔を背ける。
「大丈夫だ。この水は、大丈夫なんだ。飲んでくれ」
若い男の声は、哀願を帯びていた。
こんな使用人も、身内もいない。知った声ならまだ抵抗しただろうが、知らぬ声ならもういいと、偽られてもよいと思った。喉が渇きすぎていたのかもしれない。いずれにせよ自棄にもなろう。あれを飲んでしまったのだから、遅かれ早かれ。
喉に流れた水は、滑らかで、異味も異物も感じられなかった。コップの水は飲み干してしまったのだろう。唇を離し、息をつくと、男も安堵した気配がした。
「もっと飲むか?」
首を振る。明かりはなくとも気配が伝わったのか、「わかった」と答えがあった。笑んだ気配がした。
ジョンは目を閉じたが、それは眠るためではなかった。思い出せ、こうして横になる前のことを。自分で床に入った覚えはない。記憶を手繰る。
喉。そうだ、部屋に用意されていたガラスの水指に、ここ数日は季節であるせいか桃の果肉が入っていた。いつも通り、備え付けのコップに移して飲むと、焼け付くような痛みに吐き戻した。絨毯を汚したそれは、血の赤に染まっていた。ぼたぼたと、止まらない赤が広がっていく。飲み込んでしまったあとに気付いた。古典的な暗殺手法である。油断しきっていたのは、このところ慢性的に毒を盛られ続けていたので、そちらが成るまでは手を出してこないだろうと踏んでいたのだ。
しびれを切らしたのか、別口か。
知る手立てはもうない。もう、遅い。何もかも。血を吐きながらうずくまる。思えば無駄なあがきばかりしてきた。人を呼ぼうとは思わなかった。飲んでしまっては医者を引っ張ってこようと助からないし、助けにいち早く駆けつける者は証拠隠滅のためだろう。まだ息があれば、とどめを刺すに違いない。往生際の悪いことだが、どうせ助からないのなら、そのときには、傍らには誰もいてほしくなかった。
肩を掴まれ、最期の願いさえ虚しいものだと思い知った。咳を繰り返しながら顔を上げる。ぼやける視界に若い男が映った。赤毛混じりの金の髪。鮮やかな赤瞳。下手人の一味とは思われなかった。
名前を呼ばれた。青年は、首筋に手を伸ばしてきた。一度は払い除けた手首を掴まれて、身を寄せられ、
それから後の記憶がない。
「無理に、喋らなくていいからな」
おそらく同じ人物だろう。小さく頷く。
「問題、ない」
取り敢えず声を出してみると、意外にも痛みもなく、すんなりといつも通りに喉が使えた。すぐさま血を流すほど苛まれた喉が、そんなにすぐに治るものだろうか。
「なら。話せるなら俺と話してくれ。……なあ。さっきのはさ、油断したんだろうけど。ずっと、長いこと、毒を盛られ続けているよな。気付いてたのか」
暗闇の中にさらに暗い人の形があるだけで、立ち上がった影と話しているようだ。影なら、自問自答のようなものだ。問われるままに、あまり動かない頭で、浮かぶままの答えを唇に乗せる。
「気付いてはいた」
「……なぜ」
「飢えて死ぬよりは永らえよう。食い意地が張っているのでな」
「……」
影は笑ってはくれず、表情も見えない。
始めからこうだったのではない。積極的に死を望んでいたわけでも、死が怖くないわけでもなかった。今だって。ただ、怯えすぎて疲れて、目をそらした。
「奥方や子供と一緒に住まないのは、巻き込みたくないからか」
そこまで知っているのか。
「気が、合わないだけだ」
「ほかの家族についても聞きたいな。きょうだいは?」
「男兄弟は皆死んだ。姉たちはそれぞれ嫁いでいる。もう誰もいない。甥も一人いたが、」
嫌な記憶だ。言い淀んだが、そのままにしてはくれなかった。
「死んだ?」
「私が殺した、と言ったらどうする?」
「どうもないよ。それに、そうじゃないんだろう?」
嘘までつく気力はなく、諦めて把握している事実だけを伝える。
「窓から転落して死んだ。逃げようとしたのだろう。軟禁を指示したのは私だ。私が殺したようなものだ」
「それは違うだろう! お前のせいじゃ、」
「どうでもいい。少なくとも、皆はそう思っている。遺産は私が総取りしたので」
欲しかったのか。欲しかったのだろう、降りなかったのだから。そこまでして手に入れた何もかもは、うまくいかなかった。
善良を気取る人々は甥を殺したと憎み、父や兄たちの死にも疑惑を持った。利に敏い連中はジョンの手腕に満足しなかった。いずれ虫けらみたいな連中に集られ、喰らわれ、そのうちに命運が尽きる。そのはずだった。
「男兄弟は何人いたんだ?」
影の質問は続く。
「一番上の兄は、幼くして死んだらしい。会ったことはない。実質長男の次男も甥の父である三男も若くして死んだ。……それと、いや、生まれていないものは」
「うん? 生まれなかった兄のこと、どうやって知ったんだ」
「……どう、だったか」
とぼけたわけではない。ただ、虚をつかれた。記憶を遡ると、だいぶ昔から始まった。子供の頃だ。
ジョンが母親の腹にいた時に、父が堂々と他の女を引っ張り込んだことで、父母の仲は決定的に悪化した。離婚までは至らなかったが、子供の頃は父が面倒を見ることになっていた。実質は父は仕事を優先して、田舎の別荘で使用人や家庭教師に囲まれて育てられていた。多忙な父はたまに来て、猫可愛がりをしていく。母とも縁が切れていたわけではなく、たまに誕生会などとイベントごとで兄や姉と会っていたので、同じくらいの交流だった。
別荘での生活は総じて退屈であったが、そこでだけ会える人物がいた。
もう姿も声もほとんど忘れてしまった。十歳ほど上に見えるその少年を「兄様」と呼んでいた。少年がそう呼ばせていたのだと思う。兄様は必ず一人きりの時に会えるので、誰もいない場所や時間を捻出していた。使用人には隠れ鬼が得意な坊ちゃまだと呆れられていた。
いつしか「兄様」が現れなくなった。その前に別れの挨拶のようなものをされた覚えがあるが、幼いジョンは承服しかねた。
母やきょうだいと会う時に、もう一人兄がいて、自分に隠しているのではないかと尋ねた。きょうだいたちは口々に、そんなものはいない、おばけだ、空想の兄だろうと否定した。父の私生児じゃないか、と混ぜっ返した上の兄は母親にげんこつを落とされていた。
その日、母はジョンだけを呼び、こっそりと伝えたのだった。
みんなには内緒ね。そのくらいの年の子ならきっと、あの子かもしれないわ。
生きて産まれなかった男の子に、名だけはつけていたと言う。
「母から、聞いた」
「そっか。あれでちゃんと数が合ったんだな」
「……?」
「話までして疲れただろう。ゆっくり休むんだ」
途端に、疲労が重みを伴ってのしかかってきた。
「待、て……。まだ、なにも、」
舌がもつれる。殺されかけたことは、何も解決していない。このまま眠ってしまっては、
「うん。分かってる。あとは俺に任せろ。なっ」
眠りの海に押し付けられて溺れさせられるような、ほとんど気を失うように、ジョンの意識は泡と溶けていった。
青年は暗がりの中でベッドサイドから立ち上がり、周囲を見回した。明かりは必要なく、豪奢な内装が見て取れる。外の嵐に怯える無力な部屋だ。その華美には目もくれず、ただ、床の血の跡に顔をしかめた。寝台に眠る死人のような顔色の男を見下ろし、冷え切った頬に触れ、愛おしげに小さく名を呼んだ。そして、寝具を引き剥がし、一枚のシーツだけを手繰ると、背や足の裏に腕を回し入れて、ベッドの端に少し寄せた。起きる気配はない。
背を向けて、テーブルに向かう。襟首でも掴むように水差しを持ち上げた。このまま砕けるくらいに力を込めて、ふと、やめた。これは証拠になる。倒れにくい場所に移動し、こんどこそ怒りを込めて、テーブルを蹴り倒した。
嵐の夜、何も知らない使用人は風雨の音に怯え、謀に関わるものはその成り行きを案じて眠れぬ夜を過ごしていた。
嵐に紛れ、派手に家具が転倒する音、ガラスが割れる音、さらに屋敷が軋むほどの揺れが襲った。揺れは長引きはしなかったが、ほぼすべての使用人たちが駆けつけた主の部屋は、窓が破れ雨風が吹き込み、足の折れたテーブルが倒れ伏し、床に大量の血の跡があり、そして誰もいなかった。
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