kaisou
2026-06-09 00:17:37
5834文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Avis canit et alte volat. 鳥は歌い、高く飛ぶ

1740年コンクラーヴェ話・別視点12

弦は、ローマの一室でひどく鮮やかに鳴り、彼の鳥は高く飛んだ。

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 すべての演奏が終わった後、いくつかの短い言葉が交わされた。 曲のこと。 ヴェネツィアのこと。 司祭としての、日々の務めのこと。オルシーニは必要以上にその態度を崩さない。ヴィヴァルディもまた、教皇のまとう厳格さを察してか、過度に劇場めいた振る舞いは控えていた。だが、音の中に灯っていた火の残照は、まだその貌に焼きついたままだ。

 やがて、ヴィヴァルディが退出する。一礼。遠ざかる足音。 重厚な扉が、静かに閉まる。部屋の中に、ようやく、いつもの静寂が戻り始めていた。オルシーニはしばらく黙っていた。コシアは何も言わず、少し後ろに控えていた。言葉を待つ。こういう時、先に口を開くのはよくない。やがて、教皇が低く言った。
「速い音だったね」
「はい」
 コシアは答えた。
「けれど、乱れてはいませんでした」
 オルシーニが、ほんの僅かだけこちらに視線を向けた。 ただそれだけのことで、胸の奥の暗がりに、あたたかな光が射し込むような感覚を覚えた。誰にも悟られぬよう、ひそかに、しかし深く、歓喜が胸を満たしていく。
「おまえは、そう聴いたのだね」
「はい。速さで押し流すのではなく、速さを支配しておりました」
 オルシーニは小さく頷いた。
「ならば、才なのだろう」
「才です」
 少し言い切りすぎた。だが、教皇はそれを咎めなかった。むしろ、かすかに笑ったようにも見えた。
「おまえは、才のある者を見ると少し嬉しそうになるね」
 コシアは一瞬、返答に迷った。
「そうでしょうか」
「そうだね」
「それは……聖下が、才のある者をお好みだからでしょう」
「私のせいにするのかい」
「恐れながら」
 オルシーニが、今度こそかすかに笑った。 ほんの一瞬の、短い笑み。コシアにはそれで十分だった。 その隠微な笑みを誰よりも近くに見届ける特等席に、自分はいる。そのことが、何より甘く己を痺れさせた。
「速いものは、時に人を逸らす」
 オルシーニが低く言った。
「音も、野心も」
 コシアは静かに目を伏せた。
「はい」
「しかし、支配されているうちは、美しい」
「はい」
「支配を失えば、危うい」
 その言葉は、音楽についてだった。たぶん。少なくとも、表向きには。コシアは答えた。
「肝に銘じます」
 オルシーニはそれ以上を語らず、ただ指を組み直した。コシアはその横顔を見つめた。戴冠したばかりの教皇。自分をこの距離に引き上げてくれた人。この人の傍らであれば、自分はいくらでも遠くへ行けるはずだった。
 多くのことを任される。多くのことを動かす。多くの扉が開く。その予感が、いまも耳の奥に残る疾走する弦の残響と重なって、胸の中で明るく鳴っていた。危うい、と気づくだけの理性を、まだ自分は失っていない。しかし、その危うさから離れる気など、最初からなかった。