kaisou
2026-06-09 00:17:37
5834文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Avis canit et alte volat. 鳥は歌い、高く飛ぶ

1740年コンクラーヴェ話・別視点12

弦は、ローマの一室でひどく鮮やかに鳴り、彼の鳥は高く飛んだ。

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 演奏が始まった。最初の一音が放たれた瞬間、部屋の空気がにわかに逆立った。それは、祈りの沈黙とも、典礼の重厚さとも違う。退屈な宮廷音楽が並べる、過剰な装飾の甘さでもない。圧倒的な速度。息を呑むほどの鮮やかさ、そして官能的なまでの危うさ。 奔流となって走る弦の響きは、まるで幾筋もの細い光の刃が、部屋の壁を斜めに切り裂いていくかのようだった。
 コシアは、たった数小節でその本質を見抜いた。敬虔さという衣の下で、この男は音を武器に人の感情を追い詰めていく。教皇の前であっても、ただ従順に傅くような響きではなかった。むしろ、その絶対的な存在があるからこそ、その前で火花を散らすように、全力で己のすべてを燃やし尽くそうとしていた。
 オルシーニは、静かに聴いていた。瞼をわずかに伏せ気味にし、胸の前で深く手を組んでいる。一見すれば敬虔な祈りを捧げているかのようにも見えた。だが、コシアには分かった。

 聴いている。

 この老教皇は、いま、激流のような旋律のすべてを、一音たりとも逃さずその身に刻み込んでいるのだと。ただの儀礼として耳を傾けているのではない。この人は本当に聴いている。旋律がどれほど苛烈に速度を上げようとも、教皇の厳格な貌は微塵も崩れない。しかし、組まれた指先だけが、ごくわずかに、刻まれるリズムに追従して動いた。 コシアはそれを見逃さなかった。その小さな動きだけで、オルシーニが大いに満足したことを確信する。
 オルシーニは、この不遜な音を嫌っていない。よかった、と思った。いや、よかったというより、面白い。厳格なドミニコ会士の魂を持つ教皇が、赤毛のヴェネツィア司祭の弦に、ほんのわずかに指先で反応している。そのことが分かると、コシアはほんの少し安堵した。
 この場は成功する。 教皇がこの音楽をどう扱うか。周囲がその華やかさをどこまで許すか。そして、その場にいる自分を誰がどう見るか。それらはすべて、後で政治的な意味を持つ。 宮廷とはそういう場所だ。至高の美しささえ、ただ美しいだけで終わることは絶対にない。この世は、時に妙な配置をするものだ。

 ヴィヴァルディの音は生き物のように奔り、止まり、また跳ねた。鳥のように、あるいは風のように。だがそれは、冬の暗雲を鋭く切り裂いていく風だった。
  コシアは、自身の胸がにわかに速くなっているのを悟った。嫌な速さではない。 こういう音楽は危ない。人に、まだ何かが始まるのだという錯覚を植え付けてしまう。
 オルシーニは戴冠したばかりだった。新しい治世。恩寵。扉。敵。失敗の可能性。それら全部が、この速い弦の中で一瞬だけ輝いて見えた。何より、自分はまだ若かった。これからさらに上へ、いくらでも登り詰められると疑いもなく信じていた。 オルシーニに見出され、近くに置かれ、全幅の信頼を注がれて大任を課されている事実は、時に甘やかな酔いとなって脳を痺れさせる。だが、この旋律はその酔いを責めなかった。むしろ煽るように、熱情をさらに高まる。 お前はまだ行ける、とでも言うように、音の奔流が背中を激しく駆り立てていた。

 ヴィヴァルディの弓も跳ねる。音は急に明るくなった。庭の鳥のようでもあり、雨のあとの石畳に反射する光のようでもヴィヴァルディは深く礼をした。その赤毛が灯りを受けて、わずかに燃えるように見えた。
「聖下のお耳にかなうなら、これ以上の栄誉はございません」
 コシアは心の中で思った。お耳にかなう、か。うまいことを言う。だが、実際、その通りだった。教皇の耳に届く音には、ただ美しいだけでは足りない。美しすぎてもいけない。軽すぎてもいけない。重すぎれば祈りの邪魔になる。ヴィヴァルディの音は、その境を乱暴に越えそうでいて、最後には不思議と踏みとどまっていた。

——危うい。だが、才がある。

 コシアは、そこにも少し親しみを覚えた。そしてこの男は、今日のことを忘れないだろう。新教皇の前で弾いた。呼ばれ、聴かれ、美しいと言われた。それは、音楽家にとって名誉であり、司祭にとっても誇りだろう。だが、それ以上に。この場にいた者たちも、きっと忘れない。新しい教皇が、戴冠してまもないこの時期に、ヴィヴァルディの音楽を聴き、美しいと言ったことを。そういう小さな記憶が、宮廷ではあとで思わぬ形で生きる。
 コシアは一歩前へ出た。必要以上に目立たぬように。教皇の言葉を次の礼へつなぐために、ちょうどよい位置へ。
「聖下の御前にふさわしい音でございました」
 そう言うと、彼が一瞬こちらを見た。鋭い目だった。音楽家の目というより、舞台の空気を読む者の目だった。この男も、人を見ている。コシアはそう感じた。ヴィヴァルディは丁寧に答えた。
「お聞き届けいただけたなら、望外のことにございます」
 上手い返しだった。教皇ではなく、まずコシアへ返す。しかし言葉の重みは教皇へ向けている。この男、ただ音を操るだけではない。 コシアは、ふと自嘲気味に笑いたくなった。やはり厄介だ。ひどく厄介な男だ。

——そして、決して嫌いではない。

 その時、オルシーニが穏やかに声をかけた。
「司祭よ、あなたの音には、鳥がいる」
 ヴィヴァルディの顔に、にわかに歓喜の光が宿った。
「聖下。その鳥が御前を羽ばたくことをお許しいただけましたなら、神に仕える身として、これに勝る祝福はございません」
 鳥。コシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。

 鳥か。

 たしかに、あの音は飛んでいた。ヴェネツィアの鳥が、今日は教皇の部屋を飛んだ。その事実だけで、この場にはもうひとつ小さな物語が生まれた。あとで誰かが言うだろう。戴冠したばかりの教皇は、赤毛の司祭を御前に呼び、その音楽を聴かれた。そして、美しいと仰せになった。その時、側にはコシアもいた、と。その最後の一文がつくかどうかで、話の色は少し変わる。コシアは、それも分かっていた。だから、前に出すぎない。しかし、消えもしない。それが今の自分の位置だった。

 ヴィヴァルディは再び楽器を構えた。二曲目が始まる。今度の音は、先ほどより少し柔らかい。弓が歌うように動く。強い技巧の奥に、どこか人の声めいたものがある。教皇の前だからか、それともこの司祭の音が本来そうなのか、コシアには分からなかった。ただ、分かることが一つある。
 オルシーニは、今この音を喜んでいる。ならば、この時間は守る価値がある。宮廷の者たちが何を読み、誰がどう噂し、どこでどのように利用されるとしても。今この瞬間だけは、教皇が音楽を聴いている。

 それだけでよい。

 コシアは、少しだけ視線を落とした。自分の手には、まだ何も握られていない。だが、すでに多くのものがこの手を経て動き始めている。いずれ、そのことが自分を焼くかもしれない。そんな予感が、まったくなかったわけではない。けれど今は、弓が走る。教皇の前で音を放つ。オルシーニはそれを聴いている。コシアは、その少し後ろに立っている。その配置だけが、今はすべてだった。
 曲が終わる少し前、ヴィヴァルディの音が一瞬だけ高く跳ねた。鳥が天井の見えないところまで飛び上がるような音だった。オルシーニの目が、ほんのわずかに細められる。コシアはそれを見た。そして、誰にも気づかれないほど小さく、息を吐いた。