kaisou
2026-06-09 00:17:37
5834文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Avis canit et alte volat. 鳥は歌い、高く飛ぶ

1740年コンクラーヴェ話・別視点12

弦は、ローマの一室でひどく鮮やかに鳴り、彼の鳥は高く飛んだ。

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。

 赤毛の司祭が来る、と聞いた。

 その言い方だけで、ニコロ・コシアは誰のことか察した。

 ヴェネツィアの司祭。音楽家。名は、アントニオ・ヴィヴァルディ。
 噂はすでにローマにも届いていた。速い曲を書き、弦を狂おしく走らせる。誰よりも劇場という魔窟を知り尽くしている。

——聖職者の衣をまとっていながら、その身からはどうしようもなく、きらびやかな舞台の匂いが立ち上る。

 コシアはそういう人間を嫌いではなかった。神への奉仕と、人に見せる術。祈りと技巧。信仰と拍手。
 そして、危うい者というのは、たいてい酷く面白い。 新たに戴冠した教皇ベネディクト十三世、すなわちオルシーニがその日、聴くことになっていたのも、そうした危うい響きだった。

 御前演奏。
 教皇の御前に捧げられる演奏である。言葉にすれば大仰だが、部屋そのものは過度に華やかではなかった。オルシーニは豪奢を好む人ではない。厳格で、修道者の気配をどこか残している。教皇になってもその気質は消えない。だが、教皇の周りには、教皇の意志だけでは済まないものが集まる。

 人、視線、儀礼、期待。誰が近くに立つか。誰が一歩後ろへ下がるか。

 コシアは、その心理的な距離をよく知っていた。そして今日、己が占めるべき位置をも弁えている。
 近すぎず、遠すぎず。教皇のいかなる徴しにも即応できる距離。周囲の視線を過不足なく撥ね返せる距離。それでいて決して、教皇の威光を遮らぬ場所。その極限のバランスの上に、彼は平然と身を置いていた。

 ヴィヴァルディは、伝え聞く悪名に反して、思っていたよりも小柄に見えた。 部屋に足を踏み入れた瞬間、まだ何も奏でていないはずの空気が、まるで弦を刻むように震えだした。赤みを帯びた髪。めまぐるしく動く、鋭い視線。礼をしながらも、その指先はすでに目に見えぬ鍵盤や弦を叩いているかのようで、頭の中ではすでに常人には追いつけぬ速度の旋律が鳴り響いている——そんな熱狂的なリズムに心身ごと乗っ取られているのが一目でわかった。コシアは、その顔を見て少しだけ笑いそうになった。なるほど。この男は、沈黙の中でも騒がしい。
 彼は深く礼をした。オルシーニは穏やかに頷いた。
「遠いところを」
 教皇の声は柔らかかった。ヴィヴァルディは慎重に答えた。
「聖下の御前にて奏でる栄誉を賜り、恐れ入ります」
 言葉は整っている。しかし、視線はもう、目の前の至高の存在をすり抜け、音を刻むためだけの楽器を捉えている。
 音楽家だ、とコシアは思った。聖職者であるよりも音楽家なのだ、この男は。どんな権威を突きつけられようとも、口を動かすより先に、魂がすでに奏ではじめている。