ドル閣下
2026-06-05 20:23:26
18320文字
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きっと君を照らす泡影(かけら)

野薔薇が渋谷で退場してから最終決戦に戻って来るまでの間に、どこかも分からぬ不思議な場所で出会う人々。野薔薇の体験と感情を通し、傷ついた仲間たちと触れ合いを深めていく追想記。誰かの記憶の中に漂う欠片があるだけで、人には生きた価値がある。原作軸完結後if。オールキャラ。
出演…釘崎野薔薇、虎杖悠仁、伏黒恵、七海建人、五条悟、脹相


四、 最後の授業


 虎杖、とうずくまるように丸めた背中に声をかけた。

 東京でも初夏が近づくと、むせ返るような緑の息吹が空気の中に立ち込める。一斉に活動を始めた生き物たちの気配が、天地に満ち始めている。高専も郊外にあるとはいえ、一歩外に出れば車や電車が始終行き交い、せっかくの自然の息遣いも忙しい日常に埋もれてしまう。それでも、木々が新たに枝葉を伸ばし始めるこの季節は、私の塞がれた左側の視界にも、光の暖かさが入り込んでくる。まだ生きる力を持っていていい、と思わせてくれるようだ。

「こんなところにいたのね」

 薨星宮の残骸に捨て置かれた岩の欠片に腰掛け、虎杖は片膝を抱え込んでいた。声をかけると顔だけこちらへ向けて、釘崎、と呟く。力のない声だ。物思いを邪魔されたくなかったという感情が少しはみ出している。世界はこんなに光に満ちているのに。

「俺に何か用? やることは済ませてあると思うけど」
「そうね。アンタらしくもないわ、やるべきことが全て済んでるなんて。用意周到すぎる」

 ひっでぇ言い方、と口の端を歪めるように持ち上げた彼の顔は、まるで自嘲のような表情を浮かべていた。大き過ぎると言ってよいほどの目も、今は眩しそうに瞼を半分近く下げている。色の薄い虹彩が太陽に反射して、いつもより淡い色の琥珀を覗かせていた。

「そりゃ俺だって少しは大人になりますよ、もう二年なわけだし」
「それで一人静かに物思いに沈んでるんだ。クラスメイトが試験勉強で右往左往してるっていうのにさ。それも大人だから?」
「まぁ、そうね」

 ぽつぽつとまるで続かない会話をしながらじっと座ったまま、大して興味もなさげに自分の爪のささくれか何かを撫でている。できれば邪魔せず、そっとしておいてほしいという空気が彼の全身から立ち上っていたが、それには気付かないふりをして、虎杖の隣にさっさと腰を下ろした。

「大人、ねぇ」
……何だよ」
「アンタ、早く大人にならなくちゃいけないとか考えてるでしょ」
……何、いきなり説教かよ」
「違うわよ。虎杖に説教したところで私に何のメリットもないし」
「そりゃそうだ、はは……

 虎杖の水気のない笑い声が、薨星宮の陥没跡に反響する。

「私さ、死んでる時にいろいろ考えて、」

 言いかけると、虎杖がぎょっとした顔でこちらを見る。久しぶりに彼の素の表情を見た、と思った。

「死んでる時って。やめてよ」
「じゃあ、寝てる時、でもいいわよ」

 虎杖の瞳が蝋燭の炎のように細かく揺れていた。思った以上に彼を動揺させてしまったようだ。本人が平気なのに、繊細なやつめ。にしても、今のはちょっと無神経すぎたかもしれない。

「とにかく、その、寝てる時にずっと夢みたいなものを見てた」
「夢、みたいなもの?」
「夢だった、と言ってしまうのは簡単だけど、私はそこに本当に立っていたと思えるのよ」
「それは何、いわゆるあの世との境界線とか。賽の河原的な、」
「私もそうかなと思ったんだけど、違うわね。むしろ、自分自身で自分の意識の中に深く潜って行ったような気分」
「どういうこと? まさか自分の魂の形でも見て来た?」

 冗談のつもりで言ったのだろうが、はっとした。そういうことだったのかもしれない。あれが自分の魂の形なのだとすれば、私は子どもの頃からさほど成長していないということになる。少し苦々しい。

「気付いたら、自分の生まれ育った土地にいた。そういう時って、懐かしい、帰りたい場所に立っているものだと思ったけど、私のいちばん嫌いな場所だったわよ」
「田舎はイヤっていうのは知ってたけど……そうなんだ」
「アンタには分からないだろうけど、あんな古い因習に塗れたデリカシーのない土地は二度とごめんだわ」
「俺んとこだって、そこそこ田舎な部分もあると思うんだけど」
「仙台は大都会でしょ、田舎ナメんな」

 改めて言葉にすると、自分で自分の瘡蓋かさぶたを剥がしているような気分になる。はい、すいません、と虎杖は首をすくめている。

「私は小学生に戻っていて、着ている物も靴もランドセルも当時のままだった」 
「小ガキ生の釘崎? へぇ、ちょっと見てみたい。ぜってぇ生意気そうだよな」
「絶対は余計よ。おしゃまなレディくらい言いなさいよ。で、周りに誰もいなくて一人ぼっちでうろうろしていたら、最初に七海さんが歩いて来て、次に五条先生が空から降りて会いに来た」

 不意打ちを喰らったように、えっ、と虎杖が息を呑んだ。

「七海さんは、私がそこにいたいのならいなさいと言っていたわ。でも戻りたければ強く念じろって」
「そうナナミンは釘崎を起こしてくれたのかな」
「そうかもね。でも七海さんは他にやることがあったのか、すぐにどこかへ行ってしまったわ。アンタをもっと気遣ってやれって」
……

 虎杖は言葉をしまい込んでしまった。七海さんと虎杖の最後のやり取りで何があったかは詳しく知らない。けれどもこの短い伝言の中に、虎杖だけが分かる特別な意味があったのかもしれない。私はこれ以上、七海さんについて語る言葉を持っていなかった。

「五条先生は、私の知らない戦闘服みたいな上下を着て、空から降りてきた。いつもの目隠しはしてなかった。白髪と青い目が輝いていて、ちょっとカッコよかったわね」

 虎杖はしばらく黙ったまま、目の前の大穴が空いた地面を見ている。

……私はさ、ギリギリまで見栄を張りたいタイプだから。例えば自分がどうしようもなく寂しい時でも、自分の弱さを認めたくなくて意地を張って強がったり、同情されるのが悔しいから突っ張ったり、親しい人たちが心配しないように我慢したり、」
……うん」
「いつもその繰り返しで生きてる」
「うん」
「先生がね、言ってた。それでいいって。意地を張りたい時は張れ、痩せ我慢して格好付けてもいいって」

 そう、と虎杖が小さな声で答える。

「けれども、寂しい時に寂しい、悲しい時に悲しいと言えるのが大人になることだって。自分の抱いた感情が正しいかどうかはともかく、そういう感情を持った自分を許せるようになる。そういうことを伝えてくれたんじゃないかって思う」

 先生の真剣で美しい横顔を思い出した。この世の光を一身に集めながらも、あれほど孤高な人に、この先も出会うことがあるだろうか。二人とも並んだまま、午後の木漏れ日が地面に作る丸い影をただ眺めていた。

「先生は、自分で自分を許せなかったんかな」
「さぁ、どうだろう。後悔、かどうかは分からないけれど、先生は辛さを自分自身の強さに昇華できなかったって言ってた」
……難しくて分かんねぇ」
「いいんじゃない、今はそれで。私だって言葉だけじゃよく分からないわよ。ただ、忘れちゃいけないと思った。ずっと忘れずにいて、先生からの宿題だと思えば」
「そか、宿題……

 理解できなくても、覚えていさえすればいつか分かる時が来る。死に際の私に、先生は何かの真実を孕んだ言葉を伝えてくれたのだ、と私は信じている。

「そういうわけだから。アンタが黄昏てたらせいぜい発破をかけてやれと言われたわ。アンタの調子が戻ってこないと、私たちだってバカできないじゃない」
「先生が、そんなことを、」
「君たちは大丈夫、なんて自信満々だったけれど、先生はさ、やっぱり心配なんじゃない、アンタのこと。私たちのこと」

 釘崎はいいよな、と少し明るさの戻った顔で、虎杖は伸びをした。俺にも会いに来てくんねぇかな。

「アンタも一度死んでみれば来てくれるかもね」
「え、俺もう二度も死んでるんですケド……
「そうだったわ。忘れてた。でもその代わりに私が寝てた間、ずっと先生と過ごせたじゃない。羨ましがるのは私の方」

 少しでも軽口が出てくるようになって、ようやくホッとする。

「ありがとうな、釘崎。俺さ、お前が戻って来てくれて、伏黒も帰ってきてくれて、本当に安心したんだ。でもそれとは別に、親しかった人たち、心許した人たちが次々にいなくなって、体に開いた穴が塞がる前にどんどん大きくなっていって」
「うん」
「今頃になって、何も手につかなくなったり、呆然とすることが多くなって」

 考えてみれば、あの酷い闘いが終結した後、彼とこんな話をすることはなかった。心身の傷さえ癒す間もなく、私たちは任務や後片付けに追われる日々が続いていた。忙しさを言い訳にして、心に蓋をしたまま無理やり日常に戻ろうとしていただけなのかもしれない。虎杖が抱え切れなくなるのも無理はない。

「ちょっと手が空くと、いろいろ考えて怖くなったりもする。今のこの生活が本当は夢の中なんじゃないかと思ったり」
「アンタはここにいるし、私もちゃんと実在してるわよ」

 と言いながら、虎杖の頬を軽く叩いた。

「でも、これが夢だとしても別にいいじゃない。私がこうしてそばにいてやるから」
「あんがとね。釘崎がそばにいてくれるだけで、だいぶ頼もしいよ」

 虎杖は茶化さずに素直に礼を言ったりする。こっちが照れるじゃない。ふと何かを思い出したように、ふふふ、と虎杖は小さく笑う。

「俺の兄貴もさ、そうやってそばにいてくれたんだ。ただ黙って隣にいてくれただけ。何か喜ばせるようなことをしたり、おいしいものを探してくれなくても、誰かが俺のことを見てくれていると思うだけで……不思議なんだけど、まぁ幸せだったよな」

 虎杖の視線は前を向いているのに、その目は遥か彼方を懐かしんでいるように、焦点を遠くに合わせていた。
 虎杖に突然兄弟が現れた顛末については、こちらが聞かなくても皆が話してくれた。特級呪物の呪胎九相図と、こともあろうに虎杖が呪術的に血縁を持っていたという。そして、兄という人は虎杖を宿儺から守って命を落としたことも。私にとっては二重の意味で、にわかには信じられない、いや信じたくない話だった。仇敵が兄弟だったなんて、どちらにとっても地獄のどん底ではないか。
 かつて虎杖と私は、八十八橋で呪胎九相図の兄弟たちと闘った。たとえ半人半呪霊の受肉体という存在であっても、あの兄弟は互いを思いやり、庇い合っていたのがよく分かった。弟を助けようとして、兄の方が術式を解いたからこそ、私たちはかろうじて命を拾ったのだ。
 もっと注意深く呪力の流れを観察していれば、あの二人が呪霊ではなく、人間の肉体を持っていることに気付けたかもしれなかった。しかし、私たちは生き残るのに必死で、結局は犠牲者を出すことになった。あの事件は、宿儺との熾烈な闘いに比べれば、世界の片隅の小さな生存競争に過ぎないだろう。が、共犯となった私と虎杖の心の奥には、今も重く大きく沈み込む石のように、闘いの光景が静かに埋まっている。私たちにとっては、あの事件こそが全ての始まりだったのだ。
 九相図の兄という人は、なぜ仇でもあるはずの弟を、命と引き換えにしてまで守ることができたのだろうか。

「虎杖のお兄さんって、どんな人だった」
「え、俺の兄貴? 言葉で説明するのが難しいな、似てるところはあんまりないし……長身でがっしりしてて、表情は意外とくるくる変わるんだよね。普段は割と穏やかな顔してんのに、闘う時はすっげぇ怖い顔すんの。声も迫力のド低音で、しかも音量がデカい」

 虎杖が明るい表情で、楽しく語っているように見える。アンタ、お兄さんのこと大好きなんじゃない。

「どんな人っていうのは、そういうことじゃなくて、もっとさ……

 突然、ある顔と姿を思い出した。そうだ、あれは誰だったんだろうとずっと考えていたのに。知らない人だったせいか、いつの間にか記憶の奥底にしまい込んでしまったらしい。

「ねぇ、虎杖」

 急に言葉を途切らせた私を、怪訝そうな顔で虎杖が覗き込んだ。

「なに、どうした」
「長い黒髪を頭の上で結んでいて、鼻に紋様が横切ってる男の人、あれはアンタの兄貴なの?」
  
 虎杖は口を開けたまま、しばらく固まって身じろぎもしなかった。お前が知っているはずがない、という顔だった。ややあって、ゆっくりと用心深く、自分を落ち着かせるように言葉を紡いだ。

「どうして知ってんの……あ、誰かに聞いたとか」
「そうじゃない。私、お兄さんに会ってるのよ。あれはお兄さんだと思う」