ドル閣下
2026-06-05 20:23:26
18320文字
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きっと君を照らす泡影(かけら)

野薔薇が渋谷で退場してから最終決戦に戻って来るまでの間に、どこかも分からぬ不思議な場所で出会う人々。野薔薇の体験と感情を通し、傷ついた仲間たちと触れ合いを深めていく追想記。誰かの記憶の中に漂う欠片があるだけで、人には生きた価値がある。原作軸完結後if。オールキャラ。
出演…釘崎野薔薇、虎杖悠仁、伏黒恵、七海建人、五条悟、脹相

一、 寄り道する魂


 空の色はまるで紙に覆われたように、芝居じみた白さで塗り潰されていた。視線の届く限り、どこまでも均一な白い天が伸びている。しばらく仰ぎ見てから周囲を眺めると、そこは広めの農道だった。左右には、少し強くなりかけた太陽の矢を反射して、水面が輝きながら揺れている。水田だ。稲の苗が明るい緑の頭を伸ばして、水の上に点々と繋がっている。苗の育ち方からして、田植えからいくらも経っていない。おそらく晩春の五月下旬あたりだろう。苗の育ち方か。自分はどうやらそういうことが分かるらしい。
 昔から見覚えがある風景、いや、自分は今もここに住んでいるのではなかったか。強烈な既視感と同時に、今まで見たこともない場所だとも感じた。かすかに混乱する。目で捉えているもの、田圃、稲、畦道、止まっている軽トラ、宙高く円を描いて啼く鳥、そういうものはよく知っている。が、ここには頬に触れる風がない。空気が全く動いていなかった。そういえば、暖かいのか寒いのかもよく分からない。この季節特有の柔らかな陽射しは、その手のひらで体を外側から包み込んではくれなかった。
 これは現実ではないのだろうか。どこまでも続く広大な田畑と、遠くに広がる山々の峰姿。それらは確かにそこにあるのに、まるで鍵のかかった空間に閉じ込められているような、漠然とした不安があった。
 ふと自分の手に目を落とす。ああ、そうだ。私の手はこうだった。色白の肌は昔からちょっとした自慢でもあったが、子ども時代の白さを改めて目にすると、我ながら驚く。暗くなるまで外で遊んで日焼けしていたはずなのに、手首の内側の抜けるような白さに目が釘付けになる。
 いつも通学に着ている臙脂えんじ色のジャージ。左袖の手首のところにかぎ裂きができて、臙脂の細い糸がほつれ、白い手首の内側で跳ねている。いつ引っ掛けたのか、もう覚えてもいないくらいには放ったらかしのままだ。家族に直してもらおうにも、母は自分を置いて出奔し、時々申し訳のようにハガキを寄越す。その程度にしか関わりがない。淋しいも悲しいもなかった。共に暮らしている祖母は、何やら表立って言えない仕事で忙しそうだが、それ以上に針と糸を持つ姿が全く想像できない。そうだ、祖母は跋除の仕事をしていたんだっけ。
 そんなろくでもない環境だから、自分で何とかするしかなかった。だが、裁縫はどうにも苦手だった。家庭科で習った並縫いですら、極端に粗く歪んだ縫い目になり、クラスの男子たちの揶揄いの的として格好の餌食になったくらいだ。他の同級生は母や祖母にきれいに直してもらっているのに、と初めて自分が惨めだと思った。
 自分が惨めであると感じることは、何よりも自分にとって惨めだった。そんなことは許せなかった。結局一年近くかぎ裂きを放置し、裂け目がいよいよ五センチに達したかというところで、見るに見かねた同級生のふみが『いいから脱いで』と半ば強引にジャージを剥ぎ取った。そして、放課後の校庭のベンチで縫い合わせてくれた。
 ふみは器用で、手芸が得意だった。よく手作りのバッグやシュシュを身に付けていて、新作を見せてもらうのも密かな楽しみだった。余り布や端切れを上手く見つけてアレンジし、色彩を駆使したさまざまな世界をふみの手は生み出した。甘い砂糖菓子のような可愛い小物から、彩りを抑えた大人っぽいアクセサリーまで、自由自在に生み出す魔法の手だった。子ども心にも、ふみの飛び抜けたデザイン感覚の良さに、目を瞠っていたものだ。
 だから、常に一緒にいたふみが、私のかぎ裂きに気付かない訳がないのだ。が、彼女はそれには一言も触れず、いつものように自分と遊び、話をしていた。私から何かを具体的に打ち明けたわけではないが、ふみは私の寂しさを知っていた。強がりも知っていた。だからこそ、私がいよいよ耐えかねて泣き言を言い出すまでは、そっとしておいてくれたのだと思う。私のなけなしの自尊心を守るために。
 何事も勢いで突き進む自分が、少し引っ込み思案で大人しいふみのエンジン代わりになって牽引しなくてはいけない、と気負っていた。本当はふみが私の粗雑な部分を縫い直しながら、軌道修正してくれていたのかもしれない。田舎の因習だらけの村で、あの家は特別だから、と囁かれながら、曲がりなりにも真っ当に生きてこられたのは、正しくふみの存在あってこそなのだ。
 彼女に直してもらったはずの左袖が、真新しいかぎ裂きのまま手首を擦っている。それならここにいるのは、もっと前の自分か。隣にはふみがいなかった。
 これは夢だと思いながら見ている夢だとしても、ずいぶんと意外なことは起きるものだ。物語の主導権を自分自身で握れないのは、どうにも歯痒い。長く伸びた農道の先から、近づいてくる人の容貌かおかたちがだんだんと明確に実体を伴ってくる。長身の……男性のようだ。足の長さに見惚れながらも、どこかで見たはずの輪郭を帯びた姿態だった。細身なのに剛健な印象を与える肩の上に、バランスよく小さい頭が乗っている。よく見ると、金褐色のような不思議な髪色をしている。外国の人だろうか。いや、自分は確かに見たことがある。その人の上品な砂色の上着の裾が、無いはずの風にひるがえって揺れていた。いつの間にか、隣に来たその人は言った。

「釘崎さん。私が分かりますか」

 低いが落ち着いた響きのある声だ。途端に記憶が巻き戻されるように、頭の中に目の眩むような一つの場面が流れ込む。一級術師の持つ、まるで次元の違う動き、華麗とさえ言える腕の流れ、足の運びを見せてくれた人だ。彼が身に付けていた特殊な眼鏡は、今は外してあった。初めて彼の瞳を拝んだが、彫りの深い切れ長の瞳の中に、翡翠のような淡い碧が刻まれている。美しい色だ。Bunkamuraで別れてから、彼は無事に渋谷駅に向かっただろうか。

「七海さん、ですよね」

 彼の戦闘は、まるで芸術のように鮮やかで、冷血のように怜悧で容赦ないものだった。本物の強さとはこういうことか、と一瞬背筋を寒くしたことを覚えている。

「七海さん、なぜここに、渋谷は今どうなって、」
……釘崎さん。私はもう渋谷には戻れません。実は戻りたいのはやまやまなのですが、戻るすべがなくなってしまった」

 彼の整った鼻筋が少し俯き、形の良い唇が歪む。何だろう、静かな覚悟のような、それでいて諦めに似た声音が混じったような気がした。七海さんは呪霊の攻撃に遭って、ここまで飛ばされてしまったのだろうか。それなら自分もそうなのか。

「あなたはどうしたいですか。ここでしばらく疲れた体を休ませたいのか、それともあの地獄の底にもう一度降り立ちたいのか」
「でも、七海さんほどの強い術師が渋谷から飛ばされてしまったのに、私程度の力で戻れるものなんでしょうか」

 七海さんは切れ長の瞳を押し上げるように目を見開いて、私を真っ直ぐ見る。

「私は普段はこういうことを言わないのですが……戻りたいと思っているなら、戻ろうと強く願ってください。たとえ戻った場所が悲惨であろうとも。そこがあなたのいるべき場所なのだと思います」

 謎かけのような問答だ、と思った。あるいは私は精神攻撃の類を受けている真っ最中で、本当はここではないどこか別の場所にいるのか。七海さんから『幻惑されるな』と諭されているのかもしれない。とにかく、自分で何とかしない限り、状況は何も動かないらしい。私が頭の中の考えを必死に巡らせている様子を見て、彼は少し微笑んだようだった。

「気を付けて。そして無理のない範囲で、虎杖君のことも気遣ってやってください。彼はことさら大変な目に遭っているので」

 虎杖。そうだった。アイツをどこかに置いて来たような気がする。引き攣った泣きそうな表情をしていたのを覚えているが、なぜアイツがそんな顔をしていたんだっけ。
 ともかく、こんなに強くて頼り甲斐があって、大人としての自尊心も持っている最高の術師が、誰かへの思いやりを私に語っている。こういうのに私は弱いのだ。ふと我に返って、あなたは大丈夫ですか、と声をかけようとしたが、七海さんの姿は一陣の風のように消え、もうどこにも見えなかった。
 七海さんはまるで、虎杖のことを私に頼みに来たかのようだった。