望月 鏡翠
2026-05-21 20:15:50
28762文字
Public 庭師は何を口遊む 霊山班
 

交番勤務比叡巡査

#庭師何を口遊む_霊山班/ネタバレなし


 ――XX付近で強盗致傷発生。被疑者一名逃走中。南進。刃物様所持。応援願う。
「わかるか?」
「隣接エリアですね。南進したのであれば、こちらの轄内に入ります」
 頭の中に地図を描く。犯人が直進してくるとは限らないが、刃物を所持しているのなら、無視はできない。
 霊山に視線をやる。本来、この状況であれば上官にどう動くべきか指示を仰ぐべきだ。しかし、着任したばかりでこのあたりの地の利が全くなく、どうやら方向音痴の男にその指示を正しくできるだろうか。
「お前に委ねる。好きにやってみろ」
……知りませんよ」
 階級がある職において、責任を追うのは上司である霊山だ。
『野兎町2、応援向かいます』
 無線に呼びかける。いいと言われたのなら、好きに動くまでだ。
「申し訳ありませんが、僕についてきていただきます」
 比叡は走り出した。無線には逃げ出した犯人の情報が入ってくる。
 ――黒のパーカーに黒ズボン。身長一七〇センチ前後。
 今までは強盗だったが、無線は強盗致傷と言っていた。ついに一線を越えてしまったのだ。現場から走って逃走したことを考えると、犯人は余裕をなくしている。
 向こうから野兎町駅前方面にくるなら、必ず一度渡る道がある。住宅街を横切る新道。直線で見通しもいい。どの道を使ってくるのかはわからないが、脇道にはいったところで、一度はここを通るはずだ。
「ひとまず、ここを見張りましょう」
 停車している車は、宅配業者と訪問介護、あとはバイクの配達員。不審な人物はいない。二十分ほどその辺りを巡回したが、平和な日常そのものがある。
 もっと現場近くに向かって、指示を仰ぐべきだろうか。だが犯人確保の報はまだ入ってきていない。ゆっくり歩いても隣の交番まで十五分もあれば到着する。
 強盗が発覚してから連絡が入るまでの距離。連絡を受けてからここにくるまでの距離。
 犯人が真っ直ぐ走って逃げたとしたら、ここはもう通り過ぎてどこかに逃げ去っているか、潜伏したのか。
 犯人は車両で逃げたという推測が正しいなら、仲間と合流しているのかもしれない。
 だが、主要道路は別の人間がもう押さえている。
「一度、駅まで戻ってもいいですか」
 駅前の自分達の交番まで戻る。
 命令系統を無視した動きだが、霊山は黙って比叡のあとをついてくる。道がわからないから唯唯諾諾としているわけではないようで、死角をフォローする位置で周囲を油断なく警戒し、片手は警棒をすぐに抜ける位置に構えていた。
 駅前交番には巡回中の札が入り口に掛かっている。
 無線を受けて応援に出たのだろう。駅前には大抵交番があるものだ。もし逃走中の犯罪者なら、もっとも避けるべき場所ではある。
 本来は夜に混雑する繁華街ということもあり、今の時間は静かだ。
 比叡は視線を上にやった。
 店舗の入り口のような民間が設置したものも含めて、防犯カメラが多い場所だ。酔っ払いが店頭に置いてあったものを破壊した、というトラブルも多いからどこも必ず不在の時間帯の監視をする設備はつけている。もし、犯人が防犯カメラの場所を把握しているのなら、駅前のメインストリートを迂回してくるのではないだろうか。
 脇道に入った比叡は、足音を聞いた。
 息を切らしながら、男が走ってくる。
 顔は隠していないし、手には何も持っていない。しかし身長と服装は一致している。何より、この静かな街で必死に走ってくる用事があるだろうか。
「すみません。少しお話しよろしいですか」
 比叡は片手をあげて、男に呼びかけた。
 男は、顔を顰めて一瞬足を止めかけ、ちらりと後ろを振り返ってから、何かを覚悟したように足を早めた。
 その表情を見て、確信を得た。
 霊山に視線をやる。
『野兎町駅前。被疑者らしき男を視認』
 彼の声が無線越しに届く。
 上司から取り押さえの許可は出たと思っていい。
「止まってください」
 状況は十分に、彼が犯人だと告げている。走って逃走している男。しかしこちらが警察という立場である以上、相手が武器を持っていそうで危ないからといって突然警棒で殴りつけていいわけではない。
 手を広げて制止しながら、男の進路を塞ぐ位置に立つ。
 細い道だ。二人いれば十分に道を塞ぐことはできる。相手が強行策に出たら、そのときに取り押さえればいい。おそらく、男はそのまま押し通るつもりだ。
 両手に何も持っていないことを確かめる。このまま足を止めさせて、職務質問。その間に応援の刑事を待つ。
 と考えていた比叡は、胸ぐらを掴まれた。
「え」
「クソが!」
 男の罵声。
 踏ん張ろうとする前に、腹の下に肘が当たり胸ぐらを引く手と合わせて重心が崩される。気がついたときには、体が宙に浮いていた。景色が反転し、体に染みついた動きで咄嗟に受け身を取ったが、ぶつかった先は地面ではなく壁で、体重のかかった足首に痛みが走る。
 体が重力に従って地面に落ち、咄嗟に頭を庇う。
 その隣に、比叡を投げ飛ばした男の体が倒れてきた。
 霊山が男の背を膝で押さえ、後ろ手に手錠をかけていた。
『被疑者確保』
 無線に告げたあと、その目が地面にひっくり返っている比叡の方に向く。
「大丈夫か、明治」
「なんとか」
 犯人を取り押さえている霊山に手を貸してもらうわけにもいかず、比叡は自力で立ち上がった。体重をかけると足首にビキと軋むような痛みが走り、片足立ちになる。
 簡単に男の所持品を確認したが、取り押さえた男はほとんど何も所持をしていなかった。
 財布に入っていた免許証で、名前が確認できる。大型免許まで取得している。しかし車の鍵は持っておらず、ポケットの中に入っているのは煙草の箱だけだ。
 凶器も、盗んだ物品も入っていない。
 財布の中に入っているのは一万円と少しの現金である。
 五分もしないうちに刑事たちが駆けつけてきて、比叡は負傷した気まずさを隠すように、その場から後ずさってあとを霊山に任せた。
 被疑者が確保されたのなら、あとは捜査一課の刑事たちの仕事である。これで、事件は交番の手を離れる。
 できることはなさそうだと判断し、比叡はあとを霊山に任せて、交番に戻った。幸い場所が近いから、痛めた足でも労せずに戻ることができた。
 霊山が口頭で説明しているだろうが、初動捜査の報告書は早急に上げなければあとの仕事が閊える。保冷剤をつかんできて、足首を冷やしながらパソコンに向かっていると、霊山よりも先に佐合が戻ってきた。
「よ、比叡。投げられたんだって?」
「なんで知ってるんですか」
「そりゃお前、現場検証だよ。事実はちゃんと確認しないとな」
 都合の悪い話ばかりが迅速に広がっていく。この調子だと交番のメンバー全員に知られていそうだ。
「報告書に放り投げられましたって書いといた方がいいでしょうか」
「やめとけよ。鍛え直せって怒鳴られるぜ」
 佐合はウインクをする。からかっているようだが、薬局の袋を押し付けてきて、中には会計シールが付いたばかりの湿布が入っていた。
「ありがとうございます」
 少し捻った足首は、今は痛むが、長引くような怪我ではなさそうだ。
「警邏変わってやるから在所にしろよ。下手に動かしたら悪化するだろ」
……いいんですか」
「いいって。困ったときは、お互い様ってことで」
 勤務の時間割を入れ替えると、佐合はまた交番を出て行った。
 佐合が交番を出てから三十分ほど経って、霊山も交番に戻ってきた。
 これで警部補は、初めて自分の職場に入ったことになる。勤務スケジュールもそこで初めて目にしたことだろう。ここは今から彼の交番なのだから変更もできるが、現場が混乱しないように一応はもう今日の時間割は前任が決めていた。
 佐合とは現場でもう顔を合わせたのかもしれないが、他の三人はまだ外に出ている。事件が起こったからといって、地域の治安維持業務を放棄していいわけではない。運が悪いと、顔を合わせるのは退勤直前になるかもしれない。
 比叡はそこで、新しい上司の名前がどんな字で書くのか、初めて確認した。
 霊山 獄。
 正しく読めるかはさておき、変換はしやすい。
「明治、足を引きずっていたな。歩けるか?」
「少し冷やして様子を見ます。現場判断で警邏を佐合巡査長と交代してもらいました。事後報告で失礼します」
「ああ、その件は構わない」
 比叡は管財品の数世代前のノートパソコンを、霊山の方に押しやる。
「ひとまずさっきの件の報告書です。補足があれば教えてください」
「もう、書いたのか」
「早い方がいいんでしょう」
 すぐに立ち上がれなかったので、上官に対して席を譲れなかったが、霊山は気にした風もなく目を通した。
「本当にこの報告でいいんだな」
 初対面だ。その念押しの真意は察しかねる。
「指摘がある場合は具体的かつ簡潔にお願いします。霊山警部補はいずれ本庁に戻られるのでしょう。これを受け取る立場として、記述に過不足がないか、指摘してくれないと困ります」
 いささか棘のある言葉を受け止めた霊山の態度は、やはり余裕のある微笑みでしかなかった。
「いや、報告内容に不備はない。これで提出しておいてくれ。それが済んだら、病院に行ってこい」
「そんな大した怪我では、ないと思いますが」
 病院で診てもらったところで湿布薬を処方されて、終わりなのではないだろうか。
 あまり大袈裟にして警察署内に知られたくないというのが、比叡の本音だった。
「捕まえた男、何も持っていなかっただろう」
「そうですね」
 盗んだものは、仲間に渡したのかどこかに隠したのか。現在進行形で、操作している最中だろう。
「だから、診断書をもらってこい」
「ああ……
 霊山の言わんとすることが、ようやくわかった。
「つまり、公務執行妨害――僕に怪我をさせたという事実を確定させて、被疑者を取調室に押し込みたいんですね」
「そういうことだ」
 それは現時点、犯人を起訴するに足る証拠は不足しているということでもある。
 強盗の現場から走り去った男がいた。少し離れた場所で同じような服装で走ってきた男を捕まえた。警察官を振り切って逃げようとした。状況としては疑いようもなく、彼が犯人だ。
 しかし犯行時、男は顔を隠していた。同一人物と確定できるわけであない。
 指紋は見つかっていない。凶器も見つかっていない。盗んだ物品も所持していない。
 現状では、物証に欠けるのだ。
 自白が得られれば良し。取調官も無能ではない。全力で仕事を成してくれるだろう。しかし、被疑者が囀らなければ、たまたまものすごく急いでいただけの通りすがりだという言い逃れもできてしまう。
 そんなわけはない。
 だが弁護士はその筋で攻めてくるだろうし、検察側も証拠の弱さは指摘してくるだろう。日本の司法は疑わしきは無罪の立場を取る。有罪が取りにくければ、検察も起訴を渋る。
 弁護士から起訴前勾留二十日間さえ耐えれば無罪を取れると、余計な入れ知恵をされれば完全沈黙を通すかもしれない。
「話を通しやすいから警察病院に行ってこい。それが終わったら、悪いが現場に戻ってくれ。直接被疑者と対峙したお前の話も聞きたいそうだ」
「わかりました」
 松葉杖を渡されて現場に戻るのは、屈辱的ではあったのだが、被疑者を抑えること以上に重要な事柄ではなかった。