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花筵シヂマ
2026-05-09 22:45:21
22352文字
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玲瓏の花籠(序章~2話まで 秋ごろ 書籍になる予定)
後転男体化なので前は女の子のミズキが出てきますが、転生しておとこになり、例の村で父と再会します
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若旦那へ配膳していたものは誰だか知らないまま、ネコ姉さんに台所から持ってきた膳を渡された。
相変わらず誰ともすれ違わず、霧が立ち込める廊下を二人で並んで歩く。いつもは軽口をたたくネコ姉さんは今日は口を閉ざしていた。
「大丈夫でしょうか。行って忘れたと言われることは」
ネコ姉さんが快活に笑うのを待っていたが、返ってきたのは不安げな声だけだった。
「
……
そんなことはないと思うけどね
……
アタシもあの子が何を考えてるかは分からないんだ」
ふと、ネコ姉さんの娘を思い出す。同い年くらいに見えたがあの子は親しくないのだろうか。
「ネコ姉さんの娘さんと若旦那様は同い年ぐらいなんですか?」
「えっ、いやだ、坊ちゃんはとうに成人しているよ」
ネコ姉さんは驚いたとばかりに大げさに反り返る。その様子からも嘘を言っているようには思えない。
「ネコ姉さんと同い年
……
とか?」
「さすがにそれはないね。アタシは旦那様ぐらいさ」
そういわれると、ネコ姉さんと旦那様は同い年ぐらいに見える。しかしならばどうして若旦那は年相応ではないのだ。
「ならどうして、その
……
見た目が
……
」
まるで子供のままなのだろう。
ネコ姉さんの足が自然と止まる。通り過ぎようとした傍らに、紫色の御簾が視界に入ってきた。
この屋敷に来た時と同じく、風もないのに揺れている。
部屋の中から微かに白檀の香りが漂い、まるでミズキを誘っているようだった。
「アタシは中に入れない。お呼びなのはアンタだ」
ネコ姉さんに背中を押され、御簾が眼前に迫ってくる。顔を背けて一歩踏み出せば、ミズキのからだは部屋の中へと入っていた。
振り向けば背後に紫の御簾があり、ネコ姉さんの姿は見えない。
「来たか」
部屋の中は薄暗いが、部屋の四隅に置かれた燭台が橙色の淡い光を放っていた。
正面には真四角の御帳台が置かれ、それを捲り上げて少年が顔を出していた。相変わらず煙管を吸っている。
「お待たせいたしました」
少年の前に膳を置けば、なぜかミズキの手元と膳を交互に見ている。
「なぜミズキの分がない」
「一緒には召し上がりませんよ、お立場が違いますし」
「持ってこい。お前の分も」
「そう言われましても
……
」
主人と下僕が食事を共にするなど聞いたことがない。武家でもそんなことはしないだろう。
しかし若旦那は気に食わないのか腕を組み、顎でせっつくように御簾の方を指す。
「お許しください。そのようなことをすれば俺の立場がありません」
「ならミズキが食え。元より腹は空かぬ」
その場に横向きになり、少年は肘をついて煙管を咥える。
「そんな
……
」
ミズキも飯炊きの手伝いをしたこともあるため、食事を準備する大変さは良く分かっている。
白米を研いで炊くのも、野菜を煮込むのも、卵を焼くのも手間がかかる。
郷里の母もそうやって朝早くから火を起こしていた。
「そもそも、我ら妖怪は食事などいらぬ。父が人の真似事に道楽でしているようなもの」
ミズキはそろりと手を伸ばして箸を握りしめた。口元へ丁寧に運び、器に粒ひとつ残さないようにした。
若旦那はそんなミズキの様子を観察していた。何を考えているのかわからないが、少年の赤い片目が逸らされることはない。
この少年はミズキよりも遥かに年上。
その事実が未だに信じられない。だが今日までの若旦那の言動を思い返すと納得もいく。
母を恋しがるようなことを言いながら、達観した物言いをする。
まるで誰にも何も期待していないように。
箸を止めてあの人形を胸元から取り出した。これだけは若旦那にとって心底大事そうだったからだ。
「若旦那様。こちら、直りましたのでお返しいたします」
ネコ姉さんに見繕ってもらった真新しい縹色の着流しを着せられた人形を差し出せば、若旦那は跳ねるように身を起こした。
「随分と見事な腕前じゃ」
若旦那も気に入ったのか人形の顔を撫でながら満足そうに言う。
その横顔を見ていると、思い浮かんだ提案をしてみたくなった。
「ご提案ですが、例のおんなの人形
……
俺が作りましょうか」
若旦那は一瞬顔を顰めたが、すぐに口角をあげる。
「儂はもうあの人形の見目も思い出せん。最後に見たのがミズキなら、作ってみて欲しい。お主の腕前は確かなようじゃ」
この少年の孤独が癒されるなら、人形くらい安いものだ。
ミズキは二つ返事で受け入れ、早速部屋に戻ったら型を作らねばと思っていた。
それからミズキの仕事は一つ増えた。掃除と、若旦那への配膳、そして人形作りだ。
如何せん、記憶は古く、一度しか見ていない。味気ないてるてる坊主のような見た目なら、いっそひな人形ようにしてあげたほうがいいのではないか。
ネコ姉さんにそういえば、山の下へ買い出しにいく妖怪に頼んで人形を一体買ってきてくれた。
記憶通り、赤い着物を作り、帯を巻いて黒い髪を櫛で梳いた。艶々とした黒い髪を見ていると、自然と自分の髪を思い出した。
肩まで長く伸びていた黒髪を切り落としてしまったのは、今思うと勿体ないかもしれない。
しかし憂いても髪が戻ってくるわけではない。
「あ、そうだ」
ネコ姉さんがくれた箪笥から、家から持ってきた赤い紐を取り出した。黒い髪をその紐で縛る。
ミズキがここへ来た折も、この紐で髪を束ねていたものだ。
「俺の代わりにつけておくれ」
微笑を浮かべた人形が、ほんの少し笑みを濃くした気がした。
早速、出来上がった人形を桐の箱に詰めて食事とともに配膳することにした。
紫の御簾の前まで来ると、見慣れないおとこが立っているのが見えた。頭に三本の毛を生やしたおとこは小姓なのか、股引姿に手拭いを頭に巻いて御簾のなかを覗いている。
「誰だ」
わざとほんの少し声を低くして声をかけた。
びくりとおとこは飛び上がり、そのスイカの種のように長い顔をつるりと撫でた。
「げげっ! あんたは人間の!」
「見かけない顔だな。ここは若旦那様の部屋だが」
おとこはミズキの顔を上から下まで見、首を傾げている。
「おかしいな。おんなが来たと聞いていたが、おとこ?」
「誰の命令でここにきたんだ」
「誰って、旦那様だよ。そろそろ、若旦那におんなを紹介しろって言われたんでね」
下品なおとこの眼差しがミズキのからだを撫でたような気がした。
「若旦那様はまだ子供だ。そんなものに興味はない」
しかしおとこは、今度は勝ち誇ったように胸を張る。
「あれは若旦那様の術だ。若旦那様はとっくに成人しておられる。もうおんなも抱けるさ」
——
おんなを、抱く。
思い出すのは、叔父が人形との交わりを見せてくれた過去だった。
ミズキのなかに言いようも知れぬ嫌悪感が駆け巡る。
「
……
気味が悪いことをいうな。汚らわしい!」
おとこを突き飛ばそうとすると、紫の御簾がさっと捲りあがった。
御簾の中から伸びた手がミズキの肩を抱き、無礼なおとこを突き飛ばした。
小柄なこどもではない、おとこの骨ばった掌だ。見上げれば白く長い髪を持つ赤い目のおとこが、水木を守るように抱いている。
その眼差しには覚えがあった。
「若旦那様
……
?」
ミズキの問いには答えず、不機嫌に眉を寄せた若旦那はおとこを睨んでいる。
「ネズミ男め。品のない話をするな。父には興味がないと言え」
若旦那はそう吐き捨てると、ぐいぐいとミズキの腕を引いて御簾のなかに押し込めた。
おかげでもうあの忌々しいおとこは見なくて済んだ。
いつもより部屋は明るく、若旦那が窓を開けているのだと気づいた。縹色の着流しを着た若旦那は、ミズキの手からお膳を奪った。
「驚かぬのか
……
こんな見目になって」
怯えた子犬のような上目遣いで聞かれ、つい吹き出しそうになる。
見目は大人でも中身はまだ幼い、やはりいつもの若旦那だ。
「ネコ姉さんには聞いていたので。あ、こちらどうぞ」
桐の箱を差し出し、中の人形を見せる。緋色の着物を纏ったおんなの人形を、穴が開くほど見つめている。
そして若旦那は恭しい手つきで人形を取り出し、黒い髪を優しく梳いた。
「ああ
……
こんな髪であった。
……
出会った頃のミズキの髪と似ておるな」
若旦那は窓際に座っていた自分の人形の隣に、おんなの人形を置いた。やっとあるべき形に戻ったようだ。
若旦那は長い髪を耳にかけながらいつも通り、煙管に火をつけようとしている。
「若旦那様は
……
なぜ子供のお姿に?」
口にしてしまい、聞いてはいけないのだと思い出した。慌てて口を閉ざすが、若旦那は気にもせずに煙管を吸っている。
「煩わしいからじゃ。大人の姿であると婚姻を急かされる。子供のほうが楽じゃ。しかしそれも妖力を酷く消耗する。疲れるからこの部屋だけ、元の姿でおるだけ」
煙を天井に吐き出す若旦那様の横顔はとても疲れて見えた。
「若旦那様は、この屋敷から出られはしないのですか?
……
もし出られるのであれば、そのような真似は必要ないのでは?」
若旦那は、急に肩を揺さぶって笑い出した。馬鹿にしているようなものではなく、呆れたような、そんな笑い方だった。
「儂はこの山から降りられぬ。ネコ女から聞いておるじゃろう、儂の一族はもうこの世に少ない。子孫を残すために儂はここで子を作らねばならぬ。木偶の坊なのじゃよ」
「そんな
……
」
酷い話だ。
望んでもいない相手とあの汚らしい行為をしなければならない。それのなんと辛いことだろう。
若旦那は優しい手つきで人形たちを撫でている。もしかすると人形は彼の希望なのかもしれない。自分の未来が他にもあるのではないかと思える、逃げ道なのだ。
まるで叔父の話に、ありもしない旅の思い出を重ねていたかつての自分のように。
「俺も、似たようなものです。山から降りることはできない。ここにいても山にいても同じことでした。でも旅の話を聞くたび、俺は旅をした気分になれました」
振り向いた若旦那に、ミズキは身振り手振りで叔父の旅の話を聞かせた。
霧がかかったこの屋敷の空も、日が傾くと空は茜に染まり、やがて漆黒に染まっていく。いつもは廊下で日の傾きに気づくが今日はそうもいかなかった。
部屋のなかも次第に薄暗くなってきたが、ミズキは話をやめず、若旦那も楽しげに聞いていた。
燭台の蝋燭の灯りがより一層明々として見て、やっとミズキは話しすぎたことに気づいた。
「あっ、夕餉を用意しなくては!」
ミズキは急いで立ち上がり、一礼すると若旦那が御簾をめくってくれた。
「また話をしておくれ。儂の知らぬ外の世界の話を」
打ち捨てられた子犬のように縋るような眼差しに、ミズキは何度も頷いた。それぐらいお安いご用だった。
それからミズキが若旦那の部屋に長居する時間が増えた。ネコ姉さんはとても心配していたが、若旦那に乱暴をされることはないと伝えると半信半疑ながら見守ってくれるようになった。
若旦那の部屋は夏の庭に彩られた場所にある。
蝉の鳴き声や夏の瑞々しい花を見ながら配膳するたびに、なぜこの庭を選んだのか疑問が浮かんだ。
さほど気の使う関係ではなくなったので、配膳する折に思い切って若旦那に聞いてみた。若旦那は素麺をすすりながら、何でもないように答えた。
「好きな季節なだけじゃ。それよりミズキよ、その若旦那という他人行儀な呼び名はやめよ」
ミズキも箸を止めた。
そうは言われても、若旦那の名を知らない。
落とした視線の先に、黒塗りのお膳に乗る豪華な料理が目に入った。白い生糸のような素麺と黄金のような色のかぼちゃの煮物、剥きたての西瓜の赤い果肉、白い鞠のような麩が浮いたすまし汁。
山小屋で食べていた、麦飯と漬物の食事よりもはるかに豪華だった。
いまや、ミズキは若旦那に言われてから食事も共に食べるようになった。最初は差のある料理だったが、若旦那が他の女中に言ったようでいつの間にか同じ献立が並ぶ。
見合う身分ではない扱いをされている。
その上、名を呼ぶなど、不相応すぎるのではないか。
ミズキが閉口していると何を考えたのか、若旦那は眦を下げた。最初に出会った折とは違う、生温い心地になるような笑みだ。
「儂に名はない。ミズキがつけてくれ。好きに呼んでくれて良いぞ」
そんな適当に決められない。しかし悲しいかな、ミズキは名付けの経験はない。悩みながら浮かぶのは、この部屋の前で見た不躾なおとこの「ゲゲ!」という言葉だった。
「
……
ゲゲ
…
郎、とか? なんて」
茶化すように言ってみた。流石にそれはないだろうと、若旦那が一笑するのを待っていた。
しかし若旦那は顎の下をつるりと撫で、何でもないように「それは良いな」と答えた。
「適当に申し上げただけですよ!」
「ふむ、じゃがそれで良い。ミズキだけに呼ぶことを許そう」
若旦那は決めたことを譲らない性格だ。
ミズキがもうここに来て何日が経過したかはわからないが、だいたいの若旦那の性格はわかってきた。
「若旦那さ
……
ゲゲ郎」
そう呼べば、ゲゲ郎となったおとこは満足そうに頷いた。
何度も名を口にするうち、この奇妙な名はミズキの舌にすっかり馴染んでしまった。
ゲゲ郎はミズキと共にいる時だけ大人の姿になっていた。ミズキが旦那様を苦手だと伝えたせいか、よく似た顔を隠すように髪を伸ばして肩で束ねてくれた。それだけで雰囲気は大きく異なる。
ゲゲ郎と連れ添って行動することが増えても、屋敷の他の妖怪と会うことはなかった。それなのにネコ姉さんの耳にはミズキの行動はくまなく入っているようだ。
夕暮れに部屋に戻ると見計らったようにネコ姉さんとその娘が隣の部屋から顔を出した。周囲を俊敏に見渡し、ミズキの肩を掴んで「嫌なことはされなかったかい!」と顔を覗き込んでくるのだ。
最初のうちは当然、ミズキも警戒していた。
しかし日を重ねるにつれ、特段変わったこともなく警戒心は溶けていった。
むしろ、ゲゲ郎から仕事は良いから相手をしろと言われるのだ。そのうち、ミズキはゲゲ郎の世話だけを任されるようになった。
そんなミズキは他の妖怪から疎まれていたが、ネコ姉さんだけはミズキを我が子のように心配してくれるのだ。
今日もミズキが帰るなりネコ姉さんたちが顔を出して、ミズキの様子を確認する。当たり前になりつつある日常が心地よかった。
「いえ。特には! 昨日は春の庭を共に見に行きましたよ。ゲゲ郎はタラの芽を食べたいと言ってたので明日、摘んでこようかと」
夕食はネコ姉さんの部屋で食べるのが日課だ。
ミズキが部屋に入るなりネコ姉さんはテキパキとお膳を並べる。
「そうかい
……
本当に坊ちゃんは丸くなったね。
……
でもあの色魔の旦那様がどう思うか」
ネコ姉さんはお茶を注ぎながら、俯いた。
旦那様の顔は随分みていない。部屋すら知らないくらいだ。その旦那様も当然、ゲゲ郎の変化に気づいているはずだ。
「坊ちゃんに番を見つけたと聞いた。望もうが望むまいが、坊ちゃんにおんなを押し付けるだろうね
……
」
ゲゲ郎はきっと激怒し、拒むだろう。分かりきってるが、ミズキにできることはない。
ネコ姉さんから湯呑みを受けとり、唇をつけた。ほろ苦いほうじ茶の味が今日はやけに口の中に残っていた。
ネコ姉さんの予想は、あっけなく当たった。
いつものようにゲゲ郎の部屋に行く前に洗濯籠を抱いて庭先に出ようとした。つま先に草履を引っ掛けると、背中を軽く叩かれた。ゲゲ郎ではない。本能的にそう感じていた。
からだに力が入り、身動きが取れなくなった。
そんなミズキに気をよくしたのか、手の主はミズキの頸をするりと撫でた。全身に鳥肌が立ち、思わず手を払いのけた。
「やめろ
……
!」
手の主は、 驚くどころか楽しそうに笑っている。
黒い着流しにゲゲ郎と同じ顔の、ゲゲ郎の父だ。
「随分と倅と仲が良いじゃないか」
撫でられた頸が、まだ皮膚が泡立っている。手のひらで庇うように押さえながら旦那様を睨みつけた。
「
……
何の御用ですか」
「素っ気ないな、倅とは楽しく過ごしていると聞くのに」
旦那様は廊下に落ちていた落ち葉を拾い、くるりと回した。すると葉は忽ち駒に変化して、旦那様の手の甲で回転し始めた。
この廊下は秋の庭に面している。まだ朝早いせいだろう、廊下には落ち葉がところどころ落ちていた。
「
……
聞こえませんでしたか。御用がなければ俺は仕事に戻りますよ」
吐き捨てるように言ってさっさと下駄を履いて庭に出てしまう。そうすれば追ってこないと思ったのだ。しかし旦那様は去ることなく、縁側に胡座をかいて座っている。居座るつもりらしい。嫌悪感から顔が自然と歪んでしまった。
なるべく存在を感じないようにしよう。洗濯物を広げ、ぱんと鳴らす。立てかけられた物干し竿を雑巾で丁寧に拭いて洗濯を引っ掛けた。
次の洗濯物を取ろうとしゃがんだ瞬間だった。
「今日はお前はきっと暇になる。
……
倅におんなを送った」
心臓を冷たい手で鷲掴みされたように張り裂けそうな痛みが走る。なんだこの痛みは。味わったことがないその痛みは、心臓からやがて全身のちからを奪っていく。
ーーゲゲ郎におんなを送り込んだ? なぜ? 何のために?
その場に膝をついてしまい、立つ力が出ない。
ゲゲ郎がおんななど抱くはずがない。
そう思うのに、確信できない。
横目で旦那様の様子を見ると涼しい笑みを浮かべている。
ゲゲ郎と同じ顔で言われると妙に説得力があるからかもしれない。
ミズキに触れる白い指が、知らぬおんな妖怪に触れている。そう考えると、途端に脳内で例の人形が蠢き出す。
女の人形を追い回し抱きついていた男の人形。それが脳に過ぎるだけで胸の奥で耐えていた嫌悪感が再びせり上がってくる。
「暇ができたら儂のところに来るが良い。何、見目は同じこと」
いつの間にか旦那様が傍に座り、ミズキの肩に触れようと手を伸ばしてきた。
振り払いたいのに力が出ない。
強く目を閉じて己の身を抱きしめた。
それでも震えは止まらない。
誰か。誰か来て欲しい。そう思っても頭の中は真っ白に染まり誰の名前も浮かばない。
「ミズキに触るな」
嗅ぎ慣れた白檀の匂いが傍らで強く香る。
肩を抱かれる体温も声も、不快感はないものだ。
その腕の主が誰かわかった瞬間にミズキの片目から耐えきれなかった涙が溢れた。
ゲゲ郎がミズキを背に隠して旦那様の前に立っていた。その顔は怒りに満ちている。
「おやおや、おんなは置いてきたのか」
「儂はあんなもの要らぬ」
旦那様は手の甲の駒を払い落としたかと思うと、その手に扇を握っていた。駒が化けたようにも見えたが人間の目でとらえることはできなかった。
ゲゲ郎がミズキを銀杏の木の下に押しやるのと、旦那様が扇でゲゲ郎を叩くのはほとんど同時だった。
背中に硬い木がぶつかり、一瞬、息が出来なくなった。
ミズキがむせ込んでいるうちに、ゲゲ郎は旦那様の胸倉を掴んでいた。
止めなければ。
さっきまで足に入らなかった力が今は嘘のように沸き出てくる。ゲゲ郎へと伸ばした手は届くことなく空を切った。
ずしり、とミズキのからだが急に重くなったのだ。
「な、ごほっ
……
」
深い水底に、急に引きずり込まれたように息ができない。
喉を押さえる自分の手も着物も、全身がぐっしょりと濡れていた。
水の中にいるように視界が歪み、酸素が不足している。見悶えながら地面に倒れてしまった。
苦しい、息ができない。
ゲゲ郎たちを止めなければと思うのにからだの自由が利かない。
ゲゲ郎だろうか、肩を掴んで必死に揺さぶってくれている。しかしその声も水の膜が張ったように聞こえない。
冷たい何かが胸元に入り込み、胸を押しつぶすサラシを引きちぎった。酸素が一気に肺に入り込み、咳き込みながらようやく息ができた。
「はあっ、はあっ!」
「ミズキ! 大丈夫か、しっかりせい!」
青い顔でミズキを覗き込むゲゲ郎の手には、ずぶ濡れになったあの女の人形があった。
水の膜が張ったように見づらい視界は徐々に霧が晴れるように元通りになっていく。
「あ、
……
なにが
……
」
「父がこの人形を泉に捨てたのじゃ
……
そうしたら急に、ミズキが
……
」
ゲゲ郎の大きな片目から溢れた涙が頬を伝って落ちていく。細い輪郭を透明な液体がなぞる様が、美しい。
ミズキの濡れた髪をかき上げ、ゲゲ郎が何かを呟いた。それを聞き取れないまま、ミズキの意識は深く溶けて消えていった。
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