mishiadd
2026-05-04 13:10:25
11447文字
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いおりひとり旅・日本紀行:宮本伊織の歴史ミステリー・吾嬬はや

【現パロ】記憶はないけど『倭建命』に縁がある一般大学生の宮本伊織さんがヤマトタケルゆかりの地を一人旅するGWノルマ【その他】
次作『いおりひとり旅・日本紀行:光芒射す』:https://privatter.me/page/6a098213a9ba4


四、

早朝に目覚めて、チェックアウト前にまだ行っていなかった内風呂に浸かった。昨日に続いての快晴で、柔らかな朝の陽の光が擦りガラス越しに射し込んできている。
ちゃぽちゃぽと水面の音を鳴らしながら、両手に掬った湯の硫黄の匂いをなんとなく嗅ぐ。――昨日見た雲海のことを、思い出していた。



――海のように見えない、と。



伊織は、そんなことは思わなかった。雲海というものを目にするのは初めてではなかったが、この地で目にする雲海――に、胸を打たれた感覚は確かにあった。
あれを目にして嘆いたというヤマトタケルの慟哭は、決して大袈裟なものではなかっただろうと思った。……ただ、ふと思った。






オトタチバナヒメが沈んだ海の色は、果たして白かったのだろうか?






暴風に荒れ狂った海を鎮めるため、ヤマトタケルの最愛の妻は海に入った。オトタチバナヒメが沈んだ海は、ただちに鎮まったのだという。――であるならば。

オトタチバナヒメが沈んでいる海は、荒れた白い泡の色をしていなかったのではないか










チェックアウトを済ませた頃になって、急に空が暗くなってきていた。他のチェックアウト客と共に市営バスに乗り込み、窓際に座って外を見る。まるで一昨日のように、急速に濃霧が立ち籠め始めていた。
駅に着く頃には大雨だろうか――と、手に持った傘に目を遣る。それと同時に、さああああ、と雨が降り始めて窓ガラスを叩いた。

最後の最後でまた大雨か、と伊織は思う。――そしてまた、オトタチバナヒメの沈んだ海のことを考えていた。

荒れた海を船で渡り、それが叶わずに妻がその身を捧げるに至ったヤマトタケル。彼がその時目にした海は、眼下に広がる海ではない
最愛の妻が彼のために彼の目の前で身を捧げ、水面に沈んでいく。――それは、彼の足元で起こったことだ。海は、彼の目の高さに近い位置に広がっていた

船の上に取り残されたヤマトタケルの目の前で、見る間に海は鎮まっていく。――後には、凪いだ大海原が広がっている。



晴天の蒼穹を反射したような、蒼い蒼い海が



――その時、伊織の視界が蒼く開けた。

空を覆っていた暗雲が割れ、その狭間から眩いような太陽と、青空が覗いていた。ガラス窓の外に立ち籠めていた濃霧が、眩いような日光と抜けるような蒼穹の青さに照らされていく。
明るい日の光は濃霧の中を乱反射し――あるいはそれは、青空が青空である原理と同じ現象であるのかもしれなかった。



――世界が、透き通るような青色に染まった。



青空と霧との区別も最早つかない。あるいはそれは、乱反射する青空の色を濃霧が映し出しているに過ぎなかったのかもしれなかった。
窓の外は一面が眩いような青に染まり、雲の狭間から射し込む日光はきらきらと木々にまとわりついた水滴を輝かせていた。――こぽこぽと、水の泡の弾けるような音が、伊織の耳元に響いた。

呆然としたままに、窓の外を見、バスの中を見渡す。すべてが青色に染まり、青の中に沈んでいる。――あるいはそれは、まるで水の中にいるような錯覚を呼び起こさせた。

凪いだ海の中に、水面から真っすぐに届く青い光。深い、深い、こぽこぽと、水面へと昇っていく水の泡を見上げながら、木々の、海藻の揺らめく海の底に――我が妻よそこに居るのか、と。

伊織が窓の外を見る。こぽこぽと、水音が耳元で鳴っている。――青く染まった木々の向こうに、山々の稜線と、谷間が見える。






――蒼く染まった雲海が見える






それは、ほんの数十秒の出来事に過ぎなかったのかもしれなかった。
雲は完全に割れ、快晴となった青空には力強い太陽が輝いている。もはや、あの透き通るように降り注ぐ青い光はどこにもなかった。

伊織は、ただ黙って窓の外を見ていた。何食わぬ顔をした市営バスは、何も知らない顔をしたまま曲がりくねった山道を下っていく。やがて、山を出て麓の街と交わる最後の信号で止まる。

伊織は、静かに窓の外を眺めていた。ぽろりと、口にしていた。

おまえが見たのはあれか

はっとして、ぱしんと片手で口を塞いだ。とんでもない不敬を働いたと思った。再びバスが動き出す。






――よく来たな、と、耳元で聞こえた。









宮本伊織の歴史ミステリー・吾嬬はや・了