mishiadd
2026-05-04 13:10:25
11447文字
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いおりひとり旅・日本紀行:宮本伊織の歴史ミステリー・吾嬬はや

【現パロ】記憶はないけど『倭建命』に縁がある一般大学生の宮本伊織さんがヤマトタケルゆかりの地を一人旅するGWノルマ【その他】
次作『いおりひとり旅・日本紀行:光芒射す』:https://privatter.me/page/6a098213a9ba4


三、

翌朝、カーテンを開けっ放しにしていた窓から射し込む日の光で目が覚めた。ん、とわずかに眉間に皴を寄せながら布団から身を起こすと、窓の外は快晴だった。

昨日は濃霧に覆われてぼんやりとしか捉えられなかった山々の形や色味も、眩いような青空の下でくっきりと際立って見えている。湯気の立っている山肌を染め上げている硫黄のポップな色味も映えて見えた。

頭を掻きながら時計を見ると、朝の八時をやや回っていた。今から出れば正午前にはU峠に着くだろうかというところだった。

食堂で配ってくれていたおむすびを貰い、昨日乗ってきた市営バスに再び乗り込む。同じ山道を下りながら、窓の外を見遣る。――昨日と違い、すっきりと晴れ渡っていた。細長く立ち並んだ木々の向こうに、山々の稜線と谷間が見える。空高く昇った太陽に照らされて、木々が煌々と輝いて見える。濃霧の気配は既にどこにもなく、昨日は霧に覆われて底が見えなかった谷間も、ずっと深くまで続いているのを初めて目にすることができた。

「このまま雨が続くのならば行かない」と伊織が思ったので、嘘のように晴れた。……それがからの返答なのだろうと思い、であるならばこうなってしまった以上は何が何でも行かなければならなくなったな――と伊織は軽く肩を竦めた。晴れたからには、そこにヤマトタケルが伊織に見せたいものがきっとある筈だということが、逆説的に確定してしまったのだ。







駅で降りると、昨日に比べれば随分と人の出が多くなっていた。だがそれも、U峠へと向かう方向へ向かうにつれ、人影がまばらになっていく。
Googleマップを開いて目的地をセットする。早速歩き出そうとしたところで、「あの」と若い男女に声を掛けられた。

「妙なこと訊いてすみません。……あたし達、U峠までタクシーで相乗りしてくれる人を探してるんですけど」
「さっきから適当に旅行者っぽい人に声掛け続けてるんですけど、誰もU峠行かなくて。人気ないんすかね?」

タクシーを捕まえて、伊織が助手席に乗り込みカップルが後部座席に乗り込んだ。三十分は声を掛け続けていたという男女が、小さな声で「もうどうなるかと思ったよ」とひそひそと小声で喜んでいるのを背後に聞きながら、伊織が運転手に行先を伝える。

「ああ、U峠ね」とすぐに心得た様子の運転手はしかし、車を走らせながら言った。

「ああでもお客さんたち、ちょっと遅かったかもしれないね。昨日は大雨だったから、もうちょい早ければ雲海が見られたかもしれんのだが」
「やっぱりですか。頑張って早起きしようと思ったんですけど、寝過ごしちゃって」
「俺は朝方四時頃に一回目を覚ましたんですけど、その時まだ雨降ってたからもう今日はダメかなって諦めちゃって」
「え、なんだ起きてたのォ」

「起こしてよぉ」と女の方が不満げな声を上げる。ハハハ、と笑った運転手が「まあ、車だと十五分くらいだからね、行ってみるだけ行ってみたら」と気楽に言った。
それで思い出したように、男の方がやや身を乗り出して言った。

「いやでも、お兄さんがU峠行く人でよかった。……てか、もし俺たちが声掛けてなかったら、お兄さんあのままどうするつもりだったんすか?」

今更徒歩で行くつもりだったとも言い出しづらくなってしまった伊織が曖昧に微笑んでいるうちに、「ほら、着いたよ」と降ろされる。

神社となっている境内を抜け、切り立った崖になっているあたりへと進んでいく。そこに、『倭建命ゆかりの地』と書かれている古い看板が立っているのを見つける。



――「吾妻はや」と嘆いたと、ある。



「え、嘘、うわ」と、共に歩いてきたカップルの女が息を呑むのを聞き、伊織がそちらに目を遣る。見晴台となっている切り立った崖の向こうに、山々が広がっている。――その谷間に広がる盆地に、濃霧のような雲が、見渡す限り一面に広がっているのを、見る。

「え、雲海じゃん! すごい! 見れた見れた!」

アハハ、と男女がはしゃいでいる横で、伊織が一歩前に踏み出した。――眼下に広がる雲海を、ただ、見つめている。

じん、と胸に響くものがあった。あるいはそれは、同情のようにも、悲哀のようにも思えた。



それは確かに海の姿をしていた



一面に立ち籠めた白い雲だった。それは、嵐に荒れて泡立ち、白い波を寄せ続ける怒れる海のように思えた。あるいは、最愛の妻を呑み込んでやがては退いて鎮まっていく、無慈悲な海のようにも思えた。彼の唯一の愛を吸い取って、どこまでも白く、白く、泡立ち、広がっていく――



――これを、も見たのだろうか。



八咫烏に導かれて濃霧を抜けた先で、心身ともにボロボロになった彼が、その脚を引き摺るようにして登った峠の先で見たのは、これだったろうか。
荒れ狂う海で失った妻が、そこにいる――

「うーん、でもさ」

食い入るように雲海を見ていた伊織の隣で、カップルの女がぽそりと言った。

「雲海って、あんまり海っぽくなくない? わかんない、あたしが見慣れちゃってるからかもだけど」

周囲を憚るように、ひそひそと女が言った。

「なんでだろう、これが雲だってわかってるからかな? なんかやっぱり、雲に見えるんだよね。あたしが現代人で、もう何度も飛行機に乗ってて、目の高さより下にある雲、っていうものを見慣れちゃったせいかもしれないんだけど」
「おまえ、それはちょっと酷じゃない? ヤマトタケルって嫁さん亡くしたばっかりだったんでしょ? 何見たって海に見えるっしょ」

男が意外にも同情的なコメントをしたが、「うーん」と女が唇に指先を当てて言った。

「もうひとつ、決め手が欲しいかな。これが『海』って思えるような」
「おまえ、言ってることがむちゃくちゃだよ……

げんなりしたような顔をしながら、「お兄さん、帰りも一緒に乗ります? ここまで来ちゃえば、俺ら以外にも相乗りできる人他にもいると思うっすけど」と男が伊織に声を掛けてくれる。
「もう少しここにいる」と伊織が答えると、にこやかに手を振って二人が去っていく。その場にあったベンチに腰を下ろして、伊織が眼下の雲海を眺める。







駅で簡単な夕食を取った後、市営バスに乗って宿に戻る。バス停で降りてふと夜空を見上げると、くっきりと輝く満月が浮かんでいた。標高のためか、いつもより月光が鋭く地表に届いてきているような気がする。――ああ、満月か、と思う。

満月は、伊織にとって必ずしも吉兆ではない。だがきっと、それが満月である以上そして今夜が快晴である以上、その満月には意味があった。



満月であるならば、そして今夜が快晴で、この宿に露天風呂があるならば、伊織はこれから露天風呂に入らなければならない



それは、もはや「せっかくだから」とか、「運がよかったから」とかの話ではない。――そうしなさい、とこれ以上ないほどに明確に、わかりやすく、指示されているのだ。

そうなった以上、伊織はそこに呼ばれていて、そしてそこにはきっと、彼が伊織に見せようとしているものがある

正直なことを言えば、伊織は多少疲れていた。結果として徒歩ではなくなったとはいえ長時間山道を車に揺られていたし、明日はもうチェックアウトをして東京に帰る。何が何でも温泉に入りたい、という気分でもなかった。

だが、入れと言われている。――そして、そう仰っている相手が相手である。ただの矮小な人間如きに過ぎない伊織に、辞退する権利などあるわけがない。伊織にできるのは、無礼を働かず、ご機嫌を損ねず、好意と善意によってもたらされた言祝ぎをただ享受することだけだ。

……それでは、お言葉に甘えて

ふう、と小さく溜息をつき、部屋に戻って浴衣に着替える。バスタオルなどの一式を手に、昨日は入れなかった最も景観のいい大きな露天風呂に出てみると、浸かっている人数の割に妙に静かで落ち着いていた。あるいは、夜空にぽっかりと浮かぶその見事な満月と――高い標高で阻むものがなにもなく、月光に照らされてなお輝いている星々に、すっかり魅入られているようであった。

伊織も肩まで湯に浸かり、夜空を見上げる。――くっきりと浮かんだ満月が、煌々と輝いている。そこから目を逸らして反対側の空を見遣れば、月光のようやく届かぬところで、星々が瞬いていた。

綺麗だな、と思う。――あの時間帯であれば本来見られぬ筈の雲海も、昼間は見られた。今はこれだった。露天風呂があるのだからここは月見風呂であろう――ということなのだろうと思う。……はきっと見せたがりなのだろうと、伊織も薄々思い始める。――あるいは、かつて彼にそうやってさまざまなものを見せて回った人間がいて、そうやって見せて回ってもらったことを彼自身が『善いこと』と記憶しているのかもしれなかったが、それは伊織の与り知るところではない。
――あるいはそれが、満月であること自体に、なにかの意味があるのかもしれなかったし、たとえその意味が今の伊織には伝わらずとも、それに特別な意味があることをが知っているという意味であるのかもしれなかったし――

ふ、と伊織が月から目を逸らして星々を眺めた瞬間だった。――視界の中を、小さな光の一閃が、すっと横切っていった。

伊織が絶句する。それから、「あ」と小さく声を洩らした。

星二つ分の距離だった。小さな眩い光の粒が、すう、とまるで水面を滑るように、なめらかに動いて消えた。周囲を見渡す。伊織の他には誰も見ていなかったようで、誰一人として騒いでいない。今自分が見たものを、確かめることもできない。

硫黄の匂いのする湯に浸った手で口許を覆う。ぼそり、と呟いた。

「流れ星」



――なんという見せたがりだろうと、伊織は湯の中で静かに肩を震わせていた。