kaisou
2026-04-15 14:40:13
10147文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Cras datur 明日を与えられる

1740年コンクラーヴェ話・別視点9

過去と現在の話①

 昔の人は自分を作り、今の人は過去を知ったままここへ来る。

※歴史創作なので悪しからず



 それから長い年月が経った。

 コシアはいま、枢機卿の称号だけを持ち、ローマに身を潜めている男だ。表向きは存在しない。それでも、ここにいる。
 そこへ、教皇が来た。ベネディクトゥス十四世――ランベルティーニが、深夜に、人目を避けて。

 二人が向かい合ったのは、狭い隠れ家の一室。机が一つ、椅子が二つ、壁際に細い寝台、窓辺に小さな祈祷書。灯りは絞ってある。蝋の匂いと、冷えた茶の匂いが薄く混じっていた。

 コシアは言った。

「昔、叱られたことがございます――」と。

 ランベルティーニは、まだ外套を脱いでいなかった。 この時間に、しかも人目を避けてここまで来たこと自体、教皇としては褒められたことではない。その自覚は本人にもあるのだろう。部屋へ入ってからも、すぐには腰を落ち着けず、ひととおり目で室内をなぞった。 その視線が、壁際の寝台のところでほんのわずかに止まる。 止まったのは一瞬だった。だが、コシアは見逃さない。
 寝台は狭い。仮眠のために置かれた、実用一点張りのものだ。掛布は乱れていない。枕もきちんと寄せてある。ランベルティーニはすぐ視線を戻した。戻しはしたが、戻し方が少しだけ硬い。コシアは、その気づきにすぐ触れない。触れれば早すぎる。早すぎる指摘は、この人には効きすぎる。
「叱られたことがあるのか」
 ランベルティーニが言った。声音は平らだが、部屋へ入ってすぐのわずかな落ち着かなさを消し切れていない。コシアは窓辺に寄ったまま、淡く笑った。
「若い頃に」
「お前にも若い頃はあったのか」
「失礼な」
「いまも十分厄介だ」
「それは光栄です」
「誉めておらん」
 ランベルティーニはようやく椅子に腰を下ろした。その動きもぎこちない。ここへ行くと決めたわりには、まだ自分の居場所を探しているような座り方だった。膝の上へ置いた手が一度きつく組まれ、すぐにほどける。外套の裾が椅子の脚に触れ、かすかに音を立てた。
 コシアは、その手元を見た。それから、見なかった顔で続ける。
「まだ預けられて間もない頃でした。答えが見えたので先に言ったのです」
「それで」
「叱られました」
「当然だ」
「ええ。いまなら分かります」
 ランベルティーニの口元がわずかに動いた。 笑いではなく呆れに近い。その動きだけで、この人が話を聞く姿勢に入ったことが分かる。コシアの胸の奥に小さな熱が落ちる。 昔から自分のために注意が一つ寄るとその瞬間にだけ、体が反応してしまう。
「内容は合っていたのです」
 コシアは言った。
「それが余計に悪い」
 ランベルティーニの返答は早かった。早いが、雑ではない。そこにコシアはわずかに目を細める。
「中身が合っているぶん、自分の浅さが見えにくい。そういう失敗だろう」
「聖下は容赦がない」
「お前にだけは言われたくない」
 そこで沈黙が落ちた。狭い部屋では、その置き場まで近い。
「夜に、呼ばれました」
コシアが言う。
「何を誤った、と聞かれた。私は最初、内容は正しかったと申し開きしかけたのですが」
「やめたか」
「ええ。そんなことを言えば、もっと浅く見える気がして」
 ランベルティーニは小さく息を吐いた。その吐き方に、少しの納得が混じる。その想像の中に、わずかな苛立ちがあることも、コシアには分かった。かつての自分に似た何かを見る時の、遠くて近い苛立ちだ。
「それで、何と答えた」
「順序を、と」
「ほう」
「すると、答えは合っていたと言われました」
ランベルティーニの指先が、膝の上で止まった。止まった指が、ゆっくりと布を握る。その動きに、何かを測っている気配がある。
「ですが、お前があの場で先に言うな、と」
 コシアは笑わなかった。 昔話をする時、いちばん危ないのは笑うことだ。うまく笑えば軽くなる。軽くなれば、いま目の前にあるものまで一緒に薄くなる。それは避けたかった。灯りの火が一度揺れ、二人の影が壁の上でわずかにずれた。
「その夜、私は知ったのです。叱責そのものより、そのあとに明日を与えられることのほうが深く効くのだと」
 ランベルティーニは黙っていた。 黙ったまま、視線だけがコシアへ向いている。逸らさない。逃がさない。
「十五の私には、それで十分すぎた」
「だろうな」
「叱られたあとに、明日、これを持って来い、と言われることは、ほとんど赦されることと同じでした。まだ捨てられていない、まだこの人の手の内に残っている、それだけで」
 そこでコシアは短く間を置いた。 ここから先は、もう昔話だけではないと自分でも分かっている。窓の外でどこかの馬が石畳を踏む音が遠く聞こえた。それが消えてから続けた。
「人は案外、変わらないものです」
 ランベルティーニの眉が動いた。
「何が言いたい」
「昔の私は、叱責のあとに明日を与えられることに、深く反応しました」
「それはさっき聞いた」
「そして今も、似たようなことには弱い」
 その一言のあと、ランベルティーニはとうとう視線を外した。
 外した先は窓ではない。机の上でもない。ほんのわずか、また壁際の寝台へ寄る。寄ってすぐに戻る。 コシアはそれを見た。 今度は見たことを隠さないまま、少しだけ目を細める。
「聖下」
「何だ」
「いま、寝台をご覧になった」
 ランベルティーニの顔が、はっきりと不機嫌になった。こういう時、この人は感情が声より先に眉間へ出る。
「お前は」
「はい」
「本当にそういうところだけは」
「よく見ております」
 短く深く息を吐いた。降参でも怒りでもない、この男には通じないと分かった時の諦めの混じった吐き方だった。
「見なくていい」
「難しいご命令ですね」
 そこでコシアは、もう半歩だけ踏み出した。
「見ておられないなら、そうおっしゃればよろしいのに」
 その目が、すっと細くなる。
「見ていない」
「では、見ないふりをなさった」
 今度の沈黙は短かった。短いのに、鋭かった。
……お前は本当に」
 その先を飲み込んで、ランベルティーニは椅子の肘へ手を置いた。指先で木を二度叩く。 珍しく感情が仕草へ出ていた。苛立っている。それだけではない。自分が何に反応したのかも分かっていて、それが余計に面白くない時の苛立ちだった。
「昔の話をしながら」
低く唸るような声で切り出す。
「今の話でございますか」
「そういう顔をするな」
 コシアは何も言わなかった。ただ、少しだけ目を伏せる。
「どのような」
「分かっていて、分からないふりをする顔だ」
「聖下は、私を買いかぶりすぎです」
「買いかぶってなどおらん」
 言いながら、ランベルティーニは立ち上がった。椅子が後ろへ引かれる音が、思いのほか大きく響く。狭い部屋でこの人が立つと、それだけで空気の密度が変わる。コシアのところまで来るわけではない。距離があっても圧を感じる。その圧は教皇のものだけではない。一人の老いた男が、自分の中の何かを抑えながら立っている、その重さだった。
「お前は昔」
ランベルティーニが言う。 少し前かがみに立ったまま、コシアを見ている。
「叱責のあとに、明日を与えられることへ縋った」
「ええ」
「そして今もそれに弱い、と言う」
「申し上げました」
「それを、私に言う」
 コシアは、そこでようやく笑みを消した。 ここまで出てきた人には、もう軽口だけでは返せない。
「聖下が、こちらへおいでになったので」
 その一言で、ランベルティーニの喉がわずかに動いた。 言い返そうとしてやめる。反論できないと分かった時の、ほんの短い沈黙。
「書斎であの話をして」
コシアはゆっくりと言った。
「私は下がった。聖下は、あのまま終えられなかったのでしょう」
 ランベルティーニの眉がぴくりと動く。図星を刺された時の、逃げ場のない動きだった。
「昔の人は、私を作りました。答えが見えることも、見えた答えをどこで言うべきかも、あの人のところで覚えた」
 ランベルティーニは何も言わない。
「ですが、聖下は違う」
 部屋が静まる。蝋の火が一度揺れ、壁の影がゆっくりと戻る。その静けさの中で、コシアは続けた。
「聖下は、いまの私が何者か、だいたい最初からお分かりだ。何を知っていて、どんな手を使ってきたかも。それでもなお、切らずに置く」
 ここまで言うつもりではなかった。だが、止まれなかった。
 そこでコシアは一歩だけ動いた。近づきすぎない。手を伸ばせば届くほど近くもならない。昔話をする距離ではなく、目の前の相手に話す距離へは入る。
「それで、ご自分でおいでになる」
 ランベルティーニは目を閉じた。 ほんの短く。その一瞬には、生身の疲れが滲んだ。ここまで来るつもりではなかったのに来てしまった人の、諦めに似た疲れだった。
 この人が深夜にここへ足を向けるまでに、どれだけの迷いがあったのか。コシアには分からない。分からないが、その重さだけは受け取れた。
……来なければよかったか」
 低く落ちた声に、コシアはすぐには答えなかった。 そんなはずがない。だが即答すると軽くなる。軽くしたくなかった。この人がここまで口にするには、相当の時間がかかったはずだ。その葛藤を、軽い返事で受けたくなかった。
「いいえ」
やがて、はっきり言う。
「おいでになってよかった」
 ランベルティーニが目を開ける。 その瞬間の目には、教皇の顔ではない老いた男のどうしようもない安堵が、短く浮かんですぐ消えた。コシアにはそれで十分だった。消えた後に残る目の色が、さっきまでとは少し違っていたから。
「お前は」
 ランベルティーニが言う。
「そうやって、人を甘やかす」
「私が、でございますか」
「自覚がないなら、なお悪い」
 コシアはその言葉に小さく笑った。 ランベルティーニは、今度こそはっきりと苛立った顔をした。眉間に皺が寄り、口元が固くなる。杯へ手を伸ばしかけて、やめる。椅子の肘を、また指先で二度叩く。
「笑うな」
「失礼いたしました」
「しておらん顔をするな」
「難しいご注文です」
「その軽さが気に入らん」
 コシアは笑みを引いた。
「ですが、聖下」
 コシアは静かに言った。
「今夜こちらへおいでになったのは、聖下です」
 ランベルティーニはとうとう視線を逸らした。 逃げるようにではない。受けきれず、一度落とすしかなかった視線だった。コシアはその落ち方を見て、胸の奥で何かがやわらかくほどけた。
……面白くないな」
 ランベルティーニがぽつりと言った。
「何が、でございましょう」
「言わせるな」
 灯りの火が一度揺れ、机の端に伸びた影がわずかに動く。
「昔の話をされるのも」
 コシアは答えない。
「それを、いまの私に重ねられるのも」
 ランベルティーニの声が、わずかに低くなった。昔の人間と同じ場所へ置かれることへの、静かな拒絶だった。
「そして、お前がそういう顔をしているのも」
 そこで少し間が空いた。次の語がいちばん言いにくいのだと分かる間だった。ランベルティーニの指先が、膝の上で静かに止まっている。
 コシアは、その最後の一言を胸の奥で受けた。それがどういう顔か、自分では分からない。分からないが、目の前の人には見えているのだろう。
「申し訳ございません」
 そう言うと、ランベルティーニはいっそう苦い顔をした。
「その謝り方はやめろ」
「では」
……黙っていろ」
 コシアは素直に従った。
 狭い部屋に、二人分の息だけが残る。灯りの火が揺れる。冷えた茶の匂いは薄く漂い、蝋の匂いがそこへ重なる。どちらも、人が来る前からここにあった匂いだ。いまは、それだけではない気がする。人が一人いるだけで、部屋の空気はこれほど変わるのか。
 やがてランベルティーニが言う。
「明日はおまえが来い」
 それだけだった。命令の形をしているが、コシアには分かっていた。この人が命令する時はもっと短い。そして乾いている。いまの声には、それとは違う何かが混じっていた。
 言い切った直後、ランベルティーニはまた、小さく息を吐いた。自分でも少し驚いているような、静かな吐き方だった。自分の口から出た言葉の重さを、測り直しているような間があった。身体のどこかが、昔と同じように動いた。その一言が胸の奥へ深く落ちる。コシアは目を伏せた。見上げれば何かが崩れる気がした。
「はい、聖下」
「分かったならいい」
 ランベルティーニは外套の前を整えた。 指先がいつもより少し遅い。感情が出たあとの手だと分かる。自分をもう一度組み直しているのだ。そういうところまで見えてしまうのが、現在の二人だった。机の上の紙が、外套の袖風でわずかに動く。それだけのことが、妙に静かに見えた。扉へ向かう背に、コシアは言った。
「聖下」
「何だ」
「昔の人は、私に明日を与えました」
 ランベルティーニは振り返らない。
「ですが、聖下は」
 コシアは小さく笑った。 今度の笑みは、さっきまでのものより静かだった。
「ご自分からおいでになる」
 ランベルティーニが肩越しに振り返った。 その目には疲れと、呆れと、むき出しの何かが、一度に乗っていた。
「それ以上しゃべるな」
「かしこまりました」
「まったく、かしこまっておらん」
「善処いたします」
 ランベルティーニは口を開きかけて、閉じた。そのまま扉へ手をかける。
「明日も」
 低い声が落ちる。
「口ばかり達者なら、追い返すぞ」
 コシアは静かに答えた。
「では、追い返されぬ程度にしておきます」
 扉が開き、夜の冷えた空気がひと筋入る。石畳の湿った匂いが混じる。ランベルティーニはもう振り返らなかった。