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kaisou
2026-04-15 14:40:13
10147文字
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1740年コンクラーヴェ話
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Cras datur 明日を与えられる
1740年コンクラーヴェ話・別視点9
過去と現在の話①
昔の人は自分を作り、今の人は過去を知ったままここへ来る。
※歴史創作なので悪しからず
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2
3
ニコロ・コシアが、ベネヴェント大司教にして枢機卿でもあるオルシーニのもとへ預けられて、まだ幾月も経っていなかった。
十五の少年に与えられる仕事など、たかが知れている。書類を運ぶ。客を部屋へ案内する。使いに走る。上の者が席を立てば、後を片づける。下働きに近いこともする。
この館で彼はまだ見習いの身。立場は名より軽い。
読み書きと簡単な計算くらいはできた。それだけだった。良家の子女が息をするように身につけている教養も、洗練された物言いも、賢い振る舞いも彼はまだ身につけていなかった。だが、頭の回転は速く、人の目を引く顔立ちだった。相手の視線が一拍だけやわらぐのを、彼はもう知っているが、それをどこで、どう出すべきかまでは分からなかった。ここではそれだけでは足りない。
主人であるオルシーニは穏やかで無駄に声を荒らげる人ではなかった。短い一語で場の向きを変えることのできる人間だった。しかし、見込みのない子をいつまでも手元に置く人でもない。そのことをコシアはよく知っている。だから、ここにいること自体が賭けだった。役に立たなければそれで終わる。叱られるのではない。返されるのだ。
実家はある。だが、そこへ戻ることはもう『帰る』ことではない。一度ここでの空気を吸い、人がどう立ち、どう黙り、上へ行くかを見てしまった以上、元の場所には戻れない。そのことを、コシアは理屈ではなく身の内で知っていた。
その日、彼は客人のいる部屋の隅に立っていた。ただ控えているだけの役目だ。だが最近、こうして人の出入りする場へ置かれることが増えていた。雑用係の少年にすぎないとはいえ、少しずつ試されているようでもある。うまく立てれば、何かが変わるかもしれない。そんな小さな期待が、胸のどこかにあった。
高窓から差す光は薄く、床の木目が浮いていた。書記が壁際に控え、客人の指輪が会話のたびに鈍く光る。オルシーニは客人と向き合っていた。彼は話を急がない。相手に喋らせるべきところでは喋らせ、沈黙に意味がある時にはそれを壊さない。答えを知っていても先に言わない。コシアには、そういう黙り方が、まだ腑に落ちなかった。ただ、この人の前では言葉にも立つ位置にも順番があるのだということだけは、肌で覚えつつあった。
客人が、書簡の一節について問いを発した。法の解釈に癖のある話だった。答えは一つしかない。一瞬の間が落ちた。コシアにははっきりと答えが見えた。誰がその問いを受けるべきか、その順序までは分からない。だが、答えの形だけは喉元まで来た。それを、いったん飲み込んだ。
間が続いた。今なら役に立てるかもしれない。見られるかもしれない。その熱が、口を開かせた。簡潔に、要点だけを述べる。言葉は間違っていない。むしろ、かなりよくできていた。言い終えた瞬間も、まだそう思っていた。だから冷えるまでの一拍が分からなかった。書記が目を伏せ、客人の指がわずかに止まった。それで、気づいた。
「お黙りなさい」
低い声だった。怒鳴り声ではないが有無を言わせなかった。コシアの喉はぴたりと閉じた。
オルシーニはそのまま客人へ向き直り、何事もなかったように会話を継いだ。手元の書簡に指を置き、相手の言葉を受け、声の調子一つ乱さない。場にいた全員がその一言を聞き、何もなかった顔をしている。コシアだけが、どこへ視線を置けばいいか分からず、目を伏せた。
内容は正しかったはずだ。そこだけ譲れない。ならば、なぜ切られたのか。自分の言葉だけが、この部屋の秩序から弾き出されたのか。分からない。分からないまま、耳の奥だけがじんじんと熱い。
惨めだった。そして、それより先に怖かった。
ここで終わるのかもしれない。叱られることが怖いのではない。見限られることが怖かった。あの一言は取り消せない。口を開かなければよかった。飲み込んだはずのものを、なぜ吐き出した。分からない。分からないまま、さっきの自分の声だけが耳の奥に残っていた。始まりかけた人生ごと閉じられる。それは少年には、十分すぎるほど現実だった。
その場が終わっても、すぐには呼び出しがなかった。それが余計に怖い。叱られるならまだよかった。怒声でも、罰でも、形のある痛みなら受け止めようがある。だが、何もない時間というのは、頭が勝手に最悪を作り上げる。呼ばれるまでの間、コシアは廊下の隅に立っていた。
返されたら、どうなる。父は何も言わないだろう。責めもしない。元の部屋へ戻り、元の暮らしに戻る。それだけだ。それだけが、怖かった。元の場所へ押し戻されることは、負けることではなく、最初からなかったことにされることだ。それが何より堪えた。
廊下の壁に寄りかかった背中が、じわじわ冷えた。人が通るたびに肩が強張る。見られているかもしれない。あの部屋で何があったか、もう知られているかもしれない。通り過ぎる人間は誰も足を止めない。それがかえって怖かった。あの部屋では空気ごと弾かれたのに、何事もなかった顔をして立っていなければならない。その落差が、叱責そのものより深く刺さった。
日がかなり傾いてから、ようやく呼び出された。小部屋には灯りが一つだけあった。蝋の匂いが近い。机の上の書類はきちんと揃えられ、窓の向こうではもう光が薄くなっている。オルシーニは座ったまま手を机の上に置き、それからようやくコシアを見た。急がない。それが最初に分かることだった。怒りなら、もう少し早く動く。呼びつけるなら、もう少し声の調子が変わる。ただ、見ていた。
「今日、何を誤りましたか」
問われて、コシアは口を開いた。最初に出かかったのは言い訳だった。内容は正しかった、と。だが、それが喉で止まる。そんなものを口にした瞬間、自分がもっと浅く見える気がした。
「
……
内容ではございません」
ようやく絞り出すと、オルシーニは頷きもしない。
「では?」
「順序を」
コシアは搾り出すように短く答えた。その瞬間、間違いの形がはじめて輪郭を持った。
「そうです」
その返答が、人前で浴びせられた一言より深く刺さる。自分がどの位置から、どの瞬間に、誰の前で口を開いてよいか。その秩序のほうだった。
オルシーニはまっすぐコシアを見た。怒りより、測るものを含んだ目だった。少年の言葉より、言葉のあとに残るものを見ているような目だ。
「答えは合っていました」
コシアは思わず顔を上げた。まとめて切られると覚悟していた。だから、その一言が意味を持つまでに、一拍かかった。
「ですが、お前があの場で先に言ってはならない」
その一言で、喉の奥が急に熱くなった。
内容まで否定されたわけではない。自分ごと切られたわけではない。間違っていたのは、答えの早さではなく、立つべき位置を知らなかったことのほうだ。痛みの質が変わる。自分には何もないのではなかった。ただ、知らないだけなのだと、初めて分かったからだ。
「正しいことを、正しい順で言いなさい」
オルシーニは言う。
「お前は先に答えを出したがる。それでは場を壊す」
コシアは黙った。
反論はなかった。したくても、もうできない。自分の浅さが、あまりに鮮明に分かってしまったからだ。答えが分かることと、答えてよいことは違う。いまの自分は、その違いを一つも知らなかった。
沈黙が落ちる。
蝋の火が小さく揺れ、机の端に落ちる影がわずかに動く。コシアは袖の内で指を握った。ここで「下がりなさい」と言われたら終わる。もう視界の中へ置かれないかもしれない。
オルシーニは机上の紙を一枚抜き出した。
「明日、これを持って来なさい」
コシアは顔を上げた。
「
……
明日」
「聞こえませんでしたか」
「いえ」
返事をしながら、少し遅れて理解した。紙の重さが指に伝わる。薄い、ただの紙だ。だが、その薄さが今夜はやけに確かだった。
終わっていない。
切られていない。
返されない。
まだ、自分はこの人の手の内に残っている。叱責は消えない。恥も、そのままだ。喉の痛みも、少しも薄れていない。それら全部より重く胸へ落ちてくるものがある。
明日がある。それだけだった。
それなのに、膝の震えが少し収まった。叱責の熱はそのままで、恥もそのままで、足の裏に床の感触が戻ってきた。コシアは知っていた。オルシーニは、要らぬと思った者に次の仕事を渡す人ではない。だから、それで十分すぎた。
「次は、私が見る前に、お前が順を読みなさい」
オルシーニは書類を机の端へ置いた。
「できますか」
できます、とは即答できなかった。できるかどうかではない。やれ、と言われたことのほうが、腹の奥で熱を持っていた。
「
……
はい」
「では、行きなさい」
礼をして部屋を出る。廊下へ出たところで、コシアはようやく息を吐いた。壁に手をつきたかったが、つかなかった。膝が少し震えている。情けない。みっともない。その震えを誰かに見られたとしても、今夜だけは仕方がないとも思った。腹の底には別の熱が残っていた。
叱られた。
切られたと思った。
それでも、明日が与えられた。
正しさより先に、見捨てられないことが重い。そう知ったのと同じ深さで、オルシーニという人の重さもまた、少年の胸に置かれた。
怖かった。けれど、ただ怖いのではなかった。
その夜からコシアは、叱責のあとに渡される「次」に、ほとんど飢えのように反応するようになる。
あの人の前で終わりたくない。
あの人に、まだお前はここにいなさいと言われたい。
その願いがどこから来るのか、少年にはまだ言葉にならなかった。 しかし胸のいちばん深いところへ落ちた火だけは、もう消えなることはなかった。それは誇りでも、感謝でも、名のつくものでもなかった。もっと根に近い、むき出しの何かだった。見ていてほしいと思うことと、終わりたくないと思うことの、区別がつかないまま、その火は燃え続けた。
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