群青

【徳種】原作軸翌年IF*徳川さんの高校最後の強化合宿、その前と後のふたりの話。鬼+入+徳/曲+種パートも少し。


(二)

 明るく澄んだ朝の光の中、食事の支度を進める生活音が重なり合って台所を埋めている。
 キッチンカウンターに並んだ食器は二人分。同じ大学への進学を機にルームシェアを始めた大曲とは、タイミングが合うときは一緒に朝食を摂るのが習慣だ。調味料を取り出すために冷蔵庫のドアを開けながら、今朝の食事当番の種ヶ島は普段の調子で口を開く。

「なー竜次、お前今度いつヒマ?」
「あ?」
「どっかで軽く打って流すん付き合うてほしいんやけど」

 几帳面にリビングまわりの整理整頓をしていた大曲が、手を止めてこちらを振り返る。訝しげに首を傾げた男と目が合った。
「いいけどよ……ガッコのコートでか?」
「あー……。それやとちょっと落ち着かんなあ」
 いまは大曲とともに大学のテニス部に在籍している。コートの状態や利用のしやすさを踏まえれば学校の敷地内にあるテニスコートを使うのがもっとも手軽なものの、友人知人が通りかかることも少なくない。それは少々避けたいところだった。
 火を止め、出来上がったベーコンエッグと味噌汁をそれぞれ皿につぎ分ける。炊飯器から白米を茶碗に盛り付け、トレーに載せて背後のダイニングテーブルへ。机の上にことりと盆を置くのとほとんど同時に、二人揃って席についた。
 互いに腰を落ち着けたことを確かめてから、手を合わせた大曲が声を接ぐ。
「そのへんのコートなら、別に今日でもいいし」
「ホンマ?」
「夜からバイト入れてっけど、どーせ昼すぎにはいっぺんウチに戻って来っからよ。一時間くらいなら出れるぜ」
……ほんなら今日ええか? 俺もたぶん二時半には戻るわ」
「あいよ」
「おーきに☆」
 様子を窺うようにちらと向けられた視線には気付いていたけれども、続ける言葉を探しきれずに食事を進める。大曲ならひとまずここで引いてくれると種ヶ島も知っていた。
 換気がてら半分ほど開けた窓からは、爽やかな風が柔らかく滑り込んでくる。いまは心地よく素足にふれるそれが冬の気配を帯びるようになるのも、そう遠くないはずだ。
 晴れ渡った秋の空には雲ひとつなく、動き始めた朝の街の音がかすかに聞こえる。さざめくようなそれに、昨晩の駅前のざわめきを重ねて目を細めた。

『種ヶ島さん』

 静かに自身の名を呼ぶ男の低音が脳裏をよぎる。かき混ぜられた前髪を整える指先の向こうから覗く瞳が湛えた熱のいろには覚えがあった。
 不用意にふれた自分の手落ちだという自覚も、ふれずにはいられなかったという自覚も等量にある。目の前にいる後輩の、あやういほどにまっすぐな眩しさに、手を伸ばして応えずにはいられなかった。
 幸いというべきか否か、徳川と次に会うのは早くとも数ヶ月後だ。それまでにあの熱が冷めてほどけてしまうなら、きっとそのほうが良いのだろう。

……まあ、そない無責任な話あらへんか、さすがに)

 合宿前に励ましの声を掛けたいだけなら、トークアプリで一言メッセージを送れば事足りる。友人のアルバイトの手助けで男の生活圏付近へ向かうことになったのはある種出来すぎなまでの偶然で、だからこそ気の向くままに動いてしまった。

 ――合宿所から帰ってきたら、自分と試合をしてほしい。

 不器用な直線の言葉でそんな約束を取り付けた男が、何を伝えようとしているのか。その答えを、自分はおそらく理解している。結論が出ないのは、己がそれにどう応えるべきかということだけだ。
「どーしたよ修二」
「んー、いや、なんも」
 大曲と他愛ないやりとりを交わしつつ、日常に意識を引き戻す。
 気心の知れた相棒との共同生活は充実していて、大学生としてもいち選手としても課題にあふれている。今日も、一日が始まろうとしていた。

***

 ルームシェアをするにあたって今のマンションを選んだ理由は、学舎からは少し離れるものの、相応の規模の運動公園が近場にあったからだ。整備が行き届いたランニングコースなど、日々のトレーニングのしやすい魅力的な立地だった。
 貸しコートの手配を朝のうちに済ませ、講義を終えた種ヶ島は友人たちからの誘いを軽くかわしながら早々に帰路につく。(午前中は市民クラブの利用などで埋まりがちだが、平日の午後は比較的空いていることが多いのも重宝している点のひとつだ。)
 今日は男子テニス部の休養日で、代わりに女子部の面々が普段よりも多いコートをのびのびと使っている。曜日をずらして設定されている女子部のオフには男子部も同様で、そのタイミングで部内での紅白戦を行うことが多い。
 大曲の存在はもちろん、上級生のなかにはU-17合宿の経験者や、プロを目指してアマチュア大会へ出場している選手も在籍しており、彼らと切磋琢磨できる恵まれた環境で大学テニスに臨んでいる。
 中学テニスのハイレベル化に加え、U-17W杯での日本代表の優勝からも日の浅い今、学生テニス界に対する注目度は依然として高いままだ。大学リーグの会場でも、その空気を肌で感じることができた。
 国内でも、プロスカウトの目に留まる機会は決して少なくない。大学在籍中にそのチャンスを掴めるかどうかは、自分自身にかかっている。

『大学でもテニス続けるんやったら、もーちょい俺とテニスせえへん?』

 W杯終了後、互いに関東圏の大学からスポーツ特待の声が掛かっていると知り、大曲にそう提案したのは種ヶ島だ。
 所属の学部こそ違えど、高校時代は合宿所でしか過ごせなかった相棒と――好敵手とともに上を目指していける日々はやはり素直に心が躍る。話を受けてしばらく考え込んだあと、仕方のない奴とばかりに溜息をついてから「行けるトコまでは行ってやるし」と答えた大曲も、楽しげな気配を隠しきれていなかった、ように思う。

 代表決定戦を勝ち抜き、世界大会の決勝を戦って以降、コートに立つ大曲はどこか吹っ切れたような顔をしている。高校一年の秋、革命軍として崖の上から戻ってきたときの、闘志に燃えた目のままで。
 いまでもダブルスを組むことは当然あるが、シングルスの試合となれば毎度本気の一戦だ。泥くささもまるで厭わず相手に食らいつき続ける大曲の強さは、出会ったころから変わっていない。
 大曲がこの先どこまでテニスを続けていくつもりなのかはまだわからないが(なにぶん選手としての自己については特に寡黙なところのある男なので)、どんな選択をしようともそれが損なわれることはないと、種ヶ島は信じている。

……いうて、そんなん直接言われへんけどな☆」
「デケェ独り言言ってんじゃねーし……

 家に戻ればすでに準備万端の相棒が待っていて、その律儀さに思わず相好を崩す。自分も着替えさえ済ませてしまえばすぐに出られるよう、その他の支度は朝のうちに整えておいたので、軽く断りを入れて自室に向かう。
 早々にトレーニングウェアへ着替え、愛用のラケットバッグを肩に掛ける。扉を押し開ける前に一度室内を見渡し、ふと動きを止めた。

――……

 机の隅に置かれた写真立ての中で、代表ユニフォームに身を包んだ面々が少々窮屈そうに、けれども楽しげに肩を並べている。
 W杯終了の翌日に選手団で揃って撮影した一枚で、洒落たガラスのフォトフレームとともに送られてきた記念品だ。写真を飾るなど柄ではないと知ってはいるけれども、溢れ出しそうな活気を宿したそれをすぐにクローゼットの奥へしまいこむのも何やら少し気が引けて、机の上に置いたままだった。

 長らく掲げてきた目標を達成し、みな大なり小なり清々しい表情を浮かべている。律儀に三年生に前列を譲って下がりかけたところを、恩人ふたり――鬼と入江に捕まって前に押し出された徳川が、最前列に座っていた。

 思いがけないアクシデントで変則的な試合順にはなったものの、シングルス1として日本代表の優勝を決めたのはあの男だ。デュークという壁を越え掴み取ったポジションを、徳川は文字通り命懸けで務め上げた。決勝戦の翌日の写真だが、カメラのフレームに切り取られた姿もまだあちこちに絆創膏が残っている。
 ……今年はあんま無茶せぇへんとええんやけど、まあ、難しいやろなあ。
 胸の内だけでそう零し、思わず浮かべた微苦笑をそっと呑み込む。
 まっすぐに義を貫く強さと才能を持ちながら、だからこそ時折どうにも危ういままでいる。良くも悪くも、それが徳川カズヤという男だ。
 深呼吸をひとつ。
 いまは相棒を待たせている。これ以上は一度頭の中を整えてから考えるべきだろう。小さくかぶりを振り、静かな部屋に背を向けた。

「待たせたわ、堪忍な」
「別に。……んじゃ行くか」
「おう」

 コートの予約時間までまだいくらか余裕がある。到着後に軽くウォーミングアップをしていれば、ちょうど良い頃合いになるだろう。そんな算段を立てながら、種ヶ島は大曲とともに自宅を後にした。



 シューズの裏でコートのざらついた硬さを感じると、心地良い緊張が自然と全身を満たしていくのがわかる。薄曇りの空からの午後の日差しと僅かに冷えた秋の風が、集中に沈む五感を柔らかく揺らしていた。
 ネットの向こうにはラケットを両手に構えた相棒が立っている。
 とんとんとつま先で軽く跳ね、ライン際で身を撓めた。
 レシーブの準備が整ったことを確かめた大曲が、緩い軌道のサーブを打ち込んでくる。ぱん、と似たコースで返し、様子見程度の打ち合いから、徐々にラリーのテンポを上げていく。

 軽く打って流すといっても、あまりイージーなやり取りだけを続けていてはやはり互いに物足りなくなってくる。熱が入りすぎない程度に、けれどもそれなりの駆け引きを楽しめる範囲。その場でのほどよい線引きをスムーズに共有できる大曲とのラリーは、試合でなくとも快い。
 行き交うボールの間隔が一定の調子に落ち着いたころ、打球音とともに短い声が飛んでくる。
「珍しいな」
「んー?」
「お前がこーゆー頼り方してくんのがだよ」
「せやなぁ……
 助かるわ、ホンマ。そう答えつつ、ガットで捉えた球を対岸に返す。手首の感覚を確かめながら打ち込んだボールは、ネットの数センチ上を越えていった。身体感覚に意識を傾けると同時、ひとつ思考がクリアさを増す。

「どーやって責任取るんが一番ええんやろ、思て」
「は?」
「さすがに後輩には慎重に行きたいっちゅーか」
「あー…………成程」

 曖昧な主語から文脈を察したらしい大曲が軽く頷く(よもやその「後輩」が徳川だとは思っていないだろうけれども)。
 高校時代には期間限定の交際を気ままに楽しんできた身だが、それは互いに深入りしない前提条件を承知の上でのものだ。だからこそ、テニスという共通言語がある異性とはプライベートな距離を避けてきた。大学生になってからは新しい環境でのテニスの楽しさに傾倒していたこともあり、特技と評して差し支えない合コンの誘いを受けてもやんわりと躱す日々が続いている。
 賑やかな席が嫌いになったわけではない。男女を問わず、友人として誘われれば食事にも遊びにも行く。
 ただ、今の自分は「特定の相手を探す場」にいるには不適当だと、――漠然とそう思っていた。
 果たしてそれは、何故だったか。

……………………、」
「修二?」
「いや、……あー……
 ラリーを続けながらそこまで思考を巡らせて、……ふいにすとんと落ちた答えに、柄にもなく心が揺れる。
「あ」
 テニスはメンタルのスポーツ、とはよく言ったもので、動揺が伝わったラケットではネット間際の数センチを正確に狙いきることができずに軌道がわずかにぶれる。コードボール。
 ネットを越えることなく、ボールは自陣に落ちて転がり静かに止まる。足元のそれをラケットでひょいとすくい上げ、相棒へぽつりと呟いた。

「あかんわ竜次」
「何が」
「負け戦かもしれん」
 数秒の間。しばらく目を丸くしていた大曲が、いくらかの沈黙を破って笑いだす。
……っふ、くく、」
「笑うなやー……!」
「いや、悪い、別に茶化してんじゃねぇし」

 大曲はばつが悪そうに肩を竦めたあと、気を取り直すように咳払いをひとつ。
「お前が誰のこと言ってっかはまあ、とりあえず知らねーけどよ」
……、」
「ソイツに対して責任持ちてぇと思った時点でダメだろ、多分」
…………やっぱお前もそー思う?」
「そりゃあな」
 さっぱりと言いきられてしまえばいっそ清々しいほどだ。思わず溜息を吐いていると、「オラ、さっさと次やるぞ、次」と催促が飛んでくる。

「ネットにボール引っ掛けなくなるくらいには腹括ってから帰れし」
……頼もしー相棒やで、ホンマ☆」
「うっせ」

 照れ隠しらしい言葉とともに踵を返した相棒の背を数秒目で追ってから、ベースラインに向かい歩き出す。
 あの男の瞳の奥に揺れていた確かな熱が、次に会う日までにほどけていても、そうでなくとも。その眸に、言葉に、真正面から向き合いたいと思わされてしまった時点で、既に勝負は決まっているも同然だった。
 白線の前で立ち止まる。息をひとつ吸って、吐く。
 ……それでも、負けたままではいられない。
 体に叩き込んできたリズムと感覚で、ボールを垂直に投げ上げた。