群青

【徳種】原作軸翌年IF*徳川さんの高校最後の強化合宿、その前と後のふたりの話。鬼+入+徳/曲+種パートも少し。

(一)

 秋の風が吹く夜空を、ナイター設備の白色光が煌々と照らしている。都内某所の運動公園内。ラケットバッグの重みを肩に感じつつ、徳川カズヤはテニスコート横の曲がり角で足を止めた。
 半歩先で同じように立ち止まった二人――鬼と入江が、肩越しにひょいとこちらを振り向いて穏やかに笑む。

「じゃあ徳川くん、最後の合宿、頑張って」
「他のヤツらのことも頼んだぜ」
「はい。……ありがとうございました」

 彼らが高校を卒業し、上京を伴うそれぞれの道を進み始めてからすでに半年あまりが経っている。連絡を取り合う機会は少なくないが、こうしてコートで会うのはしばらくぶりだ。
 自身にとって最後のU-17代表合宿のスタートを一週間後に控え、よければ鍛錬に付き合ってもらえないだろうかという頼みを、二人は快く引き受けてくれたのだった。
「鬼さん。入江さん」
「うん?」
「どうした?」
 この運動公園は、徳川が暮らすマンションのほど近くに位置している。まっすぐ敷地を抜けて歩いていくのが最短コースの自分と、鬼の運転する車に乗り合わせてきた彼らとは、いま立ち止まっているこの角で進行方向が分かれる。(むろん駐車場まで送るつもりだったが、当然のように考えを見透かされており、早々に見送り不要と念を押されてしまった。)
 改めて頭を下げて礼を述べ、二人の目を見ながら言う。

……必ず、役目を果たしてきます。日本代表のトップとして」
「フフ、頼もしいね。怪我には気をつけて」
「帰ってきたらまた色々聞かせてくれや」

 宣言を静かに聞き届け、軽く手を振って歩き出す彼らの背は相変わらず頼もしく揺るぎない。
 その後ろ姿を見るたびに、二人と出会った日のことを、交わした約束を思い出す。彼らの姿が夜の公園の通路の奥に消えてしまうまで、徳川は初心に返った気持ちでただその場に佇んでいた。

 隔年開催であるU-17W杯は、むろん今年は実施されない。昨年、自身にとっては最初で最後のチャンスとなる大会を日本の優勝という形で終えられたことはとても喜ばしいけれども――同時に、日本ユーステニス代表が見据えるべき景色が大きく様変わりしたのもまた、事実だ。
 昨年までは挑戦者だった立場が、リベンジを、挑戦を受ける側に変わる。これまでとは違った意味で、一筋縄ではいかなくなるだろう。
 今年の強化合宿の内容はそのまま、次回のW杯の礎として繋がっていく。
 先代の上級生たちが各々の方法でそうしてくれたように、自分が残せるものは残し、そして託していかなくてはならない。『U-17日本代表』というチームのために。
 自分には何ができるだろう。或いは、何ができないだろう。
 あの合宿所で、ナンバー1のバッジを手にしたとき、自分はどうあるべきなのか。
 髪を揺らして吹き抜けた夜風が、木々の梢をさざめかせながら過ぎていく。閑散とした公園の通路沿い、等間隔に点る街灯の下を思考とともにゆっくりと進んでいると、ウェアのポケットの中のスマートフォンがふいに短く震えた。
「?」
 取り出した端末の画面にはトークアプリの新着通知が二件。メッセージの送り主の名前を見、そのままバナーに指先を滑らせる。

『ちゃい☆』
『もーすぐ合宿やな、元気しとるか?』

 ぱ、と切り替わった画面に並ぶメッセージから、彼の声が聞こえるようだった。歩きながらスマートフォンの操作をするのは未だにどうにも苦手で、そばにあったベンチに一旦腰を下ろして返信を打ち込んでいく。
『お久しぶりです。丁度さっきまで鬼さん達とテニスをしていました』
『さよか! めっちゃ気合入ったやろ』
『はい。有難いです』
 種ヶ島修二。
 鬼たち同様、自分よりもひとつ年上の、元日本ユース代表選手である。
 大曲と同じ大学へ進んだ種ヶ島は、今年の春から地元を離れて関東近郊で暮らしている(初夏ごろカヌーに誘われ会った際に聞いた話では、大曲とルームシェア中らしい)。
 新生活が始まって以降もこうして自分のことを気にかけてくれる存在がいることは、少々面映ゆいながらも素直にありがたい。こちらからの返信とほぼ同時に「既読」の文字がついたあと、ほんのわずかの間が空いて、もう一度端末が手の中で震えた。
『徳川、もしかして今外におる?』
『はい』
 それが何か、と続けて尋ねる前に画面が暗転する。音声通話の着信を知らせる表示に、相手に聞こえるはずもない溜息を申し訳程度にひとつ吐いてから応答した。

「もしもし」
「おー、お疲れさん」
「どうしたんですか、急に」

 彼も外にいるのか、数ヶ月ぶりに聞く声の向こうからはかすかな車の走行音がする。一瞬耳を掠めた歩行者信号のメロディにふと覚えた違和感が明確な形になる前に、彼の声が意識を引き戻した。
「お前んちの最寄りって確か‪□□駅やったよな?」
「はい」
「今日な、ダチのバイトの助っ人で隣駅まで来とってん。で、せっかくやし途中下車しよか~思て」
 楽しげな中低音が耳朶に触れる。言葉の意味を辿りながら電話越しの彼の表情を想像し、ゆるい目瞬きをひとつ。 ほぼ確信といってもよい予感を抱きつつ、徳川は彼の名前を呼んだ。種ヶ島さん。
「今、どこにいるんですか?」
「‪□□駅前のロータリー☆」
…………すぐ行きます。十五分くらいかかりますが、構いませんか」
 通りで聞き覚えのある信号の音がするわけだ。
 この公園からみると駅は自宅を挟んで反対側に位置しているが、十五分もあれば辿り着くだろう。「ケガせんよーに歩いて来てや」という彼の朗らかな返事を聞きながら、ベンチから立ち上がって足早に歩き出した。
 
***

 混み合う時間をいくらか過ぎて人通りの落ち着いてきたロータリーを少し見渡せば、すぐに目当ての姿に行き当たる。駅前広場を囲むように数脚置かれたベンチのひとつに、彼はいた。
「種ヶ島さん」
「お」
 背後から歩み寄って声を掛ける。何をするともなく周囲を行き交う人々を眺めていたらしい彼がぱっとこちらを振り返り、相好を崩してみせた。
「スマンな~急に」
「構いませんが……少し驚きました」
「そらまぁ、ビックリさせたろ思っとったし」
…………、」
「っふ、はは、初めて見るわその顔」
 どんな顔だろうか。返す言葉に迷って眉を顰めた自分に、彼はもう一度肩を揺らして笑ったあと、傍らに置いてあったビニール袋をひょいとこちらへ差し出した。
「ちゅうんは冗談として、ほい、差し入れ」
「え?」
「そこのコンビニで買うたやつやから、ホンマにちょっとで悪いんやけど」
 あとカイロ代わりにこれ持っとき。
 そんな言葉とともに、小さなペットボトルも渡される。流れるような声と所作に促されてそのまま彼の隣に腰掛ければ、膝の上に載せたレジ袋がかさりと鳴った。
 中を覗くと、プロテイン飲料の紙パックが数本積み重なっている。それに紛れてサラダチキンのパッケージがひとつ見え、顔を上げて視線を彼に戻した。
「あー、いや、口に合わなさそうやったら無理せんでええで? 持って帰ろか?」
「いえ、……ありがとうございます。いただきます」
 何も言えずにいるのを困惑と取られてしまったらしい。さり気なく寄越された気遣いには首を横に振って返して、袋を椅子の座面に戻した。もうひとつ膝の上に残ったペットボトルは温かく、焙じ茶のラベルがついている。
 息を吐き、手ですっかり覆える程度の大きさのそれをそっと手のひらで包んだ。

「種ヶ島さん」
「んー?」

 一年前、山奥の合宿所で同じように彼に焙じ茶のボトルをもらった夜を、覚えている。デジャヴに誘われて蘇る記憶を改めて辿りながら、徳川は彼を呼ぶ。
 あの晩は、今よりももう少し肌寒かった。
 晩秋の夜風が梢を揺らす音、澄んだ濃藍の空に浮かぶ明るい月と星。その中で彼と交わしたいくらかの言葉たちと、軽くふれあわせた拳の感触。それを、自分は確かに覚えている。
 過ぎ去ってしまった日々の中にふいに立ち返ったような心地で、気付けばぽつりと口を開いていた。

……以前、アナタが俺に話してくれたことを、覚えてますか」
…………
「『俺はお前みたいにはなれない』、と」

 命懸けで代表トップの壁に挑み、そして二度目の敗北を喫したばかりの自分へ、彼は静かに心のうちを聞かせてくれた。Genius10、ナンバー2の種ヶ島修二として、――同じようにトップを見据え続けるひとりの選手として、自分の隣にいてくれた。
 おそらく十五分にも満たない、ごくわずかな時間の出来事だ。それでも、あの日のことを忘れるはずがない。
……あのとき、俺はアナタのテニスの話をしていました。種ヶ島さんのプレースタイルと、トップを目指す姿が、自分にどう見えるかを」
 彼は何も言わず、ただまっすぐに自身を見据えている。
 先ほどまでの飄々とした表情はそっと潜められ、注がれる視線の真剣さに胸裡がさざめく。目を細めた。

「今年の……最後の合宿で、俺は日本代表のトップになります。皆ますます手強くなっているでしょうが、負けるつもりはありません」
……、」
「今までアナタが、どんな風にチームを守っていてくれたのか。ずっとトップを目指しながら、それを実行し続けることが、どんなに難しいものなのか。今になって、……ようやく少し、わかった気がします」

 訥々と言葉を選びながら、彼の名を呼ぶ。種ヶ島さん。

「俺もきっと、アナタのようにはなれない。チームの中心に立つ人間として、種ヶ島さんほどの視野も、器量も、柔軟さも、持ち合わせていない」
……徳川」

 彼だけではない。進むべき道を常にその背中で示し続けてくれていた上級生たちは、あの合宿所にはもういない。彼らのいないあの場所で、それでも自分たちなりの方法と答えを見つけ出さなくてはならない。指先を緩く握り込んだ。
「もちろん、可能な限りの努力はします。その上で俺に何ができて、何ができないのか。……俺は、それを知りたい」
 チームを背負って立つこと。
 受け継いだものを、次の世代へ繋いでいくこと。
 約束のその先へ、進む時が来た。
 まっすぐに彼を見る。視線を返す。夜風にかすかに揺れる銀糸の向こう、鳶色のひとみに自分だけが映っている。

「合宿が終わって、こちらに戻ってきたら。――よければ俺とまた、試合してください」

 最後に種ヶ島とシングルスの試合に臨んだのは、彼がひととき二軍に合流していた昨秋以来だ。昨年も合宿開始当初から一軍だった彼とは同じコートで過ごした時間も決して長くなく、個々の鍛錬さえ共に行う関係ではなかった。……けれども。
 導く手でも、背を押す掌でも、突き放す腕でもない。頂を見据え続ける日々の中、彼の存在は確かに同じ温度で自身の肩にふれていた。
 その熱に感じていた快さの名前を、徳川はまだ知らない。この秋を越え、山奥の合宿所をあとにするころには、答えを見つけられるだろうか。
 降り積もった沈黙を、車の走行音と駅前のざわめきが溶かしていく。彼の双眸がゆっくりと二、三、まばたいてから、うすく和らぐ。「せやな、」

「自分にできることはやる、できひん分は得意なヤツにちゃんと頼る。チームでやるっちゅうんはそういう意味や」
「はい」
……いや、まあ、べつに俺はお前が言うほど大袈裟なことしとったつもりないねんけどな?」
……そう、ですか?」
「お前やって俺があっちこっち構って回るん好きなん知っとるやろ?」
……………………
「そこで黙るんやめーや徳川~☆」
「っうわ、」

 思わず考え込んだ自分にからからと声をあげて笑った彼の両手が、ひょいと持ち上がり少々乱雑に自身の髪を混ぜていく。
 耳朶を掠めた指先の温度に何故だか心臓が逸って、誤魔化すように小さく肩を竦める。返した身動ぎはごくわずかなものだったはずだけれども、厚みのある手のひらは何事もなかったかのように離れていった。
…………何するんですか、まったく……
「んー? 特別サービス?」
「何がですか……
 乱れた髪を整えながら、聞かせるための呆れ声を返してわずかに俯く。前髪を梳く指先が熱いのは、ずっと握りしめていたペットボトルのせいだろう。おもてを上げるタイミングをどうにも掴みきれずにいると、自身の手のひらで遮られた視界越しに静かな呼び声が届く。

「なあ、徳川」
「はい」
……おーきにな」

 楽しみにしとるわ、合宿後。
 ベンチから立ち上がりざま、彼が呟くようにこぼした中低音と、肩にふれる手のひらの温度だけが、夜風に溶けないまましばらく残り続けていた。