kaisou
2026-03-16 16:01:40
8206文字
Public 私の記憶を離れないものがある
 

Aliquid est quod memoria mea non relinquit. 第5章

Aliquid est quod memoria mea non relinquit. 私の記憶を離れないものがある
1740年コンクラーヴェ話。本篇その2
第5章
視点違いの2つの話のうちの1つ。長いので連載にします。

選挙が、始まる。彼は、その名を記した。 誰よりも長く、誰よりも深く、その、硬度を信じ続けてきた名を。

※歴史創作なので悪しからず



 選挙が、始まる。コシアは、祈りを捧げる列の外側に佇んだまま、微動だにしなかった。 もはや身を乗り出して戦況を窺う理由はない。票数を指折り数える必要もない。この土壇場において、未だ数を追っている者は、未だ判断を下しきれていない敗北者だけだ。耳に届くのは、ただ一人の名だけだ。 一つずつ。一分一厘の間違いもない速度で、その名は繰り返される。 読み上げる声は一切の感情を剥ぎ取られ、厳格な儀礼の手順として、ただ事務的に処理されていく。誰も顔を上げようとはしない。 列に並ぶ者たちが一様に視線を伏せているのは、もはや敬虔さゆえではなかった。 確認すべき不確定要素が、この場のどこにも残されていないからだ。 ざわめき一つ起きないその静寂に、コシアは頷きもしなかった。ここにいる者たちは、すでに同じ、妥当へと辿り着いている。今さら、互いの表情を盗み見て意思を確かめ合う段階は、とうに過ぎ去っていた。
 名が呼ばれるたび、場は波打つように呼吸する。 その呼吸は前へも後ろへも動かない。ただ、一つの調律へと揃っていく。 合意を求める声は上がらず、確認の言葉も交わされない。それでも、そこに、揃っているという厳然たる事実そのものが、不可逆の合図となっていた。

——もはや、揺らぐ余地はない。

 そう理解したのは、コシア一人ではなかった。 誰かが号令を出したわけでもない。ただ、全員の胸の内にあった、同じ重さの判断が、同時に、深く沈殿した。名が一巡したところで、無言のままに書付が配られる。 紙が卓に置かれる乾燥した音だけが、列を伝う波のように広がっていく。
 コシアは、その眩いほどの白を前にしても、しばらく手を伸ばさなかった。 迷っていたわけではない。書くべき名は、決まっている。決まっていないふりをして、神に問う、振る舞いをする必要がないだけだった。羽根ペンを手に取る。 指先の動きは、極寒の路地を歩く時と何ら変わらない。 震えも、ためらいもない。

——ただ一度、呼吸が浅くなる。

 彼は、その名を記した。 誰よりも長く、誰よりも深く、その、硬度を信じ続けてきた名を。

《 Prospero Lorenzo Lambertini(プロスペロ・ロレンツォ・ランベルティーニ) 》

 綴りを確かめる必要はなかった。 力を込めることも、急ぐこともない。文字は整いすぎず、かといって崩れもしない。それは情熱を込めた署名などではなく、ただ揺るぎない判断として記されただけの符号だった。 書き終えたあとも、コシアはその紙面を見直さない。  しばらくの間、白紙はただそこにあるべきものとして置かれていた。胸の奥で、何かが静かにほどけていく感触があった。それは達成感でも、救済にも似た安堵でもない。ただ、ここまで来たという逃れようのない事実だけが、重みを持って沈殿していく感覚だった。やがて、コシアは投票用紙の端に指をかけた。 ためらいではない。再考でもない。ただ、この長く孤独な行為を、ここで終わらせるための必然の動作だった。
 紙を一度、内側に折る。音を立てることはない。 その名は、もはや外の世界に晒される必要がなかった。折りたたまれた用紙を、卓の上に静かに伏せる。 推し量ったわけでも、祈りを託したわけでもない。ただ、この場に残留すべき結論として、その手から放しただけだ。

——推したのではない。

 そう、彼は自分自身に、静かに言い聞かせる。 逃がさなかっただけだ。壊れないと判断した硬度を、誰の手にも摩耗させぬまま、あるべき場所へと押し留めただけだ。 コシアは再び、祈りの列の外側に身を引いた。もう、何かを見る必要は残ってはいなかった。
 最後の票が読み上げられたときも、コシアは息を詰めなかった。 この期に及んで感情を動かすのは、あまりに遅すぎる。 回廊の空気は変わらない。劇的な歓声も、激しい動揺も、あるいは安堵の吐息さえもない。 そこにあるのは感情の昂ぶりなどではなく、ただ、次の動作へと移行するための、ひどく事務的な気配だけだった。

——移る段階に入った。

 それだけが、世界に起きた唯一の変化だった。 コシアは、視線を動かした。 名の行方を追うためではない。その名が、最後まで流されることなく、この場の底に留まったことを、確かめるためだ。その確信と共に、彼は視線を切った。

——配置された。

 選ばれた、のではない。勝ち取ったのでもない。 この場が必要とした位置に、必要なだけの質量を伴って、ただ、置かれたのだ。 もはや、それ以上の意味を索(さぐ)る必要はない。深読みをする余地すら、この場からは完全に消失していた。 コシアは、その冷厳な事実だけをあるがままに受け取り、何も足さず、何も引かず、ただ静止した時間のなかに立ち続けていた。
 ランベルティーニは、予定通り配置された。 そして、受諾した。 その所作に、微かなためらいも、演じられた逡巡もなかった。コシアは、そのあまりの潔さに、息を詰める。

——ああ、逃げなかった。

 それだけで、十分だった。コシアがこれまでに被った『泥』の意味が、ここで初めて定まった。 続いて、静寂を切り裂いて教皇名が告げられる。

「Benedictus(ベネディクトゥス)」

 偶然などではない。教養に裏打ちされた遊びでも、伝統への形式的な迎合でもない。あまりにも、明確すぎる意思だ。 かつて、どん底にいた自分を拾い上げた教皇。 そして、このランベルティーニを拾い上げた教皇。信頼という甘い言葉を安易には使わず、ただ、壊れないと判断した者にだけ、冷たく、確かな手を伸ばした人。

——その名を。

 コシアは、たまらず、深く視線を伏せた。 そこにいる枢機卿たちと同じように、恭順の姿勢を示すためではない。もはや、制御しきれなくなった感情が、こぼれ落ちるのを防ぐためだ。これ以上、己の貌が歪むのを、誰の目にも晒したくなかった。

——あの人の名を、ここで使うとは。

 それは単なる誓いではない。美しき継承の宣言などでもない。 自らの逃げ道を、自らの手ですべて塞ぎ、断つための選び方だった。ベネディクトゥス。 愛し、そして誰よりも崇拝した教皇の名を継ぐということは、その巨大な影から、生涯逃げ出さないということだ。常に比較され、測られ、峻厳な記憶によって己を削り続ける未来を、最初からすべて引き受けるということなのだ。
 コシアは、息を止めた。 喉の奥が、ひどく熱い塊に塞がれる。 泣くほどではない。ただ、今この瞬間に声を発すれば、音を立てて壊れてしまうと分かる程度には、胸が熱かった。 目を伏せたまま、その名を、胸の内で一度だけ――祈るように呼んだ。

 儀礼は、そのまま淡々と進む。 一切の滞りはない。先ほどまでとは、もはや空気の質が決定的に違っていた。 沸き立つような歓声は上がらない。沸騰するような拍手も起きない。その代わりに、この場にいた全員の胸に、終わったという感覚だけが、重く、深く沈殿していく。ただ、戻れなくなったのだ。教会という巨大な船が、その行き先を、もはや変えられぬ境界の向こう側へと進めたのだ。
 コシアは、長く、ゆっくりと息を吐いた。

——ここから先は、彼の仕事だ。

 自分の役目は、すでに終わっている。 終わったはずなのに、胸の奥底では、妙な、しかし揺るぎない納得が静かに広がっていた。

——あの人が選んだ『もう一人』か。

 なるほどな、と。そう独りごちてしまった自分を、コシアは否定しなかった。 かつて、ベネディクトゥス十三世が、自分を、そしてこの男を見出したその審美眼は、あまりに正しかった。

——大した、男だ。

 そう思った。賛辞でも、感傷でもない。ただ、動かしがたい事実として、その強さを認めた。場は静かだ。 この静けさは、期待に満ちた始まりのそれではない。 すべての仕事が終わり、一つの時代が、静かにその幕を閉じたあとの静けさだった。