kaisou
2026-03-16 16:01:40
8206文字
Public 私の記憶を離れないものがある
 

Aliquid est quod memoria mea non relinquit. 第5章

Aliquid est quod memoria mea non relinquit. 私の記憶を離れないものがある
1740年コンクラーヴェ話。本篇その2
第5章
視点違いの2つの話のうちの1つ。長いので連載にします。

選挙が、始まる。彼は、その名を記した。 誰よりも長く、誰よりも深く、その、硬度を信じ続けてきた名を。

※歴史創作なので悪しからず



 翌朝、投票は定刻になっても始まらなかった。 名は揃っている。段取りも、人数も、厳格な形式も何ひとつ欠けてはいない。欠けているのは――ただ、一人。
……ランベルティーニ枢機卿が見当たらない」
 発せられた声は低く、控えめなものだった。その一言が、緻密に積み上げられた場の空気を傾かせる。 コシアは、事態を瞬時に理解した。 「逃げ出した」という卑怯な可能性が、列席者たちの脳裏を一瞬だけよぎった。同時に、その可能性を、誰一人として本気で信じてはいないこともまた、場を支配する奇妙な確信だった。

——まさか。
——いや。あの男が、この土壇場で、今さらそのような真似をするはずがない。

 逃げ道が完全に封じられたことは、本人が一番よく理解しているはずだ。その上でなお逃げ出すほど、ランベルティーニは軽くはない。かといって、聖座を差し出されるのを殊勝に待つほど、権威に従順な性質でもなかった。 だからこそ、彼は、見当たらないのだ。
 『羊飼いにならんとする迷える羊』の捜索が開始された。それは声高なものではなかった。名を呼んで騒ぎ立てることもなく、ただ一区画ずつ、静かにその行方を確かめていく。 コシアもまた、その『儀式』に加わった。主導はしない。そこから外れる理由もなかった。

——逃げたのか?

 頭の片隅に、その問いは澱のように残っている。コシアの歩みは止まらない。

——いや。違う。

 ランベルティーニは、追い詰められ、逃げ場を失うほどに、妙なところでふわりと力を抜く。張るべき場所と、どうでもいい瑣末なこと。その見極めが、常人とは決定的に違うのだ。
 回廊の最果て。使われていない小さな控えの間。冬の陽光さえも届かぬ薄暗い区画。 その扉を音もなく開けた瞬間、コシアは足を止めた。 粗末な椅子が二脚。その背に深く身を預け、外套を中途半端に掛けたまま、ランベルティーニは眠っていた。

——寝ている。

 呼吸は深く、驚くほど規則正しい。周囲の騒がしさなど露知らず、起きる気配すらもなかった。 コシアは、思わず肺の奥に溜まっていた熱い空気を吐き出した。

——図太いな。

 逃亡を企てるでもなく、敬虔な祈りに籠もるでもなく、ましてや土壇場の説得のために舌を研ぐでもない。 自らの運命が決する投票日の朝に、与えられた区画を抜け出し、名もなき椅子で、泥のように熟睡している。 コシアは、わずかに口角を上げた。声は出ない。肩も揺れない。ただ、喉の奥から、乾いた溜息が一度だけ漏れた。

——これだから、この男は面白い。

 苛立ちは湧いてこない。呆れさえも、なかった。 あるのは、遅れて胸に落ちてくる、重厚な納得だけだ。その胆力だけは、やはり最初から疑いようがなかった。

——ああ。

 やはり、あの人が『もう一人』として選んだだけのことはある。 追い詰められた極限の場で、必要以上に身構えることをせず、不要な恐怖に自己を浪費しない。この状況で眠れるということは、すでに運命への抗いをやめ、逃げ場を自ら捨て去ったという証明でもあった。
 コシアは、声をかけなかった。その肩を揺すって、現世に呼び戻すこともしない。 起きるべき時は、己の意志で起きる。そういう男だと知っている。背後で、追いついてきた誰かが小さく息を呑むのが聞こえた。 誰も笑いはしなかった。不謹慎だと責める者もいない。 コシアは静かに一歩下がり、集まってきた者たちに、『聖なる不在』の処理を委ねた。

——始まる。

 逃げなかったことでもなく、眠っていたことでもない。 この男が、ここにこうして、あるがままに存在している。その事実だけで、コシアにとってはもう、十分すぎるほどだった。コシアは、再び薄暗い回廊へと戻っていく。 自らの役目が、細部に至るまで完遂されたことを、静かに理解しながら。