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シノハラ
2026-01-17 00:37:18
35772文字
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Fake It 'Til We Make It
※呼称の改変あり、魔神任務8幕と世界任務後の時間軸なのでそれを前提にした描写が含まれます
春コミの本になる予定のンズイル♀です。
春コミの申し込み締め切りまでにある程度軌道に乗れば出たいな~とか言っていたら爆速で書きあがりました。
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終演を告げる優雅な役者の一礼に惜しみなく与えられた拍手が即興で組み立てられた舞台にまだ余韻を残していた。子供達は座席の上で弾むようにして騒いでいるが、物語を見届けた大人達はまだその世界から抜け出せずにいる。
日が落ちてからの公演だったせいか、舞台は思いのほかドラマチックだった。主演の女性の衣装が翻りスポットライトの光を弾くたび、客席の少女が小さく息を呑んだ。
もっとも、ストーリーの展開や台詞回しが子供には難しい部分も少なくはなかった。
劇団と共に海を渡ってきた屋台では、子供が父親を質問攻めにして困らせている。子供の質問を躱そうと、父親は甘そうなお菓子を指差して子供の気を引こうとした。その横をイルーガとフリンズは通り過ぎる。
「子供達を元気づけるのはあの劇を大いに楽しんだ大人達の責務なのでしょう」
屋台とフラグシップの料理を個室に持ち込んで遅い夕食にしながら二人で話し込み、今回の公演は大人のためにあったのだろうとフリンズは最終的に結論づけた。
「そうですね。僕もこれからまた頑張らないと」
異国の少し香辛料に癖を感じる肉料理を齧りながら、ふわふわと心に残る光景を思い返す。同じときめきを胸に家路に就いた人々は大半がナシャタウンの住人だったはずだが、最近は組織同士の交流が盛んになり窓口の仕事をすることも増えたのだ。
所詮自分は北を拠点にするよそ者だからなんて尻込みをしている場合ではなく、ナシャタウンに関わる人間として尽力していく必要があるだろう。普段から頑張り過ぎだと思いますがなんてフリンズの誉め言葉は聞き流しつつ、イルーガは意気込みを新たにグラスに口をつける。
最近少しだけ嗜むようになったアルコール特有の味はまだ慣れているとはいえないものの、度数が高くないものを軽くであれば翌日に残るような事もない。慌てずに少しずつ慣らして行くようにとは義父はもちろん横に座るフリンズにすら言われているので、今夜はカクテルを二杯だけ飲むことに決めていた。
フリンズに予定を告げるとでしたらと選んでくれたカクテルはどちらも甘くて口当たりが良く、本当はただのジュースの類なのではないかと思えてくる。それでも口に含んでいくと体がぽかぽかとし始めて眠気までとろりと忍び寄ってきたので、アルコールらしき物でイルーガを騙くらかしてはいないらしい。
「お嬢様はお疲れのようですね。今日はもう寝てしまっては?」
ふわりと出てしまったあくびを見逃さなかったフリンズに提案されて、眠気がイルーガの服の裾を強く引いた気がした。明日も一日休みだと思うと、普段感じるそれよりも抗いがたい魅力を感じる。
「そうですね、ええと、ベッドですけど
……
」
今まで気にしないつもりでいたが、さすがにいい加減指摘せざるを得ないだろう。恋人同士という建前上か、彼が今夜用意していた部屋にはベッドが一台しか配置されていなかった。シングルよりも広めになっているようなので、二人で眠ろうと思えば無理はないようにも思えはするものの。
「僕はそこの椅子で眠るつもりですからお気になさらず。おやすみなさい、イルーガ」
「ありがとうございます。すみません」
ああ、となんでもないことのような相槌を打ったフリンズはやっぱり当然のこととでも言いたげな調子でイルーガにベッドを譲ってくれた。夜間も含んだ巡回が主な業務と言っても差し支えがない職業なので渇いた床と被る布があればお互いぐっすり眠れるものの、譲ってもらった手前申し訳なさは込み上げてしまう。
「お気になさるのでしたら、枕を一ついただけますか?」
「ええ、もちろん」
ベッドに上がって並んでいる大きな枕を渡してやると、背もたれがついた椅子の方にフリンズが一旦枕を置いた。その後でベッドから二重になっている毛布を剥がして一枚渡そうとすると、今度は小さく首を振って固辞されてしまう。
「それではあなたが風邪を引いてしまいます」
「それはフリンズさんだって一緒でしょう
……
じゃあ、僕のコートをひざ掛けに使ってください」
「分かりました。それはありがたく使わせてもらいましょう」
イルーガの状況と比較すれば劣悪な環境で眠ろうとする彼に提案すると、そちらはあっさりと受け入れてもらえてほっとした。枕とコートを二枚使えばそれなりに暖は取れるようになるだろう。
「食器を戻してきますから、その間で寝間着に着替えておいてください。帰ってくるときはノックをするので、準備が済んでいたら返事をお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
食器を重ねて持ってきたトレイに乗せながら告げてくるフリンズに応じて、イルーガは枕の脇にあったパジャマを確認する。宿の部分と酒場の部分は直結しているのでさして時間はかからないだろうが、着替えをするには十分だろう。
一人になってから指輪をナイトテーブルに置いて服を脱ぎ、少々くたびれたパジャマに腕を通す。ズボンは気持ち長めにも思えたが、あちこち歩き回る予定もないので問題はなかった。
「フリンズです、戻りました」
「入って大丈夫です!」
廊下にも聞こえるように声を張りながら、できることなら自分が開けて迎え入れてやりたかったとちらりと思った。防犯面を考えれば、この部屋に鍵をかけて出て行った張本人が鍵を開けて入ってくるのが良いのは当然なのだけれど。
それでも彼はイルーガを家に留めておきたいなんて戯言を言っていたはずで、もしかしたら誰かがいる場所に帰りたいと思う気持ちは本当かもしれなかった。イルーガも一人で暮らしている手前、人に出迎えてもらえる温かさを求めてしまいそうになる瞬間がある。
「おかえりなさい。わざわざありがとうございました」
「いいえ、お口にあったようで何よりです」
入り口にかけていたイルーガのコートを持って戻ってきた彼が丁寧に借用する旨を告げてくるので、どうぞどうぞとイルーガも返す。フリンズは枕の使い道に少しばかり悩んでから、結局机の上に置くことにしたようだった。
「さて、では明かりを落としましょうか。おやすみなさいイルーガ。良い夢を」
「おやすみなさい。フリンズさんも」
少し埃臭さを感じる毛布を被って枕に頭を沈めると、フリンズが宣言通りに部屋の明かりを落とす。そうすると、見上げた先にある高いところの窓だけが妙に明るいのに気がついた。
他の窓は清掃が行き届いていないのか曇っているのに、一部だけ外からの明かりを通してくれている。もしかしたら、少し前にガラスが割れてそこだけ付け替えたのかもしれない。
ぎしりとフリンズが椅子に座る音が聞こえてから、イルーガはゆっくりと目を閉じる。そうすれば睡魔が覆い被さってきて、今日の出来事を思い返す間もなく暖かくて仄暗い場所にイルーガはとぷんと落ちてしまった。
* * * *
今夜は深く沈みこんで朝まで目覚めないだろうと思ったのが最後のはずだったのに、イルーガが目を開けたのは意外にも暗がりの中だった。ふわりと一つ欠伸をして寝返りを打って毛布を肩口まで被り直してから、まだ意識が覚醒しきっていないうちに寝直そうとする。
それから少しもしないうちに、微かな声が聞こえたような気がした。フラグシップの酒場は明け方近くまで営業しているようなので、そこからの声かと思って耳を澄ませてしまったのが良くなかったのだと思う。
「え
……
?」
次に聞こえて来たのは先ほど耳にしたよりもはっきりとした女の声だった。喋る口調よりもずっと高く、意味を持たない喃語のようなそれ。他人のそれを聞いたのは初めての事だったが、おそらく情事の、それも嬌声と呼ばれるものだと推測できてしまった。この声のせいで自分は夢の中から無理やり引き上げられてしまったのだろう。
はた迷惑なと一瞬思ってしまったものの、自分とフリンズも備考付きの恋人でなければ似たような事をしていたのかもしれない。宿と言うのはそういう使い方も想定されているのだから用法としては何の問題もないと納得させようとして、ようやくこの部屋にいるのは一人ではないのだと思い至り、イルーガはいよいよ飛び起きてしまった。
勢いよく跳ね起きたせいでぎしぎしと不満の声を上げるマットレスの上からフリンズがいるはずの椅子をおそるおそる窺ったが、幸いフリンズの姿は見えなかった。目を凝らして床を覗き込んでも崩れ落ちている様子もなかったので、イルーガはやっと飲み込んでいたままの息をゆるゆると吐き出す。
もしかしたら先に目覚めて居心地の悪さを感じ、真夜中の散歩にでも出てしまったのかもしれない。イルーガが彼の立場であったなら、見知らぬ女の喘ぎ声を聞きながら交流のある相手と同じ空間にいたいとは思わなかっただろう。
とはいえ一人残されてしまったイルーガまで出ていく必要があるのかは少しばかり悩ましいところである。単純な心情としては外に退避してしまいたい気持ちがあるが、ナシャタウンの夜は野外の夜とはまた違う危なさがあると聞いている。武器を持っていない状態で一人出歩いたのがフリンズにバレてしまえば、義父に告げ口をされてもおかしくはない。
であれば、居た堪れないことこの上ないこの部屋に居残るしかないのだろうと、イルーガは隣からの声が大きくなっているような気がしつつも観念するしかなかった。場の空気を吹き飛ばしたい一心でベッドに勢いよく倒れ込むと、眠る前に見えた窓が再び視界に入る。窓からは月明かりが差し込んでいて、イルーガが舞い上がらせたであろう埃をきらきらと輝かせていた。
その光を見上げながら、外を歩いているかもしれないフリンズもこの月明かりに照らされているのだろうかと思いを馳せる。多くの者が寝静まっているだろう街を彼がゆったりと歩いているのを想像して、なぜかそれがとても奇跡的な事のように思えてしまった。
この世界のこの時代に、彼が自分達に寄り添って生きていること。あれだけの力があって彼ほどに他者との縁が薄ければきっとどこにだって行けただろうに、それでもナド・クライを選んで暮らしてくれていること。そうしてそんな人が、イルーガの些細な悩みに付き合ってくれていること。
今夜はその一つ一つが酷く特別な出来事のように思えて仕方がなかった。彼の姿が見たいと思う。願わくば、その隣を歩けたらとも。
フリンズと肩を並べて歩くには、自分がまだまだ実力不足であることも重々に理解している。彼の歩みを緩めさせるのはイルーガの本意では全くない。けれど。
それでも、と形作られようとした思いは悲鳴にも似た女の嬌声に掻き消されてしまった。急に現実に引き戻された衝撃にどくどくと心臓が空回るように音を立て、イルーガは身を縮めて深い呼吸を繰り返す。その鼓動が収まる前に自分の心の内で生じ始めていた気持ちに気がついて、ひやりと臓腑が冷える心地がする。
今自分は。そうイルーガは自身に問い質すが、芽生えかかったそれは糾弾を避けるように隅に逃げてしまい上手く捕まえられない。そうこうするうちに思考にまた途切れなく続いていた女の声が混ざり込んできて、堪らずイルーガは両手で耳を塞ぎ目を硬く瞑った。
女の悲痛さすら感じる声が一向に止まないので、本当に合意なのか次第に不安になってくる。けれど、それは男女の交わりを知らぬイルーガが無知故に恐れてしまっているだけで、もしかしたら普通の事なのかもしれない。
そう思うと、イルーガは毛布の中に潜り込んでなるべく何も考えないようにするしかできることがなかった。気を抜くと今日一日イルーガを恋人として丁重に扱ってくれた彼がそういう側面を持っているか頭が勝手に考えようとし始めるので大変よくない。
そんなイルーガの奮闘を知ってか知らずか、一時間もしないうちに隣の部屋は静まった。ようやく静寂を取り戻した室内でうとうととしていると、ゆっくりと錠前を回し扉を開く控えめな音が鼓膜を軽く弾いていく。
フリンズが帰ってきたのは明白だったが、イルーガは咄嗟に狸寝入りを決め込むことにした。自分が起きていた理由を気取られてしまったら、気まずいどころの話ではない。
彼の足音はイルーガのためにほとんど殺されていて、どれくらい部屋に入り込んできているのかはよく分からない。ただなんとなく、彼の気配が近づいて来ているような気がしていた。
彼は椅子に戻るとばかり思っていたのに不意に髪へ刺激があって、ぴくりと指先が弾んでしまう。その反応で狸寝入りを見透かされて見逃してもらえるかと思ったが、どうやらフリンズは少なくとも気がつかなかったことにしたらしい。
優しく繊維を撫でる指先が髪質を確かめるように髪を少しだけ持ち上げて、指紋で軽く擦り合わせたようだった。その髪がそっと戻されてから、今度は額を撫でながら前髪を避ける。武器を持つにしては酷く繊細な指先だと思う。もしかしたらイルーガより余程滑らかなのではないかと案じてしまうほどに、その指先は額に不快感を覚えさせない。
そうして彼は腰を屈めて背を丸めたようだった。彼の身につけている香水がほとんど掻き消えた後の微かな残り香か、彼そのものの匂いなのか判断がつかないものが鼻先を擽って、額に微かな重さと柔らかさが与えられる。その優しい感触に、イルーガの鼻がつんと痛んで瞼の下でじわりと涙を滲ませる。心の隅に逃げた思いがイルーガの中で膨れ上がった。
――
分かった。ようやくぜんぶ、ぜんぶ分かってしまった。
彼がどうしてここまでしてくれたのか。どうしてイルーガが踏み込み過ぎだと彼を拒めなかったのか。
ぜんぶぜんぶ、本当だったからだ。彼が主張し続けていた通り、フリンズは最初から一つも嘘など吐いていなかった。本当はずっと前から、イルーガだって気がついていたのかもしれない。全てを理解してしまった今となっては、そんなふうにも思ってしまう。
そっと瞼を持ち上げると、視線を静かにイルーガへ落としているフリンズが見える。この人はこんな眼差しで人に口づけを贈るのだと、イルーガはようやく知ることができた。同時に、自分は彼の事を本当に何も知らないのだと痛感させられてしまう。
それなのに。人はほとほと合理性とは遠い生き物なのだと、劇のヒロインが主役に告げたのを思い出す。イルーガはフリンズを知らない。どこで生まれ育ち、どうしてライトキーパーの一員になる事を決めたのか。
どんな人物を嫌い、好むのか。慈しみを抱く相手にどのような眼差しを与えるのか
――
は今しがた理解した。数少ないイルーガが知っているフリンズの事を思い返し、その概ねを好ましいと思ってしまう。
「フリンズさん」
「
――
イルーガ」
まだ眠りきっていないつもりでいたのだけれど、ドアノブの音で目覚めるまでしっかり寝入っていたのかもしれない。思わずそう考えてしまう程度には掠れた寝起き独特の声で彼を呼べば、一つ瞬きをしてからフリンズはイルーガの名前を呼んだ。その声は常とは少し違うような気がして、これが彼の情熱なのだろうかと思う。
あ、と喉が掠れた音を出したのはフリンズの指先がイルーガの顎を掬ったからだった。決して恐ろしかったわけではなかったのだけれど、彼がまるで窺うようにイルーガのまなこを覗き込む。その眼差しに居心地が悪くなってイルーガが視線を揺らがせてしまったのを見て彼は口角を緩め、イルーガの中に恐れがないことを確信したらしい。
「
――
……
」
唇に触れるだけの口づけだった。唇が微かに歪み、互いの柔らかさと温度を感じられるだけの慈しみを与えるようなそれ。その僅かな接触を拒む時間を十分与えられていたものの、イルーガは結局最後まで抵抗するつもりにはなれなかった。
「あなたに伝えるべき言葉を考えながら外を歩いていました」
顎から手が離れて、それからフリンズがイルーガの首から見えるケロイド状の古傷を労るように撫でる。やはり彼は夜道を散歩していたらしい。
「外
……
月は綺麗でしたか?」
イルーガが窓からの月明かりを見上げていた時、月は一体どんな姿をしていたのだろう。彼の頭上のもっと上から差し込んでいる月明かりはまだとても明るい。
「ええ、とても。今宵見上げた夜空を僕はきっと生涯忘れられないでしょう」
ランプを掲げなくても石畳で躓くこともないような、とても明るい夜だったと彼は言う。とてもとても明るくて、それでいて他の星々を掻き消すようなこともない不思議で優しい常夜灯。
「
……
ですが、それ以上の成果はありませんでした。同じ相手に二度告白するのはなかなかに難しい」
「今までずっと本気だったんですか?」
フリンズの片手が首筋から離れて、今度はイルーガの頬を包み込む。じわりと伝わる温度を受け入れながら、イルーガは答えの分かりきった問いかけをした。分かっていても、すべて言葉にしてほしいと思う。
「もちろん。すべて本気でした。うかうかしているうちに他の男に盗られかかるなんて失態を犯したのも、あなたが特別になった理由も、贈り物を身に着けてもらいたいのも、機会があるなら家で出迎えてほしいと思うのも、すべて本当です
……
まだ信じられませんか?」
一つ一つフリンズが既にイルーガに伝えてくれていた内容を諳んじて、最後に鈍い子供に言い聞かせるような調子で尋ねてくる。普段なら引っかかるはずの口調に何の違和感も覚えられないままイルーガが首を横に振ると、フリンズは満足そうに目を細めた。
それからフリンズがベッドに腰を下ろして、くたびれたマットレスがぎしりと音を立てる。まるで自分を怖がらせないようにとでも言いたげに離れていく指先を反射的に捕まえると、温かな手はイルーガのされるままになってくれた。
今思い返せば、指輪を嵌めてくれた時も彼の手は温かかったはずだった。それでも長らく毛布を被っていた自分が温かいと感じるなんてさすがに変な話だと思って、結局真相が有耶無耶なままのフリンズの出自が気になってしまう。
人ではない生き物はこんなにも温かいものなのだろうか。それとも、イルーガに触れるために手を温めてくれているのだろうか。もし後者であるとするなら、なんて優しい存在なのだろう。
「僕に情けをいただけませんか?」
表情の変化を一つも見逃したくないと言いたげに自由な方の手をマットレスに突いて、フリンズがイルーガの顔を覗き込んできた。普段は行儀よく彼の背中に収まっている髪が一束流れてシーツに落ちていく光景に気を取られながらも、イルーガの心臓はぎゅっと縮こまっている。それは決して、フリンズを恐れているからではない。
「
……
内容によります」
「そう言われてしまうと、お願いするのに随分と勇気が要りますね」
微かに彼が苦笑したかと思うと、手を解かれて再び頬を撫でられた。耳たぶを掠めた指先が刺激に竦めてしまった首をなぞってまた傷痕に下りたかと思うと、そこから少しずれた場所を押さえられる。
その下にはどうやら動脈があるらしく、自身の血管がとくとくと脈打つ感触がイルーガにも伝わった。あと少し傷を作る場所がずれていたら、イルーガの命はなかったのだと今更ながらに気づかされる。
命の信号を確かめる仕草が彼を人ならざる者に引き寄せるのは、イルーガが彼を怪しんでいるからだろうか。疑惑の種となる要素はいくらでもあるのだが、少なくとも今は彼を問い質す気持ちにはなれない。
彼が誰だって構いはしない。何を求められても、もう何も拒めないだろうと思った。彼のまなざしと指先がイルーガをどう思っているのかを伝えてくれて、じんと脳髄が痺れる。
このひとは僕を愛している。その事実がイルーガの心を甘く溶かし、眩暈のような感覚を引き起こした。そこにはかつて覚えたような困惑は少しもない。
「数多の衆人のために暗がりを照らす方。今夜だけ、あなたを僕だけのものにさせてください」
彼が話し始める瞬間、僅かに空気が揺らいだ。それが彼の緊張であったり、勇気を振り絞るためのものであると気がついて、イルーガの体の芯がふるりと震える。
彼にとってそれが宿願と呼ぶべきものであり、同時に恐怖を抱くものなのかが手に取るように分かる。今この一瞬において、イルーガはこの男をどうとでもできるのだ。もう答えは決まっているにも関わらず、その事実に驚きと確かな興奮を覚える。それから少しのいたずら心も。
「
……
駄目、です」
フリンズがどんな答えを予想していたのかは分からない。それでも近くにいてようやく見分けられる彼の瞳孔がきゅっと縮こまって、イルーガに触れていた手が離れようとする。
その手をイルーガはまた慌てて捕まえて、強く引いて彼を引き留めようと力一杯引き寄せた。ただ、フリンズも今度は留まるつもりはなかったらしく、体重が軽いイルーガの方が勢い余って起き上がってしまったのだけれど。
「駄目です、一晩だけなんて」
え、と小さなフリンズの声が聞こえて、少しばかり気分が良い。こんな時に紛らわしい言い方をするなと彼は思っているかもしれないが、フリンズだってずっと紛らわしい事をしていたのだからおあいこではなかろうか。
「僕達、お付き合いをしているんでしょう?」
「
……
ええ、そうでしたね」
フリンズの安堵に満ちた吐息に相槌が混じる。愛おしさを込めて彼の名を呼ぶと彼が背を丸めてくれて、背の低い自分と視線が近づいた。
イルーガはもう子供と呼べる年頃ではないけれど、叶うなら少し背が伸びるといい。そうすればもっとフリンズとの視線が近くなるはずで、こういう瞬間にお互い苦労をせずにすむようになるだろう。けれど、現時点ではただのない物ねだりでしかないので自分から顎を上げて、背も伸ばしてからイルーガは瞼を落とす。
三度目の口づけは二度目よりずっと長かったが、やはり触れるだけに留まった。唇が離れてからフリンズがイルーガの体を引き寄せて、少し息苦しく感じてしまうくらいに抱擁される。まだ成長過程にあるはずの胸が彼の胸板に押し潰されて痛みを感じるほどだったが、彼が性的な接触をまだ求めていないのは脇腹に回る指の感触から伝わってきた。
ならばとイルーガももぞもぞとフリンズの背中に手を回し、彼の鎖骨の辺りに頬を押し付ける。そうすれば頭に動物がじゃれ合うようにフリンズの頬が擦り付けられた。
最初こそ体温を分け合う触れ合いに満足していたのだが、しばらくするうちに彼の申し出を思い出して不安が滲み出てくる。彼はイルーガを自身のものにしたいと望んでいたはずなのだけれど。
「あの
……
フリンズさん?」
「もう少しこのままでいさせていただいてもいいでしょうか」
結局イルーガを膝の上に乗せた彼が肩口に額を乗せながら少し甘えた声で告げてきて、ちょっとごまかされたような気分になった。自分が誰から見ても大人そのものであったなら、彼は望んだ通りの手段に及んでいたのではないだろうか。
「僕がまだ子供とは言えない程度の年頃でしかないから、そういう事を言うんですか?」
「
……
御存じないかもしれませんが、ここの宿は大分壁が薄くて」
「ああ
……
」
「おや、お嬢様も聞きましたか?」
「あ、いや、そうでなくて、その
……
もう!」
あたふたと言い訳をするイルーガがフリンズには大分滑稽に見えたらしく、くつくつと笑う振動をイルーガに伝えてきた。
「あの方々はそうではなかったようですが、僕はほどほどに嫉妬深くもありまして。あなたが明日以降も僕の恋人でいてくれるのであれば、今夜はこうやって抱き締め合って眠りたいと思ってしまいます。きっとこれからあなたと眠る夜はいくらでもあるでしょうが、この瞬間は一夜だけでしょう。それなのにただ激情に流されるだけでは少し惜しくも思えませんか?」
あまりの事に頭から抜けてしまっていたが、彼が最初に持ち出してきた理由は慎重になるべき問題のように思う。もし自分があんな声を出す羽目になったとして、見知らぬ誰かに聞かれるなど考えたくもない。きっと一晩だけなら彼もそんな事も言っていられないということだったのだろうが、思いの通じ合った今急ぐことでもあるまいとフリンズは判断したようだった。
「そうですね、そうしましょう」
彼の提案に応じて会話するために上げていた顔をフリンズの体に再び擦り付けながら、そういう悠長な愛情の注ぎ方が彼本来の愛し方なのだろうとイルーガは考える。彼は煌びやかな物を蒐集してはいるものの、日頃それらを見せびらかすような真似はしない。自分のためだけに煌めくそれらを小箱から出して、ゆったりと愛でている姿が目に浮かぶようだった。
自分達の関係を吹聴して回るような事はもしかしたら彼の本意ではなかったのかもしれない、などと推測してからちょっと怪しいところだと思い直す。なにせ、彼はイルーガをからかうのも大好きなので。
彼の行動が本意だったかどうかは時の流れが教えてくれるかもしれないが、イルーガはそこまで気が長くない。そう率直に告げてしまえばこの人にまた子供っぽいと思われそうなので、慎重に言葉を選ぶ必要がある。
恋人の回答に満足したらしいフリンズはそっとイルーガの目尻に口づけた。それを合図にしたように二人でベッドに倒れ込み、額を合わせて瞳を覗き込む。
「僕からもお願いをしていいですか?」
「内容によります」
自分が先ほど彼に告げた言葉をそのままそっくり返されて、イルーガは思わず笑ってしまう。これはしばらく根に持たれるかもしれない。
「僕と恋人になってから今まで、君がずっと何を考えていたか教えてくれませんか? 楽しかったことも、楽しくなかったこともぜんぶ」
「
……
お嬢様が途中で飽きて眠ってしまわないのであれば喜んで」
少し回答が遅れたのは話すべきエピソードを数え上げていたからだろうか。どうやら今回は今日はここまで、次回をお楽しみになんて言われることもなさそうだ。これは太陽が上がって月明かりが掻き消えてしまうまで寝かせてもらえないかも知れないと覚悟を決めて、彼だけが知っている物語を知るためにイルーガは額をすり合わせながら頷いた。
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