三本の酒の味を見終え、業右衛門が最後のグラスを置いたそのとき
――
コト、と
椅子がわずかに
軋む。
気づけば
韶朧が、するりと彼の隣へ腰を移していた。
距離は、息が触れそうなほど近い。
「酔いが回りやしたか、姫さん」
業右衛門は
軽口で受ける。
だがその
声音には、わずかな探りも含まれていた。
韶朧は、目を細めたまま言い返す。
「わらわが酒に強いのは、アンタが一番よく知ってるだろうに。」
言葉より、体温の方が
雄弁だった。
肩、腕、腰
――寄りかかる重みが、少しずつ増えていく。
韶朧は指先を軽くひらひらと動かした。
その合図だけで、手下たちは
互いに目を
配せ、
すぐに意味を
察してスルスルと静かに退室していく。
扉が音もなく閉まると、部屋の空気はぐっと静まりかえった。
彼女の指先が業右衛門の
袖をつまむ。
「
……なるほど。今日は、そういう気分ですかィ」
悪魔は
苦笑しながらその意味を受け取る。
拒む理由も、
煽る必要もない。
強引さでも甘えでもない、
“そういう夜もある”と告げるかのような
曖昧な温度。
「客の
要望には
応える
…ただそれだけが、あっしの
流儀でさァ」
“ここから先は
余計な目はいらない”
そう言うように
韶朧の手が彼を押し倒すようにして、組み
敷く体勢へと移った。
力強いわけではない。
けれど、彼女がこの流れを選んだという
意思は確かだった。
業右衛門は抵抗ひとつ見せず、
淡々と、しかしどこか楽しげに目を細める。
彼の
腰元に触れた指先が、結び目を
探る。
ほどける音は小さく、確かだった。
「
……まぁ、売り物にならねぇ男ですが。それでもよけりゃ、好きにしなせぇ」
そうして夜は、商談でも欲望でもない、
“ただ流れに
従っただけの時間”へとそっと沈んでいくのだった。
「
………はぁ
……」
どれほど
愛撫を重ねても、
衣が乱れ、肌に触れられても、
目の前の狐は、表情ひとつ動かさない。
ただ、
石像のように
静観している。
その
不動さは、不死の妖怪である
韶朧のほうが思わず深いため息をつくほどだった。
「
……あんたってやつは本当に反応が薄いねぇ。身体は正直なくせにさ」
艶っぽい声でわざと挑発するように言う。
だが
――
「
身体に出る反応は、男としては当然のはたらきでさァ。
──でも、それと“気持ち”は
別物で」
飄々としていて、どこか線引きがある。
本能に流される気配も、浮ついた欲もない。
それが余計に
面倒くさい。
だが、完全に無反応というわけでもない。
指先で胸元をゆっくりとなぞれば
その動きに合わせるように、彼の息が
浅くなる。
彼には“
快”という
概念が存在する。
ただそれは、外から与えられた刺激を受け取るだけのもので、
彼自身の内側から生まれるものではなかった──
そこがまた彼女を困らせるのだ。
だから女王のように
跨ったまま、彼女は子供のように
我儘を吐いた。
「たまには“
積極的”になってみせても、バチは当たらないんじゃないかい?」
それは命令でも
挑発でもなく、珍しく“素直な願い”に近い何かだった。
業右衛門は初めて、ゆっくりと視線を彼女に向ける。
その目はいつものように
薄笑いでも、
茶化しでもない。
ただ静かに、“新たな注文を受けた商人”のように
真面目だった。
「
……そう望むんですかい?」
「この
程度で満足するとも思ってないだろ?」
迷いなく返す言葉─。
彼女の指先が、
狐の
顎をかすめ、閉じた
唇を優しく
撫でた。
その瞬間、業右衛門の表情がほんの
僅かに変わった。
笑ったのか、興味を示したのか、
判別できないくらいの
微かな変化。
「
……そういう“注文”なら、そりゃ応えにゃ商人がすたりまさァ」
彼はゆっくりと
上体を起こし、
韶朧の腰にそっと手を
添えた。
その動きは強引でも
荒々しくもない。
けれど確かに“動く側”の力。
業右衛門は
囁くように、いつになく低い声で言った。
「
……なら
――今夜は少しばかり、“
積極的に”いかせてもらいやしょう」
言い終わるより早く、
腰に置かれていた手が、
衣の
隙へと滑り込む。
逃がさない位置を確かめるように、
指がしっかりと
韶朧の腰を
捉えた。
それは誘いではなく、
“こちらが引き受ける”という合図だった。
韶朧の呼吸が
微かに
揺れる。
「ふふ
…そう来なくちゃねぇ」
喉の奥で転がすような笑みとともに、
韶朧はそう
呟く。
次の瞬間、彼女は業右衛門の首に両腕を回し、ためらいなく体重を
預けた。
引き寄せる、というより
――引き込む。
後ろへ倒れ込むその動きに
導かれるまま、
業右衛門の身体が
覆い
被さる形になる。
衣擦れの音が小さく
鳴り、距離は一気に失われた。
視線が
絡み、呼吸が重なる。
韶朧の指先は、衣の下へと回り込み、
熱を帯びた彼の背中の線を、確かめるようにゆっくりなぞっていく。
その口元には、まだこちらを試す側でいる者の静かな余裕が
滲んでいた。
それでも
――
今この瞬間だけは、確かに。
主導権という
天秤が、その夜だけ静かに
傾いた。
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