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残りの夜が来た
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新しい朝が来た/残りの夜が来た
初出:
2025/5/3 同人誌「新しい朝が来た」 狂児
2025/5/5 ピクシブ「残りの夜が来た」 狂聡狂同軸リバ
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「歌いるんかこれ」
刑務所のラジオ体操はラジオの放送に合わせて行うのできっちり六時半から、しかも歌を聴くところから始まる。毎朝のことなのにも関わらず毎朝文句をつける同じ雑居房のおっちゃんのぼやきを聞かされるのが、俺の新たな日課となって久しい。
「なぁ兄ちゃん、歌要ると思うか?」
さらに面倒なことに、おっちゃんは毎日、ラジオ体操の歌不要論を唱えては意見を求めてくるのであった。俺だけに。
なんでそんなことを気にするのかは知らないが、ターゲットが俺である理由は簡単で、おっちゃんが気軽に話しかけられる人間が俺くらいしかいないからという、人間ってどこまで行ってもそういうとこあるよな、というものだった。雑居房の住人は俺、おっちゃん、「スゥー」という吸気と舌打ちと貧乏ゆすり以外に一切の音声を発さない若者、そして最近入ってきたガタイのいい色男で、俺がおっちゃんでも多分俺に話しかける。親しみやすいから。
ガタイのいい色男の名は成田狂児。祭林組の若頭補佐である。
雑居房に成田狂児が入ってきた時は心底ギョッとしたのだが、おっちゃんも若者も彼が何者か知らないらしく、目に見えて動揺していたのは俺だけだった。ちなみになぜ俺が成田狂児の正体を知っているかというと、俺が実は裏社会の人間だからというわけではなく、単に俺がそういう情報ばかりを集めた雑誌をガキの頃から愛読しているからだ。そんな理由なので、そしてそもそも気づいているからなんだという話でもあるので、俺もまた成田狂児に関しては何食わぬ顔をしてすごさざるを得なく、そうこうするうちに気づけばひと月。何食わぬ顔もすっかり板についてきたところであった。おっちゃんの相手と同じくらいには。
「俺は別に要らへんけど、あってもええよ」
「兄ちゃんの気持ちを訊いとんちゃうねん」
「うっといなホンマ。ずうっとあるってことは要るんやろ」
「自分毎朝そう言うけどなあ
……
もっと気の利いたこと言われへんの。そんなんやから捕まるねん」
毎朝。そう、毎朝これなのである。助けてくれ。
シャバでこの絡みをされたら俺は間違いなくこのおっちゃんをボコボコにしていたと思うのだが、ここは刑務所である。つまらないことをしてここに居座りたくないので、俺は模範囚として毎日この問答に付き合っているというわけだ。若者のようにはじめから軽口受付禁止にしておけばよかったと後悔しない日はないが、そうしなかったのは俺である。もうこれは仕方のないことだと諦める他なかった。
「俺なぁ、夢の中でもこの歌聴くねん。ほんで夢の中でも体操しててん。悪夢や」
「ほんならもうやらんかったらええやん。寝ときや」
「それがな、俺、シャバにおった頃もラジオ体操しとってん。現場で毎日な。今辞めてもまた外でやることになると思うわ。やからこれは一生続く悪夢やねん
……
」
気の毒な話であったが、それも毎日聞けば耄碌しとるなこのおっちゃんという感想にしかならない。俺は何も答えずに、腕を前から上に上げて大きく背伸びの運動を始めた。若者も祭林組の若頭補佐も、そしておっちゃんも可哀想に、音楽に合わせて腕を左右に振り足を曲げ伸ばした。
体操が終わると朝食、その後受刑番号が呼ばれるのに対して名前を答えるという小学校みたいな儀式の後に、各人が割り当てられた作業場へと流れていく。俺は陶芸の班だった。
陶芸といえば聞こえはいいが、茶碗や皿ではなくタイルを作る。決まった寸法の灰色のタイル。どこで使われるのかは知らないが、学校のトイレなんかに張り付いていそうなつまらないやつである。それを成形班が成形し、焼成班が焼いたものを、搬出班が外へ運ぶ。
俺の分析によれば、おしゃべりな奴は成形、力があるやつは搬出、そして黙々と働く奴が焼き場に行くことが多い。俺は大体焼き場に回される。おっちゃんとベラベラ話している割に無口という評価を得ているようだったが、それは特に喜ばしいことではなかった。どう考えてもこの三つの中で焼き場は貧乏くじだからだ。焼き場は暑く乾燥しており、窯が轟々鳴る音がうるさくて、そのくせあちこち動き回るわけでもないから、淡々と手を動かす他に意識の逃げ場がないのである。もしとてつもないおしゃべり野郎が頑張って会話を試みたとして、間違いなく一時間経たぬうちに無口な陶芸ロボット・焼き専用になる。そういう環境である。そう、俺はまたしても貧乏くじを引いているのである。助けてくれ。
俺の知る人間の中でもう一人、焼成班に回されがちなのが成田狂児だった。
あのガタイだから搬出に回せばいいのにと思うが、彼が陶芸に入る時は決まって焼き場にいた。口数が少ないというだけでここに配属されているのならば気の毒だったが、成田の淡々とした焼き作業はちょっと胸を打たれるものもあり、この働きぶりが評価されての配属なのだかもしれないという幻想を抱きそうになるほどだった。どうせこの男はシャバに出ても元の職に就くのだから、仮にこの刑務所が大変に人道的な方針のもとに運用されていたとしても、そんな配慮がなされるわけがない。彼が焼き場に入った日はタイルの生産量も倍くらいになっているのではないかと錯覚するほどだったから、人道的な話よりも生産性の話かもしれない。こちらの幻想であれば俺もすんなり納得ができた。
成田を見習い、俺たちは無言で成形されたタイルを焼き続けた。美しさもクソもない、純粋に用途しかないこの四角いタイルを作っていると、俺という人格が汗と一緒に流れて蒸発しているような気分になり、俺は実は、おしゃべりができないことやこの暑さや騒音より何より、その気分が一番嫌いだったのだが、成田を見ていると、この気分そのものすらあっさり流れて蒸発し、消えていくのを感じた。
俺は多分それが恐ろしかった。成田狂児に話しかけようと決意してしまうくらいに。
「成田さん」
休憩時間に初めて話しかけた成田は、凛々しい片眉を上げてこちらを見た。「はい」
「成田さん、陶芸やってはったんですか」
「は?」という表情に俺は内心ビビりまくっていたが、俺は彼が”あの”成田狂児であることを知らないていで過ごしているので、恐怖を飲み込んで返答を待った。胸中で一生懸命、俺はあの耄碌したおっちゃんや。俺はおっちゃんで成田はおっちゃんにとっての俺や、と虚言を唱えていると、成田は「いや全然」と首を振った。
「そうですか。いや、えらい慣れてはるから」
「もうひと月おりますしね」
「俺は二ヶ月やけど、慣れませんわ。あのタイルもあかんわ。茶碗とかやったらよかったのに」
「なんでですか」
質問が来たことに驚いた俺はヒッと息を飲んだが、それを咳払いで誤魔化し、「茶碗とかの方が人間味があるやないですか」と言った。「茶碗やったら多分一個一個違うように焼き上がりますわ。機械で作って機械で焼いてもそうなりますわ」
知らんけど。ペラペラ一息に吐き出すと、成田は「なるほど」という顔で頷いた。「陶芸やってはったんですか」
「いえ」
「
……
」
やってへんのかいと、俺は自分でツッコんだ。急激に投げやりな気分になってきたが、関西人の口はどうにもどうでもいい話をヘラヘラと続けてしまう。「やってへんけど、俺がもし成形班やったら、タイルの後ろに名前彫りますね」
とはいえ俺もこれ以上キャッチボールが続くとは思っていなかった。
だから、成田が虚をつかれたような顔でこちらを見て、「なんで?」と問い返してきたことには心底驚き、またしてもヒッと息を飲んでしまった。それが到底誤魔化しきれない音量だったことに一層慌ててしまったために、
「俺が作りましたいう意味で」
と、なんの工夫もないことを答えた。
「歌いるんかこれ」
「
……
」
六時半過ぎ、いつもの問答が始まっていた。俺はげんなりしながらおっちゃんを見た。「要るよ。いるからあんねん」
「それは思考停止ちゃうか。まだ若いのに。あかんで」
「もう若くないよ」
「俺からしたら小学生や」
ほんならそっちのイライラしとる若者は赤ちゃんか。やからおっちゃんはずぅっと俺に話しかけとるんか。若者はいつも通り、俺たちの会話なんか一つも聞こえていない、この世には自分しかいない、という顔で無視を決め込んでいる。赤ちゃんやったらもう少し世界に興味あるよな。ほな赤ちゃんちゃうか
……
「歌がなかったら味気ないやん」
「そうそう
……
」
フラストレーションのあまりイマジナリーフレンドと会話を始めていた俺は、おっちゃんのぼやきとも、若者の「スゥー」という呼吸とも、はたまたラジオ体操の歌とも異なる音に対し、条件反射で返事をしてしまった。後から驚きがやってきたので二の句を継げない。
成田の口から独り言のように吐かれたラジオ体操の歌不要論へのカウンターに、おっちゃんは「一理あるわ」と深く頷いた。「マツリの若頭はちゃうなぁ」
俺はギョッとしておっちゃんを見た。おっちゃん若頭ちゃう若頭補佐やで、おっちゃん知っとたん? おっちゃん知っとって話せるん? おっちゃんなんで今まで俺だけに絡んどったん? などの言葉が出口を求めて殺到した結果、それら全てが消滅し、ただぽかんと空虚を湛えた口が開いた。
「補佐です」
「若頭の? 若頭補佐?」
「そうです」
「ほぉん。何したん」
「暴行」
「若頭補佐がか? どないしたん」
「色々あって」
ラジオ体操の歌に聴き入っているふりをして、俺はその会話をただ盗み聞きしていた。ラジオ体操の歌があってよかった。なかったらこんな会話よう聞かへんやろうし
……
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