新しい朝が来た/残りの夜が来た

初出:
2025/5/3 同人誌「新しい朝が来た」 狂児
2025/5/5 ピクシブ「残りの夜が来た」 狂聡狂同軸リバ

新しい朝が来た


 1

 特に家族と折り合いが悪かったわけでもなかったので、気づいたらこうなっていたとしか言いようがないのだが、当時の狂児は、複数の人間の部屋を転々としながら生活していた。
 無職の時もあったしアルバイトをしているときもあったし、序盤は学生でもあったが、いずれにしても大体は家主のほうが稼いでいた。だからといって狂児が家主の身の回りの世話をしてやるということも特段なかったのだが、それでも狂児が必要とされるのは、呼べば来るからである。狂児はそう理解していた。
 そのとき出入りしていた部屋の一つは、風俗店で働く女性の部屋だった。彼女の部屋はいつも必要以上にあたたかく、籠った熱で立っていると頬が火照ってくるような温度だった。狂児が彼女を訪ねるのは大概夜勤明けで、同じく夜通し働いてきた彼女は、仕事でも飲むのだろうに、狂児が買ってくる酒を飲んでから寝るのが日課になっていた。
 玄関を開けると「やっと来た~」と高い声がする。「お帰り~」
 絶対に買ってこいと言われた唐揚げと、いつものビールの入った袋をぶら下げ、狂児は黙って靴を脱ぐ。
「ただいまゆえや~」
「ただいま」
「ん~~もう、遅いねん。待ちくたびれて死ぬかおもたわ」
 脱ぎ捨てられたハイヒールのかかとには血がついていた。駆け寄ってきてぶら下がるように抱き着いてきた女のかかとを覗き込むと、丸い形にべろりと皮がむけ、赤い皮膚がのぞいていた。思わず顔をしかめると、「新しい靴合わへんかった」と悲しそうに言う。本当に痛そうだったので、狂児は背中をポンポンと叩いてやった。
「よう生きとったな」
「ギリッギリ生き長らえたわ、愛の力で」
「せやな。酒飲まんと無理やなこれは」
「酒への愛ちゃうし」
「唐揚げ?」
 彼女はぎ、と顔を歪ませた。「チューして」
 チューで生きながらえる命を吹き込む。
 ちょうど風呂から上がったところだったらしい濡れた髪を乾かしてやっていると、缶ビールを煽りながら、彼女は「狂児、あんたわかってんの?」と訊ねてきた。こうして視線が合わないとき、彼女はよくこの質問を投げかけてきた。
 別の家主に仕込まれた冷風と温風の使い分けを駆使してもなお、ブリーチを繰り返した髪の毛はパサついていた。すんなり指が通るくらいにはどうにかしようと努力している狂児が答えずにいると、「聞いてる?」と追及。
「聞いてへん」
「聞けや~。狂児、ホンマに好きやねんで」
「ありがとう」
「ありがとうちゃうわ。絶対わかってへんやろ、こっちの気持ち」
 狂児は「わかってへんかも」と返す。
 彼女に限らず、当時狂児は、誰かから何かを求められたら自分にできることを返そうとたゆまぬ努力をしていた。きちんと返しているつもりもあった。ただ、相手の気持ちがわかるかわからないかという問いにはそう答えるしかなかった。わからなかったからだ。
 狂児の答えに、彼女はいつもわざとらしいため息をついた。「あんたアホすぎひん」
「なんで」
「正直に言わんでええねん。正直に言わんでええし、呼んでも来やんでええし。なんでも言うこと聞かんでええねんで。それでも好きやから」
 そう言い放ち、声を出して笑う。満足そうに見えた。
 彼女はビールを次々に開けた。スーパードライ三五〇ミリの六本セットを買ってきたのだが、足りなかったかもしれない。一方絶対に買ってこいと言われた唐揚げには手がつけられておらず、少なくともつまみに関しては唐揚げではなかったことは確かだった。風呂に入る前に追加の買い物が要るか否かを確認したく、狂児はお伺いを立てた。「なんか他いる?」
「いらぁ~ん。狂児しかいらん~」
 狂児の太ももに頭をのせて彼女は目を閉じる。その手が当たり前のようにジーパンのチャックに伸びるので、狂児は一応、「俺風呂入ってへんけど」と言う。
「ええよ、別にぃ」
 彼女のセックスも、必要以上にあたたかく、籠った熱で頬が火照ってくるような温度だった。狂児のことを好きだと繰り返す言葉は、狂児に同意を迫るためというよりは、彼女自身に言い聞かせるためとか、その言葉そのものに縋るために出されているように聞こえた。狂児はそれらのいずれにも溺れることができず、包み込む体温にも馴染めなかった。唯一乳房の脂肪だけがひんやりしていて心地よく、狂児の手はそこに触れている時間が多かった。彼女もそれを喜んでいるように見えた。喘ぎとため息の中間のものを吐きながら天井を見ていた彼女は、唐突に後ろに肘をつき、半身を起こした。
……狂児、なんでこんなあたしのわがままきくん。誰かの命令?」
「なんでやねん。ちゃうわ」
「じゃあなんで」
 求められるからである。
……あんたロボットみたいや言われへん」
 奇しくもアルバイト先でターミネーターのようだと言われたばかりだった。
 彼女は無表情で頷いた。
「やっぱり。ホンマは人ちゃうんやろな」
 狂児は反芻した。ホンマは人ちゃうんやろな。
 なぜかしらストンと腑に落ちて、「あぁ……」と心から感心した声を漏らすと、なぜだかそれが彼女に火をつけてしまった。
……そうやって。あんたほんまは全部どうでもええねんな。わかるわ。めっちゃわかるわ。どうでもええことはわかったふりしてはいはいはいはいゆうこときいとくのが一番ええよな。うちも客にはそうやもん。なぁ~~~~」
 狂児は、自身を責め立てる強い言葉をどう扱っていいかわからなかった。しかし心の底で何かが捲れていくような感覚には耐えられず、彼女が悦ぶところに陰茎を擦り付け、唇を塞いだ。それでも彼女は狂児を責めるのをやめなかった。そして狂児自身、彼女が自分を責める言葉に、わかるわ、と同意していた。わかるわ、めっちゃ楽やわ。
 
 朝日に目を刺されて起き上がる。
 女は隣で寝息を立てている。未開封のビールが一本常温で転がっている。唐揚げは冷めたまま袋に染みを作っている。
 ベランダに出てタバコを咥える。火をつけた瞬間に近所の公園からラジオ体操の歌が風に乗って飛んできた。