eclipsis
11868文字
Public CPなし
 

月光の下に降る雨

ホグバック過去話。※原作軸で墓荒らしするまでの経緯。重くて暗い



 また、変わり映えのしない日々がホグバックに訪れた。
けれど彼の心には大きな変化が生まれていた。シンドリーの事が頭から離れない。以前よりも熱心に写真や新聞の一覧を収集し、彼女がほんの少しだけ歌っているレコードすらも集めた。
 愈々いよいよ、仕事にも身が入らなくなった頃、ホグバックは決心する。

 シンドリーにプロポーズしよう。

 一人で悶々としていても彼女が己の頭から出ていく事はない。だったら当たって砕けろの勢いでプロポーズでもすれば、募りに募った気持ちが何某かに昇華するかもしれない。
 そう結論を出すとホグバックは早速行動に移した。花屋へ向かい、一番綺麗で大きな花束を作ってくれと注文をした。今まで花は疎か、何か物を女へ贈った事なんか無い。花屋の主人に『これを貰って喜ばない人は居ない。幸運を』と声を掛けられ、ホグバックは知らず強ばっていた身体の力を抜いて、頬を少し赤らめた。

 街の中心部にある大劇場。そこでは連日シンドリーの公演をやっている。劇場へ足を踏み入れたホグバックは係員に、以前シンドリーを診た主治医だと言った。するとあっさり彼女の楽屋へ案内された。ホグバックの顔を知らない者はこの街には居ない。名前に及べば海を越えた地でも知られている。
 畏まって案内する係員の態度を見て、歩んでいるホグバックの足に力が入った。
 勝算は無いに等しいが、今日は何かが変わる。もしかしたら、良い方向に。

 
 到着した楽屋の前。華美な扉をノックすると中から返事があり、その声に促されて扉を開け入った。

「どなたかと思ったら、先生!ビックリだわ。いらしてたんですか?」

 シンドリーは突然訪ねてきたホグバックに驚きつつも、弾ける笑みを投げかけ迎え入れた。あの入院時以来の眩い彼女に、ホグバックのピンとしていた背筋が緩み足元が浮つき始める。
 ――いや、こんなところで腑抜けるな。まともに喋れなくなりそうな自分に胸中で喝を入れ、ホグバックは口を開いた。

「シ、シンドリー、ちゃん!あの、突然だけども俺はっ、俺は君に、惚れてるっ!あ、愛してるんだ!その、お、俺と」
「待って、先生。……ごめんなさい。いけないわ」
「え……?俺ぁまだ――
「ごめんなさい」

 腕に抱えていた花束をシンドリーに差し出したままホグバックは困惑した。肝心な一言を告げる前に、シンドリーはその柳眉を下げて心底申し訳なさそうな顔になっている。彼女が頭を少し下げたせいで、部屋の奥の様子が窺える。机に置いてある綺麗で大きな花束が見えた。赤い情熱的なカードが添えられ『愛しのシンドリーへ』と書かれている。力強さと若々しさを感じる男の筆跡に見て取れた。

「本当に、ごめんなさい」

 シンドリーが真摯に謝る。告白をただ断るにしては悲痛が過ぎる表情は、ホグバックに揺るがない事実を突きつける。
 花束を持っていた腕が震えだし、それを見たシンドリーが先生?と心配そうに声を掛けた。呼びかけられたホグバックの震えが止まると、腕から花束が落ちる。ガサリという花束が床へ着地する音がした瞬間、ホグバックはシンドリーの楽屋から飛び出して行った。駆けていく男の背中へ彼女が手を飛ばしかけたが、すぐにその手を閉じ少しの間宙へ彷徨わせて静かに下ろした。


 ホグバックは全速力で街を走った。時折すれ違う人々に何事かと振り返られるが、気にしていられない。ずっと鼻の奥がツンとしていて、がむしゃらに動かないと喉からせり上がってくるものが溢れそうになっている。
 
 うの体で自室に帰ってくると、ホグバックは膝から崩れ落ちた。ほんの数刻の間に起きた様々な出来事が彼を打ちのめしてくる。
 知らず高く積み上げていた己のプライド。シンドリーが敢えてお互いに決定的な言葉を言わないようにした気遣い。その奥で見え隠れした彼女と既に約束している者。その全てがホグバックの心を折って引き裂いて、悔しさや悲しさや怒りで訳も分からず泣いた。
 項垂れたままボタボタと涙を流す身体を、壁に手をつき何とか起き上がらせた。すぐ傍の棚にはシンドリーの写真が沢山飾られている。その一つを手に取って涙で歪む視界のまま見つめた。

 次から次へと両眼から流れていく水は混迷している感情や思考をおりとして、ホグバックから取り去っていく。手中の写真にポタポタと涙が何粒か落ちた。完璧な丸い球が放射状に広がりどんどん歪む様を見て、まるで自分だ。とホグバックは冷静に思った。
 
 こうやって己の手に収まっている写真や、退院の時に窓越しに見たシンドリー。それはフレーム越しの美しい存在だ。それだけで成り立っている、完璧な偶像。その一方で、診察の時に触れた生身のシンドリー。瞬きの度に揺れる長いまつ毛。小鳥のような声に、ホグバックにくれたあの笑顔。確かな触れ合いがあった、生きている乙女だった。どちらが良いとかではない。彼にとって全部が真実なのである。届きそうで、届かない。
 
 だから半分諦められないけど、半分腑に落ちている。
 呆気なく散ってしまった恋の始末を、ホグバックはそう決着つけた。涙は自然に止まっていて、手に持ったままだった写真を元の位置にそっと戻した。