eclipsis
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月光の下に降る雨

ホグバック過去話。※原作軸で墓荒らしするまでの経緯。重くて暗い


 ホグバックにとって、己の元にやって来る患者は全て同じ人間だ。
 皆一同に彼の手腕を頼って、助けて欲しい、お願いします。と乞い願う。顔を覚える気にもならない程だから、彼にとって患者は同じ人間になるのである。その天才的な頭脳につまらない事を詰め込む意味は無い。ただ、治していく。それもこれも、金になる仕事だからやっているまで。実際、ウンザリして疲れている時には患者が札束にしか見えない時もある。

 求められるままに治療していき、患者が去ったと思えば新しい患者がまた現れる。変わり映えのしない日々が続くと思っていた。

 そんなある日。ホグバックの元にある患者が訪れた。

 その患者の名は、ビクトリア・シンドリー。
舞台稽古の最中に怪我をしてしまい、小さな傷ではあるが目立つ場所に出来てしまったそうだ。その傷口を最小限無くなるように手術をして欲しいと、傍らの男が何やら説明していた。
 男は前もって丁寧にシンドリーのマネージャーだと名乗った者だ。けれどホグバックには、男の正体には終始モヤが掛けられていた。
 目の前のシンドリーしか頭に入ってこない。
 
 ホグバックは長い間、彼女の事が好きだった。舞台の広告や新聞の一覧を飾るその華やかな姿。一目見た時から美しいと思い、彼女の存在は頭に刻まれていた。
 そんな彼女が、シンドリーが、目の前に現れたのだ。現実の色彩の下でシンドリーは微笑む。

「先生、よろしくお願いします」

 その完璧な笑顔に、ホグバックはただ、あぁ。と答える事しか出来なかった。

 
 くしてシンドリーの手術は行われた。
注文通り傷口が無くなるように、通常の手術よりも念入りに事を進めていった。僅かな一糸も丁寧に縫合していき、ホグバックの額に汗が滲む。ちらりと手術台に横たわる彼女を見ると、汗が更に滲む感触がした。直ぐさまその感触を振り切るように、全神経を集中させて腕を奮った。


 ――手術は何の問題も無く終了した。
シンドリーを自ら病室へ送るなか、ホグバックは手掛けた仕事の出来栄えに頭の中で独り頷いた。対してシンドリーは促されたベッドへ腰掛けると、少し落ち着かないような面持ちになっていた。
 もしや長丁場のせいで気分が悪くなったか。ホグバックが不安げな彼女に気付き、様子を窺おうとした時。シンドリーが小さな口元を動かした。

「先生、大変な手術ありがとうございます。でも、お手を煩わせてしまったかも。先生には私以外にもたくさん大切な患者さんがいるでしょう?」

 華奢な肩を更に小さくさせて、申し訳なさそうにシンドリーは告げる。
 それを見てホグバックは安堵すると共に、心の底にふつふつと湧く気持ちを感じ始めた。
 
 彼女はホグバックの時間を割いてしまった事に心を痛めたのだ。女優ならば外見に傷が付くのはご法度。それの為に時間や金を使うのは当たり前だろう。寧ろ彼女ほどの美貌と地位を持ってすれば、ふんぞり返ったりしてもきっと誰も文句は言わない。それなのに、他の患者の事を気にかけ、ホグバックにも心を砕いてくれた。
 
 ホグバックの心中は突如湧いてきたものですっかり満たされ、頭の中さえも溢れそうになる。口が自然に震え出したと思ったら、彼は言葉を発し始めていた。

「い、いやっ。手を施す事に優劣なんか無い。君も、俺にとって大切な患者だよ」

 ホグバックは治せるから治しているだけだ。後にも先にもそれしか無い。けれど今彼を満たしている気持ちのまま、言葉を出したら随分と真に迫るものになった。特に最後なんかは。
 急に己の言った事が気恥ずかしくなりホグバックが行き場の無い手を口元に当てたり、後頭部を撫で擦ったりする。挙動不審な主治医を見て、シンドリーは少し眉を下げて笑った。飾り気の無い、ホグバックだけに贈られる笑顔。受け取った男の小さな瞳が見開いた。

 ――何て美しい。言葉を交わし合う中で見るシンドリーは、その美貌に一寸たりとも劣らない素晴らしい心を持っている。

 ホグバックは雷に打たれたような衝撃と同時に、深くて暖かい沼に頭の天辺まで浸かる心地を感じた。

 
 ※

 
 ホグバックにとって、とても長いようで短い一日が終わろうとしていた。太陽が遠い山々の合間に隠れようとして、空に橙と暗い青が混ざり不思議な紫色へ変わっている。業務を済ませ病院の長い外廊下をホグバックは一人歩いていた。その足取りは心做しか軽い。
 
 シンドリーの病室を後にしてからも、頭の中は彼女で一杯だった。あのひと時を何度も思い出して、口元が緩む。
 
 ――シンドリー。花も恥じらう笑顔を、俺にくれた。あの可憐な唇が、俺を呼んだ。先生、せんせい。

「ドクトル・ホグバック」

 誰かに名前を呼ばれた。隙間を縫って引っ掻いてくるような呼び声で、ホグバックは思わず声のした方へ目を向けた。

 視線の先は外廊下に対面した中庭で、芝生の真ん中に大きな木がある。その木の傍に、黒いシルエットが佇んでいた。
 日はあっという間に落ち辺り一面は濃い藍色に染まっていて、そこに闇色をした何者かがしっくり馴染んでいる。それを視認した直後、ホグバックは金縛りにあったように身体が動かなくなった。
 隣の木と並んでいるシルエットの身の丈は大きい。目に付いたら嫌でも印象に残る程大きな人物だ。しかし、初めて見る者だった。顔や身体も全て影になっていて正体が掴めない。静かで巨大なその違和感が、ホグバックを捕えて離さないでいる。
 
 何処から来た、お前は誰だ。と問い質したいのにそれらが対峙する恐怖によって、鉛のように重くなり喉元から腹の底へ沈んでいく。

「ドクトル・ホグバック」
 
 また例の声で名前を呼ぶ。
 
「お前の評判は広く知られている。一度手さばきを見たくてな。……噂に違わぬ腕だ。特に、あの女の施術は見事だったぜ」

 手術室は部外者以外、立ち入り禁止の筈。そもそもこんな大男がどうやって。ホグバックの頭に様々な疑問が浮かぶ。しかし何よりも強く浮かびあがる思いがあった。
 ――見られていたのか。その事がホグバックの顔に知らず血を集め、汗を出させる。終いに大男からキシシシと独特な笑い声が聞こえた。
 
 羞恥による熱がホグバックの底に沈む恐怖を溶かして、再び問い質す勇気を与えてくれた。拳を固く握ったら思い切って口を大きく開く。

「ふ、不届き者がッ!お前はだれだ――

 ホグバックがそう叫んだ瞬間、おびただしい数の蝙蝠が辺りを飛び交った。その勢いに圧されて防御するように顔の前で腕を交差させる。蝙蝠の軋む羽音が耳元を掠めるのと共に、大男の声がした。
 
「また会えることを願っている」

 視界を覆っていた腕をどけると、大男は居なくなっていた。溶けたのか消えて無くなったのか。その姿を探して辺りを見渡したが、影も形も無かった。視界に広がる病院の中庭は、ただ静かな日常風景に戻っている。
 
 つい先程の大男との出来事が気味の悪い夢のようで、ホグバックは暫くその場所で呆然と立っていた。


 
 ※※


 シンドリーの術後の経過はすこぶる良好で、傷口を覆っていた包帯もあっという間に無くなっていった。

「うん、全く異常無し。……あと少ししたら退院できる」

 定期検診をしたホグバックがシンドリーの傷口を見つめそう告げた。傷口といっても今や赤みがあるだけで、その跡は消えそうになっている。

「ありがとうございます。先生」

 ふふふ、とシンドリーが口元を優雅に震わせて笑う。何時ぞやの笑顔だ。ホグバックにまた向けてくれたそれは、すぐにベッド脇に置いてあるカレンダーへ行ってしまった。ある日付に丸がしてある。シンドリーの退院予定日。ホグバックもそれを見る。
 
 ホグバックは医者になってから初めて、患者の傷が治らなければ良いのにと思った。


 シンドリーの退院日は誰かの未練を一切汲み取る事はせず、当たり前に確りとやって来た。
長く入院していた訳ではないのに、彼女は他の患者や病院のスタッフから花を贈られていた。それら一つ一つに礼を言って、シンドリーは手を振り病院を後にする。その背中を見送る群衆の中に、ホグバックの姿は無かった。

 迎えに来たマネージャーと共に待たせている馬車へシンドリーは向かって行く。小さくなるその後姿を、ホグバックは病院の窓から見つめていた。
 
 見送りは出来なかった。きっと彼女と対面して何か言葉を掛けられでもしたら、みっともなく引き留めてしまいそうだったから。
 ホグバックの手には彼女の写真が握られている。それに視線を落としてまた窓の方へ目を向けると、もう馬車は行ってしまったらしい。シンドリーは居なかった。
 ホグバックは大きな溜息を吐いた。