Hizuki
2025-04-07 21:55:21
11947文字
Public あんスタ[薫あん]
 

あんスタ過去ログまとめ[薫あん]

【あんスタ】薫あん。ついったに画像のみで上げたSSのテキスト版まとめ。



『どうか、君は笑っていて』


「あんずちゃん、ちょっと俺に付き合ってくれない?」
え?」

ノートパソコンに向かう手を止め、ぽかんとした顔であんずちゃんは俺を見上げる。聞いた話によれば朝からずっとここで作業をしているらしい。しばらく外に出ていた分の書類仕事が溜まっているようで、ここ数日で各事務所を回って一気に片付けているという話も耳にしていた。それが今日はたまたまうちのリズムリンクだったと。

「何にも持って行かなくていいから。その身一つでいいよ」

不思議そうに首を傾げながらも、あんずちゃんは首を縦に振ってくれた。テーブルの上に広げていたノートパソコンと資料を片付けると、その荷物を来客用のロッカーの中にしまって、鍵をかける。

「お待たせしました」
「待ってないから平気だよ。それじゃ、行こっか」

ESビルを出て、最近あった面白かったことや、おいしかったものの話をしながら彼女と並んで歩く。できるだけ仕事の話からは遠ざけるようにして。途中にあった自販機で缶コーヒーを買って、ちょっと一息ついて。足を進めていくと、次第に耳に届く音は賑やかな街中の喧騒から穏やかな聞き慣れた水の音に移り変わっていく。

「もしかして、海に向かってます?」
「当たり」

ここまで来ればどこに行こうとしているのかはもう分かっているようだった。吹き抜けた風が後ろでひとまとめにしている彼女の髪を揺らす。そのまま砂浜へと下りていけば、視界は海と砂浜と空だけになる。俺達以外に誰もいない、貸し切りの海。持ってきたトートバッグをコンクリートで舗装された道の端に置いて、その上に着ていた上着を置く。靴と靴下も脱いで側に並べ、ジーンズの裾を何回か折り返した。

「これでよしっと」

さらさらとした砂を踏むのも久し振りのことだった。打ち寄せる少しひんやりとした波が自分の足を濡らす。ぱしゃ、と子供みたいに水面を蹴り上げれば飛沫が散った。

「あの、薫さん?」
「あんずちゃんもおいで。気持ちいいよ」

あんずちゃんは困惑した顔で近付いてきて俺を見る。それもそうだ。どこに行くとも告げずに彼女を連れ出した張本人は、こうして水と戯れているのだから。

忙しいってのは分かってるんだけどさ」

それでも、俺だって理由なく声をかけたわけじゃない。

「何かいっぱいいっぱいって感じだったし、気分転換でもどうかなって思って」

彼女のことだから、きっと聞いてみたところで『大丈夫』と返ってくるに違いない。だったら、あえて明かさずに連れ出してしまった方が早い。

「上の人に何か言われたら、俺のせいにしていいから」

事務所にいたスタッフがみんな知っていたのだから、今日あんずちゃんがあそこにいることは上の人達だって知っているはず。いなくなったことを咎められるようなことがあれば、俺に連れ出されたとでも言ってくれればいいし、彼女が謝るなら俺も一緒に頭を下げる。それくらいしか俺にはできないから。

「薫さん

目を丸くして俺を見つめているあんずちゃんから水平線の方へ視線を向ける。お互いに何も言わず、波の音だけが鼓膜を揺らす。嫌な沈黙ではなかった。あんずちゃんはどうするだろうと、砂浜の方を振り返った瞬間。

えいっ!」
「わぁ⁉」

多分背中に抱き着こうとしたのだろう、身体の向きを変えた俺の胸元に飛び込んでくるような形になって。まとめていた髪は解かれていて、ふわりと風に踊るのが見えた。まさかそんなことになるとは思わず、受け止められる体勢を取れずにそのまま海の中に倒れこんだ。ばしゃ、とさっきの比じゃない飛沫が飛ぶ。

「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか⁉」
「あっははは!」

慌てて謝るあんずちゃんについ噴き出して笑ってしまう。申し訳なさそうにしていたあんずちゃんもそのうち俺に釣られるようにくすくすと笑い出した。これだけ濡れてしまったら、もう何をしたって変わらない。ひとしきり笑って、あんずちゃんを支えながら身体を起こすと、そのまま波打ち際に腰を下ろした。

うん、かわいい」

同じように俺の隣に座ったあんずちゃんの頬に手を伸ばした。髪から肌へ伝っていく雫を指先で拭う。自身も濡れているからあまり意味はないけれど。

「やっぱりあんずちゃんは笑ってる方がいいよ」

あんずちゃんにはいつだって笑っていてほしい。もちろん笑っていられない時だってあると思う。でも、できるだけ、君には笑っていてほしい。それは嘘偽りのない俺の望み。

ありがとうございます、薫さん」

そう言って、少し照れたように笑う。全身びしょ濡れになって吹っ切れたのか、立ち上がると水の方へとあんずちゃんは足を進めていく。まるでさっきの俺みたいに水飛沫を飛ばして、きらきらとした笑顔を振りまいて。
俺もすぐ彼女を追いかけたいけれど、一つだけやっておかなくてはならないことがある。荷物の中からスマートフォンを取り出して、そろそろ事務所に戻っているだろう相方にメッセージを送る。大きなタオルと着替えを二人分持って海まで迎えに来てほしい、と。既読が付いたからきっと大丈夫。きっと。

「薫さーん!」

あんずちゃんが俺の名前を呼ぶ。スマートフォンをしまうと、彼女が待つ方へ駆け出す。俺に向けられた笑顔は、他の誰にも見せたくないと思ってしまうくらいに眩しかった。