いまさら
2025-03-31 14:59:52
37991文字
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永い一瞬

世界観の独自解釈・多大な捏造
星の神が星の世界を作ってファさんが星の民になるまでのファーベリ(と言い張る)
ベリアルの髪が長い



 第二章

 
 見えない壁で覆われた世界で、永遠のような時を過ごしている。
 彼らは、自分たちがそこで彷徨わなければならない理由は未だ明らかにできていない。しかし、この世界の仕組みのいくつかを解き明かすのに成功していた。
 彼らのうちのひとり──やがて星の世界に生まれ落ちる銀髪の男は砂漠に体を横たえて空を見上げている。彼は星の世界でルシファーという名を持つことになるが、当然ながらその未来を知らない。しかし、自分がじきにここを去ることは漠然と予期していた。
「何を見ている?」
 ルシファーの隣に滑り込むように寝そべった男が問う。彼はルシファーとは違い、未来を持たぬ存在だ。ルシファーも男自身もそのことは理解していた。
 もっとも、ルシファーもいずれ創造される星の世界においてその存在が確定しているのみで、彼の在り様は神が意図したものとは大きく異なっている。とにかく、神が思い描く世界を作るには何かと材料が不足しているのだ。
「星だ」
 ルシファーは空の光から目を離さずに男の問いに答えた。
「キミのことだから、ただ見てるってわけじゃないだろう」
「動きを観察している」
 紙もペンも必要とせず、星々の軌道を見てただ脳内で計算を繰り返す。そうして宇宙についての大体を知ることができる。ルシファーはそうした全能的な感覚が特異だと自覚していた。そしてそれこそが己の正体に大きく関わることも理解している。
「こんなにたくさんあって、全ての動きを観察しているのかい」
「規則があるからな。大して難しくはない。あの星が見えるか」
 ルシファーは観測の手がかりとなる星を指す。星の探し方、辿り方。遠く離れた天に浮くものの位置を他者に言葉のみで指し示すのは星の規則を解き明かすよりも困難だった。この砂漠で砂粒のひとつを探し当てるような途方もなさを思い浮かべる。
 ルシファーの説明を聞きながら、あれこれと星を指す男も同じように感じているのだろう、途中でふっと呆れたような笑みをこぼした。
「あんなにたくさんあると、キミと同じものを見ているのかさっぱり分からないな」
 ルシファーは思わず笑ってしまった。それは彼自身が男に対して常々感じていることだったからだ。
「何か変なことを言った?」
 男が不審そうに問う。ルシファーがこのように笑うのは珍しかった。
「ああ、お前は奇妙なことばかり言う」
「そっくりそのまま返すよ」
「まさかお前と意見が合うとはな」
 男の方へ顔を向けると、彼もこちらを見ていた。眉間にしわを寄せているが、口元は笑みの形に弧を描いている。変な顔だ、と率直に思った。
「最近は眠らないの?」
「朝方に少し眠ることもある。お前はいつも夜に訪ねてくるな」
「狙ってるわけではないけど、言われてみればそうかも」
 男はたまにルシファーのもとへやってきて気まぐれに話しては去っていく。かと思えばじっと隣にとどまっている時期もあった。彼の動きは星よりも難解だ。
「星の移動から何かが分かる?」
「ああ、俺たちがどこにいるのか。あるいは、本来ならどこにいたのか」
「それって……
「この仮想の世界においては無意味だがな」
「でも……本来ならどこにいたというんだ」
「海と陸地に覆われた小さな星、と考えている」
「ここと大して変わらないじゃないか」
「そうだな。だが、より多くの生命があったはずだ」
「キミだけじゃなくて、オレもそこにいた?」
「いや…………そこに俺たちは存在しなかったかもしれない」
 そう、と男は無感情に相槌を打って視線を星に戻した。彼は自分よりずっと目がいいのか、ルシファーが把握していない星の光も見えているようだった。そのせいで先ほど自分が星の位置を教えようとした際に惑いが生じたのだ。
「キミはまだここにいる?」
「明日にでも発つ。これ以上の観測は不要だ」
 男が確かめたかったのはルシファーに残された時間──つまり、ルシファーがいつまでこの不可解な世界に留まってくれるのか──だったが、ルシファーはその質問を砂漠への滞在についてだと受け取ったようだった。あるいは、男の問いの意図を理解したうえでそう答えたのかもしれない。
「この世界の謎を解き明かしても、ここから出る方法は見つからないんだね」
「考えはある」
「残念だな。オレはキミがずっとここにいてくれたら、と思ってしまっている」
「お前はここを出ていく気がないのか?」
「というより……出ていけないんじゃないかって」
 互いに思い当たる節があった。ルシファーと男に流れる時間はそれぞれ異なっている。
 ルシファーは時間の波に押され、いずれ星の世界へと存在を移される。一方で男の肉体はあらゆる力をすり抜けて、亡霊のようにこの世界を漂わなければならない。
「キミが星を見ている間、他の空間の景色も少し入れ替わって……そのたびにあの光の中へ飛び込もうとした。でもやっぱりダメなんだ」
 ルシファーは答えなかった。自分自身については漠然と心当たりがある。恐らく管理者の都合であてがわれた存在であると。ここを出ればその記憶を失うだろうことも知っている。しかし、この男は一体なぜここに縛り付けられているのか。それだけがいつまでも分からなかった。
「もうすぐ夜が明ける」
 口惜し気に呟く声を聞きながらルシファーは目を閉じた。

 目を覚ますと砂漠は見覚えのない建物の中に変わっていた。眠っている間に例の現象があったらしい。虹色の光が空間を切り取って、何もなくなった暗闇にまた新たな空間が発生するあの現象。砂漠では星を観測して幾千もの朝を迎えてきたので消失の瞬間に立ち会えなかったのは少し惜しかった。
 光に飲み込まれないのは自分も同じなのに、あの赤い瞳の男はなぜああも悲観的なのか。
 ルシファーは考える。確かに、自分の体は日毎に人間に近づいていっている。そう頻度は多くないが眠くなることもあれば喉の渇きを覚えることもある。鋭利な刃に触れれば傷ついて血を流すし、怪我はしばらくの間残る。完全性を失っていく実感がある。
 一方であの男は何も必要とせず、何からも害されず、ただ完全だった。完全に、この世界のどこにも存在しないかのような存在なのだ。
 この世界は仮の空間である。それは、これまでここに放り込まれてきた景色を見て立てた説のひとつである。
 あの男はどこかから放り込まれたわけではなく、ここで発生した存在なのだろうか。
 ここに送られてきた情報が反応して意図せぬ存在が生まれた。それがあの男である、とは考えられないか。管理者がその存在を把握していないためにこの世界の法則が彼には適応されないのかもしれない。
 ルシファーは考えを巡らせる。眠りにつく前に隣にいた男の姿は今は見えなかった。
 硬い床で寝ていたせいか体が痛い。徐ろに立ち上がり、新しく生まれた建物内を歩いて回る。
 棚が立ち並んでいるので図書館のような建物だと思ったが、近づいてみるとそこに並んでいるのは棚ではなく透明な箱だった。正方形のガラス箱が空中に浮いて上下左右に連なっている。それぞれの箱には蝶の標本が収められており、いずれも見たことのない種だった。
 この世界で男と自分以外の生物やその痕跡を見かけることは珍しくないが、標本ばかりが一か所に集められている空間は初めてだ。鱗翅目が数十万種いるのは知っている。ただ、ここにある標本は己が有する情報のものとは少しずつ異なっている。何かが少しずつずれているその違和感が内臓を押し上げるような不快さをもたらした。
 こういうことは珍しくない。この世界では恐らく計算が繰り返されている。限られた材料のみでは理想とする形を作れず、妥協点を探している。そうして何とか形になったものを外に送り出す。そうではなかったものは破棄される。そのため、蝶ひとつをとっても目指すべき形のために夥しい回数の試行が重ねられているのだろう。ルシファーが次に送られる世界ではここにある標本の蝶が実在するかもしれない。
 環境が生命を生み出すのだ。生命は環境に合わせて形を得ていく。この世界ではその計算を行っている。
 ルシファーは標本の間を歩きながら建物の出口を探した。
 やけに広くて明るい場所だった。標本箱の列は天井まで続いている。これがどのような力で浮いているのかも不明だ。標本の壁はどこまでも続いており、どこへ向かって歩けばいいのか分からなかった。等間隔ごとに箱の列が途切れている部分があって列を移動できるが、見える景色は変わらない。違う点はただ、箱に安置されている蝶の種のみだ。仕方なく列のひとつを選んで歩く。
 どこからか音がする気がした。こつこつと指先で何かを叩くような小さな音だ。耳を澄ませ、どこからその音が聞こえるのかを探る。歩みを進めるたび、音がはっきりと捉えられる。列を移動し、音のする方へ近づき、ついにその発生源を突き止めた。
 音を立てているのはガラス箱の中の蝶だ。生きている? そんなことがあるのだろうか。しかしまさに今ルシファーの目の前で蝶が翼を動かしている。
 それは黒い翅の蝶だった。ルシファーの手のひらほどの大きさの蝶。他の標本と同じように、どこかに違和感がある。標本が目線より少し高い位置にあるので、背伸びをしなければならなかった。
 よく見てみると、黒い翅は蝶のそれではないように見えた。薄い表面の向こう側に細い骨があるのが分かる。それでいて広げられた翅の中央にある胴は他の蝶と変わらない。その黒い翅だけが異様だった。骨の通った翅を羽ばたかせ、それがガラスの板に当たって硬質な音を立てていたようだ。
 辺りを見回し、生きている個体が他にないことを確かめると黒い蝶に視線を戻す。細い針は確かに胸部の中心を貫いているが、蝶は息絶えることができないでいる。苦しくてもがいているのだろうか。
 苦痛を終わらせるためには殺せばいいのか、逃がしてやればいいのか。その責任も権利も、そして憐憫もないのに、いくつかの選択肢を考える。ルシファーを動かしたのは好奇心だった。宙に浮いているガラス箱に手をかけるが開け方が分からない。透明な板で作られた箱には継ぎ目がなかった。
 箱は少し力を込めただけでも割れそうな薄さだ。浮いているそれを標本の列から取り出すと、ガラス箱は浮遊の力を失ったようにルシファーの手に収まった。今これを手放せば箱は床に落ちて割れてしまうだろう。そう思った瞬間、箱の中の蝶が暴れて、箱ごとルシファーの手から離れた。かしゃん、と間の抜けた軽い音を立て、白い床でガラスが割れる。
 黒い翅の蝶はガラス片に塗れて動かない。傷つけないよう注意を払ってそれを拾い上げようとしたとき、二枚の羽の中心が昆虫のそれとは違う、人のような姿に変わっていることに気がついた。驚いて手を止めた拍子に蝶の翅がふわりと動き、その上に乗っていた小さな破片が指先に飛び散る。蝶はルシファーが姿を確かめる前に翅を広げて天井の方へ飛んでいき、やがて姿が見えなくなった。
 落胆と不思議な安堵を覚えた瞬間。空中のガラス箱が一斉に浮遊を止め、床に向かって雨のように降り始める。ガラスが割れる音が際限なく白い部屋に響き、ルシファーはその破片に飲み込まれてしまった。

 ぱりん、がしゃん、がたん。誰かが何かを乱雑に放り投げる音が聞こえる。誰か、といってもルシファーが思い浮かべるのはひとりしかいない。
 騒がしさに不快感を覚えながら思いながら目を覚ますと、そこはガラス片が積もった部屋ではなく、広い書斎のような部屋だった。再び床の上で体を起こす。ガラス片の代わりに本が床の上に積まれていくつも山を作っていた。短い間に二度も入れ替わりがあったのかと事態を把握する。
 男は部屋の外で何かを投げ続けているのか、絶え間なく乱暴な音が聞こえる。その音は止む気配がなく、ルシファーを苛立たせた。
 部屋の扉は廊下に通じていたが、そこに男の姿は見えない。がしゃん、とまた何かが壊れる音が響く。どの部屋だろうか。廊下にはいくつも扉が並んでいるが、破壊の音がどの部屋から聞こえるか分からなかった。近いようにも、遠いようにも感じられるのだ。
 仕方なく隣の部屋の扉を開けるが、そこには誰もいない。ただ、部屋は既に荒れ果てていた。まさか、一部屋ずつ破壊して回っているのではないか。予想通り、各部屋はすべて破壊されていた。部屋のものを壁や床に投げつけたのか大きく傷が入っており、割れそうなものはすべて割られていた。
「いつまでやっているつもりだ」
 ようやく男のいる部屋を突き止め、扉を開けるなり文句を言った。男は今まさに床に投げつけようとしていた花瓶を持ったまま振り向く。
「ああ、うるさかった? すまない」
「何が目的だ?」
「なんだかそうしたい気分だったから。でも、もう満足した」
 そういって花瓶から手を離すと、それはぱりんと悲壮な音を立てて砕けた。
「それより、面白いものがあったんだ。来て」
 男はルシファーの手を引いて駆け出す。近頃、彼は感情の起伏が以前より大きくなったように思う。ルシファーが砂漠で星を見るようになった辺りからだろうか。いや、もう少し前だった気もする。一方でルシファーの情動は凪いでいた。

 それまではほとんど行動を共にしてひととおりこの世界を見て回った。長い旅の中で衝突もあったが、奇跡的なことにルシファーと男は気が合うようだった。多くを諦めていた男は、ルシファーとの出会いによって希望と呼べるものを取り戻したのかもしれなかった。諦念に塗れた自分とは反対に多くを望むルシファーを気に入ったのか、男は概ね上手くルシファーの案内人を務めてみせた。
 世界はふたりが永遠に閉じ込められるには狭かったが、そこで過ごす時間は世界の謎を解き明かすにはちょうどよかった。ルシファーは自身の持つ知識と今立っている空間の法則が一致するかを何度も検証し、この世界について結論を出しつつあった。
 星の動きはその確定のために必要となる要素のひとつだが、観測にはいくらか時間をかける必要があった。男はルシファーが世界のあり方を理論上で確定させていくたびに感心したり喜んだりしたが、砂漠での観測を始める頃には少し表情が曇っていた。
 いつだったか、宇宙空間ではたらく力を既に知っているのに星を見る必要があるか、と聞かれた。観測は自身の知識や計算がこの世界の法則と見合っているかを確認するためには必要だと考えていた。男の問いの意味が分からなかった。
 この世界を構成するそれぞれの空間はルシファーの持つ知識と一致するものがほとんどだが、そこから外れる空間も存在した。別次元から力を引いて成り立たせている、と仮定しなければ説明できない現象が起こる空間が混ざっていたのだ。男はそうした空間で、まさに別次元から得たエネルギーをこちらの次元で昇華する方法を知っていた。最初の洞窟で彼が手にしていたランプも今思えばそうした類の代物だったのかもしれない。
 とにかく、初めてそれを見たのは旅の中でルシファーが怪我をした時だった。
 いつからか、それまではすぐに治っていたような怪我がしばらく残って活動に影響を与えるようになった。その時は、ある町に滞在していた。その町では一日のうちに何度か雷を伴う大雨が降るので、その時間は屋内にいるようにしていた。大雨を眺めながら、雷ほどのエネルギーがあればこの次元を一時的にでも破壊してここを脱出できないだろうかと考えていた。男も同じ部屋にいて、空に走る光の筋とその後すぐに響き渡る轟音を見聞きしながら雷について話した。雷のエネルギーをどう回収するかが課題だが、それを解決できれば実現しえない話でもないのかもしれない、とその時点での結論を出す。
 この世界は本来そうあるべきだった世界よりもずっと狭く、薄く、あらゆる材料が足りていない。脆弱なのだ。ある程度の力があればどこかに穴を開けることも可能だと考えられる。
 ルシファーが怪我をしたのはその話を終えた後だ。雨が上がり、部屋の外に出た。町のはずれには森が広がっていて、そこを目指して歩く。珍しく動物が現れる森だったのだ。この世界には生命こそあれ、生きた動物を何種類も見かけるのは珍しかった。森に現れる動物は多種多様だが、ルシファーはいずれもその種について知っていた。どこで知ったのかは未だ思い出せない。
 生態を観察するためではなく、彼らがどこへ向かうかを知りたかった。いくつもの個体に印をつけて判別できるようにしたが、数日経つと同一の個体には出会えなかった。境界を抜けてしまったのだろうかと、森の奥の境界付近で過ごした時期もあるが、そこを通過する生物は皆無だ。あるとき、木の上にいた動物が消えたのを目にしたことがある。きっと他のものもそうして消えてしまったのだろうと推測し、実際、幾度か同じ現象を確認した。
 こうなると不思議なのは自分とあの男だけがこの世界に長く存在していることだった。動物はいるのに人間がいないのも謎だ。
 さらに不思議なことに、動物に手を加えようとすれば──具体的にはその命を奪おうとすれば──その瞬間にその個体は姿を消してしまうのだ。その点でもルシファーとは異なった。ルシファー自身も命を断とうとしたことがあるが、それは叶わなかった。どれだけ苦しもうが意識だけは残り、体は勝手に修復される。男からはそんな実験はやめろと釘を刺されたが、幾度か試し、いずれも失敗に終わった。実はそのときも男は治癒の術を使おうとしていたらしいが、体の修復の方が早かったので出番はなかった。
 しかし、この町に至った頃はルシファーの自己修復の速度が安定しなくなってきていた。
 雨上がりの森に入ってすぐに違和感を抱いた。草木以外の生物の気配がない。静まり返った森をさらに進むと、原因が分かったような気がした。大木が倒壊している。恐らく雷撃を浴びたのだ。倒れた木に近づいて幹に走る亀裂をしばし観察していた。
 がさ、と背後で草を踏む音がして振り返ると、そこには見たことのない生物がいた。四つ足で立つ姿はここで見かける動物と共通しているが、サイズはより大きく、獰猛そうな顔つきをしている。その動物のような何かが地面を蹴ったかと思うとあっという間にこちらへ飛んできてその鋭い爪でルシファーの腹を割いた。ルシファーが倒れると興味を失ったかのように木々の間に紛れていく。傷口からどくどくと血が流れ、止まりそうもなかった。どうせ死ぬことはできないだろうが、治りが遅いのが問題だった。
 失血のせいか段々と視界がかすむので諦めて目を閉じる。何の足しにもならないがひとまず手のひらで傷口を抑える。肋骨が折れ、内臓も損傷しているが、時間が経てば元通りだ。しかし、あの生き物は何だったのだろう。ルシファーの知識の内にないものだった。類似するものも思い浮かばない。
 傷のせいでまともに呼吸もできないでいると、また草を踏む音がした。今度はさくりとした軽い音だ。目を開ける力もなく、ただその音を聞いていた。
……おい! 大丈夫か!」
 あの男の声だった。珍しく怒ったような声だ。焦っているのかもしれない。こちらへ走ってくる音が聞こえる。
……っ、ぅ、ぐ」
 見ての通りだ。そう答えようとして失敗すると、「喋るな」と短く命じられた。聞いてきたのはそっちだろう、と思うがそれも声にならない。彼の言う通り黙っているのが賢明だ。命令されたのは初めてかもしれない、とくだらないことに気がついて、妙におかしくなる。ルシファーとは反対に男は神妙だ。
「上手くいくか分からないが……少しだけ耐えてくれ」
 傷口に置いた手を払われ、代わりに男の手のひらがそこに触れる。まぶたの向こう側で何かが光って一瞬視界が明るくなり、傷口がかっと熱くなった。ぐちゃ、ぐちゅ、と粘性のある音がして、それが自身の肉体から発せられていることに気づく。内臓の傷、折れた骨、裂けた皮膚、それらが元の形に戻っていく。感覚はないが、恐らくそうだと推測できた。
「見た目には戻ったが、どうだい、無謀な冒険者さん?」
「それは誰のことだ?」
 掠れているが、声は出た。頭上で、はあ、と安堵のため息が聞こえる。
「しばらくじっとしていてくれ」
「見たことのない生物にやられた。四つ足で硬い皮膚と長い爪を持っていた」
「それは……恐ろしいな」
「お前にも恐ろしいものがあるのか」
……元気になったみたいだし、さっさと歩いて町に戻るかい?」
 男が傷口だった場所をつつく。
「率直な疑問だ。気を悪くするな」
「そう? 悪口に聞こえたが気のせいだったようだ」
「俺は無謀な冒険者ではないが……お前は何なんだ? 今俺に施したのは何だ」
「オレは心優しき賢者だ。治癒の術で傷を治した」
 聞けば、どこか別次元から引いたエネルギーを使ってその術を施したという。別次元、つまり外界と接続できるのかと問うと、自分でもよく分からないが恐らく、と答える。次いで、ルシファーを襲ったのもその別次元の力をまとった存在ではないかと言った。
「お前もそこから来たのか」
「分からない……が、この空間自体がその次元に接近しているのかもしれない。最近、以前は存在しなかった力を感じることが多い」
「別次元との繋ぎ目からあれが入り込んできたと」
「あの形で入ってきたと考えられなくもないが、オレがここで感じ取っていたエネルギーとは少し気配が異なる。ここに蓄積されたエネルギーがあれに変わった、という可能性は考えられないか?」
「もう少し調べる必要がありそうだな」
 あれから、別次元と繋がっていると思しき領域は徐々に増え、それに伴い男の不安は増したようだった。

 妙に機嫌の良い男に手を引かれながら、そのことを思い出していた。男はある部屋の前で足を止め、その扉を開く。
「これ、何か分かるか?」
「絵を描けというのか」
「そのとおり!」
 男は嬉しそうに頷いた。部屋には画材と思われる道具が揃っていた。この家の所有者のものなのか、雇われた画家のものなのかは不明だが大した問題ではない。
「キミの絵が好きなんだ」
「お陰様でな」
「こんなに画材が揃っている場所は初めてだから、良い作品が見られるだろうと思って」
「生憎だが、大げさな絵を描く気はない」
 旅の間に男はルシファーに絵を教えていた。その甲斐あってルシファーは各空間の景色や生物を写しとるのに困らなくなっていた。その代わりというわけでもないが、ルシファーは文字の読み書きや彼の持つ知識を男に教えた。
「気が向いたら何か描いてくれよ」
 結局、ルシファーがその絵の具を使うことはなかった。

 夜半、ルシファーと男はランプの灯が照らす部屋で過ごしていた。
 男は別室から持ってきた画材でルシファーの姿を紙に写し取っている。
「キミに描かれてみたい」
 手を動かしながら呟いた声が、静かな部屋にいやに響いた。
「自分の顔を知りたいのか?」
 ベッドに横たわったまま、ルシファーは問う。男は手を止めてルシファーの顔を見た。
「キミからどう見えているのかに興味はあるが……キミに思いつかれたい、というのが近いかな」
「奇妙な願望だな」
「知ってる。ただ、もしそうだったらこんなに素晴らしいことはないだろうと思う」
「なぜそう思う? お前は既にここに存在しているというのに」
「最近はそう感じられる瞬間もあるが……それでも、何もかもがオレをすり抜けていくんだ。見えていない、存在していないかのように。だったら、キミの手によって存在を与えられたい」
「俺は自分が誰かの手で生み出された存在であることも煩わしいが」
「オレだってキミ以外なら嫌だよ」
「お前は俺以外の人間を知らないだろう」
「他の誰を知ってもキミに作られたいという望みは消えないと思う。変な話だ」
 男は自分でもその奇妙な欲求を持て余しているようだった。ふたりはそれきり黙るが、筆と紙とが擦れる音が沈黙を埋めた。ルシファーはランプの炎が照らす男の顔を眺めて、彼を作るとはどういうことだろうか、と考え始めていた。