いまさら
2025-03-31 14:59:52
37991文字
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永い一瞬

世界観の独自解釈・多大な捏造
星の神が星の世界を作ってファさんが星の民になるまでのファーベリ(と言い張る)
ベリアルの髪が長い




 第一章

 
 風はそう遠くない場所から吹き込んできているのか、音が近かった。
 身にまとっている布がなびいて、初めて衣服の存在が思考の中心に現れる。服を身につけている。肌を隠すことを、そしてその意味を知っている。間違いなく人間の暮らしをしていたことがあるという確信が募るが、それでもまだ何かを思い出すことはできなかった。
 風はどこから流れ、どこへ抜けていくのか。それを辿ればここから出られるかもしれない。風の音や軌道から、それが限りのある空間を通ってきたのだと考えられる。とすると、この闇も何かの形に収束したのだろうか。石を拾って投げると、思った通り、落下した際に地面と当たって音が立つ。この先に形のある空間が広がっていることの証拠だ。
「そっちは行き止まりだよ」
 暗闇に声が響き、驚きで体が硬直する。徐に振り向くと、少し先に赤い光が浮いている。
 やはり光は存在した。しかし、それを喜んでいる場合ではない。
 光の向こうに誰かが立っているのだ。これまで、永遠にも思える長い時間をひとりで歩いてきて、突然自分以外の生物が現れた。どうするべきか分からなかった。助けを求めてもいいものか、警戒すべきか、喜ぶべきか。俺が逡巡して押し黙っているのに構わず、光を持つ誰か──もしそれが人間だとすれば、男の形をしているように見える──は軽い調子で声を響かせる。
「やあ、見たところ迷子かな。オレも似たようなものだけど、ここの出口なら分かる。よければ案内しようか?」
 親しげな様子でそう言って、こちらに近づいてくる。光が小さいので相手の姿はよく見えないが、目線の高さはそう変わらないようだった。唐突な出会いに、俺は身構える。気配など少しも感じさせずに背後から現れたのだ。警戒しても損はない。
「あ、もしかして言葉が通じてないとか? ええと」
 男は何かを考えるように口ごもる。そこで俺はようやく声を出すことができた。
「お前は何者だ?」
 威圧する意図で問うが、返ってきたのは「よかった、通じてた」という呑気な呟きだった。男は両手を上げ、敵意がないことを示している。
「驚かせてすまなかった。オレは……何者なんだろう? よく思い出せないんだ」
 心が安らぐような、しかし神経を逆なでするような、相反する印象を受ける不思議な声。人間ではないのかもしれない、と直感的にそう思った。
「なぜここにいる?」
 気取られないよう、ゆっくりと発声する。俺は恐らく動揺している。この空間の手がかりを求めてさまよっていたはずだが、いつしかそれに出会うことを諦めていたのだろうか。光を目にし、出口の存在を示されても、喜びより驚きや疑心の方が大きい。
「なぜここにいる、か……」男は顎に手を当てて俺の問いを復唱している。
 反対の手に掲げられた淡い光は相変わらず赤く揺らめいている。ランプの灯だ。その揺らぎをみていると僅かに動揺が収まってきた。
「ここというのは、この洞窟のことかい? それとも、この混沌とした継ぎ接ぎの世界のことか?」
 ここは洞窟なのか。いや、洞窟になったのだろう。あの底なしの闇は洞窟という形を得たようだ。しかし、後者に関しては何を指しているのか不明だ。問いに答えずに黙っていると男は話を続ける。
「なぜ、と聞かれても困るな。この洞窟へは目的があって来たわけじゃない。強いて言えば散歩? 後者を指しているのなら、もっと回答に困る。気が付いたらここにいた、としか言えない状況でね。キミは? どうしてここに?」
「お前と似たようなものだ」
「なるほどな」男は納得したように頷く。
「その灯りはどこで手に入れた?」
 まだ動揺は収まりきらない。平静を保ちたくて咄嗟に発した問いだった。しかし、自分が追い求めた光を当然のように手中に収めている彼の姿を見ると、その入手方法が気になるのも確かだった。
「洞窟の外だよ。もうすぐ油が切れる。探索が済んだなら、外に出ないかい?」
「探索していたわけではない」
「じゃあやっぱり迷子か」
 からかうように言われたが否定もできない。俺は行き先を失っており、ただただ無をさまよっていた。何年も何十年も何百年も何千年も闇を歩いていたように思える。
 ランプの小さな火に照らされる空間は確かに洞窟であるようだった。自然的に発生した洞窟にも見えるが、人が通行できるように整備された形跡がある。男に出会うまで歩いていた無限とも思われる闇とはまるで違う。
「キミ、靴を履いていないのか。それじゃ足を怪我しちまう。まずは町へ行こう」
 この奇妙な状況にそぐわない、現実的で些細な提案を持ちかけられた。男に指摘されてから初めて痛みに意識が向いた。現在、痛みを抱えているわけではないが、このまま裸足で動き回れば男の言う通り怪我をしてもおかしくない。そのことを当然だと思える。意識が肉体を持つことを受け入れ始めていた。
 男は勝手知ったるというふうに真っ暗な道を進んで、あっという間に岩で囲まれた空間から明るく開けた空間に出る。明るさに目がくらんで、思わず目を閉じる。振り返って見ると、巨大な岩山がそこにあった。自分がいたのはその中にできた洞窟だったようだ。
「ここは最近現れた岩場でね、キミも一緒に来たの? それとも、出現の座標が被っただけか。それにしても本当に、生きたヒトに出会えるなんて。たまに動物を見かけてもみんなすぐに消えていくんだ。キミみたいに長い時間ここにいるのは珍しいぜ。キミもオレと同じかもしれない。話し相手ができてうれしいよ」
 話し相手、というわりに何を言っているのかちっとも理解できず、俺は言葉を返さなかった。
 明るい場所で見ると、男はとても美しかった。自分が何かを美しく思うのは意外だったが、とにかく彼の姿についてはそう表現するほかなかった。豊かな体躯はゆったりとした白い布で覆われており、そこから伸びる腕の肉付きも良い。腰まで伸びた濃い茶色の髪は艶やかだ。
 彼の手にランプが握られていないことに気が付いて、「灯りをどこへやった」と聞くと、彼はまるでそれが当然であるかのように答えた。
「消えたよ。役目を果たしたからかな」
 どうやらここでは自分が知っているものとは異なる摂理がはたらいているようだ。
 ふと上を見る。見上げた先に広がる空間は洞窟よりはずっと明るいが、灰がかっており直感的に自分が知っている色とは違うと思った。それなのに知っているはずの景色は思い出せなかった。
「キミ、ほかの区域に行ったことはないよな」
 確認するように問われるが、その問いの意味も分からない。男はこちらが黙っていても気にせず、「町に行く近道は向こうだったかな。でも険しい道は避けたいところだ」と独り言を言っている。彼と行動を共にしてもよいものか判断しかねているが、ここで言葉が通じる相手を逃すのは賢い選択ではないように思えた。
 もしかしたら自分は洞窟を探検するうちに何らかの事故に巻き込まれて記憶を失ってしまっているだけかもしれない。永遠に続く暗闇も、消えるランプも、事故による意識の混濁が見せた幻覚の可能性がある。頭の片隅でそう考えつつも、現状を整理する中でやはりここは特異な空間に違いないという確信もあった。
「この世界について知っていることを話せ」
「ああ、それは構わない。だが、まずは見てもらった方が早いかもな」
 何を見せるというのだろう。見渡す限り岩の山が続くだけで何か手がかりがあるとは思えない。ここにも洞窟同様に人の往来があった形跡があるのに、相変わらず男と自分以外に人がいる気配がない。それどころか他の生物の姿も見えなかった。
「ここで人間を見たことは?」
「キミが初めてだよ」
「にも拘らず町があるのか?」
「いくつかね」
 町はここからどれくらい離れているのだろう。見渡す限りの山々に、呆れた気持ちになる。しかし、あの永遠の闇が遠ざかったのに安堵しているのも事実だった。
 男に後について岩の地面を歩き続けていると、ふと空気が変わった。
 そう感じた瞬間に、これまでいた岩場とは全く違う空間へ移動していることに気がつく。乾いた岩場ではなく、湿った空気に満ちた森林に立っていた。
……景色が変わった」思わず呟くと、前を行く男が「境界を越えたんだ」と答えた。先ほどまで確かにこの目で捉えていたはずなのに、そこを通過できないとはどういう現象なのだろう。数歩引き返してみると、また岩場に出た。森林などどこにも存在しない。目の前には岩の地面が広がっていて、男の姿も見えなかった。
「これがオレが知っていることのひとつ」
 姿はないのに、声が聞こえる。そちらの方へ踏み出すと、俺はまた森に入った。数歩先に男が立っている。

 本当に別空間に移ったのか、それとも脳がそう知覚させられているのか。森林の木や土は確かにそこにあるように見える。草木に触れれば手触りが返ってくる。ぬかるんだ地面の土が跳ねて、白い衣服の裾を汚す。幻覚や妄想ではなく、目の前で起きていることだった。
「オレの目が狂っているのかと考えたこともあるが、キミにも同じものが見えているようだね。まあ、オレがキミという幻覚を見ている可能性も否定できないし、逆にキミがオレという幻覚をみているだけかもしれないが──どうだっていいことだ。ここにはオレとキミ以外いないのだから、どちらかが夢を見ていたとしても大した問題ではない」
 滔々と語る声は諦念と恍惚を含んでいるように聞こえた。この男はどれほどの時間をここで過ごしてきたのだろう。数歩前を歩く姿を眺めても答えなど出ない。
 森の土は岩場の地面よりはずっと柔らかかったが、優しくはなかった。濡れた土に埋まった石が足の裏を刺し、鋭い痛みが走る。立ち止まって足を上げてみると皮膚が切れて血が滲んでいた。どうして今になって怪我を負ったのだろう。この土より硬い石の上を歩いても平気だったはずなのに。
 赤く滴る血がこれは現実だと突き付けてくる。人間の体はやはり面倒だ。行動に制限がある。怪我に気づいた男が振り向いて声をかけてくる。
「近くに湖がある。傷口を洗い流した方がいい。歩けるかい」

 湖面は凪いでいた。水面を覗き込むとぼんやりと自身の姿が反射している。不機嫌そうに眉間にしわを寄せた男の顔がそこにあった。
「気になっていたんだが……その髪はどうしたんだい?」
 背後から問いかけられて、男が何を聞きたいのかすぐに分かった。水面に映る姿を見て自分でもひどい出来だと思ったからだ。
「切った」と端的に答える。
「鋏でも落ちていたの?」さらに質問が飛んできて髪を切ったときのことを思い出す。
 長い髪があまりにも邪魔だったので、洞窟を歩いている間に切り落としたのだ。鋏など落ちているはずもない。手ごろな石をいくつか集めて、ひたすら地面に打ち付ける。運よく割れたら断面を地面や他の石にこすりつけ、鋭利な面を作っていった。それだけだ。
「すごい執念だね」
 説明を聞いた男は呆れと感心の入り混じった感想を述べる。即席のナイフで切った毛先は、当然ながらひどく歪な仕上がりだった。
「何か問題でも?」
「どおりで独特な形をしているわけだ」
「お前こそ、その長い髪は邪魔ではないのか」
 会話しながら湖に足を入れるが、その頃には足の痛みが引いていた。手で患部に触れると傷口が消えている。
「どうかした?」
……いや。時間の経過について知っていることはあるか?」
「場所によるかな。時間が流れていると思しき現象が起こる空間はある。天気が変わったり、昼夜が入れ替わったり。この森もそうだ。じきに暗くなって、そのうち明るくなる。〝今日〟はもう動かない方がいいかもしれないな」
 男の言う通り、辺りは暗くなってきていた。ざあ、と風が木の葉を揺らす音がする。
「明るくなるまで待った方が賢明だ。足の怪我もあるし」
「怪我は問題ない。傷口は塞がっている」
「大事にならなくてよかった」
 彼は驚かず、素直にその回復を喜んだ。
 俺は湖から陸に上がり、草の上に横たわる。枝葉の向こうに見える色が燃えるような赤から闇に変わっていく。その移り変わりを眺めていると、次第にまぶたが重くなっていった。

 気がつくと俺はまた暗闇にいた。少し離れた場所で誰かの声がする。ゆったりと落ち着いているが、何かをくすぐるような悪戯っぽさもある。これは誰の声だったか、と考えを巡らせて、はっと思い出す。俺はもうあの闇から抜け出したのだ。
 目を開くと、木々の葉が重なり合って揺れている様子が見えた。その向こうは明るくなっている。夜が終わった証だ。
 あの男が誰かに語りかけている声が耳に届いた。まさか自分の他に誰かが現れたのだろうか。
 体を起こして声のする方に向かう。何が現れたのか知りたかった。人間であっても、そうでなくても、その存在はこの世界について知るのに重要な手がかりだ。
 木々の向こうで男が横たわっているのが見えた。彼の腹の上を白いひも状の何かがなめらかに這っている。
──蛇だ。
 そう認識した途端に、腹の奥で言いようのない感覚が生まれる。驚き、嫌悪、興奮、焦燥……様々な感情が混ざり合い、やがてそれは得体の知れない怒りとなった。
 男は蛇と言葉を交わしているようだった。甘ったるい声で何かを囁いている。俺はたまらずに彼の方へ飛び出す。
「何をしている!」
 自分で意図したよりも怒気をはらんだ声が出た。俺は何を恐れているというのか。男は横たわったまま徐にこちらを見上げると、頬を緩めた。
「オハヨウ。ちょうどよかった、真っ白なオトモダチと遊んでいたところだ。一緒にどうだ? ほら、なんだかキミに似てる」
「ふざけるな!」俺はまた怒鳴らなければならなかった。
「つれないなあ、じゃあ、オレたちだけで楽しむとしようか」
 男は白蛇に向き直ってその鱗に頬を寄せたが、蛇はするりと男の体から離れて草むらに姿を消した。
 本当にふざけている。
「キミが大きな声を出すから驚いて逃げてしまった」
 責める口調で言われて腹が立つが、男はこちらの嫌悪など知らず、のんびりと体を起こしてあぐらをかいた。
「爬虫類と戯れる趣味があったのか」
「種にこだわりはない。みんな貴重な遊び相手だし」
 とんでもない回答に顔を歪めると「ひどい顔」と笑われた。
「罰が下るぞ」
「これって罰が下るようなこと?」
「少なくとも俺の感覚ではそうだ」
「ふうん? キミがいた世界ではそうだったのかな。でもここではそんなこと気にしなくていいんだぜ? オレとキミしかいないのに、誰がオレの行為を罪だと見定めるっていうんだ。もしかしてキミはカミサマか何か?」
 かみさま。その単語が耳に入った途端、妙に居心地が悪くなる。
「お前のいた世界では蛇と寝ることは罪に当たらないと?」
 問うと、彼は少し困った表情を見せた。それでいくらか溜飲が下がる。振り回されてばかりでは気が済まない。
「オレは生まれたときからずっとここにいるような気がするんだ。何かを思い出せそうな瞬間があるし、ひとりでいたはずなのに言葉も知っているから、実際はそうではないと分かっているんだけど」
 男が縋るような目でこちらを見た。初めて見たわけではないのに、彼の瞳が赤いことに気を取られる。こんな色をしていたのか。今になってはっきりと認識した。そして再び彼を美しいと思った。
「お前はこの世界の管理者ではないのか」
「違うと思う。だが、確かにこの世界に誰かの作為を感じることはある。管理者に相当する何かがいても不思議ではない。それこそ、神のような存在だ」
「心当たりが?」
「管理者と関係があるのかは分からないが……ただ、例えば、世界の広さ……容量、といえばいいかな。これに限りがあるように思う。ここで起こることは無秩序に見えるけど、必ず制限があるんだ。誰かがそうなるよう取り決めているような印象を受ける」
……
 残念なことに、俺も同じ意見だった。俺たちをここに閉じ込めている何かがいる。それが誰であろうと、目的が何であろうと、俺はそれを許せない。
「他にも見せたいものがある。明るくなったし、移動しながら話そう」
 不埒な案内人は徐に立ち上がってこちらに道を示す。森の空気は澄んでいて、昨日よりも遠くまで見渡せるような気がした。

 森林を歩いていると、また空気が変わり、小さな町に入る。振り返っても木々は見えず、代わりに建物が建ち並ぶ路地が続いている。やはり奇妙な現象だ。
「まずはキミの靴だね」
 勝手知ったる様子で男が路地を進む。石畳で舗装された道は、人々の営みの証拠だった。それなのに、この町のどこにも人影はない。
 町の奥に進むにつれて建物は減り、閑散とした印象に変わった。男はある小屋の扉を開けて中に入っていく。工具や布などが並んでおり、何かの作業場であることが見て取れた。
「お好きなものをどうぞ」
 男が棚に並ぶ靴を指し示す。彼が履いているのと同じような簡素なサンダルもあれば、大げさな革製のブーツもある。
「ほんの直前まで職人が作業していたような有様だな」
「ああ、この部屋の様子? どこもこんな感じだ。オレに見えていないだけで、人々が今でも生活しているんじゃないかと思うことがあるよ。でも、どこにもいないんだ。ここは時が止まってる」
 話しながら、男は棚からサンダルを見繕って寄越してきた。好きなものを選べと言ったくせに。そう思いながらもそれを履くと、不思議なほどに足に馴染んでいた。
「どう?」
「問題なさそうだ」
「よかった。悪いけど、もう少し付き合ってほしい」
 小屋を出てまた建物の密集した路地に戻り、別の建物へ案内される。そこは先ほどの小屋より広く、置いてあるものも少なかった。
「座って」
 促されて、簡素な作りの椅子に腰を下ろす。いつ取り出したのか、男は手に刃物を持っていた。
「何をするつもりだ」
「何って……キミのその素敵な髪をさらに素敵にするお手伝いをしようと思って。あ、心配しないで。キミを傷つけたりはしない」
「当然だろう。そもそも、髪を整える必要もない」
「それはオレがしたいんだ。ダメかい?」言いながら男は俺の髪に手を伸ばす。
……」呆れて黙っているのを受け入れたと見なしたのか、彼は上機嫌に微笑んだ。
「理容師でもなんでもないけど、手先はわりと器用だよ」
 文句を言うのも面倒で好きにさせることにした。それに、ここで俺の髪がどうなろうとそれは大きな問題ではない。彼が毛繕いをしている間に、ここを出る方法を考えようと決めた。
 髪を掬う手つきは柔らかく、悪い気分ではない。
 ふと暗闇に切り捨てた髪の残骸はどうなっただろうと気になった。消えてしまっていても不思議はない。
 この世界に来てから──とりわけ、あの洞窟を出てからの景色を振り返る。
 景色──そうだ、あくまでも景色が貼り付けられただけのような空間にいる。本来あるべき場所からあふれた景色がここに押し込められている。この不自然な世界に対してそう思えてならなかった。
 俺もその一部だというのだろうか。では、楽しそうに俺の髪を弄るこいつは?
 まだ考える材料が足りない。もう少しこの世界を見て回る必要がある。
……よし。これで少しはマシに……じゃなくて。もっと良くなったんじゃないかな」
 満足げな声がして、そちらに注意を向ける。毛先に触れてみると、石で無理やり千切ったせいで長さがバラバラだったそれは男の手によって丁寧に整えられていた。
「おかげで気が済んだよ。キミは? お気に召したかい?」
「いいや、俺はお前のそれが気に入らない」
 目の前に立つ男の長い髪を掬うと、男はわずかに目を見開き、そしてすぐに笑みを作った。
「じゃあ、お願いしてもいいか?」
 鈍く光を反射する鋏が差し出され、俺は戸惑った。
「俺はお前と違って理容師などやったことないが」
「今からやるのさ。オレだってさっきまでキミと同じ未経験だったんだぜ?」
「なんで俺がこんなことを……
 文句を垂れながら席を立つと、入れ替わるように男が椅子に座る。
 渋々、暗色の髪を持ち上げる。艶やかな細い毛がさらさらと手のひらを撫でる。今からこれを切るのかと思うとなぜか気が重い。完成された絵画を踏みつけるような心理的な抵抗。それと共に背徳感が生じているのも事実だ。
 自身の中に生まれた矛盾を冷静に受け止めながら、美しい一房に鋏を通す───が、切れない。
……?」
 鋏を握り直し、再び髪に刃を当てる。刃が閉じて金属同士が触れる音がするが、髪が切れた様子はない。何度繰り返しても同じだ。鋏が髪をすり抜ける。水や空気に刃物を通すような、奇妙な感覚だった。
「やっぱりダメか」
「どういうことだ」
「さあ、オレはキミだけに見える幻なのかも」
 男は笑うが、その感情は読めない。
 これは毛髪だけに起きる現象なのだろうか、と物騒な疑問が浮かぶ。
「キミが何を考えているか分かるよ」
 鋏を持つ手に、男の手が重なる。柔らかく、冷たい手だった。そして男は刃先を彼自身の喉元に向ける。
「試してみたい?」
「悪趣味だ」
「なぜ? 罰が下るから?」
「もう遅い」
 罰なら既に受けている。何を犯したのかは知らないが、ここに閉じ込められている。きっとそれ自体が罰だ。
 男が手に力を込める。俺はそれに逆らわない。刃が白い喉に埋まっていく。髪に刃を通したときの空気を切るような感覚とは異なり、手のひらには鋏を肉に突き立てた感覚が伝わってくる。それなのに、皮膚が裂けることも血が吹き出すこともない。
「大丈夫だ、キミは誰も殺さない」
 宥めるように彼が言う。鋏を喉に刺したままで。
 ゆっくりと喉から鋏が引き抜かれ、俺の手に重なっていた冷たい手が離れていく。男の喉は滑らかな皮膚で覆われたままだ。
 鋏を握る俺の手は汗で濡れていた。鼓動が聞こえるほど心臓が大きく速く跳ねている。
「オレは死ぬことができないんだ。でも、キミはそうじゃないのかもしれない」
 彼の時間は止まっていて、その動かし方も分からない。そう言いたいのだろう。
「俺は死ねると?」
「そうだとしても死ぬのはもう少し待ってくれよ。せっかく出会えたんだから」
 そう言って男が立ち上がった。赤い瞳が炎のように揺らめいている。彼が何を考えているのか、全く想像もつかない。
「文字は読める? 本を見つけたが、俺が知らない文字なんだ」
 戸棚からいくつかの紙束を持ち出してきた。初めて見る文字だったが、法則さえ分かれば断片的にでも読めるだろうと判断して受け取る。
 他の建物からも本や手紙を集めて読み進めたが、書かれている内容はどれもこの町の生活に根ざしたもので、混沌としたこの世界そのものに対する記述はなさそうだった。
「この町は平和だったようだな。本当に人が生活していたとすれば、だが」
 民家と思われる建物の書斎で住民の手記を見つけた。町での出来事が書き残されているそれは、その日の記録と翌日の予定について述べたページで途切れている。この町に〝翌日〟は永遠に訪れない。
「他にこうした町があるとしても、脱出の手がかりが見つかる可能性は低いだろう」
「だが、試す価値はある。空間によって、文明の質が全く異なっている。文化、気候、時間の進み方も、皆それぞれ違うんだ。そのうちのどこかに出口があるかもしれない」
「それらすべてを渡り歩いて出口を探し出せと?」
「時間なら無限、あるいはそれに近いほどある」
「無限に近い、というのは無限とは全く異なる状態だ」
「もし無限でないとして、残り時間は言葉遊びをするのも惜しいほど短いのか?」
「だったらお前のごっこ遊びや戯言に付き合っている場合ではないだろうな」
「では、ついでに散歩にもお付き合い願いたい」
 恭しく手を差し伸べて男が言うので、俺はその手を振り払った。

 民家を出て、再び町を歩いているときだった。何の前触れもなくそれは訪れた。
「あの光が見えるか? キミに見せたかったもののひとつだ。思ったよりはやく立ち会えた」
 男が指差した先──遥か遠くの空に白い星が浮いている。空と星。俺はそれを知っている。思い出せたのはその事実のみだ。どこで見たのかは記憶にはなかった。
 白い星は次第に広がり、その光に様々な色が混じり始める。形も色彩も一定にとどまらず、ただその範囲を広げていく。突如、光の中心に穴が開いた。大きく開いていく穴の向こう側は暗がりだが、何かが聳え立っているような影が見える。
 穴が開いて輪のようになった光は直径を広げながら降下する。輪が通り過ぎた箇所が円筒状の闇に変わっていく。やがて光の輪は地面に近づき、そこにある建物も飲み込んだ。町は壊れていっている最中なのに、砂煙も轟音もない。そこは静寂であり続けた。
 輪はそのまま地面をも通過し、どこまでも沈んでいく。しばらくすると、光は消え、そこには有と無との線が引かれた。
「今のは何だ」
「何が目的かは知らないが、たまに現れてはこうして景色を飲み込んでいく」
 光はすべてを奪うことはせず、その軌道上にあった景色だけを掠め取っていったようだった。半身だけ光が通過した建物もいくつかあるが、どういうわけか倒壊せずに残りの半身だけでそこに建っている。不思議な光景だった。
「あの暗闇は?」
「光が通った場所だけあんな風になる。あの中に入ったことがあるが何もなかった」
「あの闇の中か?」
「ああ。しばらくすると、新たな空間が生まれる。せっかくだし行ってみよう」
 男は迷いなく暗闇に足を踏み入れた。その後ろについて、町と闇との境を越える。
 空中を歩くような気分だった。闇の中を漂っていた頃を思い出す。あのときと異なるのは、肉体の有無だった。一歩ずつ進んでいるはずだが、視覚的な情報が全くないうえに足裏に何も触れないので実感がない。
「とにかく進んでいれば、いつかはどこかに流れ着く。別の何かが現れて闇からはじき出されるのが先ってこともあるが」
 男の言う現象には覚えがあった。あの暗闇は、いつしか洞窟に変わっていた。そうしたことがここでも起こるというのだろう。
「その別の何かはどこから来るのか……そして町の行き先も気になるところだな」
「オレもさっきの町は消えたわけじゃなくて、どこかへ移動したと考えている。行き先が知りたくて何度もあの光に飛び込もうとしたよ。そのたびにオレだけが取り残される」
 暗闇の中で、男がどこにいるのか分からなかった。落ち着いた声は脳内に響くような近さで聞こえるが、そのような距離の内に彼がいるわけではないことは気配で分かる。
「灯りはないのか」
「拾ってくればよかったな。照らしたところで道なんかないが、キミを見失うのは避けられる」
「俺はお前と逸れても構わない」
「つれないなあ。オレをひとりにするのかい」
 水の上を歩くような心許ない感覚が続く。まっすぐ進めているのかも分からない。
「境界は空中にも存在している。例えば、崖から落ちて真っ逆さま、このままじゃ地面に打ちつけられてぐちゃぐちゃに、と思ったら別の空間の川の中につながっていて助かったことがある」
「お前は転落したところで死なないのだろう」
「気持ちの問題さ。スリルがあって良かったが、あまり何度も経験したいことではない。……ああ、でも、鋏を喉に刺されるのはゾクゾクした。あれならもう一度味わってもいい」
 俺は思わず声の方へ蹴りを入れた。男の正確な位置を把握はしていなかったが、爪先が無事男の脛に当たり、ぎゃっと短い悲鳴が上がる。俺は男がそこにいることを確認して密かに安堵していた。
「蹴った! 何もしてないのに!」
「なんだ、そこにいたのか」
「いるとも、ずっとね」
「鋏を刺したのは俺じゃない。お前がやったことだ」
「もしかして根に持ってる? 悪かったよ。だが案外楽しめただろう? キミって潔癖そうだからつい揶揄いたくなって。道を逸れるのもたまには悪くないぜ」
「潔癖だと?」
「まさかオレと蛇の邪魔をしたのを忘れたんじゃないだろうな?」
「お前の基準では大体のものが潔癖に見えるだろうな」
 男の言葉を受けて白蛇の姿を思い浮かべてみるも、あのとき感じた憎悪は湧いてこない。あれは何だったのだろう。それに、あの生物を見て蛇だと認識する知識が自分に備わっていることについても考えなければならない。この世界において、俺は多くのものを違和感なく受け入れている。一方で空間が切り替わる現象や、景色を切り取る光輪は未知だった。
 もう少しで次の空間に出るよ、と男が言った。それきりしばらくはどちらも口を開かずにいた。

 風が吹いて、闇の終わりを知る。最初に見えたのは赤い空だった。
 なぜこれが空だと分かるのか。それについて考えるのは自分について考えるのと恐らく同義である。
「良かった、やはりここにつながっていた」
「知っていたのか」
「頭の中にこの世界の地図のようなものがある。とはいえ、あの暗闇じゃほとんど勘で進んでたが」
 男と俺は崖の淵に立っている。ただ、眼前には空しか見えなかった。下には地面も海もない。
「下には何がある?」
「確かめてみる?」
「そうだな」
「本気?」
「ああ」
 頷くと同時に崖から飛び降りた。男が笑いながら後に続く。不思議と恐怖はなかった。
 風を受けながらなんとか体を翻し、先ほど立っていた崖を見上げる。巨大な土塊が宙に浮いていた。崖だと思っていたのはあの島の端だったというわけか。
「思い切りがいいねえ」
 少し上にいる男は落下に慣れているようで、身のこなしに無駄がなかった。全身で風を受けるために手足を伸ばし、落下を楽しんでいるようでもあった。
 どこまでも落ちていく。いつまでも落ちていく。その間に、多くの島が崩れていくのを見た。今まで通ってきた空間も宙に浮く島の一部だったのだろうか。答えはまだ出せない。
 この世界では恐らく次元が混在している。考える時間が、答えを導き出す材料が欲しい。
 ここが知っている空のうちのひとつであることは間違いなかったが、こんなふうに一面が赤く染まっているのは初めて見たように思う。では本来はどのような色をしていたか。
 肌を凍らせるような冷たい風が思考する力を奪っていく。赤い空の底はまだ見えない。目が乾いて痛かった。涙が眼球を潤そうとするが何の足しにもならない。
 反射的に目を閉じて、重力に身を任せていた。──そう、重力。これについても知っている。ということは、落下する方向に引力を持つ何かが存在しているのか。ではあの島はどのような力で浮いていた? 島々にも引力があったはずだ。それが消失し空の底と均衡を保てなくなった、あるいは空の底の質量が増大してしまった。それで島々が砕けて落下している? その要因は? 島と空の底、先に変化があったのはどちらだろう。そしてそれをもたらしたものの正体は? 興味は尽きない。目を閉じて考察を巡らせる。島の物質を調べたい。星の軌道を観測したい。物理法則を解明したい。そうした知的欲求に身を焦がしているうち、いつしか意識を手放してしまった。

 次に目を開くと、俺は地面の上に横たわっていた。頭上には青い空が広がっている。忌々しい、清く正しい色だ。
「やあ、お目覚めだね。幸運なことに、地面に打ち付けられてぐちゃぐちゃ、なんてことにはならなかったようだ」
 どこで手に入れたのか、男は傘を差して側に座っていた。そのおかげで日の光が遮られていたようだ。
「次はどこへ行く?」
「いくつか調べたいことがある。地図を描け、お前が把握している限りで構わん」
「お安い御用だ。紙とインクがある場所へ行く?」
「いや、この砂の上で十分だ」
「ここの砂は粒が細かくて線を引くのには向かない」
「あの水辺ならどうだ」
 遠くに水場が見えていた。湿った砂は扱いやすい。
「ああ、行こうか」
 男が立ち上がり、傘をこちらに傾けた。邪魔だと跳ね除けるには些か強い日差しだったので、俺は何も言わなかった。
 彼は世話好きなのか、出会ってから今まで事あるごとに何かを差し出してきた。俺は自分がそれを疑わずに受け取っていることが少し意外だった。そのつもりは毛頭ないが、もしも油断した隙に付け入られてもおかしくない。気を許させるのが上手いのか、俺の警戒心が薄いのか。
 前者だとして、男のその能力は、ここでは彼自身にとって薄利である。この世界に俺と男以外にも人間が存在し、社会が形成されている場合にはそれは彼にとって有利に作用するだろう。損得勘定や合理的判断が機能する次元では使い方によってじゅうぶん財を成すことができる力だ。
 残念ながら、ここには俺と彼しかいない。今のところ、彼は俺に対価を求めてこない。今後、取引を持ちかけられる可能性もあるが、応じるかどうかは求められる対価次第だ。傘の下で隣の男を盗み見る。背の高さはそう変わらないのだった、とどうでもいいことをふと思い出す。
 砂漠には人どころか、植物も建造物もなかった。ただ、遠くに水が見えるだけ。その周囲にも生命の面影はない。
 柔らかな砂は歩きにくかった。足が埋まって、靴や爪の間に砂が入ってくる。
 暑い。
 傘のおかげで日の光は当たらないが、まとわりつく乾いた空気が体の水分を奪っていくようだった。隣を歩く男は全く平気そうだった。不安定な足場やこの暑さで体力が損なわれているということもなさそうだ。作り物のような青白い肌は冷たそうですらある。
 そうだ、確かに冷たい手だった。陶器のようなのに、触れると意外なほどに柔らかだったのだ。
 彼は何でできているのだろう、と馬鹿なことを考える。しかし、彼が何でできているのか、この目で確かめたわけではないのだから、あまり突飛な疑問ではないようにも思われる。事実、あの体は鋏を飲み込んでも全く無傷だったのだ。
 彼の中に指を突き入れてみたい。そんな愚かしい妄想に支配されそうになる。それもこれも暑さのせいだった。
 暑さに耐えて歩き続け、いよいよ水場が目の前に迫ってくる。途中から目的も忘れ、ただ水が飲みたいと思うようになっていた。
「さて、」
 男が水たまりの前にしゃがんで、砂に指を立てる。そういえば、地図を頼んでいたのだった。だが、今はそれどころではない。早足で水場に駆け寄った次の瞬間、俺は絶望することになった。

 ◇

 また眠っていたらしい。今度は色とりどりの絵画が目に飛び込んでくる。天井に絵が描かれているのかと気がついた。広い部屋は華美な装飾が施されており、何かの宗教に関連する建物であることが推測できる。俺は壁際の中央にあるソファに横たえられていた。
 部屋に男の姿はない。文句を言わなければならないのに。俺は再び目を閉じて気絶する直前のことを思い出す。
 砂漠の水まであと一歩というときだった。
 そこには例の〝境界〟があったらしく、目の前の水に手が届く前に、別の空間に出てしまったのだ。後ろから男が「ゴメン、言い忘れてた」とあっさり言い放ったのが記憶の最後だ。
 扉が開いて、誰か──言うまでもないが、あの男だ──が入ってくる音がする。足音の他に、液体が揺れるような音も聞こえた。目を開ける気になれず、男が立てる物音に耳を澄ます。
 彼は俺の側に跪き、何かを床に置いた。恐らく、水の入った容器だろう。男はそのままそこに座り込んでいたが、やがてソファに手をかけ、こちらに身を乗り出した。
 その直後、頬に何かが触れた。男の指だ。冷たい手がそっと頬を滑っていく。
「寝込みを襲う気か?」
 目を開き、頬に触れていた彼の指を掴んだ。彼は俺が寝ていると思っていたのだろう。驚いて目を丸くしている。赤い瞳がよく見えた。
「その手があった」彼は笑いながらそう言って「死んだように眠ってるから。心配になってね」と続けた。
「残念だったな」
 握った手の冷たさが心地よく、すぐに手放す気になれなかった。男も気にする様子はなく、会話を続ける。
「まさか。生きていてくれて嬉しいよ」
「水を汲んできたんだ。飲む?」
「ああ……それにしても、お前もこの世界も性格が悪い」
「まあ、否定はしない」
 目の前で求めたものが消え去ったあの瞬間の悔しさといったらなかった。
 俺が身を起こすと、男が水の入った容器を差し出す。深さのある白い容器にたっぷりと水が満たされ、周囲の景色が映り込んでいる。しかし、そこには男の姿だけがなかった。もう驚きはしないが確認はしたかった。
……鏡はあるか」
「ああ、町のどこかで見たな。すぐ必要かい? ……あ、」
 男は俺の意図に気がついたようだった。自分を映さない水面を一瞥し、困ったように微笑む。
「実は自分の顔を見たことがない。人に会ったら聞いてみたいと思ってたんだ。オレってどんな顔してる?」
 どう答えるべきか。考えながら、容器を傾けて水を飲む。ぬるい液体が喉を通っていった。男はそれを見届けると質問の答えを待たずに立ち上がる。
「どこへ行く」
「地図を描かなきゃ。何か書くものを探してくる。キミは休んでて」
 部屋にひとり残されたが、歩き回る気分でもない。
 考えたいことがいくつもあったはずだ。記憶にある複数の世界とそれぞれの物理法則について。そしてなぜ自分にそれらの記憶があるのか。空に浮く島とその落下のことを知らなかった理由も考えたい。自分がここに至った経緯も、男の正体も。
 あの男は何なのだろう。
 誰からも何からも傷つけられることはなく、そして彼自身が世界に影響を与えることもできない。哀れで無力な存在。それがあの男である。
 俺も似たようなものだ。この空間に翻弄されてばかりで、未だ脱出や破壊の手がかりは掴めない。
 出口を探すより、作るほうが早いかもしれない。空間ごと破壊してしまうのは悪くないアイデアだ。それができるほどのエネルギーの調達ができれば、だが。真っ向から解決できる問題ではないだろう。まずは男に地図を描いてもらって、脆弱な箇所を探したい。穴が見つかれば、より少ない力でこの世界を破壊できるだろう。
 あの光の輪についてももう少し情報を集めたいところだ。出現の法則性や、質量、軌道、その目的。あれは自然現象というより、誰かが意図的に引き起こしているもののように感じる。その後に別の空間が入り込むというのもおかしな話だ。
 また扉が開いて、荷物を抱えた男が戻ってきた。
「紙とペンとインクと、鏡だ。以前キミの髪を切ったのに、水面でしか確認していなかっただろう」
 手渡された鏡を覗くとそこには自分の姿が映っている。はっきりと自分の顔を見たのはこれが初めてだ。特に感動はない。髪は白く、瞳は青かった。年齢という概念を己が抱えているのかは知らないが、それも読めない顔つきだ。
 鏡を傾けて男が映る角度に変えてみる。誰もいない部屋が映し出された。この目が捉えているこの男は本来この世界に存在しないものなのだろうか。何かイレギュラーが起きてここに現れてしまった、と考えることもできる。世界の方から存在が定義されていないのだ。どこの次元にも存在せず、この異常な空間が新たに生み出してしまったものかもしれなかった。
 あるいは、俺が作り出した幻。
 仮に幻だったとしても、ここまで鮮明に投影されるならもう実在していると解釈してもよかった。これは客観的な考察ではなく、あくまで俺の個人的な考えだ。
 当の男は床に広げた紙に線を引いている。地図を描いているようだった。地図が描けるほどにこの世界が狭いということでもあり、地図が描けるほどに男がこの世界に長くいたということだ。
「オレが把握してる限りではこんな感じ」
 出来上がったのは奇妙な図だったので、彼に説明を求める。彼が把握している各空間とそれがどこにつながっているかを示したという。地続きではなく、空間ごとに境界が複数あるため、想像した地図と異なるものが出されたというわけだ。
 図の中には文字が書かれていた。それぞれがどのような場所であるかを記したらしい。その文字は初めて見るのに、どうしてか何が書いてあるのかが分かった。読めるというよりは、理解できる、という感覚だ。境界は平行方面だけでなく上下にもあるのでその旨も記されている。翼があれば空にある境界を確かめることができたんだが、と彼は笑いながら言った。
「今いるのはここ」
 青白い指先が図の一点を示す。そこから伸びる線を辿ると確かに今まで通ってきた空間につながっていた。
「ここはどこにつながっている」
 俺はソファに座ったまま、床の男に問うた。
「こっちに進むと別の街に出る。反対側に進むと森に。この方角に進むと……
 男は丁寧に説明するが、それは空中で見えない何かを掴むようなもどかしさがあった。
 空間を進んでいけばいずれ別の場所へ出るが、出口はひとつではないという。いくつも扉があり、それぞれが別の部屋に繋がる部屋のようなもの。その扉が壁にのみ設置されているとは限らない。天井や床、家具にまで扉があるような、杜撰な設計図。
「無数に空間があるように思えるが、実際はそうではないはずだ。空間ごとにどの辺りに境界があるかは大体把握している。まあ、空中とか地中とかは試したことがないけど。穴を掘り続けていたら知らない場所に行けるかも」
「しばらくはその必要はない。お前が知る限りの空間を案内しろ。もっとも、それだけでここから出る方法が見つかるとは思わないが」
 ペンを手にこの世界の構造を整理する。赤い瞳がじっと手元を見ている。こいつは自身のその瞳が何色かも知らないのだな、と頭の片隅で考える。この男は何者なのだろう。己についても思い出せないが、この男はさらに謎だ。
 彼は誰からも思い出されることのない存在なのだろうか。この世界に付属しない、存在しない存在。だから何もかもが彼を傷つけることができず、何もかもが彼を映し出すことを拒む。
 俺たちが今置かれている世界も、外から見れば同じようなものかもしれない。そう考えながら図を描いていく。
「わあ、キミって……」存在が定かでない男が感心したように声を漏らし、続いて「絵がすっごく下手!」とはしゃいだように言った。俺は持っていたペンで男の頬を小突いた。
 描いていたのは絵というよりは図だったが、男は筆の運びを見ただけで絵の巧拙が分かるらしかった。この世界には男と自分の二人分しか基準がないので、実際のところ自分の絵がどういうレベルにあるのかは知らない。
 頬をインクで汚された男は木炭を粗い紙面に滑らせていく。
「それは?」
 俺は答えを分かった上で、そう聞いた。
「キミ。似てるだろう?」
「絵が上手いとは、見たままを描き映すということなのか?」
「さあ?」
 彼は無責任だった。だが、その手が描き出しているのは先ほど自分が鏡の中に見た人間とほとんど同じ顔をしているのは認めざるを得なかった。
「ねえ、オレってどんな顔してる?」
 手を動かしながら彼が問うてくるので、俺は不貞腐れたように答えてやる。
「下手と言われた直後に描けというのか?」
「アハハ! そうだな、悪かった。絵の描き方なら教えてやれる。オレも最初から描けたわけじゃない。ここで長い時間を過ごしている間にたくさん描いたというだけだ」
 長い時間とはどれくらいだろう。この狂った空間で時間の経過をどう知るのだろう。俺の興味はそれに向いた。ここにはいくつもの空間が散らばっているが、それぞれの空間で流れる時間が違うという。その理由も解き明かしたかった。絵の描き方には興味がない。
 ソファを降りて床に立つと、先ほどまでのふらつきはなく体は十分に回復していた。
 これからは食事を摂らないと飢えてしまうのかもしれないと嫌な予感がするが、忘れてしまいたかった。思い込みの力は強いのだ。この体には血が流れており、生きるには食事が必要だと認識してしまうと、きっとそれが摂理であるかのごとく、体はそれに従ってしまう。皮膚が裂ければ血が流れ、喉が乾けばそれを満たしたいという欲が生まれる。
「お前は水を飲まないのか」
「飲まない。が、飲まないと生きていけない存在があるのは知っている」
「どこで知った?」
「思い出せない」
 短い会話の後、俺たちは教会を去った。そこがまさしく何かの神を崇める目的で建てられたものだということは見て分かる。しかし、その神が何を指すのかは不明だ。
「あれは宗教施設だろう。何の神を奉っているか分かるか」
「教典のようなものなら見たけど。必要かい?」
「あるなら読んでおきたい」
「神に興味がおありかい?」
「ああ、この世界の管理者と同一の存在かもしれないからな」
 男に案内されたのは民家のような小さな家だ。初めに訪れて靴を手に入れた村よりも家の作りは精巧で丈夫。技術の進度が明らかに異なる。
 この村では人々の信仰の対象が共通しているのか、どの家にも同じ教典があった。
「好きに読んでて。時間がかかりそうならその辺を散歩してくる」
 男は言い残してどこかへ立ち去った。この村の人々は皆文字が読めたのだろうか。相変わらず何も思い出せないが、俺は恐らく確実に文字を読むという行為を知っている。ただ、ここに書かれた言語とは異なる言葉を操っていたのは確かだ。この空間にある文字は全く読めなかった。他の本からヒントを拾って重ね合わせて読み解いていく。
「あまり意味がなかった」
 ため息と共に呟く。この村で信仰されている神は管理者とは無関係のようだ。
 別次元が繋ぎ合わされたようなこの世界を異質だと感じるということは、そうでない、正常な状態の世界を知っているからだろう。そう思うのにいつまでも思い出せない。本来の世界では空間はひと続きで、妙な境界などないはずだ。時間も入り乱れることはない。
「何が書いてあったの?」
 後ろから呑気な声がする。いつの間にか男が部屋に入ってきていたようだが気がつかなかった。
「この村はとある果実を特産品としていて、それで生活を立てているものが多い。信仰されている宗教は他国から伝わったもので、ここの管理者の手掛かりにはならなそうなこと」
「キミが本を読んでいる間に外は二回ほど日が暮れた。ちょうど三度目の朝が来たところだ」
 水を持ってきたよ、と男がグラスを差し出す。それを見て喉が渇いていることに気づいた。
「何か食べる? それともまた眠る? 外に出てもいいが」
 眠りは必要なかった。しかし、食べるという選択肢を与えられるとそれを選びたくなってしまう。
「食べるものが?」
「ある。キミが言った通り、果物がたくさん」
 誘われるまま外に出ると、呪いたくなるような日差しが肌を刺す。しかしこの日差しこそがこの村を支えていたのだ。村は緑豊かだった。同種の木がいくつも並び、皆一様に同じ色の実をつけている。
「食べる気にならない色だな」
「そう? 熟しているように見えるけど」
 透き通るような眩しい手が果実のひとつに手を伸ばして、空中で迷うように動きを止めた。
「勝手に取っていいのかな」
「誰が禁じる?」
「誰でもいいけど。同じ行為でも禁止されているときの方が楽しいと知ったんだ。キミのおかげで」
「安心しろ。好きなだけ取っていけばいい」
「つれないんだから!」
 男がそう言って果実をもぎ取った瞬間。眩い閃光が眼前を走り、木々を掠め取っていった。
「おっと……〝管理者〟が禁じていたようだ」
「それは良かったな」
「ただ、一足遅かった」
 果樹はすべて飲み込まれてしまったが、男の手の中にある果実だけは残っていた。
 空間を飲み込むあの光は小規模でも現れるようだ。前に見たときはかなり広範囲の景色を切り散っていったが、今回は果樹園だけが姿を消した。もう少しあの現象を観察したい。
「この世界はキミがこれを食べるのを嫌がってるのかも」
「その理由が見えんな。食べてはならないものをなぜ置いておく?」
「キミの存在が想定外なんじゃない? 本来、キミはここにいる予定ではなかったから隠しておく必要もなかった、とか」
「お前に食われるのを避けたとは考えないのか?」
「実はそれを食べたことあるんだが、そのときは何も起きなかったんだ」
「俺が食っても同じだろう。あの光の出現にそのような意図はない気がするが」
「何かに理由や意義を見出すのも案外楽しいものさ」
 男は肩をすくめて果実を手渡してきた。つるりとした表面のそれはひどく重く感じられた。
「まだこの村を見て回る? ここは色々揃ってるし、キミが何か食べたいなら用意する」
「料理でもするのか? お前は食事を必要としていないようだが」
「もし誰かに会えたら何かを振る舞いたいと考えていた」
「腹が減っているわけではない」
「じゃあ、気が向いたら言ってくれ」
 返事をする代わりに先ほどの果実を齧った。赤い実はひどく酸っぱく、俺が顔をしかめているのを見て男は大げさに笑う。