よる(ひねもす)
2025-03-22 21:50:11
31508文字
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【web再録】Don’t cry over spilt milk

誰にも行き先を告げずに一人旅に出たせいで失踪の噂がたってしまった影浦を犬飼が迎えにいき、三日間、海辺の町で過ごす話。ハッピーエンド。
犬飼と影浦が二十歳の冬ごろのお話です。
登場キャラの進路などについて好き勝手に妄想しているため、ご注意ください。

2024/9/24吾が手33にあわせて発行した同人誌のweb再録です。
手にとったいただいた皆様、本当にありがとうございました。



 3



 朝食は朝八時から。鳴り響くアラームの音で目が覚めた。しばらくスマホをいじった後、のろのろと体を起こす。体も頭も重くて怠い。経験したことがないからただの想像だけど、宿題が終わらないまま迎える夏休みの最終日って、こんな気分なんだろうか。
 顔を洗って簡単に身支度を整えた後、部屋に散乱する荷物を片づけていく。この町に持ってきたものは多くないが、三日も泊まればそれなりに散らかるものだ。
 食堂へ向かい、いつもと同じ席に腰かけた。つけっぱなしのテレビによると、今日はにわか雨が降るかもしれないそうだ。窓の外に目を向けると、分厚い灰色の雲が低く垂れこめている。
「おはよう、カゲ」
「おー……
 くあ、と大きな欠伸をこぼしながら影浦もやって来た。昨夜の言い争いを引きずるような空気はない。おれはひそかに胸を撫で下ろした。
 今日の朝食は、白米、味噌汁、鯵の干物、お刺身、焼き海苔にデザート。朝から刺身とは、なかなか豪勢だ。「二人とも今日で最後だから、奮発しちゃった」と女将が笑う。おれは素直に礼を言って、箸を手に取った。
「うまい」
「ん」
 影浦がどうやってこの民宿を探したのかは分からないが、間違いなくここは当たりだ。食事は美味しく、部屋は新しくはないが清潔で、従業員の接客も感じが良い。ベストシーズンの夏には、きっとたくさんお客さんが来るんだろう。
 正面の影浦に感情が刺さらないように、当たり障りのないことを必死で考える。そうしないと、頭の中が焦燥で埋め尽くされてしまいそうだった。
 宿を出た後はどうすればいい? 三門へ帰ろうと声をかけて、影浦が素直に着いてきてくれるだろうか? 一緒に食事をとるのもこれが最後になったらどうしよう? おれは、カゲに、なんと言うべきなんだ?
「今日は俺に付き合え」
……え?」
 思考がぐるぐると迷路を彷徨っていたので、影浦の言葉に反応するのが一拍遅れた。
「行きたいとこあるから。今日はおめーが俺に付き合え」
「あ……、うん、分かった」
 行きたいところ? 影浦が? おれと?
 頭の上に疑問符が浮かんだままのおれを置き去りにして、さっさと食事を終えた影浦が食堂から出て行く。その背中をぼんやり見送ってから、おれはやっと残りの食事に箸を伸ばした。

 宿のチェックアウトを済ませ、お世話になった女将に感謝の言葉を伝えた。彼女が快く迎え入れてくれなければ、おれと影浦がこの町で落ち着いて過ごすのは難しかったかもしれない。「こちらこそ楽しかった」と笑う主人に、影浦も「ありがとうございました」と頭を下げていたのが印象的だった。
 それから、最寄駅に向かう。バスの車内では二人とも一言も話さなかった。駅のコインロッカーに荷物を預け、身軽になった影浦は目的地も告げずに歩き出した。どこに行くのか聞いても答えてくれなかったので、おれは諦めて黙って後ろを歩くことにした。
 寂れた商店街を抜けると、建物や木々の隙間から暗い藍色が覗いた。ゆるやかな坂道を下り、コンクリートの階段を降りれば、砂浜が広がっている。
「海だ!」
「見りゃ分かる」
 海原を目の前にすると、人は当たり前のことを口にしたくなる。目の前の壮大な光景に名前をつけて呼びたくなるのだ。おれもその一人だった。
「でもなんで海?」
「あそこにはねえから」
 冬の海には誰もいない。紺色の水、白く泡だった波、茶色い砂が見渡す限り広がっている。日差しは弱く、湿った風が冷たい。体の芯から凍えそうに寒かった。口から吐いた息はすぐに白く濁って消える。潮の匂いが鼻につく。命が生まれて、死んでいく匂い。
 波打ち際に近づこうとも、水平線を横目に歩き出そうともせず、影浦はただ海を眺める。おれはその背中を黙って見守る。水面よりずっと手前に立っているのに、波のざわめきが誘っているように聞こえた。
 びゅう、とひときわ強く風が吹く。
 波しぶきや砂が目の中に飛び込んできそうで、反射的にまぶたを下ろした。風はなかなか止まない。耳のすぐ近くで、ごうごうと唸るような音が渦巻いている。宿を出る前に整えた髪が乱れて、頬を叩く。
 長いまばたきの合間に、影浦が消えてしまうかもしれない。
 そんな馬鹿げた考えが急にやってきて、目を閉じたまま手を伸ばす。奇跡みたいに、彼の腕を掴んだ。
……んだよ」
「どうして、三門を離れたの?」
 暗闇の中、おれはずっと聞きたかったことをやっと口にすることができた。彼の声が返ってくるまで、しばしの沈黙を永遠のように感じる。
「わかんねえ。頭ん中がぐちゃぐちゃで、なんも考えたくねえし、一人になりてえし、ガキんときにこの町に来たのを思い出して、なんとなく来たっつーだけだ」
 影浦はおれの腕を振り解かなかった。風がすこし落ち着いて、そっとまぶたを持ち上げる。彼は海に体を向けていて、こちらからは背中しか見えない。声の調子に揺らぎはなく、平坦だ。だからおれには、影浦の気持ちが分からない。
「ぐちゃぐちゃって……、ゾエとのこと?」
「それもある。あと、てめーのせいでもある」
「おれ……?」
 予想もしていなかった答えに、おれは目を見開いた。
「なんで俺なんか好きになったんだ」
 砂浜に打ち寄せ、去っていく波の音が絶え間なく響く。その中でも、影浦の言葉は澄んだまま耳に届いた。
「なんで好きなんて言ったんだ。ただのダチで、それでよかったじゃねえか。楽しく遊んでいられれば、それで十分だろ。俺はバカやってムカつくヤツぶった切ってんのが好きで、このままでいたいのに」
 だんだんと声が震えて聞こえるのは、海から吹きつける冷たい風のせいだろうか。黒く膨れたダウンコートの人影は、じっと動かずに波間を見ている。
「なんで、どいつもこいつも、どこかへ行こうとするんだ」
 サイドエフェクトで気づかれると思ったから。隠し事のせいで嫌われるのが怖かったから。気づかれる前に、自分から打ち明けるしかないと思った。
 ……違う。嘘。そんなの嘘だ。影浦のせいにして、自分の欲望から目を逸らしている。それじゃ駄目なんだ。彼は裸の本音をおれに投げつけた。次はおれが胸の中をぶちまけるのを待っている。嘘やごまかしを伝えたら、本当の影浦には二度と会えなくなる気がした。
 覚悟を決めるために、おれは深く息を吸った。
「おれは、カゲの特別になりたくて」
 隠していた気持ちを口にするのは、大人になりかけた今でも怖い。無意識のうちに、腕を掴む指に力が入った。
「特別……?」
「どっちかがボーダーを辞めたら、おれたちが会うこともほとんどなくなって、カゲはおれのことを忘れちゃうから」
 黒い頭がかすかに傾いて、影浦がこちらへ振り返るような気配があった。だから俯いて視線から逃れた。ところどころ濡れて湿った砂浜と、泥の跳ねたスニーカーの爪先。
「あの長い廊下ですれ違うことも、ロビーで駄弁ることもなくなって、何年かに一度同級生のみんなで集まって、ほんの数分二人で話して、そのうちまた遊ぼうよ、なんて心にもないことを言って、明日になればおれのことなんて忘れてる」
 もし、影浦の友人がおれだけだったなら、告白なんてしなかっただろうと思う。あるいは、影浦に恋人がたくさんいたなら、友人のままでも満足だったかもしれない。
 だが現実には影浦は誰とも恋仲にならず、たくさんの友人がいた。そのうえ、親友の座にはすでに北添が座っている。おれは、その他大勢の中の一人でしかない。ボーダー所属の戦闘員という共通点を失えば、二人を繋ぐものは何もない。顔を合わせなくなれば、影浦は自分のことなんて思い出しもしなくなる。おれはこんなにも彼に囚われていて、忘れることなんてできそうもないのに。
「そんなの、絶対に嫌だ」
 万に一つでも、奇跡のような可能性があるなら、彼の恋人になりたいと願った。おれにとっての影浦がそうであるように、唯一無二の存在になりたかった。彼の胸の奥に居座り続けられるなら、おれにできることは何でもやる。たとえそれが二人の関係を壊し、お互いを傷つけるとしても。
「だったら、短い間だけでもカゲと付き合って、別れても、おれのこと、ずっと覚えていてほしい……
 おれの選択は自分勝手だ。気づいていたから、言葉にして認めたくなかった。彼の反応が恐ろしくて、顔を上げることも、掴んだ腕を離すこともできない。
 寒さのせいで、こみ上げてきた鼻水を啜る。おれは、もう自分の感情を制御できなくなっていた。泥のような執着と欲望は、影浦の肌にどう刺さっているんだろう。せめて痛くないようにと、この思いを自覚したときから祈っている。
……そんならお前は、俺のこと忘れねえのか」
 しばらく黙ったままだった影浦の声が聞こえて、そっと視線を持ち上げた。彼はまだ海を見ている。みっともないのも格好悪いのも今更だ。半ば自棄《やけ》で、おれは浮かんだ考えをそのまま口にする。
「忘れない……、ていうか、きっと死ぬまで忘れられない。こんな気持ちになるのも、こんな情けないとこ見られるのも、カゲが最初で最後だから」
 二十年ちょっと生きただけで、この先の人生すべてを語るなんて馬鹿らしいのかもしれない。けれど、確かな予感があった。これからどんなに長く生きて誰を好きになったとしても、彼に抱く激情とは違う。嘘も駆け引きも通用せず、逃げ出したいのに惹かれてしまう、嵐のような情動。
 こんなものは、人生に一度きりで構わない。
「はははっ」
 湿った空気を切り裂くように、影浦が声をあげて笑った。おれの腕をそっとほどいて、振り返る。マスクを顎までずらし、見せつけるように口角を上げた。
「たしかに、今のてめーはめちゃくちゃダセーな」
「ちょっと」
 屈託のない笑顔に気が抜けて、おれもすこし笑った。肺が縮こまるようで苦しかった息を、ゆっくりと吐き出す。軽蔑されることも怒鳴られることもなかった、そのことにひとまず安心した。
 影浦は明るい色の瞳でおれをしばらく見つめてから、口を開いた。
「てめーとしょうもねえ話するの、結構おもしれーなって思ってた。いけすかねえしムカつくときはムカつくけどな。だから、あんとき、好きだとか言われて、置いていかれたような気がした。お前は楽しくなかったのかって」
 彼を傷つけていたのだと分かって、息が詰まる。追い縋るようにおれは言葉を重ねた。
「おれも……、おれもすごく、楽しかったよ」
「そーかよ。……そんで、ゾエも辞めるかもしんねえとか言い出して……。俺はあそこにしか居場所がねえのに」
「そんなこと……
「ないって言えるか? クソみてえな能力があって、……どこにも馴染めなくて、『普通の仕事』ができるって?」
 嘲るように目を細めて笑う。突き放して切り裂くような表情に、おれは中途半端に口を開けたまま、続きの台詞が言えなくなった。自分を貶めるような物言いは影浦らしくないのに、声がひどく重い。思いつきの言葉ではないのだ。何度も何度も考え、投げかけられ、言い聞かせてきたのだろう。
「俺に選択肢はねえ。ボーダーにいられるだけまだマシなんだろ。分かってたつもりだったのに、どうしようもなくムカついて、逃げてやろうと思った」
 彼の覚悟と諦念を、おれはずっと知らなかった。締めつけられるように胸が痛む。
 感情受信体質という副作用を、厄介だと思ったことも、便利だと思ったこともある。望むと望まないに関わらず、自分に向けられた感情が肌に刺さる。戦闘では重宝される能力だが、ひとたび武器を手放せば重い枷になる。それがもたらす困難を、おれは想像しても想像しきれない。影浦の見ている世界を、一生理解できない。
「でも、おめーが死ぬまで覚えてるっつーのは悪くねえ。そんなら、俺はたぶん、好き勝手にやれるから」
「え……
 ふいに風が止んだ。空の遠くで、名前も姿も知らない海鳥が鳴いている。影浦の言った意味を、おれはしばらく理解できなかった。困惑と期待はすぐさま彼に暴かれる。影浦は俯いて頭を掻きむしってから、深く息を吐いた。
 琥珀色の美しい瞳がおれを見る。
 照明も喧騒もここにはない。深い夜の闇に浮かぶ星のようなきらめきに、目が眩みそうになる。それでも目を開いて、おれは影浦を見つめた。
「誰かが最後まで見てんなら、……寂しくはねえから」
 影浦の声が、乾いた砂に染みこむようにゆっくりと胸に満ちていく。
「それでお前の頭ん中の一生が手に入るなら、特別ってやつになってやるよ」
 力が抜けて、おれはその場にしゃがみこんだ。
 立てた膝に顔を埋める。歓喜と安堵と混乱が大きな波のように押し寄せて、思考と感情を荒らしていく。表情を取り繕う余裕なんてないから、誰にも見られたくなかった。
「なにそれ、意味わかんない……
「なんでだよ」
「カゲ、おれのこと好きなの?」
「好き、とかはよくわかんねーけど……
 冷たいものが頭に触れた。それが影浦の手だと気づくのに、時間がかかった。空閑や別役にそうするみたいに撫でられている。髪を掻き乱すみたいに乱暴な手つきだ。
「ここに来たのが、犬飼でよかった」
 なにそれ。ぜんぜん意味わかんない。答えになってない。おれには第六感も超能力も何もないんだから、ちゃんと説明して。もっと分かりやすく話して。惚れられた強みに胡座かかないでよ。
 そう思うのに、どうしようもなく、嬉しいのだった。
 影浦が隣にいなくても、たぶん、おれはそこそこ幸せになれる。残念だけど言うまでもなく影浦だって、おれが近くにいなくても楽しくやっていけるはずだ。だけどおれは、影浦に選ばれたかった。認められたかった。お前がいて良かったって、言われたかった。
「こんなとこまで来てあげたんだから、感謝してよね」
……おう」
「後から気の迷いだったとか言わないで」
「言うわけねーだろ」
「死ぬまでって、ちゃんと約束だよ。できるだけ長生きして。それから……
 彼の行く道に待ち受ける苦難を取り除くことも分かち合うこともできない。二人の進む道が交わることも、たぶんない。けれど、傷を負っても抗い進む姿を最後まで見守ることはできるはずだ。叶うなら手を握って、彼の抱える痛みが少しでも和らぐように祈ろう。その役割はおれだけのものだって、誰も知らなくても胸を張っていられたらいい。
「チッ、ゴタゴタうるせーな」
「うわっ」
 まだまだ言いたいことがあったのに、舌打ちとともに影浦がおれの腕を掴んでむりやり引っ張り起こした。よろけて転びそうになって、とっさに影浦の肩に縋る。向かい合わせで抱き合うような姿勢になって、心臓がおおきく跳ねた。
「さみいから、さっさと帰るぞ」
 どこに? なんて、聞かなくても伝わった。おれたちは、二人で、あの街に帰るのだ。
「カゲの乱暴者……
「おめーがダラダラしてっから」
 影浦はおれを突き飛ばさない。だから肩に顔を寄せ、そっと背中に腕を回した。柔らかいダウンの感触。押入れと、柔軟剤の匂い。ごわごわと布が擦れる音。分厚い衣服で隔てられていても分かる、生きた人間の心地。初めて抱きしめた影浦の体は、どうしてか腕にしっくり馴染んだ。
「帰る前に昼飯食べたい」
 抱きしめたまま話しかけても、やっぱり影浦はおれを突き放さない。固く骨張った手がゆっくり腰に回るのを感じた。二人は全然違う人間だから、抱き合うと自分の形がよく分かる。耳元で、低くかすれた声が聞こえる。
「賛成」
「なにか食べたいものある?」
「あー……、麻婆豆腐と炒飯」
「じゃあビールも飲もう」
「それ最高だな」
 彼の肩ごしに、おれはもう一度、真冬の海を見た。天から伸びる梯子のように、雲の切れ間から光が差し込んだ。ささやかな陽光を分けあって、波間に光の粒がはじけて消える。白い飛沫が砂浜に一瞬の絵を描き、すぐに上書きされていく。ほんの少し前まで寒々しいと思っていた風景が、今はとても美しく見えた。まぶたの裏に焼きつけるように、ゆっくり、一度だけ瞬きをする。
 そっと影浦の肩を押して離し、彼の顔を見る。珍しく眉尻を下げ、頬を赤く染めている。それが可愛くて、おれは笑った。
「一緒に帰ろう、カゲ」
 からかわれたと思ったのか、差し出したおれの手を振り払って、影浦が先に歩き出した。肩を怒らせ、大股でどんどん先へ進んでいく。おれは笑いながら、砂浜に残る足跡を追いかける。他にも道はあると知りながら、迷いなく歩き続けた。