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よる(ひねもす)
2025-03-22 21:50:11
31508文字
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【web再録】Don’t cry over spilt milk
誰にも行き先を告げずに一人旅に出たせいで失踪の噂がたってしまった影浦を犬飼が迎えにいき、三日間、海辺の町で過ごす話。ハッピーエンド。
犬飼と影浦が二十歳の冬ごろのお話です。
登場キャラの進路などについて好き勝手に妄想しているため、ご注意ください。
2024/9/24吾が手33にあわせて発行した同人誌のweb再録です。
手にとったいただいた皆様、本当にありがとうございました。
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影浦雅人が失踪したらしい。
その噂を若村から聞いたとき、思考と表情がすとんと頭から抜け落ちたのを感じた。一瞬の空白の後、驚きと困惑を引っ張り出して顔に貼りつける。
「え、なにそれ? カゲが失踪とかするタマ?」
「いや、そうっすよね
……
」
若村は困ったように頬に手をやり、視線をおれの顔から外してラウンジの喧騒を見やる。年末年始の浮き足だった雰囲気が過ぎ去って、いつもの賑やかさが戻ってきた。様々な色の様々なデザインの隊服を着込んだ若者たちが、めいめい好きなように過ごしている。
友人たちと談笑に耽るもの、まさに個人戦のブースに入っていこうとするもの、戦いの様子を映したモニターを真剣に見つめるもの。そこに、真っ黒な獣のような男の姿は見当たらない。
彼はいつもラウンジにいるわけじゃない。人ごみや喧騒を嫌う男だから、ブースや作戦室に篭っていることの方が多い。今ここで姿が見えないからと言って、なんてことはないはずだった。
「オレもあんま信じてないんですけど、B級の間で噂になってて、しばらく防衛任務のシフトにも入ってないみたいなんです」
おれが最後に影浦の顔を見たのは、二週間ほど前のこと。ほとんどが二十歳を迎えた同級生たちとの忘年会の場だった。何度か行ったことのあるチェーン店の、何度か案内されたことのある座敷の個室を思い出す。直接言葉を交わしたのは、たぶん、二、三往復くらい。
「年末は忙しいの?」「酔っぱらいどもがウゼエ」「あー、実家の手伝い?」「むりやり引っ張り出されるから」「『かげうら』も大変だね」
……
確かそんな、当たり障りのない会話だった。
「犬飼さんなら同級生だし何か知ってるんじゃないかと
……
」
薄っぺらい言葉の応酬で、おれが気づけることなんて何もなかった。
目の前の若村の瞳が揺れて、心配の色が滲む。動揺が脳の深くまで染みこんでしまわないように、深く息を吸って、吐く。無駄な抵抗だと分かっているけれど、自分の在り方を保つために必要な作業だった。
「ろっくんはカゲのこと、心配してくれてるんだね」
優しいね。なるべく意識して柔らかく微笑んだ。若村の表情がほっと緩んだのを見ても、おれの心は一向に落ち着かない。
「あとでゾエにでも話聞いてみるよ。教えてくれてありがとね」
軽く手を振って、若村に背を向けた。そのまま、影浦隊の作戦室を目指して歩き出す。下を向いて誰とも目が合わないようにして、ひたすらに歩く。若村の視界から外れた途端、ひどい顔をしているという自覚があった。
失踪。カゲが。どうして。
おれは、また止められなかったのか。
不穏な
漣
さざなみ
が胸の奥から全身に広がっていく。逸る気持ちが抑えられず、目的地に着いたときにはほとんど走っているような有様だった。祈るような気持ちでドアをノックし、返ってきた穏やかな声に顔が歪む。低く鋭い声をすこしだけ、期待していた。
「はいはーい、どちらさま〜?」
「
……
犬飼です」
聞き慣れた音を立ててドアが開く。その間にいつもの微笑を用意して、現れた北添に軽く手を振った。
「急にごめんね、ちょっとお邪魔してもいいかな?」
おれの挨拶を受け止め、北添も笑った。
「今はゾエさんしかいないけど、それでもよかったら」
突然の訪問にも嫌な顔一つせずに、北添は部屋に招き入れてくれる。長のいない部屋が寂しく暗く見えてしまうのは、きっとおれの動揺と感傷のせいだった。
この部屋を訪れた回数はそう多くないけれど、いつもと同じく奥のスペースに案内された。飲み物とお菓子を探して冷蔵庫や棚を漁る北添を横目に、年季の入ったソファに腰掛ける。縦にも横にも大きい北添と姿勢の悪い影浦の体を長年支え続けたソファは、沈みこむような座り心地だった。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
白と黒のシンプルなデザインのマグカップを見つめ、どう切り出せばいいのか考える。何を聞きたいのか、それを聞いて自分がどうしたいのか、考えないままにここへ来てしまった。最善の手を探して思考を回してみるけれど、表面を撫でるばかりで結論が見つからない。
マグの表面から、ゆらゆらと水蒸気が揺れては消えていく。おれは諦めて、ストレートに疑問を投げることにした。
「カゲが失踪したって、聞いたんだけど」
「失踪っていうのは大げさだけど、こないだからカゲがお休みしてるのはホントだよ」
おれの問いを見透かしていたように、北添の答えは落ち着いていた。その穏やかさで、勝手に強張っていた肩から力が抜けた。
「十日くらい、任務も個人戦も休みたいって、本人から連絡があったんだ。こんなこと初めてだから、変な噂が立っちゃったのかもね」
北添は煎餅の大袋を開け、中の一枚をおれへ手渡した。優しい。お礼を言って受け取る。
「あのカゲが長期の休みね
……
。家族の面倒見てるとか?」
「それはないんじゃないかなあ」
「旅行にでも行ってるってこと?」
「どうだろうねえ」
「
……
カゲが、どこに行ったかは聞いてるんだよね?」
ボーダーの戦闘員には、三門市を離れる際に行き先と期間を報告する義務がある。緊急時の招集に不都合を生じさせないためだ。影浦が正規の手続きに則って休暇を取得し市外へ出たなら、北添はその目的地を知っているはずだった。
「聞いてないよ」
あっけらかんと北添が言い放つ。途中から薄々予想していた答えだったとは言え、おれはショックで半ば叫んだ。
「それってやっぱり失踪じゃん!」
「そうとも言うのかな? まあ、カゲのことだからそのうちちゃんと帰ってくるよ」
ボリボリと煎餅を噛み砕く北添の様子は普段と変わらない。保たれた平静には、影浦への信頼と親愛が滲んでいた。ともに過ごした長い時間と経験の賜物なのだろう。二人の絆を見せつけられたようで、しっかり動揺しているおれは自分が情けなくなる。
「でも心配は心配だから
……
、犬飼が迎えに行ってくれない?」
「え」
突拍子もない提案で、目を丸くする。どうして北添が急にそんなことを自分に頼むのか、意図も理由もさっぱり分からない。
「きっと、カゲにとって、犬飼は特別だから」
特別。大切。唯一無二。
どうしても手に入れたくて、どうしても手に入らないと思い知らされたもの。
そんな意図はないだろうが、北添の言葉はおれを打ちのめした。一番聞きたくない相手から、一番聞きたくない言葉を聞いてしまった。胸がじりじり疼く。痛みに背中を押され、唇が秘密を打ち明ける。
「おれ、この前、カゲにフラれてるんだよね」
「え⁉︎」
今度は北添の目と口が真ん丸になる番だった。すぐに後悔する。言わなくてもいいことを、八つ当たりのように口にしてしまった。けれど、ずっと仏のような微笑を崩さなかった北添の顔が驚きに塗りつぶされているのを見ると、すこし胸がすく思いがした。
「なにそれ初耳! ゾエさん聞いてないよ! っていうかカゲのこと好きだったの⁉︎」
「
……
告白したのは三ヶ月くらい前かな」
かつて、影浦との距離を縮めるために接し方を変えた。任務や試験を円滑に進めるためにそうしただけで、最初は特別な感情などなかった。
思い浮かんだ言葉をそのまま口にしても拒まれない心地よさ。荒々しさの裏に潜む不器用な優しさ。おれが生まれ変わっても持ちえない、天性の才能。気づけば彼が眩しく見えるようになっていた。
「カゲのことが好きだったんだよ、ずっと」
お互い大人になるにつれ、影浦とうまく付き合えるようになって嬉しかった。偶然すれ違った廊下で立ち話をして、くだらない冗談で肩を叩く。やっと築いた関係を壊したくなかったから、こんな恋は隠し通すつもりだった。
けれど、些細な日常を餌にして、感情はどんどん膨れあがっていく。
ふとした瞬間に、影浦が怪訝な表情を見せることが何度かあった。黙っていても彼にバレるのは時間の問題ではないかと考えたら、恐ろしくなった。嘘を吐いて、本音を伏せて、昔のように気味悪がられるのは嫌だった。だから仕方なく思いを告げた。
「でもバッサリ断られちゃった」
まさかこんなにあっさりフラれるなんて想像してなかったな。
二人きりの飲み会の帰り道で、ぼんやり考えたことを覚えている。どうやら無意識に期待してしまっていたらしい。お気に入りの焼き鳥屋を出るまでは良い雰囲気だったのに、おれの告白を聞いた影浦は「無理だ」と呟いたきり黙ってしまった。身体の真ん中に空洞ができてしまったようで、一言も話せないのはおれも同じだった。
無言で影浦と別れた後、おれの知る一番安い居酒屋へ行き、一番安いウーロンハイをしこたま飲んだ。千鳥足で家に帰り、胃の中が空っぽになるまで吐いた。気持ち悪さと苦しさと痛みで涙が滲む。気絶するように眠るまで、後悔がずっと頭の中を巡っていた。
こんなに惨めで辛い思いをするくらいなら、好きだなんて言わなければよかった。彼を好きにならなければよかった。彼に近づかなければよかったのに。
目が覚めてからもぐるぐる回る視界の中で、これからどう振る舞うべきか、おれは一日かけて考え続けた。辿り着いた結論は、「昨日の夜をまるごと全部なかったものにする」ことだった。同じコミュニティの中でフったフラれたが話題になってしまうのは、かなり面倒臭いのだ。だからといって、影浦との接触をゼロにするのも現実的じゃない。何事もなかった顔で、今までどおり、ただの友達として過ごすべきだ。
だから、次に影浦と顔を合わせたとき、おれは全力で平静を装った。細心の注意を払って、ほんのささいな感情の揺らぎも押し殺す。彼もその意図を汲んだのか、気まずそうな顔をしながらも、表面上は以前と同じように付き合ってくれた。その思いやりがありがたくて、痛かった。
「
……
引いた?」
共通の友人にこれを打ち明けるのは、自棄になった勢いとは言え勇気のいることだった。今更、怖くなる。心臓がバクバク鳴り響くのに、腹の底が氷を飲んだように冷たい。
「引かないよ。すごくびっくりしたけど! そんなことがあったなんて、ぜんぜん気づかなかったから」
北添の声にも表情にもいつもと変わった様子はない。驚きのせいか目が丸いままだが、もう一枚、煎餅を取り出して頬張っている。おれはそっと安堵の息を吐いた。成り行きだったけれど、相談相手に北添は適任だったのかもしれない。余程のことがなければ動じず、穏やかで、優しい。
「誰にもバレないように必死で隠してたからね」
初めて秘密を他人に打ち明けて、ずっと背負っていた重荷を下ろしたような心地がした。煎餅の小袋を開け、歯を立てる。醤油の香りと甘じょっぱさが美味しい。さすが北添のセレクトだ。
「ていうか、カゲのお迎えならゾエが行けばいいじゃん」
「うーん、それは逆効果かも
……
」
「なんで? ケンカでもしたの?」
北添が煎餅を齧る口を止めた。おれもつられて、手を止める。
「実はね、ゾエさん、戦闘員やめようか悩んでるんだ」
思わず正面に座る北添の顔を見つめる。目を細めて、いつもみたいに笑っている。何の副作用も持たないおれには、北添の感情も真意も分からない。
「もちろん、今すぐってわけじゃないよ。でもそのうち就活も始まるし、将来のこと、真面目に考えなきゃなあって」
「そっか
……
」
人生のターニングポイントで、ボーダーを去る決断をする者は多い。進学、受験、卒業、就職。それぞれの節目で、少しずつ人が減っていく。緊急脱出のおかげで麻痺しがちだが、命の危険が付きまとう仕事だ。加齢によるトリオン量の低下という問題もある。長く続けていく、それも専業の仕事にするには相当の覚悟が必要だ。本人の才能と努力と運だけでなく、周囲の理解だって欠かせない。
「この前、カゲにも話したんだ」
「カゲは、なんて?」
「『おめーの好きにしろ』だって」
いかにも影浦が言いそうなセリフだった。寂しいとか行くなとか応援するとか、素直に言えるような男ではない。
「本心じゃないって、他にも何か悩んでるって分かってたのに、何もできなかった」
「
……
ゾエのせいでカゲがいなくなったわけじゃないよ」
それが根拠のない慰めで、北添の心には響かないと分かっていたけれど、おれはそう言わずにはいられなかった。
「ありがと。
……
でも、だから、ゾエさんじゃダメなんだ」
寂しそうに眉尻を下げて、それでも北添は笑っている。
北添の気持ちが、おれにはほんの少しだけ、分かるような気がした。やり場のない自責の念も、大事な人の役に立てないもどかしさも、ほんの少しだけ。影浦を信頼していても、心配していないわけじゃないんだ。その心配を堪えて、彼のために待ち続けるしかないのは、歯痒くてたまらないだろう。
可愛らしい猫の絵柄が描かれた自分のマグカップからお茶を啜り、北添の黒く静かな瞳がおれを見る。
「あの噂を聞いて、ここまで来たのは犬飼が初めてだよ。さっきの話もあったし、カゲのことがほんとに大切なんだね」
「は⁉︎ やめてよ急に!」
他人の恋愛をからかうような性格ではないと知っているが、北添があまりにも恥ずかしいことを言うのでおれは悲鳴をあげた。改めて言われると、すぐに影浦隊の隊室に駆け込んだ自分の動揺が浮き彫りになってしまう。もうちょっと落ち着いてから来ればよかったのに。
「だから、犬飼に頼みたいと思ったんだ」
北添の声は凪いだ海のように穏やかだ。だからおれは、悲鳴をあげた喉を閉じて、誰にも行き先を告げずにどこかへ行ってしまった影浦のことを考える。
おれが会いに行ったらどんな顔をするだろう。あるいは、会いに行かなかったらどうなるだろう。不安、心配、恐れ、怒り。胸の中に色とりどりの感情が訪れては混ざっていく。
もし、影浦がこのまま帰ってこなかったら。
顔を見てさよならを言えなかったことを、死ぬまで後悔する。
それは予感ではなく確信だった。失恋なんかより、もっとずっとひどい傷になる。親しい人に置き去りにされるのは二度とごめんだ。追いつけるうちに追いかけて、ちゃんと話がしたい。彼に会いたいと、強く思った。
「
……
分かったよ。うまくいくかどうかは、分からないけど」
「ほんとに? ありがとう!」
北添の表情がぱあっと明るくなる。「ゾエさんとっておきのクッキーをあげよう」と再び戸棚を開け、クッキーを手渡してくれた。一枚ずつ個包装になっている、ちょっとお高いやつ。またお礼を言って受け取る。
「でも探しに行くって言ったって、居場所が分かんないんじゃどうしようもなくない?」
「それは大丈夫!」
自分のためにもう一枚、とっておきのクッキーを取り出した北添が、仕切りの向こうにあるだろうオペレーターデスクを指差した。
「カゲはトリガー持ち歩いてるから、GPSで居場所は分かってるんだ」
「あー、なるほど
……
」
北添が落ち着いていた理由を窺い知ることができて、おれはちょっと笑った。影浦が休暇をとると決めた日、仁礼にやり方を教えてもらったんだろうか。端末の画面を真剣に見つめる、北添と仁礼と絵馬の姿が頭に浮かぶ。やっていることはストーカーと変わらないような気がするが、そのことは考えないようにしよう。
手の中の特別なクッキーを見つめる。満月のようにまんまるで黄色い。黒ずくめで姿勢の悪い男の、爛々と輝く瞳を思い出す。バターと砂糖の良い香りを口の中に放り込んで、おれは二口でそれを平げた。
影浦のトリガーは、隣の県の、海にほど近い民宿にあるらしい。影浦隊の作戦室で場所を確かめた後、防衛任務のシフトを調整して三日間の休暇をもぎ取った。ランク戦が休みの時期でよかった。大学はサボることになるが、三日くらいならどうとでもなるだろう。
電車とバスに揺られ、目的地に着いた頃にはすっかり暗くなっていた。吹きつける風が冷たい。手持ちの中で一番分厚いコートを着てきてよかった。建物の外見は大きな民家といった雰囲気だが、生垣の前に民宿であることを示す小さな看板が灯っている。辺りを見渡してもインターホンのようなものはなく、おれは玄関の引き戸を開けた。
「こんばんはー
……
」
玄関の三和土《たたき》は広い。スリッパが何組か、こちらに向かって整然と並べられていた。今は夕飯時だろうか。奥から、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「すみませーん!」
声を張って呼びかけてみる。はーい、と答える声がかすかに聞こえた。そのまま待っていると、バタバタと小走りの足音が近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
エプロンで手を拭き、民宿の従業員らしい女性がやって来る。おれの母親と同じくらいの年齢だろうか。こういう女性に好かれるのは得意分野だ。
「すみません、お忙しいときに」
「いいのよ、今はお客さんも少ないし。お兄さんは、宿泊の方?」
掴みは悪くない。快く迎え入れてくれそうだ。
「僕の友人がここに泊まってるみたいで。影浦っていうんですけど」
「あら、影浦くんのお友達?」
影浦の名前を出すと、女性の笑みがまた深くなった。もしかすると、影浦もおれとは別の方向性で年上の女性に好かれやすいのかもしれない。
「影浦くんなら、さっきご飯を食べて部屋に戻ったところだよ。案内しましょうか?」
「お願いします」
靴を脱ぎ、スリッパの一つに足を通す。客室は二階にあるのだという。昔からある民宿のようで、内装は暗い色の木材で統一されていた。階段を登りきった先の二階には、左右にいくつかドアが並んでいる。女性は右端のドアをノックした。
「影浦さん、お友達が来たよ」
かすかな物音と、誰かがドアの近くにやって来た気配がした。
「
……
誰」
聞き慣れているはずなのに、今日一日ずっと焦がれた声だった。女性と位置を交代してもらい、ドアを挟んで声をかける。
「犬飼だよ」
「あァ⁉︎」
なんでてめーが、と呟く声がちいさく聞こえる。
「とりあえず、ドア開けてくれる?」
しばらく静寂が訪れた。後ろで見守っていた女性が、やさしい口調で助け舟を出してくれた。
「せっかく来てくれたんだから、顔を見て話した方がいいんじゃない?」
舌を打つ音、鍵の回る音、それから蝶番が軋む音。
ドアが開いて、現れた影浦の顔に、おれの呼吸が一瞬止まった。無精髭だらけの顎と、隈の濃くなった目元。襟元のよれた、くたびれたグレーのスウェットの上下。それなりに付き合いは長いが、影浦のこんな姿を見るのは初めてだった。
おれの動揺を感じ取り、自覚があるのか影浦の視線が気まずそうに泳ぐ。
「今日から三日、ここに泊まれますか?」
彼に声をかけるよりも前に、振り返って聞いていた。女性は笑って頷く。
「ええ、大丈夫ですよ」
「じゃあ、三日連泊でお願いします」
「はあ⁉︎」
おれたちのやり取りを聞いていた影浦が素っ頓狂な声をあげるが、取り合う気はない。
「食事ってどんな感じです?」
「朝夜とつけられますよ。あ、でもごめんなさいね、今日の夜はもう終わっちゃったわ」
「今日は大丈夫なので、明日から朝と夜、お願いします」
「かしこまりました。準備するので、少しだけお待ちくださいね」
小走りで女性が去っていく。この場ですぐに宿泊を決められたのをみると、彼女がこの宿の主人なのだろうか。女将さんってやつなのかな。どうでもいいことを考えながら、影浦に向き合う。まさに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「てめー、どういうつもりだよ」
「どういうつもりもないけど。ゾエに頼まれて様子を見に来たんだよ」
北添の名前を出すと、眉間の皺がさらに深くなった。心配をかけている自覚があるのか、北添のことを思い出したくないのか。おれに影浦の考えを読み取る術はない。
「様子見に来ただけなら帰れ。俺は元気だ」
「自分がどんな顔してるか分かって言ってる?」
「俺がどうなろうと、おめーには関係ねーだろ」
「関係あるよ。こんな状態のカゲを置いて帰れない」
「
……
なんだよそれ」
影浦の皮膚には、おれの心配と少しの怒りが弱く刺さっているだろう。おれは、言葉も感情も曝け出して彼の前に立っている。
「ねえ、おれがどうしてここに来たのか、本当に分からないの?」
ここへ向かう電車に乗り込んだときから、ずっと心臓が早鐘のようにうるさくて、深く息が吸えずに苦しかった。
作戦室の端末で明滅する、トリガーの在処を示す緑色の光。もしそこに影浦がいなかったら。彼に拒絶されて、今度こそ二度と話せなくなったら。どうしても影浦に会いたくて、同じくらい会いたくなかった。
影浦は、おれが抱く感情の名前を知っているはずだった。金色の瞳が逃げるように逸れて、細い体が扉に寄りかかる。
「悪い、これじゃただの八つ当たりだ」
「
……
うん」
「今は誰にも会いたくねえ。一人にしといてくれねえか」
ボサボサに乱れた黒髪で、影浦の顔が見えなくなる。低い声にいつもの勢いがない。一人になりたいというのは、きっと本心なんだろう。けれどおれは、その頼みを聞けない。
「ごめん、それはできない。
……
おれにできることなんてたかが知れてるけど、カゲが苦しんでるなら力になりたい。一人きりになんてできない。このまま帰ったら、ゾエに顔向けできないよ」
三日だけ、そばにいさせて。
祈るような、縋るような声になった。俯いたまま、影浦が軽く息を吐く。かすかに笑っているように聞こえた。
「おめーは、ずいぶん素直になったな」
「誰かさんのおかげかもね」
少しだけ大人になって、おれは混じりけない言葉の効果的な使い方を学んだ。十代だったころは、真正面から自分の感情を言葉にして伝えることなんてほとんどなかった。けれど、照れも誤魔化しもない、純粋な思いが他人の警戒を解くことがあると知ったのだ。影浦と接するために、思ったことをそのまま話すようにしたのもきっかけの一つだと思う。
「お兄さん、お部屋の準備ができましたよ」
階段を登りきった女将の声が背中にぶつかった。振り返り、微笑を顔に戻す。
「ありがとうございます」
「じゃあお部屋を案内しますね」
「お願いします」
もう一度、影浦に向き直る。顔を上げた金色の光と目が合った。
「カゲ、また明日ね」
黙ったまま、黒い頭が上下する。今はそれだけが小さな希望だった。
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