mishiadd
2025-03-22 21:29:21
21849文字
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ADDENDUM.1

【転生パロ/本編軸】『この世界にはまだ苦しみが足りない』続編。『愛人契約書』の契約内容を更新し、かつて蓋をしていた劣情を武器に人心を狂わせる『怪物』と化した伊織さんと闘うセイバーの攻防戦【剣伊】
前作『この世界にはまだ苦しみが足りない』:https://privatter.me/page/67d61793a9ab1


八、

理由よしを、聞かせてもらえないか」とやっとのことでセイバーが問うた。エプロンの裾で手の甲に残った水滴を拭き取り、そのままエプロンを取り外しながら、伊織がセイバーを見ないままに言った。

「やはりおまえは間違っている――と、思う。昨夜の言葉は――昨夜のおまえの想いは、俺に聞かせるべきものではなかった」

畳んだエプロンを洗濯かごに入れようとして伊織が踵を返す。その背中にセイバーが震える声で言った。

――なぜ」
「俺には受け止めきれない、セイバー。受け止めきれないし、俺が受け止めるべきものではない。受け止めるふりをするべきものではない。――俺の中のどこにも、おまえが本来おまえの想いを伝えたかった相手はいないのだ」
――ッ」

ぐ、とセイバーが下唇を噛みしめる。彼が俯く気配を背後に感じながら、伊織がやるせないような溜息をついた。

「おまえの想い――おまえの後悔と謝罪も、おまえの愛も、恋も、すべて。昨夜、おまえに抱かれて――あんな思いをしたのは、初めてだよ。まるで、この胸が――

ぽつりと漏らし、それから口を噤んだ。ぐっと口許を引き締めて、伊織は言った。

――とにかく、おまえにとっても、おまえが本当に想いを伝えたかったおまえの『彼』にとっても、この行為は間違っている。不健全で、不誠実だ。……原契約を解除しろとまでは言わない。ただ、あの変更覚書は解除しよう」
「きみにとってはどうなのだ」
……なに?」
「きみが、私と私の『彼』――のことを考えてくれているというのはわかった。それで、きみはどうなのだ?」
――『俺』?」
「きみの話には、いつもきみの自我がない。きみ自身の気持ちがどこにもない。きみがどうしたいとか、きみがどうしたくないとか――きみ自身が、どうしても私に抱かれたくないというのなら、わかった。変更覚書は解除する。きみが望むなら、原契約も解除して――きみを自由にする。
だが、もし『そうではない』というのなら――私は、変更覚書を解除しない。きみのその申し出に、嫌悪でも憎悪でも、きみ自身の意思が伴わないのなら――私は、今夜もきみを抱く」
「ん――
「それで、どうなのだ」

伊織が足許のスリッパに目線を落とす。それから吹き抜けの高い天井を見上げ――言った。

――わかった。今夜、もう一度だけおまえに抱かれる。それでも――やはり間違っていると俺が思うのなら、その違和感こそが俺自身の嫌悪感なのだ。……今夜、それで決めよう。契約を解除するかどうか」
「わかった。それでいい」

会話の終わりとともに伊織が再び洗濯かごに向かって歩き出す。そのままリビングを出て廊下に出て、セイバーの前から姿を消す。
見えなくなった後姿を追いながら、セイバーが食卓に着く。既に並べられていた和食らしい朝食に、箸をつけようとしてやめる。

戻ってきた伊織が向かい側の席に着いたところで、「いただきます」と両手を合わせて互いに箸をつけた。――会話は、なかった。



九、

思えば、昨晩緊張していたのはセイバーばかりであったが、その夜は伊織の方もいくらか緊張というものを感じていた。朝食でも、その後いつも通り食卓を挟んで顔を合わせた昼食でも、夕食でも――会話らしい会話はなく、ただ、かちゃかちゃと控えめに食器のぶつかる音だけがダイニングに響いていた。
どちらからともなくシャワーを浴び、バスローブを着込み――まるで昨晩の再現のように、セイバーの寝室へとふたりで向かう。天蓋のカーテンに手を掛けたとき、セイバーがようやく伊織を振り返って言った。

――これが、きみとの最後の夜になる可能性もあるのだな。もし今夜――やっぱりきみが、私とは一緒に居られない、と思ったのなら――私は、きみを自由にする。きみが望むなら、明日にでも荷物をまとめて出ていってもいい。契約書の破棄や、諸々の手続きは、追って郵送で行ってもよい」
「ああ」

短く答えた声が、自分でもひどく冷たく響いたように聞こえたことに伊織が驚く。セイバーもわずかに目を瞠り――それから、ひどく懐かしいような、それでいて切ないように目を細めて、伊織を見た。
カーテンを持ち上げて、伊織を中へと誘った。

――さあ、どうぞ」

その場に立ったまま、伊織が肩からバスローブを自ら落とす。ぱさ、と軽い音を立てて、絨毯の上にクリーム色をしたバスローブが落ち、一糸まとわぬ均整の取れた白い体を晒した。そのまま、ベッドの上へと上がる。
カーテンの中で待つ伊織の視界の外で、ぱさりと音がする。セイバーが、入ってくる前に伊織と同じようにバスローブを落としたようだった。するり、とカーテンの隙間から入り込んだ少年らしい体が、カーテンの外の照明を背負って陰になり――カーテンが閉まり、ぼんやりと薄暗いような、静謐な空間が広がる。

儀式のようだ、と伊織は昨晩も思った。――これは、きっとなんらかの儀式なのだ。

「イオリ、」とセイバーが伊織に手を伸ばす。その手のひらが、伊織の頬に触れる。その手のひらに――すり、と軽く自らの頬を擦りつけた。温かい、子供のような高い体温を感じる。あるいは緊張で冷え切っているかとも思ったが、それでも抗い切れない昂りが、確かにセイバーの中にはあるようだった。
自分の頬に触れているセイバーの手の上に、伊織は自分の大きな手を重ねた。伏せた長い睫毛を上げ、けぶるような眼差しで、セイバーを見た。

「セイバー。おまえはさっき、俺に『自分の意思がないのか』と訊いたが――

伊織の手に包まれた自分の手を、その手のひらに触れる伊織のやわらかな頬の感触を、あるいは自分の手のひらに伊織が自ら頬を寄せてくれた事実を――呆然とした目で見つめているセイバーに、伊織は静かに言った。

ない――俺には自分の望みなどなかったから、他の誰かが俺に見る望みを、ただ漫然と叶えてきた。誰かとこうするときも――ただ、相手が望むように振る舞ってきた。表情の作り方、声の発し方、身の捩り方――ただ、相手に望まれるままに、ただ流されるままに、そうやって相手が俺に見る夢に合わせてきた。
きっと、おまえにそうすることは、おまえとおまえの『彼』への侮辱になると思う。……だから、俺はしない。俺はただ、俺のままでおまえに抱かれる。だからきっと、おまえはつまらないと思う。――思えば――

セイバーが、ようやく伊織の瞳を見る。ちらちらとカーテンを透かした光の乱反射する中、深遠な月夜の色をした瞳が、ちらちらと光っていた。

「裸の俺を抱くのは、おまえが初めてなのかもしれない。セイバー」
――イオリ」

セイバーが我を忘れたように伊織の体に体重をかけ、ふたりの体が重ねた大きなクッションの上に勢いよく沈みこむ。そのままセイバーが伊織の唇を奪い――伊織が、その口づけに応えることはない。拒否もしないが、セイバーの熱量を返すこともない。ただ、彼がなんの技術もないままに、縋るように伊織の口の中をまさぐるのを、ただ自由にさせている。
セイバーの手が伊織の体を這う。なんの反応も示さないままに、伊織はそれを許す。セイバーの唇が体のそこここに触れるのを、ただ見つめている。

「イオリ」

伊織の臍のあたりに唇を落としたセイバーが、ぼつりと呟くように言う。涙に濡れたような、ひどく湿った声だった。

「私はきみを愛していた」
――旦那様

その言葉を遮るように、伊織が鋭い声で言う。今の今まで、何もかもをセイバーのやりたいようにやらせていた伊織が、初めて否を表明した。

あなたは俺を愛していない。それは別の誰かだ」
「きみだよ、イオリ。――私の目には、きみは何ひとつ変わっていない。きみはイオリだ。――たとえきみには記憶がなくても――

伊織の顔を見下ろすように、セイバーが身を起こす。まるで愛しい壊れ物に手を伸ばすように、そっと再びその頬に手を触れた。伊織の目の下あたりを、親指で優しくなぞる。

「きみのその目も、きみのその声も――遠目にもわかる、きみのその立ち姿さえも。私は、きみを見失わない。きみがどこにいようと、どんな姿になろうと、なにを失っていようと。――私は、きみを見誤らない。私は、きみを間違えない。――私は、本当のきみを探し続ける。私は――きみを理解っている」
――やめてくれ」

引き攣れたような、震えるような声だった。
セイバーが伊織を見る。その顔が、わずかに蒼褪めているのを見る。

「怖い。――怖い、怖いんだ。おまえに――俺の中身を覗かれているようで、見透かされているようで、怖い。……こんなことは、なかった。おまえのような者は今まで誰もいなかった。誰も、俺には用などなかった
「イオリ」
「嫌だ――怖い。苦しい。なにかが――胸が苦しい。嫌だ、やめてくれ。それ以上踏み込まないでくれ。こっちに来ないでくれ
「イオリ」

「怖い、怖い」と繰り返す伊織の頬に口づけを落とし、まるでひとつになるようにぴったりと体を重ね合わせる。触れた肌から互いの体温が交じり合うのを感じながら、セイバーが体を繋げるために動く。
伊織が小さく上げた声に、涙のようなものが混じる。少し驚いてセイバーが伊織の顔を見ると、ただ静かに――本人も気づかぬままに、途方に暮れた子供のような呆然とした顔の、白い頬に涙が伝っていた。

――痛いのか、イオリ」

ふる、と力なく伊織が首を横に振る。やがて言った。

「痛くはない。――苦しい。胸が苦しい

再び頬を伝った涙を、セイバーが唇で吸い取る。そのまま、伊織の広い瞼の上に唇を落とした。

――イオリ。どうか伝わってほしい。受け取ってくれなくてもいい。返してくれなくてもいい。ただ、私がきみを確かに想っていたのだと、確かに想っているのだと、ただってくれるだけでいい。食事と同じで、きみにとってはこの行為がなんの意味も持たないのだとしても――たとえば、私がきみと分け合った団子に、あるいはきみの名を呼ぶ私の声に、そこには確かに私からきみへの『愛』があったのだと、ただ――かつてそういうものが在ったのだと、そういうものがただここに在るのだと、ただそれだけのことを、きみが理解ってくれるだけで、ただそれだけでいいんだ」
「苦しい。――胸が苦しい、セイバー」

喘ぐように訴える伊織の白い額に、高い鼻先に唇を落とす。まるでぐずる子供をあやすように、「イオリ。愛しているよ」と囁いた。







それは、伊織の知らない記憶だった。

前後の文脈もわからない、どういう状況なのかもわからない――ただ、翡翠色に光り輝く剣が、自分の胸のあたりを貫いているのを、見る。
口から噴き出す鮮血と、鈍いような鋭いような、それが致命傷であることだけは確かにわかる痛みと――その傷口からじわじわと広がる、温かみのようなものを感じる。そこから流れ出る鮮血とは全く無関係の、生理的な事象とは異なる何か――まるでそこを貫いたのが剣だけではなかったかのような、かつての伊織が、そういうものがあるのだということすら知らなかったような――
その温かみが、鼓動が、凍てついた伊織の全身を溶かしていく。彼の全身を蝕んでいた楔を浄化して、そういうものがあるのだという可能性に目を向けることすらしてこなかった伊織の顎を捉えて、無理やり目を向けさせて否が応でも理解わからされるように。

その剣のみこそがようやく伊織に届く――そのために流された、無数の涙と哀しみと、行き場を諦めた愛を犠牲にして。

伊織は、ようやく識る。――理解する。



その胸を貫いた、自分に対して確かに捧げられた『愛』というものの存在を――認知する。






九、

セイバーが目覚めたとき、天蓋のカーテンは開いていた。大きく採られた窓から早朝の日の光が射し込み、白い壁に反射して洪水のように部屋中に満ちている。眩しさに目を眇めながら身を起こす。――ベッドの上で座り込んでいる、すらりとした細い人影の上半身を見る。

……イオリ?」

寝起きの掠れた声で名を呼ぶと、彼が振り返る。ようやく明るさに慣れてきた目に、ようやく伊織の顔が見える。――すっきりとした、それでいて呆然として、またはいっそ無垢なような――何も知らない可憐な少女のような表情をしていた。

「セイバー」

ぽつり、と名を呼び、それから伊織が言った。

「俺にはわからない。――わからないけれど、きっとかつて、お前の剣は『』に届いたのだろうと思う」
――イオリ」
「きっとそのとき、『俺』は――そのとき剣と共に自分の胸を貫いたものが、おまえの言うおまえの『想い』であったことを、ちゃんと理解わかったのだと思う」

「だから」と伊織がはっきりとした口調で続けた。

「おまえの『想い』は、きっときちんと伝わっていたよ。――そして、今も――

伊織が、セイバーに手を伸ばす。セイバーが、その手を取る。――どちらからともなく、互いの手を握り込む。

おまえの剣は俺に届いた――俺を貫いたものの正体を、俺はもう少し、理解ってみたいと思っている。……こんなことは、初めてだよ。――きっと、あのときの『俺』は――

手のひらの温かみを、感じている。とくとくと、確かにそこに通っている血を、感じている。

「『おまえが隣に居てくれてよかった』と思ったのだと思う。たとえそう思えたのが、今際の際のたった一瞬のことであったとしても。きっとその瞬間は、『俺』にとっては永遠の価値にも等しかった。だからきっと、なんの悔いも残していない。――でも」

伊織がセイバーを見る。ベッドの上で、わずかにセイバーに身を寄せるように近づく。呆然と、ただ伊織の顔を見つめ続けているセイバーの額に、そっと額を寄せた。

「今の俺には、まだ人生が残されているから。まだ、時間があるから。――だから。それなら――せっかくだから、もう少しおまえと一緒にいて、おまえが俺にくれたこれが一体なんなのか、きちんと――理解ってみたいと思っている」
――――オリ――
「変更覚書を、もうひとつ結んでもいいだろうか」

伊織が体を起こす。「うん、」と呆けているセイバーに、はにかむようにかすかに微笑んで、伊織が言った。

「今まで、どの契約書にも入れたことがなかったのだが。独占契約条項――おまえとの契約中は、他の誰とも契約しないことを、誓う。今、俺がそうしてみたいと思ったのだ。だから、もう少しの間だけ――

「よろしくな、旦那様」と伊織は嘯いて、セイバーの頬にそっと触れるだけの口づけを落とした。

頬に触れた、しっとりと濡れたような柔らかな唇の感触に、セイバーは――






目の前の『怪物』はその威力をわずかにも減じることなく、その矛先を無差別対象からたったひとりに絞ったことに気付き――茹でたように火照る全身と火の出るように熱い頬を自覚しながら、自分の戦いはまだ始まったばかりであったことを、知った。






ADDENDUM.1・了