mishiadd
2025-03-22 21:29:21
21849文字
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ADDENDUM.1

【転生パロ/本編軸】『この世界にはまだ苦しみが足りない』続編。『愛人契約書』の契約内容を更新し、かつて蓋をしていた劣情を武器に人心を狂わせる『怪物』と化した伊織さんと闘うセイバーの攻防戦【剣伊】
前作『この世界にはまだ苦しみが足りない』:https://privatter.me/page/67d61793a9ab1


六、

セイバーの昔話には、何も説明がなかった。セイバーが『彼』といつどこで出逢い、何に巻き込まれ、何を目的として手を結び、最終的には何を成したのか――そういった状況説明や前段といったものがおよそ何もなかった。だからそれはひどく唐突で、突拍子もなく、普通に聞いていたら言葉の意味も半分も把握できないような――まるで五巻はある名も知らないハイ・ファンタジー小説の、三冊目の百二十一頁目を突然開いて、その十四行目から二十七行目までを急に読み聞かせられるような――およそ文脈というものをなにも伴っていなかった。

そのことに遅まきながら気付いたセイバーが、伊織を見る。カフェオレを口にし、「すまぬ。私は、話をするのが下手でな」と静かに言った。

――いや」

伊織がぽつりと言った。コーヒーを啜り、言った。

そういうこともあるのかと。――おまえが十四歳の子供らしくないことにも、なんとなくだが納得がいったよ」
「なにも変わらぬな、きみは。たとえきみの常識の中にないものでも、とりあえず一旦はそっくりそのまますべて呑み込んでみる。そうしなければ話が進まぬと言って」

その柔軟性と理解の早さに懐かしさを覚えてセイバーが目を細める。マッシュルームの入ったオムレツの最後のひとかけらを口にして、口許をナプキンで拭いた。

――では、十四歳らしくない私がきみを抱くことにも、納得してくれるな」
……――

ちら、と逡巡するように長い睫毛を伏せた伊織はしかし、ふっと食卓越しのセイバーに向き直って言った。

「ああ。なんにせよ契約は成された。今更四の五の言うようならば、そもそも変更覚書にサインをすべきではなかった。――おまえの言う『彼』が――

伊織が、すぐそばに置かれていた書棚のガラス扉を見る。そこにぼんやりと映っている、半透明の自分の姿を見る。

「おまえの言うように、おまえの『』が『』なのだという実感は、ない。もし本当にそうだったのだとしても、今の俺とはやはりなんの関係もない、赤の他人のように思える。――たとえば今日飲んだミネラルウォーターのペットボトルがリサイクルされて明日には子供のブロックおもちゃになっていたとして、そのブロックはペットボトルだろうか」

敢えて口を噤んだセイバーが、黙って伊織を見つめている。それを肯定とも否定とも別段受け取らず、伊織が続けて言った。

「おまえの話は理解したが、実感は伴わない。今後も伴うことはないと思う。――そうだったとしても――おまえにとっては『彼』こそが『俺』なのだということは、理解した。おまえが、おまえの大切な人を赤の他人にむやみに重ねているわけではないということがわかって、よかったよ」
「他人事だな」
「他人事だよ」

伊織が席を立つ。空になった自分の皿とセイバーの皿を拾い上げ、キッチンへと向かう。セイバーが席に残ってカフェオレの残りを飲み干す中、シンクで水の流れる音がする。――ふと、炊事場に立つ伊織の、青緑色の着物の後姿を思い出す。――目を、閉じる。

「セイバー」と伊織がキッチンから顔を出した。目を開ける。

「苺がある。食うか?」
「うむ!」

思わず上げた弾んだ声に、伊織が一瞬面食らった顔をする。それから、――ふ、と鋭いような瞳を柔らかく細めて笑った。「すぐに用意するから待っていろ」と引っ込もうとした伊織に、「イオリ」と声を掛ける。

「うん?」
「いいや。――イオリ」

「?」と小首を傾げた伊織が、特に用がないのなら、とそのままキッチンへと引っ込む。彼の姿が完全に見えなくなってから、声を出さずに、口だけを動かして言葉を紡ぎ――はた、と思い至る。



そうだった。――もう隠さなくてよかったのだと、思い至る。



七、

あるいはそれは、セイバーにとっては一種の儀式に近かったのかもしれない。
偶然と必然の末に『怪物』と成り果てた想い人を祓って人に堕とす儀式。かつて殺した自分自身の醜悪な側面と向き合う儀式。

――あるいは――







初夜――といえる夜、シャワーを浴びる前に伊織がセイバーに尋ねた。

「おまえが俺の部屋に来るか? おまえが用意してくれたベッドは充分に大きいから、これで問題ないと思う」
「いいや。私の部屋に来てほしい」

ソファに背筋を伸ばして座っていたセイバーが伊織に言った。

「私の部屋できみを抱きたい」
「? 構わんが」

そのままシャワーを浴びて出る。入れ替わりでセイバーがシャワーを浴びて出てくる頃には、湯に触れた伊織の肌の火照りも治まり、いつも通りの冷え切った白い肌になっていた。その身をバスローブに包んだまま、一階のソファで本を読みながら待っていた伊織の前に、セイバーが立つ。神妙な――これからとても誰かを抱くようには思えないような、ひどく厳粛な顔で、セイバーが言った。

「では、上階へ行こう」
……セイバー。……大丈夫か?」
「なにがだ」

階段をのぼりながら、セイバーが伊織を振り返らずに問う。その小さな背中を見ながら、伊織が言った。

「ひどく――緊張しているように見える。なにか体に不都合でもあるのか。……抱けるのか? 別の日にしようか」

はは、とセイバーが乾いた笑い声をあげ、はた、と足を止めた。階段の途中で伊織を振り返る。苦々しい笑みを浮かべて言った。

「きみは残酷だな? ――これでも四百年間焦がれた相手に初めて触れるのだ、緊張くらいさせてくれ」
「ん――

そういうものか、と思う。――話を聞いた限り、この目の前の『セイバー』は日本神話に語られる大英雄であるのだが、それでもそのようになるものか、とも。

「それに、」と再び階段をのぼり始めたセイバーが言った。

「今度こそ――きみに誤解されたくない。きみに、ちゃんと伝えたい。だから、緊張している。――もしかすると、きみに触れるそのことよりも」

そうぽつりと言った声が、かすかに震えていることに気付く。伊織がバスローブの合わせ目をわずかに引き寄せる。――寒い、と感じたのは、もしかしたらセイバーの緊張がわずかにでも伝播したせいなのかもしれなかった。







セイバーの部屋のベッドには天蓋がついており、まるで御簾のようにカーテンが降りていた。一度ベッドの中に入ってしまえば、視界の中には互いの姿しか映らない。半遮光のカーテンがつけっぱなしの照明を透かしてちらちらと仄暗い光の乱反射する中、肩から白いバスローブを落として細い少年らしい体を晒したセイバーが、伊織のバスローブに手を掛けた。――まるで、儀式のように――そっと、時間をかけて、伊織の肩から揃いのバスローブを落とす。

伊織は、何も言わずにセイバーがそうするのをただ見ていた。この行為が、彼にとってはとても重要であることを知っていた。たとえ自分にはわずかにもその実感がなく、今後も決してその実感が伴うことなどなくとも――彼にとっては自分のこの身はとても重要なもので、この時間がとても大切なものであるというのなら。
契約相手の望みを叶えてやるのは伊織の当然の責務である

――イオリ」

ぽつりと静かに名を呼んで、セイバーが伊織の唇に触れるだけのキスを落とす。そのまま、白い肩に触れ、腕をなぞる。――そのまま、柔らかなベッドの上に、彼の体を横たえる。
唇でひとつひとつを確かめるように、伊織の高い鼻先に唇を落とし、首筋に落とし、肩に落とし、胸に落とし、みぞおちに落とす。手と手を絡めて指を絡め、伊織の左手の甲にも唇を落とした。――それから、今にも泣き出しそうなのをぐっと堪えるような顔で、伊織を見下ろした。

「イオリ。――好きだったよ。ずっとずっと、きみのことが好きだった。きみのことばかり考えていた。夢の中にきみを見て、目覚めてきみの姿ばかりを目で追っていた。きみに好きだと言って――私に照れ隠しが要らなくなる頃には、きみは私の言葉を言葉通りには受け取ってくれなくなっていた。私のつたない言の葉ではいくら伝えてもきみには届かず、いつしか私は――きみに伝えることを諦めていた。私は、話すのが下手だから」

ぽた、と伊織の頬に、熱い水滴が落ちる。精一杯の矜持として、美しい顔の表情を崩さなかったセイバーの大きな瞳から、それでも堪え切れなかった涙の粒が、ぽたぽたと零れ落ちていた。

「もっと、話せばよかった。もっと、何度でも言えばよかった。言い方を間違えたからといってなかったことなんかにしないで、きみに甘えてなかったことなんかにしてもらわないで、もっともっと、何度でも、何度でも伝わるまで伝えればよかった。きみに面倒くさがられても、もうわかったと呆れられても、何度でも言い続ければよかった。もっともっと、たくさん伝えればよかった。
――イオリ、きみのことが好きだったよ。誰でもよくなんてなかった。私は、きみに触れたかった。もっともっと、きみの傍にいきたかった。きみの近くにいきたかった。きみを知りたかった。きみに私を求めてもらいたかった。きみと混ざり合って、ひとつに融け合って――きみが私のを呼んで、私だけを見てくれるのを夢想した。私に夢中になってくれるのを夢想した。――そのどれもが叶わぬ夢だと知っていた。それでも、伝えればよかった」

伊織の頬に落ちたセイバーの涙が頬を伝い、伊織の唇に溜まる。その濡れた唇に、セイバーが口づける。互いに、しょっぱい味がした。

「叶わなくても、きみからの気持ちが返ってくることなどなくても、きみに伝わることなどなくても――これが私の気持ちなのだと、きみに伝え続ければよかった。みっともなく、たとえつたない言の葉しか紡げなくとも、何度でも何度でも、同じ言葉を繰り返して。
――イオリ、きみが好きだったよ。ずっとずっと好きだった。――私は、きみを愛していた。きっと、恋をしていた」

呆然と――伊織が、セイバーの顔を見上げている。



ベッドの上で伊織が演技するのを忘れたのは、初めてのことだった。







翌朝セイバーが目を覚ますと、天蓋の中に伊織の姿はなかった。

昨夜脱いだバスローブに身を包んで部屋の外に出る。すぐに鼻腔をついた香ばしい味噌の匂いに、伊織がどこにいるのかを悟る。
とんとんと軽い音を立てて階下に降り、「イオリ、おはよう」と声を掛ける。「――あ」とやや戸惑うような声の漏れ聞こえたあと、伊織がキッチンから顔を出す。

「おはよう――ございます、旦那様

ん、とセイバーが違和感に口許を強張らせる。「イオリ?」と問うと、調理中だったらしいフライパンをコンロに置いた伊織が、エプロンを整えながらキッチンから出てくる。食卓の横に立っていたセイバーの前に、おずおずと立ち――言った。

「あの。――変更覚書を、破棄してはもらえませんか。あなたとはしたくないのです



――ぽちゃん、とシンクの蛇口から一滴の水滴が落ちる音が、セイバーの鼓膜に響く。