mishiadd
2025-03-22 21:29:21
21849文字
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ADDENDUM.1

【転生パロ/本編軸】『この世界にはまだ苦しみが足りない』続編。『愛人契約書』の契約内容を更新し、かつて蓋をしていた劣情を武器に人心を狂わせる『怪物』と化した伊織さんと闘うセイバーの攻防戦【剣伊】
前作『この世界にはまだ苦しみが足りない』:https://privatter.me/page/67d61793a9ab1


四、

一度そうだと思ってしまえば、「考えない――ということはひどく難しかった。

あるいは、この欲求はサーヴァントの身で食事を摂り続けるなどという奇行を犯してしまったことによる弊害で、相手は伊織である必要すらないのかもしれなかった。エーテル体とはいえ十四歳という若い肉体に宿る当然の欲求が手頃な出口を求めてさまよった結果、たまたま最も近くにいる伊織に誤って向かってしまった――ということも充分に考えられた。なにしろ、伊織はセイバーのマスターである。経絡が繋がっており彼が魔力の源である以上、食欲にも似た欲望が彼へと向かうのも自然の摂理なのかもしれなかった。
もしかしたらそこには、精神性や特別な感情などは別段伴われていないのかもしれなかった。単なる純粋な生理現象なのかもしれなかった。たまたま手の届く範囲に伊織のがそこに在ったから、もっとも手っ取り早い手段として伊織に手を伸ばす――夢を見た。それだけの話だったのかもしれない。

伊織のことは、無論嫌いではない。どちらかと言えば好きだと思う。大切で、特別なのか――と問われればわからない。ただ、一緒にいることは嫌いではないし、ふたりで膳を囲む時間は好きだ。町を散策中に見掛けた屋台で――伊織の銭で――ふたりで並んでうどんなどを啜るのも好きだった。きっと、友達というものがいたらこういうものだと思う。

――伊織が、これまで一体どんな人生を歩んできたのか知らない。だがきっと――自分と違って――日の当たる真っ当な道を迷うことなく真っ直ぐに歩んできたのだろうと、セイバーは思う。日向のように温かで穏やかな優しさは、きっと日向のように温かで穏やかな周囲の愛に育まれてきたのだろうと、思う。

それを、セイバーは好ましく思う。微笑ましく思う。僅かながらのやっかみがないといったら嘘になるだろうが、それ以上に――実を取る残忍さよりも理想を取れるその甘さと優しさと正しさを、眩しく思う。その弱さをこそ、愛しく思う。……自分もこうなってみたいと、思う。

『善を為す』という行為があるならば、きっとそれはこういうことだ。

――だから、伊織のことは好きだった。きっと、人として好きだった。好ましいと思っていた。仏頂面の彼が不意に見せる不器用な笑みが好きだった。町の中、伊織の目の前でわざと急に走り出して、「待てセイバー」と困ったように彼が必死に自分を追いかけてくるその時間が好きだった。



その彼に――



夢の中の伊織は、セイバーの知らない顔をしていた。煎餅のように平べったい布団の上で、普段はきっちりと結い上げている柔らかな髪を乱しながらこちらに両腕を伸ばし、必死にセイバーの名を呼んでいる。もしかしたら、教えてもいない真名を呼んでいたかもしれなかった。よく覚えていない。
月光の下では殊更ぼんやりと白く光るような肌に赤みが差し、吸い付いた白い首筋に生々しい赤い痣が残る。セイバーが腰を動かすたびに背丈の割に細い腰が跳ね、恥じらうように顔を背ける。その、じっとりと汗ばんだなめらかな頬を、ぺろりと舐めあげる。

――伊織は、整った綺麗な顔をしていると思う。セイバーは人の美醜に頓着する性質ではなく、それ故に別段伊織に関してもだからどうなどと思ったことはなかった。恐らくお互いに似たようなものだと思う。伊織の方もセイバーが綺麗な顔をしているのはわかっているが、だからと言って別段どうということもない。
それを差し引いたとしても――たとえば見るものすべてを魅了して誘惑するような、そういった性質の人間が実在したとして――伊織はその対極の存在だった。彼からは、およそ『欲』というものを感じられない。なにもそれは情欲に限らないと思う。ひどく禁欲的で、清廉で、潔白な――世俗らしさというものを感じさせない雰囲気をまとっている。

だからこそますます、セイバーは何故自分があんな夢を見たのかが不思議だった。仮にも自分の無意識が、なぜ彼に欲望を向けたのか不思議だった。よりによってなぜ彼なのか。セイバーが彼に抱いている印象と、セイバーの無意識が彼に向けている欲求は、まるで乖離しているように思えた。だから後者は、何かの間違いなのではないかと思った。所詮はただの夢であるとして、真面目に取り合わず――さっさと忘れてしまうのがいいのではないかと思った。

――しかし、それは難しかった。



夢の中の――情欲に苛まれながら必死にセイバーを呼ぶ伊織の顔が、脳裏に焼き付いて消えない。







畳の上に几帳面に布団を敷いた伊織が「おやすみ、セイバー」と声を掛ける。「だから、私には睡眠は必要な――」と言い返そうとして、とても言えた口ではないことを思い出して押し黙る。やや俯いたセイバーをどう思ったのか、伊織が気遣うように言った。

「こっちに来て一緒に寝るか? セイバー。――そうやって中途半端な姿勢で眠りに落ちるのは、あまり体によくないのではないか」
睡眠の質に関してきみに講釈を垂れられるとは」

フン、とぶっきらぼうに鼻で嗤おうとして、ふと伊織を見遣る。敷布団の上に横になった伊織が、掛け布団代わりに肩まで掛けた着物の端をそっと持ち上げて、静かにセイバーを見ていた。――その瞳と、目が合う。
するり、と密やかな閨の中にいざなうように、着物の端を持ち上げ――その奥に、襦袢のみを身にまとった伊織の細い体が見える。横臥した伊織の、胸から腰にかけての稜線が見え――その腰の細さに躊躇する。伊織が腕を持ち上げた拍子に、襦袢の合わせ目が緩む。鎖骨から白い胸元にかけてが覗いて、その柔らかそうな肌が、行燈のぼんやりとした灯りが照らす着物の色をうっすらと反射している。

揺らめく行燈の灯りが、伊織の青みがかった澄んだ白目に反射して、ちらちらと光っている。――深遠な宇宙そらの色をした月夜の瞳が、ちらちらと――万華鏡のように火を孕んでいるように、見える。

「セイバー。こっちにおいで。その姿勢はおまえの体に悪いよ。――もっと、早くに気付いてやればよかったな。もっと早くに誘ってやればよかった」
――イオ」

「リ、」と言いさしたとき、長屋の外でホオーーーウ……と梟が啼いた。――ぱちん、とまるで何かの術が解けたかのように、セイバーが我に返る。

「いや。……いや、いや。―――いや。――結構だ」

からからに乾いた喉でやっとのことでセイバーが言う。

「いくらなんでもそこにふたりは狭い。ならばこちらで居眠りでもしていた方がまだマシだ」
「そう――それもそうか」

道理だと見てとったのか、あっさりと言った伊織はそのまま着物を自分の肩に掛けた。行燈に手を伸ばして火を落とす。「おやすみ、セイバー」と再び言い、そのまま目を閉じたようだった。

暗闇に沈んだ長屋の中で、セイバーが目を開けている。――考える。



――鼓膜にまでけたたましく鳴り響いている、この動悸の意味を、考える。