わからん
2025-03-10 23:09:23
74988文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】Nobody's Son

本編後IFなギスギスくさひぐシリーズ第三弾(長編)です
例によって捏造祭り・日下部が日車のみならず行く先々で色んな人とギスりまくってます
・日下部が日車を迎えに行く話( https://privatter.me/page/678cf22a6e58f
・とそのおまけ( https://privatter.me/page/6795bb0def0b2
とお話が繋がっているため、先にこちら2つを読むこと推奨です
※死亡表現ではないもののそれに近しい表現・暴力・流血・ゴア描写あり。ゴア表現においてはショッキングな描写が続く(特に4p目)ため、苦手な方は充分にご注意ください。


6.




 見覚えのある天井だった。
 瞬きを繰り返し、ここが呪術高専の保健室であることに思い至ると、ベッドから上体を起き上がらせようとした。直後、胸元を中心として上半身へ広がった激痛に悲鳴を上げてしまう。遠くからデスクチェアの軋む音が聞こえ、足音が近付いてきた。
「おはようございます。日下部学長」濃いくまが目立つ顔——校医の家入が、ベッドの周囲を囲っていたカーテンの隙間から無感情に問うてくる。「早めに目覚めてくれて助かります。気分はどうですか」
……俺は学長じゃねえぞ」
「『代理』がついているだけで本質的には同じです。気分は?」
 思いきり顔をしかめてやった。「最悪だ」
「良さそうですね」
「人の話聞いてたか?」
とは違って、こっちに運び込まれるまでに相当なタイムラグがあった——」家入は淡々と告げながら近づき、小脇に抱えていたバインダーを日下部の眼前に突きつけた。「治療があと数分でも遅れていたら間に合いませんでした。なので当初に比べたら相当良くなったんですよ、学長」
……俺が死にかけたのはわかったから、どけろ。近すぎて何が書いてあるかも見えねえし」
 バインダーを遠ざけた家入は、そのまま自身の胸元で抱えて書類に何事かを記入し始めた。彼女の作業が終わるまでの短い時間、日下部は首を巡らせて部屋の様子を確認する。カーテン越しに伺える日光の強さからして、午前中か昼前だろうか。
「俺は何日寝てた」
「一日です」と顔を上げずに家入が言う。「一日と約半日」
 反転術式の効果の高さには相変わらず舌を巻く——壁時計で時刻を確認する。午前十一時。
「呪詛師は」
「さあ。息はあったので彼が捕縛したらしいですが」
「彼?」
「日車三級術師です。あっちはほとんど無傷だったので、通常の仕事に戻っています」
 音を立ててボールペンの芯をしまい、家入が顔を上げる。
「どれくらい痛みますか」
「動くときに少し。日常的な動作は問題なさそうだが、刀を使うのは無理だな」
「数日経てば自然に引いていくはずですが、それでも痛むようだったらまた来てください。今日のところは痛み止めを処方します」
 家入が保健室を出ていき、少しして戻ってきた。スーツとコートを持っている。日下部が受け取ると再び部屋を出ていき、その間にベッドから下りて着替えを済ませておく。
 着せられていた病衣を脱ぐと胸の傷痕が目に入った。両面宿儺に斬られたときは薄く残っていた程度だったものが、今や赤褐色に変色した肉が盛り上がり、まるで皮膚の内側の肉がそのまま表へ出てきたように生々しい。目に入れないよう手早く着替えを済ませ、保健室へ戻ってきた家入に刀はどこかと尋ねる。すると露骨に顔をしかめられ、「あんなおもちゃ以下のもの、とっくに捨てました」と吐き捨てられた。
「まじか。手元に刀がないと落ち着かないんだよな」
「折れたことをもっと早く申請するべきでしたね」
 家入の皮肉に鼻で笑いながらコートを羽織る。鎮痛剤を手渡され、彼女のするべきことは終わったようだった。
「三日間は絶対安静でお願いします。これからどうします? 医者としては療養してほしいですが」
「そうする。一旦家に帰るわ、明日から仕事に戻る」
「学長が帰宅することになったら車を回すよう、職員室の補助監督に伝えてあります」
「悪いな。世話になった」
 扉に近付きかけてふと左手を見下ろす。どこがとは具体的に言えないが、違和感を覚えた。あるべきものがそこに無いような、何かにずっと触れていたような。
「家入。俺が起きる前に、誰か来てたか」
 デスクチェアに腰掛けた家入が椅子をぐるりと回転させ、日下部のほうを向いた。彼女は無言のまま日下部を見つめ、いいえと答えた。
「昨日なら虎杖君と日車さんが」
「一緒に?」
「別々の時間帯でした。虎杖君は朝一に学長のお見舞いで……日車さんは定時近かったかな。前日の夜に首の骨を自力で治したから、正しく戻っているか診てほしいと」
「怪我から半日以上経って聞くことかよ」
「私も同じことを思いましたよ。本当の目的が別にあったんだと思います」
 家入は足を組み、背もたれに深く体を預けて日下部を見上げた。
——学長が寝ているベッドのほうを、ずっと気にしていましたから」
 案外、素直になれない人ですね。と彼女が呟いた。
 日下部が答えないでいると、家入は再び椅子を回転させて背中を向けた。
 煙草の吸い殻で溢れ返っていた灰皿も、デスクの上に所狭しと並べられたエナジードリンク類も、今は彼女のデスクから跡形もなく消えている。家入が肩越しにこちらを振り向き、早く帰宅するよう促してきた。
「ちなみに日車三級術師の首は綺麗に治っていました。それこそ医者がいらないくらいに。天は、選ばれた人になら何でも与えるものですね」
……あいつは、どっちかと言えば見放されたほうだろ」
「ああ、確かに」眠たげな視線が斜め上に向く。「そういう経歴でしたか。けど、思えば呪術師はそういう人たちの集まりです。あの人だけではなくて私も、学長も」
 腕を組み、扉に寄りかかる。「今日は珍しく饒舌だな。家入」
 数秒の間を置き、家入が床の上に視線を落とした。
……別に、昔の友人を思い出しただけです」機械的な声色だった。「何も言わずに、こっちへの相談も無しに勝手に決めて結局、二人していなくなった。自分勝手でむかつく奴らだったので」
 言葉に反して家入は口元に柔らかい笑みを浮かべていた。
 彼女は今度こそ日下部に背中を向け、二度と振り返らなかった。
「忘れないでくださいよ学長、今日から三日間は絶対安静です。——お大事に」

 帰宅する前に物を取ろうと学長室へ寄ると、デスクの上には大量の郵便物が置かれていた。
 開けずに送り主だけを確認する。シン・陰流の関係者や元教え子からの手紙が中心だったが一通だけ、日下部の名前だけで送り主の記載が無い、真っ白な封筒がある。こうした手紙は大抵、総監部からだ。溜息をつきながら開封すると、次回の会議には必ず顔を出すようにと達筆な字で書かれている。目を通すや否や丸めて屑籠へ投げ入れた。他の手紙は放置して手前の引き出しを開け、奥に仕舞われていた書類を掴んで学長室を後にした。
 日下部を送ってくれたのは新人の補助監督だった。任務も無く待機中だったのを、家入の頼みもあって送迎を快く引き受けてくれた。にわかに疼き始めた胸の痛みを気にかけながら、後部座席に座った日下部は窓の外を眺める。
 雲ひとつない快晴だった。こうした天気が続くと呪霊の目撃報告も減じていく傾向にある。だとすれば、年間を通して晴れが続けば呪霊は減っていくのか? そうとは言いきれない。曇りがあり、雨や雪があるからこそ、晴れの日に発生する呪霊の数が減る。快と不快の関係は絶対的だ。相反する二つの指標が存在するゆえに人々は喜び、悲しみ、時には誰かを憎んで、プラスとマイナスの感情が生まれていく。
 善と悪。
 正しい行いと過ち。
 ゼロか、一か。
 しかし、二元論には限界がある。ゆえにこれはあくまでもひとつの例え、さらには極論であって、実際の世界はそう単純にはできていない。裏を返せばそれこそが現実の世界であり、人間の本質でもあるということだ。白と黒は混ざり合い、時には二色以外の色も付け足されて、より複雑な色が何千、何万と作られていく——
「日下部さん」
 取り止めもない考えに没頭していたせいか反応が遅れた。口を開いてからどう返すべきか迷う。
……なんだ」
「こんなときに言うのもなんですが、早めにお伝えしたほうがいいかもしれない出来事がありまして」
 補助監督の言葉に耳を傾けながら深呼吸をする。胸の傷痕が徐々に痛み始めていた。
「昨日の昼過ぎに虎杖特級術師と伏黒特級術師、それと釘崎一級術師が、A——三級術師の……ええと」
……あいつの昔の名前は日車だ。今の名前は俺も知ってるから、わざわざ言い換えなくていい」
「失礼しました。先の三人が彼を一級呪術師へ推薦すると、連名で推薦状を提出されました」
……はあ……?」
 自身の耳を疑いかけた。想定外の出来事だ。
 乱れかけた心を落ち着かせるために目を閉じる。……狙いやがったな、と心の中で独りごちた。決して偶然などではない。あいつら、俺が昏睡しているのを狙ってやりやがったんだ。
 言い出したのは虎杖かもしれない。彼は、日下部が日車の昇級試験を落としたことに対して強い不満を持っていた。それに虎杖は昨日、朝一で自分の見舞いに来ている。家入に聞けば、相手がそう目覚めないことは容易に知れただろう。そして特級と一級術師である同期の二人を巻き込んで推薦状を作成し、日下部は不在だからと補助監督に手渡した——
 上級呪術師による下級呪術師の一級推薦は学長——現在は学長代理——へ直接提言するのが原則である。通例どおり日下部に推薦しても揉み消されることを、先日の会話で虎杖は気付いていたのだ。
 補助監督が文書を受け取ったという履歴が残ってしまった以上、推薦の事実をなかったことにはできない。
 数年前の、特級へ上がりたての虎杖なら、日下部の不意打ちを狙うような手段は決して取らなかっただろう。
 化けてきたな、と日下部は目蓋を閉じたまま考える。出会った頃にはまだ学生だった彼が、他人を出し抜く立ち回りを考え、実行できるまでになっていたとは。日下部の見舞いが自身の作戦を成功させるための偵察であったことには、かえって感心してしまう。……一丁前に呪術師らしくなってきやがって。誰が何と言おうと、虎杖が慕っていた彼に、少しずつ似てきたと思う——
「推薦状は職員室で預かっているので、明日お渡しします。それと、総監部から日下部さんあてに入電がありました。重要な話をするから、次の定例会は必ず出るようにと」
 背中を丸め、シャツ越しに胸元を押さえ込む。コートのポケットに突っ込んでいた鎮痛剤を引っ張り出した。
「話は戻りますが、推薦の件は——
「悪いが明日にしてくれないか。まだ本調子じゃないし、今は何も考えられない」
……承知しました。すみません」
 沈黙が下りる。錠剤を水で喉の奥へ押し込み、再び目を閉じる。胸の疼痛が徐々に引いていくのを感じながら、意識的に思考をシャットダウンしていく。……
 名前を呼ばれて目が覚める。マンションの前に車が停まっていた。補助監督が扉を開け、体調はどうかという問いに大丈夫だと返す。明日も迎えに来る、後ほど連絡すると告げて補助監督は去っていった。もと来た道を通って遠ざかっていく車を見送り、日下部はマンションのエントランスへ足を踏み入れた。
 教師用の寮にも部屋を持ってはいるが、学長代理の立場を総監部から任命されて以来、意識的にこちらの部屋へ行くように——つまり、呪術高専からは距離を取るようになっていた。
 明け透けに言えば、息が詰まる、というのが第一の理由だった。教師、学長代理、一級呪術師、シン・陰流の当主。呪術高専にいる限りは、それらに関する仕事と重責が、すべて日下部の両肩へとのしかかってくる。それらに潰されずに少しでも羽を休めるには、物理的に距離を取ることが最良の選択だった。
 もっとも、その隙を突かれて呪詛師の襲撃を食らい、生死の間を彷徨う羽目になったのだ。引っ越すか、以前のように教師寮中心の生活に戻るか。ここを離れるべきか留まるべきか、今が判断する潮時なのかもしれなかった。
 扉の鍵を開け、ドアノブを引いてすぐに身を屈める。
 部屋の明かりがついており、奥からは物音が聞こえた。
 人の気配がする。
 どうやら本格的に引越しを考えなければいけないらしい。病み上がりなのにと舌打ちしそうになるのを堪え、手の内側に鍵を握り込む。指の隙間から鍵の先端を飛び出させ、殴ると同時に相手の皮膚を抉れるようにするためだ。
 音が立たないよう扉を閉めて土足で廊下に上がる。廊下の奥、キッチンから物音が聞こえた。壁際に身を寄せて忍び寄り——角から飛び出したところで、慌てて踏みとどまった。
——お前——何でいるんだよ!?」
 そこにいたのは日車だった。
 思えば、玄関に見慣れない革靴が踵を揃えて並べられていたかもしれない。その几帳面さで彼だと推察することはできたはずだ。見慣れたスーツ姿、まだ短くてはねやすいと以前ぼやいていたものの後ろへ撫で付けられた前髪。間違えようがない。夢でも幻でもなく、日車その人が日下部の部屋のキッチンに立っている。
 彼はぼんやりと日下部を見つめ返し、寄りかかっていたシンクから体を離した。
「帰ってきたか」とその場に佇んだまま呟く。「思ったより早かったな。体の調子はどうだ」
「どう、って……お前の説明が先だ」
 靴を脱いで玄関へ置き、キッチンへ引き返しながら日下部は苛立った声で答える。「立派な不法侵入だろこれ。どうして俺の部屋にいやがる、鍵はどうした?」
「合鍵は補助監督から預かった」
「はあ?」
 日車は先ほどの場所から身動きもせず、じっと日下部を見つめ返した。自分が大声を上げており、近所迷惑になりかねないと遅れて気付く。冷静になるよう努めながら日車の話を理解しようとした。
 確かに、彼の言う通り、部屋の合鍵は補助監督に預けている。しかし、それは自分との連絡がつかないときや、この部屋にいる間に自分の身に何かが起きたときといった、非常時に第三者が突破できるようにと案じたものだ。知り合いとはいえ、他人が好き勝手に出入りできるよう渡したものではない。
 日下部は腕を組み、キッチンの出入口を塞ぐように壁の片側へ寄りかかった。
「どういうことだ。説明しろ」
「君への説明は無かったのか」
「無かった。おかげさまで何が起きているのかさっぱりだ」
……君はしばらく目覚めないだろうという話があって、誰かが部屋の掃除に行くべきだろう、と」
 日車の眉間に皺が寄ったものの、彼は落ち着き払って説明を始めた。
「補助監督の間でそういう話になったようだ。長期の不在が続くと、誰かが掃除に部屋へ入るものなのか」
「そんなの知らねえし聞いたこともねえ。ったく、余計な気を回しやがって」
……予定が空いていたのは女性の補助監督しかいなかったから、男性が行くべきだと」
 それで日車に白羽の矢が立ったらしい。至ってシンプルな事実だが、日下部からすれば迷惑千万も甚だしい話だ。明日出勤したら補助監督たちに喝を入れようと決める。
「そうか。……怒鳴って悪かった、情報が錯綜してたみたいだ。補助監督には明日、俺からきつく言っとく」
「彼らを責めないでくれ。迷惑ではなかった。君が早く復帰できるに越したことはない」
 掃除も嫌いじゃないんだ、と日車は言う。「リビングは多少片付けたが、君の私物にはほとんど触れないようにした。不快に思ったのならすまない」
「人んちのコーヒーを勝手に飲むのはいいのか?」
 日車が身じろぎ、シンクの上に置いたマグカップを日下部の視線から隠そうとした。だが、視覚は誤魔化せても嗅覚は騙せない。
……これは……
「これは?」
 弁解を試みる声が珍しく上擦っていた。視線も宙を泳いでいる。にわかに取り乱し、焦り始めた日車を見て愉快な気持ちが込み上げてきた。
……賞味期限が近かったから、もったいないと思って消費していたんだ」
「この場合、訴えられるのは窃盗罪になるんですかね」
「すまない。飲んだ分の金を倍にして払う」
 すっかり萎縮した日車の姿を見て笑ってしまった。ちらりと日下部の様子を伺った彼の眉間に皺が寄る。
「いい。置いてただけでそんなに飲んでなかったから、怒る理由も特にねえよ」
 荷物を手にリビングへ移動し、コートと一緒にソファーの上へ適当に投げ出しておく。日車の言う通り、日下部の記憶よりもいくらか部屋が整頓されたような印象を受けた。ソファーには座らず、座布団を引っ張り出してテーブルの前に座る。日下部、と日車が普段よりは控えめな様子で呼びかけてきた。
「何か、飲むか」
「俺の部屋のはずなんだけどな」思わず苦笑しつつもその提案はありがたかった。「頼んでいいか。お前と同じやつでいい」
「病み上がりの身でカフェインを摂取するのはよくないと思うが」
「じゃあ何でもいい。コップの場所は……もう知ってるか」
 戸棚を開ける音が聞こえてきて呟く。リビングとキッチンを仕切る壁はなく、勝手知ったる様子でケトルに水を注ぐ日車の背中が見える。日下部は背後のソファーから鞄を手繰り寄せ、高専から持ち帰ってきた一通の封筒を出し、テーブルの上に置いた。
 ケトルのスイッチを入れる音を最後に、部屋の中は一度静まり返った。ケトルによって内部の水が急速に熱せられ、蒸気が抜けていくような独特な音が徐々に大きくなっていく。
「日下部」
「なんだ」
「君はもう、呪術師の任務を請け負うことから離れるべきだ」
 ——互いが触れずにいたことによって保たれていた平穏が、彼の言葉によって崩れ落ちた。
 封筒の中から書類を出しかけていた手を止め、日下部はキッチンへ顔を向ける。日車はカウンターに両手をつき、こちらを向いていたが、深く俯いており表情を窺い知ることはできない。
……どうして、そう思う」
「君は有名人だ。あの呪言師のように、君に個人的な恨みを持って接触する輩が今後も現れる」
 日車の声色は相変わらず単調だった。しかし、声が微かに震えていることは、日下部だから気付くことができたのかもしれない。
「今回は俺がいたから何とかなった。だがもしも、次に同じような襲撃があったとき、君がひとりだったら」
「次は失敗しねえよ」
 日車の言葉を遮って言う。「刀が折れてたし、あれは少し油断しただけで」
「人は怪我を負ったら呆気なく死ぬって、君が言ったんじゃないか」
 ——俺は大真面目だ。
 かつて日下部を戦慄させた鋭い声が、再び鼓膜を震わせた。
「家入にも言われただろう、君は本当に死にかけたんだぞ。傷の具合は両面宿儺にやられたときよりも酷かった。補助監督が君の部屋を掃除しようと言い出したのは、君が二度と目覚めないことを想定して、部屋の様子を見に行こうとしていたからだ」
 つまりは、遺品整理——
 日車が顔を上げる。
 そこには何の表情も、浮かんでいなかった。ゆえに、彼を襲っている感情の正体が何なのか、日下部は見極められないままでいる。
 キッチンの照明を背負い、日車の顔を黒く、濃い影が覆う。
「日下部。このままでは、君はいつか死ぬ」
 彼の発言は確信めいていた。裁判で刑を告げる裁判長のように、あるいは死神のように。昏く落ち窪んだ目玉だけが影の奥で爛々と光り、日下部を見つめていた。
 長い空白の時間があった。日下部は日車から視線を逸らし、手に持っていた書類を封筒から出した。
 手書きの文字がびっしりと敷き詰められたそれに目を通しながら口を開く。
「そうは思わねえけど」
 あまりにも軽い口調だった。
 自分でもそう思ったほどだ。相手の世間話に相槌を打ったときのような、適当で無責任な受け答え。
「仕事を辞めるつもりなんてねえし、呪術高専に年中引きこもる生活もお断りだ」
 総監部のジジイじゃねえんだし、と言いかけたところで息を呑む音が聞こえたが、彼の顔を見はしなかった。手の内にある数枚の紙、その中身を検めながら、次のページへと捲っていく。
 ケトルはごうごうと音を立てていたが、徐々に静まり始めていた。
「君は……
 普段よりも力強さを失った日車の声が聞こえる。彼が黙っている間に、カチリとケトルが音を立てて沈黙する。
……先代の学長は、君ほど任務に出ていなかったと」
 ——予想外の言葉に、紙を捲る指が止まる。
「任務は生徒やフリーの呪術師に振って高専の仕事を優先していたと聞いた。一級に上がれば、君に振られている任務は全て俺が負担できると、補助監督にも確認を取っている」
……誰に聞いた」
「伊地知と新田だ。君の任務を一番多く担当している」一拍置き、日車は続きを口にする。「二人も君の多忙を心配していた。無茶をしすぎだ。それにもう、自分一人の命じゃないことは君もよくわかっているだろう」
 日車の話を聞きながら頬杖をつく。紙の端をつまみ、顔の前にぶら下げながら溜息をついた。
「なあ、日下部。今後現場に出るのは控えたらどうだ。そもそも学長が現場に出ていること自体が異例だったんだ。前は——
「日車」
 ぴたりと言葉が止まる。日下部は手を下ろすと、ようやく日車のほうへと顔を向けた。日車は俯いていたが、眉間に深いしわが刻まれているのはすぐに見てとれた。視線を感じたのか、微かに顔を上向けて日下部を見つめ返した。目が合うと日下部は自身の前、テーブルの反対側を指差す。
「こっちに来い。座れ」
 数秒の間、時間が止まったようだった。日車は背を向け、ケトルを手に取る。湯を注ぐ音が聞こえた。彼が日下部と向き合って腰を下ろすまでに、書類を畳んで封筒とともにテーブルの端へ寄せる。入れ違いにタンブラーが置かれ、正面に座った日車が日下部をじっと見つめた。
……俺は夜蛾さんじゃない」
 静かに吐き出した声は、辛うじて震えていなかった。
「先代——夜蛾さんになりたいとも、近付こうとも思ってねえよ。俺は俺のやり方でいく。学長が通常の任務に行く前例が無いなら、作ればいいだけだ」
「それは違う」案の定、日車は食い下がった。「話を逸らすな。俺がしているのは前例がどうという話じゃない。君は組織の頭として狙われる危険が常にある。他人に任せられる任務にわざわざ出向いて、自ら目立つ必要があるのか」
「人手不足なんだよ。動けるやつが出なくてどうする」
「それは解決しているはずだ。人手が足りないから俺を連れ戻したんだろう、日下部——
「まず二級に上がってから言えよ」
 苛立った声が出たと、気付いたときには遅かった。
 ぴしりと空気の凍る気配を感じる。日車の顔が強張り、唇の端が大きく震えた。
「三級のお前に言われたところで何とも思わねえわ。そこまで言うなら規定を破って俺の任務に行くか? 馬鹿やったお前の尻拭いには誰が行く? ……考えが浅いんだよ」
 硬直した表情に反して彼の沈黙は短かった。
……すぐにでも、」
「二級になるって? すぐっていつだよ、曖昧だったら意味ねえじゃん」日下部の口から乾いた笑いがこぼれた。「俺、明日から仕事に戻るけどさ。そしたら俺の任務を全部やってくれんの?」
「日下部」日車の顔は徐々に下を向き、やがて片手で目元を覆う。「違うんだ。話を聞いてくれ。俺はただ、」
「黙れよ」
 止まれと己の行動を戒める理性の声は確かに聞こえていた。これ以上は駄目だ。自分を心配してくれている日車を傷付けて、何の意味がある?
 何が自分を焦らせて突き動かしているのか、日下部にもわからない。混乱したままに、目の前で見えない血を流している日車へと、日下部はとどめの一撃を突き出していた。
「夜蛾さんの——昔のことなんて、お前は何も知らねえくせに——
 反論の言葉が途絶えた。
 目元を覆って俯いた姿勢のまま、日車は沈黙した。黙り込んだのは日下部もだった。瞬間的に湧き上がった激情は今や凍てつきかねないほどに冷えきり、自身の発言と、それによって引き起こされた事態を遅れて理解する。
 後悔よりも自分自身への嫌悪が勝った。今しがたの発言は、本当に、自分が? 自分ではない何かが、……怪物が、日下部の口を借りて喋ったかのようだ。しかし事実はそうではなかった。自分の言葉と意思で、日車を傷付けるために発言したのだ。
 どうしてだ。何に怒った。俺は何をしたかったんだ。
 ——日車。そこまでして、どうして俺を遠ざけたがる?
 寸前で喉の奥に押し殺した言葉は胸の奥で膨らみ、気道が圧迫されるような錯覚を覚えた。視線を下に落としたとき、目の前の男から小さな応えが発される。
「君は——どうして、自分ばかり痛めつける?」
 激情を押し殺すために震え、引きつった声だった。
「ひとりで何でもできると思っているのか」
 目を覆っているために、日下部からは彼の口元しか見えない。日車の唇は一度閉じると、何かを堪えるように歪み、再び開かれる。
「そのためにどうなってもいいと、本気で思っているのか。君が死んだときの周りへの影響は考えないのか。それでも死んでもいいと言うのか」
 偽善だ、と掠れた声が言う。
「君が求めているものにどうして君自身が入っていないんだ。それが俺たちの望まない結果だと思えないのか。自分を弾き出すのならそれは優しさじゃない、ただの自己満足で、偽善ではないのか」
……日車」
「先代の学長はそれを知っていたはずだ。補助監督だけじゃない、虎杖や乙骨たちからも話を聞いた。夜蛾氏は確かに優れた人格者だが、同時に残酷な人だったとも思う。どれほど努力しても必ず何かを取り零す——喪うことを受け入れていたんだ。それがきっと正しい。優しさだけじゃ駄目だ、日下部、
 そう言い、右手を目の上からどけた日車は、両目を閉じていた。
 青白い目蓋はまるで血色がない。睫毛が震え、ゆっくりと押し開かれた目蓋の向こうに見えた目は、うすく充血していた。日下部と目が合った瞬間に彼は再び下を向いてしまう。すまない、と小さな謝罪が聞こえ、日車はまた目元を手で覆う。
 長くも、短くも感じられる無音だった。互いの息遣いも聞こえそうなほど音の無い空間で、静寂を破ったのは日下部だった。
「それだけか」
 呟き、胡座を崩して片膝を立てる。
「それだけで、お前は俺を説得できると思ってるのか」
 日車が反応を寄越すまでに長い間があった。彼は俯いたまま頭を左右に振り、それを見た日下部は深い溜息をつきながら背中を丸める。
……自分を勘定に入れるような甘い考えでやってたら、学長なんて務まるわけないだろうが」
 独り言じみた呟きに応えは無い。
 君は優しすぎる。その言葉に、どれほどの絶望が込められていたことか。だが——彼が思っているほど、自分は優しい人じゃない。
「俺はな、日車。自分のことは、繋ぎの学長もどきだと思ってる」
 努めて穏やかに話そうとしたが、緊張によって声が強張った。返事は無くとも聞いているだろうと話を続ける。
「あの出来事が無ければ、俺よりも学長にぴったりな呪術師は他にいたはずだ。そいつらが先に死んじまったから、生き残っちまった俺が今の立場にいる」
 日車が顔を上げて指の隙間から日下部の様子を伺ったのが見えた。目の下がさっきよりも赤黒くなっているのかは、よくわからない。構わなかった。俯き、こちらを見ないよりは、ずっと。
……君が、誰かの代わりなんて」
「わかってる。これは俺の考えだ」日車の言葉を遮って言う。「けど、先に死んでいった奴らに負い目を感じるのは筋違いだって頭では理解してても、考えちまうのはしょうがないだろ。
 俺は、次の学長が決まるまでに、呪術高専の体制をより強くしていきたいと思ってる。今の高専は総監部の支配が強すぎる。それで助かった部分もあるが、いい加減独り立ちしなきゃだろ。そのためには休んでられないし、若い奴らの現状を知るためだったら現場にも行く。使えるものは何でも使う」
 自分には大した呪力も術式もない。だが、シン・陰流の現当主、それから呪術高専東京校の学長代理という肩書きなら持っている——持ってしまった。
 ——だから、必要なら総監部の駒でも呪術界の歯車でも、何にだってなってやる。
 そうすることでしか物事は、呪術界を取り巻く巨大な権力の渦は、日下部に動かせない。
 いくら傷付いても踏みとどまり、戦い続け、次に繋げるということ。
 痛みに、自身の体が上げる悲鳴に鈍くなれ。それは優しさとは真逆に位置する、茨の道だと思っている。
「その途中に死んだら死んだで別にいい。俺の力が足りなかったせいだ。もちろん死ぬのは嫌だけど——そう思えるためにも死ぬ気で働くしかねえんだよ。……ここまで言えばさすがにわかるよな。俺とお前の考えは食い違ってる」
 日車の肩から力が抜けていった。それは諦めだったのか、日下部の主張を先に察したゆえか。いずれにせよ、彼はもう反論をしてこない。
「お前に俺の説得は無理だ、そういうもんだと思って諦めろ」そう言い、日下部は膝をついて立ち上がりかけた。「……もう帰っていいぞ。明日から仕事に戻るから、そろそろ休ませてくれ」
「それは何だ」
 中途半端な姿勢のまま動きを止める。
 日車が指しているものを理解し、ああと呟きながらテーブルの端に手を置いた。手のひらの下で、封筒から出していた書類ががさりと音を立てる。読んだまま適当に出していたのだった。
「遺書だ」
 日車の顔が強張り、何事かを言うより早く、続きの言葉を口にする。
「何年も書き直してなかったからな。遺言書のほうも見直さねえと——あんた、元弁護士だったよな。今度相談に乗ってくれ」
 日下部の話を聞いた日車は、口を開きかけては閉じることを何度も繰り返したが、結局は黙り込んで俯いた。彼に背中を向けてキャビネットを漁る。ようやく便箋を探し出した頃、自分の名前を呼ぶ日車の声を聞く。
「俺も書く」
 日下部、と彼は繰り返した。「俺も遺書を書く。紙とペンはあるか」
 ——肩越しに振り返った先で、こちらを力強く見つめ返す一対の瞳と目が合った。その奥で複雑に揺れ動く感情の一つは、怒りであったに違いない。しかし、彼が覚えていたのはきっと怒りだけではなく、日下部が知り得ることのない思いもあったのだろう。力強い瞳を向けられてたじろぎ、その事実を誤魔化すために鼻で笑う。
「誰かと一緒に書くものかよ」
「裏紙でいい。頼む」
 どこまで食い下がるんだよ——茶化しかけた言葉を飲み込み、日下部は便箋が入った袋を開ける。だいぶ枚数が減っており、中には数枚しか残っていなかった。お前の分は無いと言いかけてテーブルの上に視線を向ける。青白い顔で縋るようにこちらを見上げる日車と、その手前に置かれた数枚の書類。
 日車と向き合って座り直し、遺書を引っ掴んで眼前に突き出す。
「使え」
……いいのか」
「どうせ捨てる。バツでも書いて裏紙にしろ」
 ぎこちない動きで日車が紙を掴んだ。日下部が差し出したペンを礼とともに受け取った後も、紙面からは目を離さず、静かに読み下している。
 日車が読んでいる昔の遺書はどんな内容だったかと、先ほど斜め読みした記憶を漁りながら、日下部もまた白紙の便箋に向き合った。
 遺書を書いたのは十年以上も前だ。肉親である妹や恩師である夜蛾への感謝、そして謝罪。妹には夜蛾の見舞を、夜蛾には妹の安全を、手紙の中でそれぞれ頼んでいたように思う。
 みんなより先に死んでしまってごめんなさいとある種お決まりの文句で始まった手紙は、その後もありがとうとごめんなさいを繰り返し、ゆえに拙く、いっそ機械的で、読んでいて背筋が冷えたものだった。まるで遺書ではなく呪いの手紙だ。後に残された大切な人々を、十年前の自分は、後悔の念で押し潰すつもりだったのか——そういえば、日車は自分の妹や死んだ甥、それに夜蛾のことはそれほど知らないはずだった。彼に話した覚えがない。意図せず自身の個人的な事柄を開示してしまったことに遅れて気付いたが、もはや後の祭りだ。諦めて万年筆の蓋を外し、手紙を書き始めることにする。
 日下部が一枚目の半分まで埋めたところで、日車が手紙を読み終えた。表面を上にしてテーブルの上に置き、ペンで紙全体に斜線を引く。それから手紙を裏返し、紙越しにペン先でテーブルを叩く音が、前方から聞こえてきた。
 奇妙な時間だった。自分の部屋で同僚と向き合って座り、何を話すでもなく、あろうことかともに遺書を書いている。
 タンブラーの中身が減ったのでキッチンへ向かい、シンクの上に放置されたままのマグカップを発見する。中身は温くなっていたので、流してコーヒーを淹れ直した。テーブルの端に置くと気付いた日車が顔を上げ、すまないと呟き目を伏せた。「おう」と答えたものの会話は続かない。言葉の切れ端が宙に溶けて消えかけたところで、日車がペンを動かす手を止めた。
「誰も取り零したくないのだと思う」
……それ、何の話」
「君の話だ。俺が」言葉を探すように、日車の目が束の間宙を彷徨った。「……俺が、ずいぶん前に諦めたことだ」
「不可能だから諦めろって?」
「逆だ。君の理想は見てみたい」
 理想ね、と呟き頬杖をつく。「さっきと言ってることが違くねえか」
「君の説得は無理だから」手段を変えた、と日車は言う。「君の考えの全てを肯定することはできないが、尊重することならできる」
 返事が無いことを訝しみ、顔を上げた日車と目が合う。おそらく、自分は苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだろう。日車は口の端に僅かな笑みを浮かばせ、手紙を書く作業に戻った。
 ——理想、と日車は日下部の思想を指して言った。くすぐったい響きだ。そこまで美しい景色でも、日車に尊重されるほどの高尚な目標でもない。総監部に刃向かい、日々を忙殺されながら泥臭くあがいている自分が、そうあるための言い訳に過ぎないのだ。
……優しいのはどっちだよ」
 顔を上げた日車に何でもないと首を振り、作業に戻る。
 遺書を先に書き終えたのは日下部だった。日車は依然として手を動かしていたが、日下部と不意に話しかけてきた。
「昨日、君が寝込んでいるときにだが、楽巌寺に呼び出されて会ってきた」
…………おいおい……
 彼が一人で総監部へ呼び出されたのは、それが初めてだったはずだ。虎杖といい楽巌寺といい、自分が不在のほうが都合のいい連中は多いらしい。そうされる振る舞いをしている自覚があるとはいえ、実際に出し抜かれるのは話が別だ。癪に障ると呆れて溜息をつく日下部を前に、日車は紙を捲って続きを書いている。
「所属先を呪術高専から総監部に変えろと迫られてな。聞けば、君に話が振られたときは猛反対したそうじゃないか」
「それは……俺も呼び出されて急に言われたし、お前の悪口を好き放題に言いやがるし」
「学長になる話も蹴ったのは本当か」
 あのジジイ、と口の中で呟く。そこまで話したのか——おおかた、日車が抱えている罪悪感を引き出し、唆す戦略だったのだろう。
「駆け引きだよ、駆け引き。お前を引き抜いたら学長にはならないって言ったんだ。どの道、俺以外に学長をやれる奴なんかいねえだろ」
「君が目覚めなかったら、俺が学長代理になるとあの人に言った」
 へっ、と裏返った声が口から飛び出る。「今、何て」
「目覚めたとしても君には補佐が必要だろうから、総監部には行けない、と」
 断った——。日車は書類を持つと角を整え、全体に目を通し始める。「今の特級呪術師三人にはできないことだろう」
 ぽかんと口を開けて凝視する日下部を放置し、手紙を三つ折りに畳む。
「任務へ向かわせる呪術師ばかりに目を向けて、事務処理に当たる人間を軽視するのは、組織として非常に良くない傾向だな」
「断ったのか。あんた」
「そうしない理由があるものか。君は俺が総監部に行くと思っていたのか。呆れるな」ちらりと目線だけを上げて言う。「封筒をくれ」
……楽巌寺さんに怒られただろ」
「随分と落ち着いた態度だった。俺が断るのを予想していたんだろう、老人の気苦労ばかり増やす問題児だとは言われたが」
 ……試されて、いたのだろうか。
 説得を無視して去った日下部に対し、理解できんと吐き捨てた楽巌寺の声を思い出す。あれは、怒りというよりも呆れていた声ではなかったか。
 反乱が恐ろしいと総監部の連中に泣きつかれた楽巌寺の立場も、多少は理解しているつもりだ。日下部と日車、それぞれに対する楽巌寺の態度は異なっている。どちらが彼の本音なのか——それとも、どちらとも本音なのか。いずれにせよ、日車の所属を変える話は、当面の間は蒸し返されないと思いたい。
 日下部から封筒を受け取った日車は再びペンを走らせた。遺書と書くには、手を動かしている時間が妙に長い。
「日車。あのとき、どうしてすぐに来れたんだ」
「いつの話だ」
「俺が呪詛師に襲われて死にかけたとき」
 ふと思い出して聞いただけだったが、日車は手を止めて顔を上げた。眉と口元を不満げに歪めている。
「怒らないか」
「何だよ。今更だろ」
「それなら言わせてもらうが、君と家が近いと言ったのは嘘だ」
……えっ」
「教員用の寮を一部屋借りて住んでいる。いずれ出ていくつもりではあるが」
 絶句した。あの日、彼は日下部と同じ駅で降り、そのまま真逆の方面へ去ったはずだ。何のためにあの場所へ来たのか、自分たちが乗った電車は終電だったのに別れた後は何をしていたのか。
「なんでそんな嘘をついたんだよ」
「本当に怒らないか……
「このまま黙られたほうが怒るぞ、俺は」
 日車の視線は斜め下へといつの間にかずれている。視線が日下部の顔へ戻ってきた。
「君と話したかったからだ」
 観念したように日車が口を開いた。
「虎杖と手合わせしていたときの態度を謝りたかった。昇級試験と推薦のことも——
 そのとき、日下部の内側から込み上げてきた衝動はこの場にふさわしくないと思われた——歓喜だ。咄嗟に俯き、口元が緩みそうになるのを堪えながら、目頭を揉むふりをして目を瞑る。
 日車の話は続く。
——伝えたいことがたくさんあったのに、怖くなって改札で逃げてしまった。君と別れてしばらくした後に追いかけたんだ。君の姿は見えなかったが、途中で呪詛師の残穢が見えたから、悪い予感がして——
 ……目を開いた先には、テーブルの角が見えた。
 その後の出来事は日下部も知っている。名前によって肉体を操る術式を持った呪詛師と、助けに駆けつけてくれた日車、そして彼が首を折られて倒れた瞬間——その後反転術式によって復活し、淡々と呪詛師の頭を叩き潰した、血に塗れた殺人鬼の姿。
 あのときの鬼気迫る姿と、日下部の前に座って萎縮している今の日車は、線で繋がりにくい。どちらが彼の本性で本音なのか、それは楽巌寺に対しても思ったように、日下部が判ずることなどできないものだろう。
 それでも、信じることはできる。
 白と黒が混ざり合ったグレーの世界で正しさを求めることは、間違いではない。
……そこまでして、何が言いたかったんだ。俺に」
「ここに全て書いてある。日下部」
 名を呼ばれて顔を上げる。テーブルの中央に置かれた封筒には、本人の性格を思わせる几帳面な字で日下部の名前が記されていた。手に取って裏返すと、そこには日車ではなく、今の彼を示す名前が書かれている。
「読むのは今でも、俺が死んだときでも構わない」日車はそう言うと立ち上がり、リビングから去っていく。「邪魔なら捨てろ。帰る。長い間居座ってすまなかった」
「あ……おい、日車。待て!」
 日下部が名前を呼んで駆け出したときには既に、彼は廊下の中ほどまで進んでいた。追いつき、咄嗟に腕を掴んで引き留めたものの、日車の顔と体は玄関の方を向いており、様子を伺うことはできない。
 開きかけた口を閉じる。彼が、自分のために、どうしてここまでしてくれるのか——それはもはや、聞くようなことだったか。日下部あての遺書を託してくれたのはそれこそ、最大級の信頼の証ではないのか。
……昼、食ってないだろ。出前でも取ろうと思ってたけど」
 間を置いて日車が身じろいだ。肩越しに振り返り、こちらを見た彼は、常よりも穏やかな表情をしている。
「大丈夫だ。明日から仕事に戻るのなら、ゆっくり休んでくれ」
 薄い唇が緩み、また、と別れの言葉を紡ぎかける。それを遮るように日車と再び叫んだ自分の声が、他人事のように聞こえた。
「嬉しかったんだ。お前の姿を見たとき、本当は安心した。お前が生きて、ここにいてくれて」
 ——微笑みながら日下部の言葉を聞いていた日車の顔が、途端に歪んだ。
 彼を支えていたものにひびが入り、揺れる瞬間を見る。
 滅多なことで感情を動かさない彼の、見てはいけないものを見たと思った。
 日車の腕を引いた。体ごと振り返った彼と正面から目が合い、なんて顔してんだと呟くと目の前の顔はますます歪んでいく。痙攣する唇の隙間から呻き声が漏れ、いよいよ決壊するその瞬間を、彼は見られたくないのだろうと気付く。
 日車が俯いて肩を震わせた。
「日下部——
 弱りきった声が聞こえて腕を広げ、崩れ落ちかけた体を支える。
 はじめは肩へ、それから背中へ縋りついてくる腕の感触を覚えながら、日下部もまた彼の背に腕を回す。
 彼とこうした触れ方はしたことが無いはずなのに、なぜか懐かしいように感じる。未だ現実へ戻ってきた実感の無い日下部をこの場に縫い留めているのは、一切の加減を知らずに体ごとぶつかってきた、拙くも力強い生命力だった。
……日車。日車さん。ちょっと、力強すぎ。痛い」
「欧米式の挨拶だ」耳元で掠れた声が答えた。「久しぶりに会った友人相手なら、海外ではこれくらい普通にする」
「言うて一日半しか離れてないでしょうが」
 日車が肩口に額を押し付けてきた。息を吸う音が聞こえて顔をしかめる。
「やめろ。風呂に入ってねえんだから」
「汗くさい」と日車は呟いたが、離れようとはしなかった。日下部もまた日車の背中を優しく叩きながら、彼の背中が呼吸ともに上下するのを手のひらの下で感じ取る。
「キッチンの戸棚に、インスタントの食品を入れてある」
……ん」
「出前を取るのもいいが、今日くらいは消化にいいものを食べたほうがいいんじゃないか」日下部の肩に顔を押し付けているせいか、日車の声はくぐもって聞こえた。「冷凍庫にアイスも入れておいた。少し早いが快気祝いだ」
「遺品整理に来たんじゃなかったのか」
「帰ってくると思っていたから……
 沈黙ののち、日車は首を振る。「君が死ぬと信じられなかった。願掛けのつもりだった」
 死ぬかもしれないと聞かされながら日下部の生存を信じてここに来た彼は、どのような思いで過ごしていたのか。
 日車のほうへ頭を傾けると、耳が髪の毛に触れてくすぐったかった。日車もそっと押し返してきて、肌と肌が柔く擦れる。
「お前、もっと怒れよ。優しすぎ。俺のせいであんたも死にかけたんだ」
「君はばかだ」日車が即座に言い返してきたが、その声色は柔らかい。「まだ言うのか。気にしていない。俺こそ君を助けられなかった」
……悪い」
「謝るな。俺ももう謝らないから」
「助けに来てくれて嬉しかったよ。俺は」
 返事はすぐに聞こえてこなかった。震える息遣いを首筋に感じる。
「俺もだ。君がいなかったら、俺は道を踏み外していた」
 君が引き戻してくれた——そう囁き、背中へ回された腕に一層の力が込められる。日下部も目蓋を閉じ、内側の温度を感じようと強く抱き返す。
 彼の手はいつも冷たかった。だが互いの衣服越しに感じる熱は確かに温かいと、この腕で抱いているのは今を懸命に生きている体なのだと、初めて思えた。
「ずっと怖かった。日下部、君が生きていてくれて、本当によかった」

 ——本当に食ってかなくていいの。
 ——大丈夫だ。お大事に。では明日、高専で。
 ——ああ。また明日——
 扉の隙間から日車の横顔が見え、次に背中が、そして姿が消えて革靴の音が遠ざかっていった。
 ぱたんと閉じ、鍵をかけた扉に背を向けてリビングへ引き返す。
 客人が帰った部屋は本来のあるべき姿へ戻ったはずなのに物寂しく、温度すらも下がったように感じられた。
 マグカップの中身は半分ほど残され、流しに開ければコーヒーの香りが鼻先を掠める。インスタントコーヒーの箱を漁ると、箱の中にある袋の数は自分の記憶よりも数個ぶん減っている。
 湯を沸かしている間に頭上の戸棚を開けた。戸棚の隅に近所のスーパーの袋を見つける。中にはインスタントの粥や味噌汁、レトルトのカレーが入っていた。粥の袋を残して他は元の場所に戻し、次に冷凍庫を開ければ、高級アイスのバラエティセットが冷凍食品を押しのけて無理やり突っ込まれていた。
 ここに自分ではない誰かがいた痕跡は、手持ち無沙汰に戻った先のリビングでも見つけることができる。物が整頓された室内はこんなにも広かったかと今更ながら気付いた。自分がいない間は日車が歩き回っていたのかと、彼の姿を想像する。第一の目的は遺品整理だったらしいが、真面目な彼は建前上の目的だった部屋の掃除も丁寧にこなしたようだった。普段とは違うテレビのリモコンの位置、棚の端に角を揃えて積み重ねられた封書と葉書、テーブルの上には日下部の名前が書かれた封筒。
 ソファーに腰掛けて日車からの遺書を手に取った。いつ中身を見るべきか、今か、それとも。重大な判断を下すのが面倒になって、テーブルの上に投げ出してしまう。
 中身は重要じゃないのかもしれない、と思った。日車がこれを書いて、自分に託したという事実こそが大事なのだ。そう考えたところで中身に対する好奇心が消えるわけではなかったが、今読むべきでないのは確かだった。時間と心身ともに余裕があるときか、あるいはこの手紙が本物の遺書となったときに読むことにする。
 ふと嗅ぎ慣れない香りが鼻腔を掠めたような気がした。……部屋の匂いが普段と違うように思うのは、おそらく——
……あー、マジかよ……
 唸りながらソファーの上で背中を丸めた。
 両腕の内側にはまだ、彼を抱きしめたときの体の厚みと、温もりが残っているような気がする。
 隣人を憚らなかったのであれば大声で叫んでいたかもしれない。
 ——自身の個人的な空間に誰かがいたという事実は、こんなにも、心が浮き立つように思えるものだっただろうか?