わからん
2025-03-10 23:09:23
74988文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】Nobody's Son

本編後IFなギスギスくさひぐシリーズ第三弾(長編)です
例によって捏造祭り・日下部が日車のみならず行く先々で色んな人とギスりまくってます
・日下部が日車を迎えに行く話( https://privatter.me/page/678cf22a6e58f
・とそのおまけ( https://privatter.me/page/6795bb0def0b2
とお話が繋がっているため、先にこちら2つを読むこと推奨です
※死亡表現ではないもののそれに近しい表現・暴力・流血・ゴア描写あり。ゴア表現においてはショッキングな描写が続く(特に4p目)ため、苦手な方は充分にご注意ください。


5.




 あ。
 死んだのか、俺。
 ……周囲の様子を探ってみる。何も無い場所だと思った。上も下も右も左も、ましてや前後や色彩や音や光や時間や過去や未来も、何も無い。無い、がある。奇妙な話だが、そう認識しているこの意識だけが、この空間を空間たらしめる唯一の要素であるらしい。
 何をするでもなくぼうっと佇んでいる。漂流と表現したほうがより正しいのかもしれない。立っている、座っている、浮かんでいる。どれか三つのうち、一番感覚が近いのは最後の浮かんでいる、だ。加えて自分がどこにいるかも、そもそも場所という概念がこの世界にあるかすらわからない。迷子と名乗るのは自分のプライドが許さないので、漂流という言葉を採用したのだった。
 静かな場所だった。ここは天国なのか、あるいは地獄なのか? 自分はその中間地点にいて、どちらへ行くべきかを決める裁判が今から始まるのだろうか。だとしたら間違いなく地獄行きだろうなと自虐してみたところで、聞いてくれる誰かもいない。いつまでこうしていればいいのだろう、そろそろ何かが起きてくれないと退屈で溶け出してしまいそうだ。
 出し抜けにの感覚を捉えた。そこに何かがある。そう知覚できたのは、自分自身の輪郭も捉えたからだ。気付いた途端に世界は点と線を持ち、漂流していた己の意識は固定され、二次元から三次元へ、そしてかつての五感を得ようと再生を始めている。
 日下部が理解できたのは、ここに自分と自分以外の存在があるという、ひとつの抽象的な事実だけだった。死ぬ前に血を流しすぎたせいか、それとも未だ物理的な実体を得ていないせいか、それが何かはわからない。ただ、動いているような気配を感じる。無論、触覚から得る情報ではなかった。意識がそう思考する。勘に近いものかもしれないが、自身の身に起きている現象を正しく理解するには人間の頭があまりにも小さすぎると、日下部は直観的に悟っている。
 他者の気配は日下部のごく近くにある。長い間、その場に相手はとどまっていた。それが動くことを決めたのは、あまりにも長い期間静止していたために、日下部がそれの存在を忘れ始めた頃だ。
 相手の動きにつられて空気が震え、揺れる。それは非常に緩慢な、いっそ幼稚とも取れるぎこちなさで、日下部のに触れてくる。
 氷のように冷たかった。事実、氷だったのかもしれない。この奇妙な空間ではどちらも同じことだ。
 氷の手は日下部の手を確かな力で掴み、一方へと引く。あまりの力強さにたたらを踏んだほどだった。なおも力はゆるまず、寧ろ踏ん張ろうと努力する日下部を戒めるようにますます強くなっていくので、相手の正体を知るには充分だった。
 ——そうか。
 呟きは声とならない。それで構わなかった。ようやく迎えが来たのだと知る。
 ——お前が、俺の死神か。
 どこかへ連れて行こうとする手。それがいる方向へ目を向けても、この両目は何も捉えようとしない。日下部の喉の奥からは何の意味も成さない、乾いた笑いが込み上げてきた。
 こういうときに考えるのは生前の未練なのだと知る。もうすぐ会えるかもしれない人々の顔ではなく、置いてきてしまった者たちの顔が次々と浮かんでは消えたからだ。立派に成長したかつての教え子たち、渋谷事変の頃から支え合ってきた仲間たちに、誰よりも大切な存在である妹。そして、最後に目にした彼の、悲痛に満ちた顔。
 最後に何か、伝えることができたならよかった。
 彼だけではない。残される彼ら彼女らへ何か一言でも、心配するなと言えたなら。
 そのことに気付いたのが死神に会ってからだなんて、なんて皮肉なことだろうか——
 死神の手は日下部を一方向へ引き寄せた——が、次の瞬間には下にゆっくりと落ちていく。
「えっ」
 徐々に形作られた両足が地面の感触を捉えていた。つまり、下へ行く限度があるということだ。手を掴まれている日下部は振りほどくこともできずに、その場にしゃがみ込む。
「あ、ちょっと。おい」
 死神は何をしているのか? 地獄だから地面の下に行けとでも言っているのだろうか。しかしこの世界は物理法則が絶対であり、死後の世界でもそれは同様らしい、体が物体を透過することはありえない。それに手を掴まれていると動きにくいし、せめてコートにしてくれないかと思うと、死神の冷たい手は日下部の左手を離してコートの裾を引き寄せる。再び体のバランスを崩しかけた。
 ——……なぜだろう。デジャヴを覚える。
 自分はいつか、どこかで、同じ体験をしていないか?
 日下部が気づいた瞬間、泡が弾けるように、頭の中を覆っていた霧が晴れていった。周囲がにわかに色付き、騒がしく、眩しくなっていき、意識が記憶の海の奥底に再び、潜る。

「なさけない」
 昼と夜の間——大部分が夜に染まり始めた藍色の空の下で、日下部は一人の男と向き合っている。
 立場は対等ではなかった。日下部はしゃがんで彼を見下ろし、見下ろされている彼は地面に這いつくばり、倒れ込むのを辛うじて耐えている。スーツを着た彼の背中は時折震え、そのたびに日下部のコートの裾を掴む指に力がこめられる。呻き声と荒い呼気が交互に聞こえた。吐くのを堪えているらしい。
 日下部が補助監督への連絡を済ませ、スマートフォンをスーツのポケットにしまった直後、目の前の男が何事かを言ったように聞こえた。空耳かと思い直すと、もう一度、声が聞こえてきた。
「情けない」
……何が」
 唾を飲み込む音が聞こえた。彼は必死に呼吸を整え、それでもなお喘ぐように息を吸う。
「追いつけなかった」
 聞いたこともないほどに声が震えていた。
「君が、遠い」
 目の前の相手は一層深く頭を垂れ、丸まった背中を激しく上下させている。
 ワイシャツの隙間から見えた首筋は汗でびっしょりと濡れ、髪がうなじに貼り付いていた。
……お前、俺がやった飴は」
「食べてない」か細い声で応えがある。「君に追い抜かれたから、追いかけて——
 ——どんどん距離が開けていった。
 ばっと片手がコートから離れ、男が顔の前面を覆う。一際大きな呻き声が上がった。嘔吐きそうになるのを必死に堪えている、その姿に自分が思ったのは哀れみや同情といったものではなかった。無茶した彼に対する呆れでもなく、己の限界を見極めないことに対する怒りでもない——例えるなら凪いだ海のような、静かなもの。
 自分の実力に自信をなくし、意気消沈した教え子に向き合うときも、このような心持ちだったように思う。まだ大人に守られるべき年齢である子どもたちを、大人と同じ立場に置くしかないもどかしさ——しかし目の前にいる彼は大人で、ひとりで選択を行い、生きていくことができる。大人が他者に弱さをさらけ出すことは容易ではない。相手にどれほどの信頼を向けているのか、打ち明けるためにどれほどの勇気が必要か、……自分を保てないくらいに、どれほど、己の未熟さに絶望しているか。
 ——それは、決して、醜くなんかない。
 お前は俺よりもずっと強いはずだ。
 ——式神の黒い血に塗れた、日下部の両手。その手を握りしめてきた日車の手もまた黒く染まっており、ゆえに相手を汚してしまうという遠慮など今更、必要がなかった。
 日下部のコートに爪を立てて震える彼の手は予想通り冷たい。冷たく感じるということは彼が自分の手を温かく感じているということだ、そして温かさが精神的な安堵をもたらすことを、自分たちは本能的に知っている。
……置いていかねえよ」
 骨の出っ張りに触れ、手の甲全体に指を滑らせながら、固く握られた手の内側へ指先を潜り込ませようとした。
 日車の手が一層黒く染まっていく。
 彼の指が震え、戦慄した気配を捉えた。
「来ただろ、ここに。お前は追いつけただろ」
 激励ほど、今この場において無力である言葉はなかった。
 だが、これしか、知らないのだ。知らなかったから、言葉の他にも何かがあることを伝えたかった。
 どうすればお前が落ち込まずにいられるのか。
 落ち込まないでいてほしいと思っていることを伝えられるのか。
 固く閉ざされ、凍てついたお前の心はいつ、溶け出して動くのか。
「ちゃんと待ってるから——
 躊躇したのはほんの一瞬だった。日車の手を包む指先に力を込めながら、伝われと願う。
「諦めるな。お前はもっと強くなれる。だから今日みたいに本気で俺を追いかけてこい、日車」
 荒れた呼吸はいつの間にか聞こえなくなっていた。
 日下部の手のひらの下で、コートをきつく握りしめていた力が抜けていく。長い、長い沈黙だった。伏せられたままの頭が、微かに上下した。
 ——死なせてはならない。
 汗で濡れた白いうなじを見下ろしながら、自身の奥底からひとつの衝動が浮かび上がってくるのを日下部は自覚する。
 日車を、死なせてはならない。
 彼が持つ高潔さを、決して損なわせてはならない。
 彼の内側に秘められた才能が完全に開花するまで。彼が自分に追いつき、そして追い抜くまで。
 その芽が他者によって摘み取られ、踏み躙られることは、絶対に、あってはならない。
 飛び立つ直前の鳥を見守る、あるいは鳥も知らぬ危機を察知し、あらかじめ取り除くための、監視者が必要だ。
 これはエゴだ。お前が知ったらきっと怒る。それでもいい。お前が少しでもこの世界で息をしやすくなるのなら、お前に忍び寄る脅威を取り除くためになら、何だってやってやる。
 お前のことは、俺が。