mishiadd
2025-02-02 17:45:38
23649文字
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ごはんのおとも

【鵠と月夜展示品】原作軸、成立してないゆるい剣伊。若旦那EDを迎えてなんとなくいい感じに丸め込まれながら受肉したセイバーとなんとなくいい感じに気を逸らしてもらいながら若旦那に仕官して全世界を旅する伊織くんのまったりご飯事情回遊記。



三、《パルミット、オムレット・ド・ラ・メール・プラール、ベジマイト》



白く細長いそれは、一見してタケノコのようにも見えた。

タケノコであれば、伊織もセイバーも食べたことがあるし――なんなら、伊織が何度か膳に並べてくれた。煮物が主であったが、確か一度オミオツケに入っていたな、とセイバーは思い出す。あれもなかなかコリコリした食感が味噌に合ってよかった。

――と、改めて食卓の上に供されたそれを見る。やはりタケノコに見える。しかし違うらしい。言われてみれば、記憶の中にあるほんのりと黄みがかったあのタケノコよりもわずかながら白っぽい――ような気がする。

一週間程度滞在する予定のコンドミニアムのリビングだった。若旦那に連れられて朝のマルシェで買い出しをして、セイバーが茶色の紙袋から大部分が飛び出しているような長大なバゲットに視界を遮られつつなんとか両手で抱え、伊織はその他すべての若旦那の衝動買いの結果がみっちりと詰まった紙袋とエコバッグを両手にふたつみっつずつ抱え、なんとか部屋まで戻ってきた。

テーブルの上にバゲットを乱雑に放ったセイバーが大きく肩で一息をつき、それから伊織を見る。一体どうやってあれ程の個数の荷物を抱えていたのかと思えば、長い指を使い分けてそれぞれの袋に引っ掛け、実に器用に持ち運んでいたのだった。――まあ、この男は二刀を片手で納刀するでたらめな男なので、この程度のことは文字通り朝飯前というやつなのだろう――と、セイバーは自分が抱えてきたばかりのバゲットを見遣る。これがこれから朝餉の主食となる筈だ。

紙袋から蜂蜜やらマーマレードやらを取り出しつつ、伊織が見慣れぬ缶詰が入っていることに気付く。見慣れぬ――などといえばおよそ目にするものすべてなのだが、それでも異常な順応力を誇る伊織はすぐにこの国での勝手を覚えた。その生活の中にあっても尚、やはりその缶詰は初めて見るものであった。
バゲットを切り分けながら、伊織が若旦那に尋ねた。

「これは一体何だ、若旦那。いつ食卓に出せばいい」
「今でよい。――なに、味見というやつよ。これ自体が輸入品で原産もここではないようだが、どこであろうと所詮は我の庭、どこで食すも同じこと。これはタケノコと同じように木の新芽だそうでな。ヤシの木の新芽であるという」
「『ヤシの木』」

それ自体を知らない伊織が鸚鵡返しにしながら、切ったバゲットを皿に並べてついでにチーズを切り分ける。それからハム――伊織には馴染みのない獣肉食であるがすぐに慣れた――も几帳面に並べた。
この国らしい朝餉の一式が揃った大皿をひとつと、用途不明の缶詰がひとつ。とりあえず――と中身を空け、別の小皿に取り分けた。水煮であるようで、ひたひたの液体の中に、細長く白い茎のようなものがぎゅうぎゅうに詰まっていた。

バゲットに手を付ける前に、伊織とセイバーが小皿に空けたそれを覗き込む。両腕を組んだ若旦那が、ゆったりと言った。

ハート・オブ・パームヤシのしん――あるいはパルミットと呼ばれるものであるという。……どれ、試してみるがいい。伊織、セイバー」

ん、とセイバーと伊織が顔を見合わせる。

つまらない約束事ではあったが、この旅で初めて口にするものはまずセイバーが先に味見をすることになっていた。そこでセイバーの御眼鏡に適えば、伊織も必ず食べなければならないことになっている。

コンドミニアムのカウンターキッチンに洗って片付けてあった箸と茶碗をいそいそと取ってきて、改めて食卓に座り直す。まじまじと『パルミット』なる異国の食材を覗き込み――セイバーが箸で摘まみ上げる。既に程よい大きさに切ってあったらしく、一口サイズの一切れが持ち上がる。

鼻先に近づけて匂いを嗅ぎ――別段特異な香りがするわけでもなかった――ぱくり、とそのまま口の中に放り入れる。

咀嚼すると、蕩けるように柔らかい。ほんの少しの酸味と瑞々しいコクは先日初めて口にしたオリーブにも似ていたが、それよりも繊細な風味だった。鼻からわずかに抜けるタケノコに似たえぐみのようなものも感じられたが、気付かぬうちにすぐに霧散してしまう。漬物というには優しい刺激に口の中がさっぱりとして、タケノコのような繊維質の筈が碌にかみ砕く間もなく口の中で溶けて消えていく。
はて、と思いもう一切れ箸で摘まみ上げ、同じように口の中に放り――やはり蕩けるような柔らかさが歯に数回当たっただけで、溶けてなくなってしまった。

「ふむ」と箸を置き、セイバーが考えるそぶりをする。以前の彼であれば一も二もなく「美味い」と宣言していたが、いまや彼の責任は重大であった。「どうだ?」と隣の伊織が自分の横顔を見ている視線を感じる中、よくよく吟味する。――うん、と最終的な決断を下した。

「『美味い』。これは美味いぞ、イオリ。――なんというか、『上品』な味がする」
「わかった」

うん、と伊織も頷く。箸の先で何切れか取り、茶碗に取る。それから改めてそのうちの一切れを箸で摘まみ上げ、口の中に入れた。もご――とかすかに伊織の白い頬が膨らむ。もぐもぐと数回咀嚼してから伊織がかすかに目を瞠った。繊維質である筈のそれが蕩けてなくなってしまったことに、セイバー同様にやや驚いたようであった。

セイバーが固唾を呑んで見守り、若旦那も片目を閉じながら両腕を組んで眺める中、伊織が頷いた。――真顔のまま、「美味い」と言った。

「木の新芽というよりは果肉の印象に近い。形状から言って新芽に違いないのだろうが。ほどよい酸味があり、柔らかく蕩けるような食感で、クセがない。――うん。これは『美味い』」

ふうう、とセイバーが胸を撫でおろす。それから、「その妙に冷静な『食レポ』はどうでもよいのだ。美味いならもっと美味そうな顔をせよ」と揶揄うように伊織を肘で小突いた。
セイバーに『食レポ』という言葉を教えた張本人である若旦那も、「フン」と鼻を鳴らしてフォークを取り、パルミットを一切れ突き刺して口に運ぶ。もご、と咀嚼し、「フン」と頷いた。それ以上なにも言及しなかった。

茶碗の中に残った数切れも箸で摘まんですっかり食べ終えたあと、食卓の隅に置いていた大皿を伊織が真ん中に置き直す。若旦那とセイバーに取り皿を配り終え、「では」と伊織が両手を合わせた。

「さて。――では、朝餉にしよう」

かちゃかちゃとバゲットにマーマレードを塗りつける音が響く中、開け放した窓から小鳥の鳴き声と共に朝の爽やかな風がふわりと吹き込んでくる。豪奢な造りの古い建物の屋根が並ぶ向こうで曇った空の雲間がかすかに割れ、そこから光芒が射し込んでいるのが見える。硬いパンにかぶりつくセイバーの隣で、すっかり慣れた緑茶代わりのコーヒーを口にしながら伊織が言った。

「今日は『もんさんみしぇる』とやらに行くのであったな、若旦那。観光か」
「いかにも観光だ。一体なんの旅だと思っている」

若旦那が顎に手を当てて食卓の上に肘をつく。フフン、とやや挑戦的な目つきで伊織を見た。

「ド定番もド定番、観光ガイドであれば一ページ目どころか表紙になっているような観光名所よ。貴様らのような未熟者のひよっこには、このような定番こそがわかりやすかろうからな。わざわざこの我が貴様らごときの程度レベルに合わせて付き合ってやろうというのだ、存分に味わえ」
「要するに優しさのような気がしないでもないのだが言い方がまったく気に喰わぬ~~!」

ぐぬぬぬう、と椅子に座ったまま地団駄を踏むセイバーの隣で、「気遣い痛み入る」と伊織が若旦那に頭を下げる。フン、と伊織の淹れたコーヒーを啜った若旦那が、「ああ、そうであった、セイバー」と声をあげる。

「モン・サン=ミシェルには名物料理があってな。『オムレット・ド・ラ・メール・プラール』という。――試してみるか?」
「!」

だん、とセイバーが急に食卓の上に身を乗り出して何度も激しく頷く。それを見て満足げに頷いた若旦那が、「フン」と再びコーヒーを啜った。
そのやりとりを横目で見ていた伊織が感心したように頷いたので、「……なんだ、イオリ?」と訝しげにセイバーが尋ねた。

「いや。――まさか若旦那がおまえを甘やかしてくれるとは、意外なこともあるものだと思ってな。仲が深まってなによりだ」

穏やかに微笑みを浮かべた伊織に、「――ああー……」とセイバーが呆れ返り、反論しようとしたが結局口を噤んだ。――若旦那が甘やかそうとしているのはセイバーではない、ということを理解していないのは、恐らくこの場で当の伊織本人だけであるが――説明するのも面倒なので、やめた。







海に浮かぶ古の要塞都市の、すれ違うのにも一苦労するような細い『大通り』の一画に赤いひさしの目立つレストランを見つける。中世から地層のように積み上げてきたような歴史を感じる内装の店内で席に案内され、白い布を掛けたテーブルに通される。店の奥の――キッチンの方から音楽のようなリズミカルな音が聞こえてきて、やがてそれがオムレツに使用する卵を掻き混ぜている音であることがわかる。

伊織が指をさしながら簡単な現地の言葉で三人分の注文をする間、セイバーはそわそわと窓の外に行きかう人々の姿を眺めていた。急な勾配の細い坂道を、忙しなく人々が歩いている。自分たちのような観光客の姿に混じって、日常の仕事に向かう人々。――日ノ本から遠く離れたこの地に脈々と受け継がれている、この地に暮らす人々の生活を、思う。

ふと、若旦那が自分を見ているのに気付く。「……なんだ、」とセイバーが不機嫌に尋ねると、「悪くなかろう」と若旦那が言った。

「なぜ、きみが自慢げなのだ」
「この地もまた我の庭であるからな」
「それ、きみはこれから我らがどこに赴いても言うつもりか?」
「当然だ。この世界はすべて我の庭であり、そのすべては我がウルクから始まったのだ。――貴様は今この瞬間もまた、世界中に散りばめられたその痕跡を、その遺産を、その遺伝子を目にしているのだ」

どこか――どこか遠い、遥かなる大地を――場所を、国を想うように、彼方を眺める目をしながら――穏やかな声で若旦那が言い、それから改めてセイバーを見て言った。

「どうだ。悪くなかろう
――ああ」

セイバーが深く頷くと同時に、皿が三枚運ばれてくる。
すっかり食事の準備が整えられたと同時に、セイバーが慣れぬ仕草でフォークを持つ。それから、伊織に言った。

「イオリ、今回はどのみちきみも食べるのだから、きみも私と同時に食べよう。その後の食レポには一切の忖度なし、だ。――せぇーのっ」

ふるふる揺れるスフレ状のオムレツにフォークを突き刺す。大量の空気を含み、ふわふわというよりはしゅわしゅわの――既に元が卵かどうかもわからぬ程に泡立っているそれをフォークの先で掬い上げ、ぱくり、とセイバーが口に入れる。それとほぼ同時に、伊織もまたオムレツを口に含んだ。

もぐ、と口を動かして――。ふたりで同時に顔を見合わせ、はて、と首を傾げた。

「「なんだか……『薄味』……?」」

その999%が空気で出来ているかのようにふわふわのオムレツであれば、調味料どころか卵の味すらもはや判別することが難しいのは理屈の上でも道理ではあったが。
ぱくり、ぱくりと食べ進めてはイマイチ美味いのかどうかを決めかねてしきりに首を傾げているふたりを尻目に、涼しい顔をして若旦那もオムレツを口に運んでいた。







先日のアレは極めて薄味であった――

ということでセイバーは、海峡を越えてやってきたこの国では、味に極めてインパクトの期待できる何某かを試してみることとした。
三人で連れ立って地下鉄を乗り継いで大きなスーパーマーケットへと赴き、伊織がカートを押して若旦那の衝動買いに粛々と付き従うのをよそに、珍しいものが置かれていそうな陳列棚をひとつずつ見ていって――やがて、セイバーはなにやら見慣れぬものを見つけた。

「マー……マイト……?」

黒い球状の瓶はあたかもダイナマイトの亜種であるかのようだった。しかし食品棚に置かれている以上は食品である。

「なんだこれは。――海苔の佃煮……か?」

かつて伊織に高級食材と教わった海苔を佃煮にしたものがどういうわけか瓶詰めになったものを、若旦那から無造作に与えられたことがあったことをセイバーは思い出す。見た目は酷似しているが――
手にした丸い瓶を様々な角度から眺めながら、ふと目線を陳列棚に戻す。――マーマイト、の隣に、ベジマイト、なるものが置かれている。

「んんー?」

球状の瓶ではなく、こちらは瓶らしい円柱型をしている。そちらの方も手に取り、片手にマーマイト、もう片手にベジマイトを持ってまじまじと見比べてみる。なんとなく――本当になんとなく、あるいはもしかしたら、見知った海苔の佃煮の瓶により近い形状のものを本能的に選んだだけなのかもしれなかったが――ベジマイト、の方を残して、マーマイトを食品棚に戻した。

ベーカリーのコーナーで主食用のパンを選んでいたらしい伊織と若旦那に小走りで追いつき、伊織が押していたカートの中に黙って瓶を入れてみる。「うん?」と首を傾げた伊織が、セイバーを見た。

「セイバー。これは何だ?」
「私も知らぬ。海苔の佃煮のように見える」
「だがこの地で海苔の佃煮ということはないだろう? 一体どのようにして食すのだ、これは」
「仮に海苔の佃煮であれば、コメに……?」

「だが海苔の佃煮ということはないだろう?」と二度目の同じ台詞を吐いた困惑気味の伊織に、若旦那が「海苔の佃煮であるならば米、ということであれば、その『海苔の佃煮によく似た何某か』に合うのはパンであろうよ。そう類推できよう?」とあっさり言った。

「おお、それは道理だ!」とぽんと軽く手のひらを拳で叩いたセイバーを尻目に、伊織が訝しげに若旦那を見た。フフン、とにやつく口許を手で押さえながらそっぽを向こうとした彼に、伊織が言った。

「若旦那。――貴殿、これが何であるか知っているのだな?」
「さて、なんのことやら。……さあ、さっさと会計を済ませて疾くコンドミニアムへやへ帰るのだ! 我にはいつまでもこんなところで時間を浪費している暇はないのだからな!」

理不尽に伊織をレジへと急かしつつ、若旦那がはたと足を止める。「ああ待て」と傍に陳列されていたバターを手に取り、伊織の押しているカートの中に放り入れた。

「よし。――行ってよいぞ、伊織」
「貴殿、やはりこれが何か知っているな」
「無駄口を叩くな、疾く会計を済ませよ」

敢えて真顔を保ち取り合わぬふりをした若旦那に肩を竦め、伊織がレジを通す。



滞在中のコンドミニアムに戻り、購入したものを早速伊織が食卓の上に広げていく。すぐには使わない保存食や要冷蔵品はキッチンに片付け、それでは遅めの朝餉の準備をしようか――というところで、先程の黒い瓶の存在を思い出した。一見して海苔の佃煮のような、しかし決して海苔の佃煮ではあり得ない、謎の食品である。

ちら、と伊織が若旦那を見遣る。ダイニングに隣接したリビングルームのソファに腰を下ろして新聞を読んでいた若旦那が視線に気付き、しっしっとうるさそうに手で払う仕草をした。
伊織が肩で溜息をついて、先程スーパーマーケットで得た断片的な情報をもとに準備をする。――トースト用に購入したパンと、若旦那が放り入れたバター。それから、この謎の瓶。

トースターにパンを放り込み、一旦は冷蔵庫に仕舞ったバターを伊織が取り出してくる。それで彼が何をしようとしているのか気が付いたセイバーが、「おお」ととたとたと食卓に近寄ってきた。バターを練る伊織が、「セイバー、おまえの選んできたその瓶の蓋を開けてくれ」と指示を出す。「うむ!」と得意げにセイバーが瓶の蓋を捻り――

……うん?」

はた、とセイバーの動きが止まる。わずかに、ほんのわずかに――蓋を捻ったところから、香りが漏れ出てきていたのだった。



――なにか、焦がした小麦のような――



馥郁とした香ばしい香りである。決して不快ではない。食べ物らしい食欲を誘う香りか――と問われれば違うような気もするが、かといって口に入れることも憚られる、ような香りでもない。どこかで嗅いだことがあるような気がして、伊織はふと思い出す。――確か、これもまた若旦那が一体どこから手に入れてきたのか、胃腸の調子を整える薬として手渡してきた、そう、あのクリーム色の錠剤に似ていた。あれも、美味いかと問われればよくわからなかったが、多少舌の端に残るようなえぐみはあるものの全体的にはほんのりとした甘みがあり、ぽりぽりとした食感も相まって薬というよりは菓子に近い、とすら思ったのだった。美味いかどうかは別として。

セイバーはといえば、どうやらこの期に及んでまだ海苔の佃煮のような香りを期待していたらしかった。予想していたものとは明らかに異なる香りに、「イオリ、これは一体なんだろう?」と今更過ぎる疑問を口にして、セイバーが伊織を見た。伊織が肩を竦めた。

「さてな。食ってみないことにはなんとも」
「これは一体どのようにして食すものなのだ」

製造者責任、というものがあるのならば購入者責任、というものはないのだろうか――と伊織が益体もないことを思いながら口を噤み、チンという軽い音と共に焼けたトーストをキッチンから取ってくる。トーストにバターを塗りつけ、そのまま黒い瓶――ベジマイトからも中身を掬い上げ、トーストの上に塗りつける。

やはり見た目としては海苔の佃煮がトーストに塗りたくられているような、不思議なものが完成した。

セイバーがトーストを手に取り、くん、と小さな鼻先をひくつかせる。改めて嗅いでみれば、そう悪い香りではないことに気づく。パンとは異なるが、炒った小麦のような香ばしい香りがする。

かたたん、と椅子を引いてセイバーが食卓に着く。伊織の見守る中、この旅での取り決め通り、まずはセイバーが味見をする。

ぱくり、と一口齧る。トーストに一口分の歯形がついて、セイバーがもごもごと頬を膨らませながら咀嚼する。ごくん、と大きく飲み込み――うん、と伊織に頷いた。

「『美味い』。ちとしょっぱいが、香ばしい味がして美味い。――ちょっとだけ舌にえぐみが残る気もするが――まあ、気にならない」

ほう、と伊織が頷いて、自分の分のトーストを取り、バターを塗りつけた上にベジマイトを乗せる。それから一口齧り――うん、と伊織も頷いた。

「同感だな。――やはりあの、先日若旦那から貰った錠剤の味がするような気がするが。あれを――ジャム、とか言ったか――にするとこうなる、という塩梅だ」

うんうんと頷き合うふたりからやや離れたところで、若旦那がかさりと新聞紙をめくる音がする。そのまま、ふたりが二口目、三口目と食べ進めたところで――急激に事態が一変したのである。

「ン゛ッ」と濁った声を発したのはセイバーで、げほげほと激しく咳き込んだのは伊織だった。「~~~ッ!?」と声にならない声を上げながら、セイバーがしきりに自分の胸元をドンドン叩き、それから小さな鼻を激しく掻きむしるようにする。それから、隣で床に蹲っている伊織に苦しげに声を掛けた。

「イッイオリ……ッ! 大丈夫か!? ――な、なんなのだこれは!?」

二口目、――そう、三口目までは問題なかったのだ。
しかし、その蓄積ダメージは一口追うごとに着実に伊織とセイバーの味覚や嗅覚を蝕んでいた。一口目にうっすら気配として感じていたしょっぱさとえぐみが―― 一口追うごとに、確実にその存在感を増していく。その塩味は着実に舌を痺れさせ、えぐみは鼻腔の奥に泥のように溜まっていく。そして、その好ましい『香ばしさ』と捉えていた光の部分が、塩味とえぐみという闇に凌駕されてしまったとき――香ばしさ』は『異臭』に相転移する

げっほげほと激しく咳き込んだ伊織が、「み、水を――」と掠れた声で呻くのを聞き、セイバーが伊織に慌てた様子でグラスを差し出す。同時に自分も一気に一杯飲み干して、「ふう」と大きく一息ついた。
かたん、と音を立てて椅子に座り直し、そのままずるずると脱力しようとしたが――開けっ放しになっていたベジマイトの瓶から漂ってきた『香り』に再び鼻腔が痛くなるのを感じ、へろへろになった手でなんとか蓋をした。

セイバーに貰った水でなんとか持ち直したらしい伊織が身を起こし、食卓の席に着く。ぐったりとしながら、ぼそりと「俺はもう、あの錠剤も恐らくは二度と口にできないような気がしている。――ひとつの『香り』に対して、こんなにも感じ方が急激に変化することなどがあるのか」と妙に感心したように言った。

そこでようやく新聞を閉じた若旦那がソファを離れて食卓に着いた。伊織にコーヒーを命じると、ふらふらと覚束ない足どりで伊織が席を立ってカウンターキッチンへと向かう。
食卓では、何食わぬ顔でトーストを取り、バターを塗りつけベジマイトを塗り、そして口に運ぶ若旦那の姿を見て、セイバーが口をあんぐりと開ける。

「きっきみ――平気なのか!?」
「これはそもそもビール酵母であるからな」

端的に告げた若旦那の言葉の意味を、カウンターでコーヒーを淹れていた伊織が拾い、目を閉じる。――かつてウルクという地で人々に広く愛されていたという、酒の一種。

「ほあ」と感銘を受けた様子で若旦那を見るセイバーの目の前でトースト一枚を食べきり、ちょうど伊織が運んできたコーヒーを啜る。――それから、若旦那がセイバーを見て言った。

「食事とは。――『美味い』だけが価値ではない。そうだな?」

ふん、と鳩が豆鉄砲を食ったようにきょとんとした顔をしたセイバーが、やや考えるそぶりを見せてから「……かもしれぬ」と神妙に頷いた。