清春
2025-01-27 09:43:06
51501文字
Public 百合
 

リーヴ モルゲンタウ

いずれ破滅へと向かう、反乱者

唾が落ちる

 いつもと変りなく、目立たず、荒波立てず、つつがなく。
 それが、カノの人生方針だ。

 ――天空都市、アース。西に位置する学園敷地内の校舎、三年生講義室の講義中。
 一週間の内、水の日は座学が多く、三年生になって初めの授業は基礎中の基礎しかやらないため、余計に退屈。大事なことなのだから、仕方ないのはわかる。ただ、せっかく新しく用意したノートはまっさらなまま開かれているからもったいなかった。
 春の午前、かつ快晴な天気は微睡みを呼び込みやすい。天空都市であっても季節の移ろいはあるのだ。と言っても、地上の暮らしを知らずにいるものがほとんどであり――例に漏れず、カノもその一人だ。
 三年生、三十二人。これらの生徒が余裕で収まる広々とした講義室内は女性教師の声が淡々と響く。それを子守歌にしているのか、視界の端に居眠りをする生徒を映して、カノは聞いていた。
 教壇に向かって並列して並ぶ一番後ろの席で両腕は机に乗せて背を丸めた姿勢。これはカノの平常であり、安心できる体勢でもあった。
「退屈だね、カノ」
 日常を壊す根源――もとい、アンスズが話しかけてくる。
 暗い青の髪を緩い三つ編みで一つにまとめている彼女はニコニコと笑顔なのに掴みどころなく、ぬるりと人の心の領域に踏み入ろうとする。カノは彼女が苦手だ。
 講義は自由席だというのに、なぜか必ず隣や、一つ前にやってくる。今回は隣だった。固定されている座跳ね上げ式の椅子にもたれかかるようにしてそっと声をかけてくるアンスズに一瞥くれると、またすぐ前を見る。
「教室内の居眠り生徒を数えてみたら少しはその退屈が紛れると思うよ」
「もうやった。三年生徒三十二人中六人」
(合ってる)
 本当に数えたのか、彼女の性格からして適当に言ってたまたま合っているのか、定かではない。これ以上の会話は控えておきたいからカノは口を噤む。
「カノさん」
 すると、私語をしたことを咎められるのかと勘違いするほどちょうどよい時に先生にあてられる。表情からするに咎めるではなく、単純に質問時間に入っただけだろう。
(正直助かる。ただ、居眠り生徒六人が見えないのか、先生)
 などとカノの胸中で膨らむが「まあいいか」と終わらせられるくらいの小さな反論はすぐに消滅し、素直に返事をした。
「カノさん。魔法発動に必要な文字は何と言いますか」
「紋です」
「正解です。では、魔法発動のためにはその紋はどのように扱いますか」
「何らかの物質へ刻印、染色。刻印は神樹(しんじゅ)の枝から作ったペン、染色は同じく神樹から抽出した液でなければいけない……です」
「完璧です。はい、次の項目へ移動しましょう。では、アンスズさん……
 つつがなく、滞りなく。提示された文章を読み上げるかのように、淀みなく読み上げたことに対し多少の達成感を得る。次にあてられたアンスズが紋の種類を答えている最中、安堵の息を漏らした。
 ――突如、翼を勢いよく羽ばたかせる鳥が講義室内に入ってきた。どこかの野鳥が紛れ込んできたというわけではない。離れた場所から音声を届けてくる魔鳥、伝達鳥(ムニン)。生物ではなく魔力の塊なため、伝達相手に届くまで障害物全てを通り抜けられる応用魔法の一つだ。
『伝達。《……ウィン先生! 競技場に侵入者が……!》』
 先生の肩付近で嘴をはくはくさせて鳴く伝達鳥(ムニン)から、まず抑揚のない中性的な音声、そして男性教師の声が聞こえてくる。教壇付近には声が遠くの生徒まで届く拡声魔法が刻まれているのもあり、生徒一人一人に声が届き、一番後ろの席に座るカノにまで届いた。
(確かこの先生は今、競技場で二年生の飛行訓練を担当しているはず)
 声の主を考えて冷静になる中、他の生徒の不安を煽るには十分すぎたのか、講義室は騒がしくなる。先生は一度、拡声魔法を遮断した上で伝達鳥(ムニン)に何か伝達していた。
 もしかしたら聞こえたかもしれないが、ざわつく講義室では聞き取れなかった。そのような様子であれば居眠り生徒も目を覚まし、遅れて気がついては周りの人に現状を聞き、同じようにざわつきの一部となる。姿勢のいい人でも三人ほど反応が遅れていた辺り、随分と上手に居眠りをしていたようだ。
「反応が遅れた生徒が三人はいたからそいつらも数えるべきだったな」
 隣でまだ居眠り生徒を観察していてアンスズの自由さは呆れを通り越して感心した。カノ自身も、同じように観察していたが同調はせずにいた。
「皆さん、落ち着きなさい」
 伝達鳥(ムニン)に伝達が終わり、また飛び立ったのを見届けた先生は清涼感のある声を張った。拡声魔法もあり講義室内に良く通り、一斉に静まる。
「今から私は様子を見てきます。すぐ戻ってきますので、勝手に出たりせず、自習を行ってください」
 はっきり話し終えてからも、いいですねと更に念押しする先生に対し、沈黙を返す生徒たち。その沈黙の中、先生は素早く講義室を出て行った。
 ぴしゃりと教室のドアが閉まると同時に、また騒がしくなる講義室内。自習と言われて真面目に行う生徒は少数人だ。
 カノは真面目に自習する派閥だが、大抵ぼーっとしながら紋の復習をするくらいで頭に入っているとは思えない。それでも何もしないよりはマシだと思い、席の横に置いた革作りの手提げ鞄から紋をまとめた紙を出そうとすれば、またもやアンスズが寄ってくる。両手を組んで、その手に顎を乗せて軽く首を傾げてきた。
「で、カノ。見に行く?」
 彼女のニコリともニヤリともつけられる笑みを見ながら、カノは溜め息を吐きかけた口を結ぶ。遠回しな競技場へ行こう、という誘い対し、答えは一つしかない。
「行かないよ」
「なんだ、つまらない」
「出るな、って言われているからね」
「反抗心はないの?」
「ないね。言われたことをこなしたいんだよ」
……つまらないな」
 二回も言う必要はないだろ、とカノは思ったが、これ以上の会話は控えた。
 それからというもの、先生が帰ってくるまでの十分間、紋の復習をしていた。だが、アンスズが話しかけてくるもので何も捗らなかった。
 先生は競技場で何が起きたのか深くは説明しなかったが「問題はない」ということだけ伝えられ、何事も無かったかのように授業が再開した。


 午前の講義、そして昼休憩が終わり、午後の講義へと突入する。午後は問題が発生したらしい、競技場での飛行訓練。魔法を使って、空を飛ぶ。簡単に説明できるものだが、運動神経が並程度のカノには苦しいものだ。
 三年生にもなれば飛ぶことは余裕で出来るし、移動も出来る。ただそれが長く続かないから、やはりまだまだ訓練が必要だ。大丈夫、しっかり浮いて、横に移動する。それが出来れば及第点───。
「カノ、危ない!」
 ――飛行訓練担当の先生の緊迫した声が響いた時には既に手遅れで、急落下してくる同級生に気づかず、悠長に横移動などしていたカノは衝突。その衝撃で魔力を回すことを忘れて落下し、体を地面に打ち付けた。
 カノ自身の、決して長くはない赤毛が視界に散らばるようにして広がり、乱れてしまったと呑気に考えている程度の余裕はあった。
 しかし、事態はそれだけで済まない。本日二回目の伝達鳥(ムニン)が羽ばたいていく様子を見届ける羽目になり、魔力の集合体なため生物ではなく疲れを知らないが、伝達鳥(ムニン)に対して申し訳なさが募った。
 程なくして救護室担当の癒術師がやってきて、少し様子を見られるが――
「一応救護室に行きましょうか」
 当然、救護室行きだった。
 そして救護室に連れていかれると〈癒術〉の魔法を刻まれるが、本当になんともないカノには気分が良くなった気がする、というふんわりした感覚だけが残った。
 一息ついていると、がらりと救護室の戸が勢いよく開き、ぱりっとした制服に身を包んだ女生徒が中に入らず「せんせー!」と声を張り上げた。襟元にある、魔石つきリボンの色が黄色だから一年生だろう。
「一年講義室まで来て!」
「またあの問題児? まったく……カノさん、一応安静にしててね」
 あれよこれよと女生徒に癒術師の先生が連れていかれ、カノは一人ぽつんと取り残された。
 静寂に耳を傾けるのも乙だが、さすがに暇だったため、ぐるりと救護室内を見渡す。普段から利用するわけではない救護室は真っ白で清潔感のある空間だ。棚は回復薬が並ぶところ、魔法を刻む時に使う染色液が入った瓶が並ぶところときっちり分けられている。あとは机に椅子、奥の方には壁に頭が向くよう設置されたベッドが四つあって、それらの間にカーテンで仕切られ――
……ん?」
 ふと、一番奥のベッドのシーツが動いたのが見えた。窓が近くて、開けられているから風のせいかとも思ったが、いまだにもぞもぞと動いているあたり風ではなく先客だろう。
 起きたのかもしれない。一応、先生はいないということを伝えるべくそっと近寄る。お節介だとわかっていても親切心が勝った。
「今、先生いないのでまだ休んでていいと思いますよ」
 声かけむなしく、聞こえなかったのか無言。ベッド間のカーテンは閉じられているだけで、足側のベッド柵が丸見えなのをいいことに覗き込む。
「先生、今いないので……
 少し待った方がいいですよ。と、カノがかけようとした言葉は、一瞬で引っ込んだ。そこには見覚えのない少女がいたのだが、紡ごうと思った言葉が霧散した。目が釘付けになるとは、このことなのだろう。今、初めて実感している。
 薄く桃がかった肌は陶器かと思うほどつるりとしていて、顔のライン、整った目鼻立ち、全てが彫刻じみた美しい均衡を保つ。何色にも染まっていない純白の髪は緩く波打ち、肩上で揃えられていると思ったが、後ろ髪のみ腰まで伸びていることに窓から吹く風で髪がなびいて気づいた。
 何より、目。琥珀のような深い黄色は透き通っていて、まさしく宝石のように無機質な美しさが、髪と同じ真っ白の睫毛によって縁取られている。
 凝視したまま硬直したカノを目視した琥珀の美少女は、眉間にシワを寄せた。美しい外見は眉間にシワが寄る程度では変わらない。
「不躾にジロジロと……目玉をくり抜かれたいの?」
 目で射殺せるのでは、と錯覚するほどの眼光だった。しかし、額縁の向こう側にいる絵画と見間違うほどの琥珀の美少女にしか見えない。
 ベッドの上で上半身だけ起こして下半身にシーツをかけたままの体勢は、彼女の着ている真っ白な服が上だけ見えている。
 小顔を支える首の下にある鎖骨がくっきり見えるほど開かれた襟元、短い袖は肩口から袖口にかけてゆったりと広がり、ほっそりした腕が際立つ。これも相まって余計に絵になる。
 いつものカノならあまり回らない口が二割増し回るほどだ。
「ご、ごめん。綺麗な人だな、と思って」
「ただの人間風情が生意気にもあたしを口説くな。舌を引き抜かれたいの」
 とっさに出てしまったものは口説き認定された。彼女の顔はどんどん険しくなり、何かを言えば物騒に返される。発言されたことが実行されていたら、今のところカノは目玉無し、舌無しだ。現状言葉のみで実行されていないため、両方が存在していることに感謝が浮かぶ。
……君ってこの学園の生徒じゃないよね?」
「うるさい。喉を潰されたいの」
……
 この数分で満身創痍。どうやら、これ以上は危険みたいだと、カノは察した。相手を自分のペースに巻き込みやすいアンスズのように上手くいかないし、しつこく話しかけるのはやめた方がいい。
……えと、じゃあね?」
 一応別れの挨拶はした。喉潰し発言の直後、即時に目を逸らされ、無言だったが。
 それが少しだけ寂しく感じたが、初対面の人からいきなり口説かれたと思うと反応に納得がいく。万が一でも自分を口説くような人はいないが、もしいるのなら距離を置く。というか逃げる。――と、カノでも思うためだ。
 そういった思考と比べれば、彼女はなかなか肝が据わっているに違いないと密かに讃えた。
 結局、癒術師が帰ってくるまでカノは大人しく棚にある瓶の数を数えていた。幼少の授業を振り返るようだった。
 先ほどとは別の種類らしき〈癒術〉を刻まれながら「早く寮に帰りたい」などと考えていると。
「そういえばカノさん、ベッドにいる子を寮にまで連れてってくれる?」
「え?」
「寮にはもう話が回ってるらしいのよ。案内してあげて」
……はい、わかりました」
 圧倒されてしまったカノは了承するしかなく、ベッドから立ち上がって露骨に嫌そうな顔をする彼女を連れて救護室を出る。気を遣う努力なしが逆に清々しかった。
 真っ白で、ふわりと広がるワンピース姿につい見とれていると、まるで狙ってきたようなタイミングで廊下からアンスズがひょっこり顔を出す。
「カノ、遅かったね。今日の講義は全部終わっているから帰るだけだが……隣の美少女は? どこぞの美術館にある彫刻でも盗んできたのかと……
 アンスズの軽口が飛び交う前に、思わず琥珀の美少女の前に立ち塞がった。咄嗟な行動なこともあり、カノ本人が一番驚いているが、アンスズも珍しく目を見開いて真っ黒の目を瞬かせていた。
……カノ、もしやそこの美少女のナイト?」
「いや、」
「赤毛、どけ。背骨を折られたいの」
……私が嫌われているのは、彼女の口ぶりからわかった?」
 カノは言われるがまま、体を横へと移動させると琥珀の美少女がアンスズと向かい合う。自然とカノの真横に立つことになり、彼女とはそう身長が変わらないことがわかる。堂々として背筋が伸びている立ち姿が絵になり綺麗だ。
「こんにちは、彫刻の如き美しさの君。私は……
「どけるのはお前もだ、青毛。その三つ編みを引き抜かれたいの」
 予想通り、というよりも、彼女はアンスズの口上を最後まで聞かず遮断した。ニコリと微笑んだままのアンスズは硬直している。
 寮への行き方など知らないはずなのに彼女は前へ進もうとし、それを阻止するようにアンスズは綺麗に作られた笑みを浮かべて立ち塞がる。
……ふ、ふふ、君、面白い子だね。ところで、見たところこの学園の生徒ではないね? まさか昼間の競技場の侵入者って君かな。なぜ教師陣が君を放置しているのかも気になる」
……
 琥珀の美少女は目すら合わせていない。本能が目を合わせたら最後、自分の内面全てを暴かれると察しているのか。ただ単に目を合わす価値を見出していないのか。どちらにせよ、英断だった。アンスズは更に火が付いたようだが、火に油を注ぐ行為はしていない。よって、焚きつけられたアンスズの目がギラギラ光るだけだ。
「なぜ黙るんだい? そうだな、せめて名前だけでも教えていただきたい。呼び名がなければ彫刻のような美しさだしスカルプチャー、ベルンシュタイン……いやどちらも長いな、ヴァイス……うん、ヴァイスにしよう。しかし純白の君にはいささか安直すぎるかな?」
「アンスズ、いい加減にし……
「オシラ」
 さすがに可哀想が過ぎると思って声をかけようとしたカノだが、聞き馴染みのない単語を耳にし、思わず口を噤む。
オシラと名乗った少女が、どこを見つめているのかわからない無感情の目で答えていた。
(オシラ、という名なのか)
 思わず、海馬にしっかり刻む勢いで脳内にて反芻する。アンスズは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして「……どうも……?」と困惑が隠し切れない笑みで返事をしていた。急な返答は想定外だったのだろう。無視される想定でアンスズ自身のペースに持ち込もうとする定石が通じなかった隙を狙い、カノは口を開く。
「アンスズ、今から寮に行かなきゃいけないからその辺にしてほしい」
……わかったさ。ちょっと悔しかっただけだからね」
 アンスズは肩を落とし、おどけたように苦笑する。肩を落とすのも苦笑もカノがやりたいくらいだが、諦めてくれたのだから何も言うまいと目を逸らす。
 よく回る口をおとなしく閉ざしたアンスズはそのままカノとオシラの後をついてきたが、特に何か質問攻めすることなく、寮に辿り着いた。
 外観は身分が上の人が住むだろう館そのもの、内装も掃除が行き届き、豪奢な意匠があちこちにこらされている。
 学園に通う一年から四年の生徒は全員ここで生活を余儀なくされ、五百四十ものの部屋数があり、全生徒かき集めても二百もいないため一人部屋を与えられた。加えて教師陣も住み込んでも余る部屋数で、かといって全てがぎゅうぎゅうに詰め込まれているわけでもなく、圧迫感があまりない開放的かつ広い空間だ。
 そんな寮の、いわゆる教師棟と呼ばれる教師陣が使用しているところの管理室に向かってオシラを連れて行く。
「あぁ、彼女ね。そのまま女子生徒棟、四十二番の部屋まで案内してあげて。部屋に必要な物は置いといたから登録の説明お願い。あと明日の朝八時、管理室にきてね」
 このように、あっさり追い返されてしまう。管理室の外で三人並び、部屋へと向かおうとする中。
「なんだ、詳細は何もわからずじまいか」
 そう呟くアンスズに、カノは内心同意した。しかし、まずオシラを部屋まで連れていくことが最優先。三人は西側の女子生徒棟に向かう。
 ここまでオシラは何を考えているのかわからない無表情でただ黙ってついてきている。反発的な性格かと短い時間で思っていたこともあり、素直なところもある彼女のことがよくわからなかった。
 疑問は尽きないが、特に問題なく到着し、四十二号室前に立つ。少し視線を左に移して、四十一号室を見れば【カノ】という魔力で浮かび上がる文字が扉にあることを確認し、やはり隣部屋だとカノは確信する。
 続いてオシラを室内に案内した。室内は備え付けの家具の他だとベッドの上にある日用品などの生活に必要であろう個人で用意する物、あとは制服、ローブ、実習着、その他学園に必要な物一式。一通りあるように見える。
 いたって普通の室内に、アンスズは完全に興味をなくしたようで「それじゃあ夕食にまた会おう」と言って、いなくなった。自由気まま、猫のように気まぐれだ。夕食時にする質問内容を考えるのも含めて退散したのだろうと考えて溜息が出そうになる。
 カノも役目を終え、部屋にすぐ戻ろうとしたが、オシラが部屋にある物を空虚に見つめている。
初対面のはずなのに酷く嫌われていて、対話をろくにしてくれないという相手のはずだが、不思議と少しだけ話したくなった。
 好奇心の権化であるアンスズすらあえて触れなかったであろう、髪の毛の隙間から見える長い耳。
 その耳を見て、カノの脳裏に浮かぶのは幼少期に読んだ絵本に出てくる〝白妖精〟の姿だった。白妖精とは人間に友好的な妖精、という絵本の物語でよく出てくる存在は子どもながらに目と心を奪われた。
 真っ白で、美しく、普通の人間とは違う長耳――ここまで似通っていると、人ではないのではという疑惑しか浮かばない謎の塊だと、尚のことオシラが不思議になる。
 しつこいと嫌われても、幻想的魅力を持つ彼女が気になって仕方ない。
「オシラ、二つ聞きたいことがあるんだ」
「あたしからはない。気安く声をかけるな、顎を外されたいの」
……ごめん。君のことが知りたいという好奇心が嫌かもしれないけど、少しでいいから答えられる質問があったら答えてほしいんだ」
……
 何をそこまでオシラの嫌悪感を引き立てるのかわからないカノは自身ができる限りの真摯さと丁寧さに意識を置いて、言葉を並べる。
 それでも、またばっさり両断されて追い出されると思っていたのだが、この努力が実を結んだのかオシラは面倒臭そうにカノへ目を向けられた。
 初めて琥珀の目とかち合った。これを彼女なりの肯定と捉え、気が変わる前にと思い、口を開く。
「オシラ、君は何者? 君のその長耳は普通の人間のそれではないよね」
「知らない。あたしが何者かなんてあたしが一番知りたい」
……記憶喪失?」
「個体識別名がオシラ。それだけはわかる」
「じゃあ、競技場の侵入者で間違いない? こっちは答えられるかな」
……落ちてきた」
「落ちて、きた?」
「そう」
……だ、大丈夫なの? 体とか……
「思いっきり地面に全身打ち付けて落ちただけで怪我はなし」
 急ぎ気味に聞いたせいでなかなか掘り下げられず、むしろ気になる点が増えただけのような気がしてならないカノだが、頭は混乱したままだった。
 なぜなら、ここは天空都市。
 落ちてくるとはどういうことなのか。個体識別名、つまり名前の事だろうが、なぜそんな言い方をするのか。記憶喪失の原因は何か。なおのことなぜ、教師陣からなぜ放置に近い扱いをされているのか。
 いくつも浮かんで、口にしようか悩んだが、オシラの眉間にシワがどんどん刻まれているのを見るに、そろそろ切り上げた方がいいと、カノは判断する。
 感謝を込めて、作るのが苦手な笑顔を浮かべた。
「そうか。話してくれてありがとう」
「気が変わっただけ。早く出ていけ」
 切り上げて正解だが、虫でも払うかのように追い出されてしまいドアは閉じられる。
 そして、忘れていたことが一つあったことに気がつく。
 ドアにはオシラという名前は浮かび上がっていないことに、冷や汗に似た嫌な冷えを首の裏から感じた。
 ドアノブに刻印・染色された紋に触れて魔力を流すことで部屋の主としての登録となり、魔力感知の作用もあるため登録者以外の魔力は部屋の主に許可されて初めて入れる、つまり鍵の役割を果たせる。このままではただの視界を遮るだけの板だ。
「オシラ、オシラ。何度もごめん、部屋に魔力登録をしていないから鍵がかかっていないんだ。登録の説明をしたいから出てきてくれないかな」
 ノックをしてから言えば、オシラがドアを開けて出てくる。てっきり無視をされると踏んでいたカノはつい驚いてしまい「愚図。早く説明して」と急かされた。
 カノが苦笑いで手早く説明を終え、またすぐに姿は見えなくなるが、ドアに【オシラ】と名前が浮かんでいることを確認。登録はきちんとできたようで一安心した。
 聞いているかわからないが、最後にこれだけいう分には許してほしいと願いつつ、カノは口を開く。
「何かあったら四十一号室にきて。そこが私の部屋だから」
 そう言い終え、返事がくると思っていなかったが「あっそ」と、至極どうでもよさそうな声が返ってきた。