桜霞
2022-10-01 16:49:59
55100文字
Public 【twst夢】フライパンは無敵
 

監督生はおれが守りたい(手にしたフライパンを見つめながら)

#twst #twst夢 #not監督生 #女監督生 #オリ女主 2020/06/03にpixivに投稿したものの再掲です。






 人間、一度は楽の味を覚えると、面倒の味を数倍は苦く感じてしまうものである。クルーウェルは自分を落ち着かせるために大きく呼吸した。
 授業準備に関わる雑務には喜んで手をつける。しかしそれ以外の、たとえば休暇中の生活指導や授業料納付などの事務的手続きの話については思考リソースを割くことすら煩わしい。いつもならそれらを放り投げる先にいるリンは、別の仕事のために席を外しているという。確か植物園の冬支度のための備品確認とか、そんなところだ。
 この学園の事務員はリンだけではないが、所属する生徒数に応じて寄せられる諸々の瑣末事を処理するには人手不足が否めない。だからこそ教師までが駆り出されることとなるのだが。
「備品の確認など、生徒にやらせればいいだろうに……
 植物園にはサイエンス部の生徒も出入りする。彼等を使えば、リンがわざわざ植物園に出向く必要も無くなるのだ。
 
 ───いや、違う、そうじゃない。
 
 そこまで考えて、クルーウェルは頭を掻きむしった。
 
 ───そもそも何故あれをすぐに呼び戻せないのか。
 
 リンに何か用事を言いつけるには、クルーウェル自ら彼女を探す必要があった。それこそ魔法を使って愛犬を呼び出し連絡役を任せてもいいが、一々やっていてはキリがないし、ブロットが溜まってしまう。
 
 ───何故、この俺が、毎度そこまで気を回さねばならんのか。
 
 クルーウェルは何度目か、嘆息した。揉みほぐした眉間の皺が、唐突に響いたスマホの通知音により更に深くなる。
 クルーウェルは、画面のロックを解除せずに通知を覗き込んだ。
 白く霞がかったアイコンには、こちらを誘うように表情を作り、あどけなく小首を傾げている女が映っている。通知に表示された文言はウィンターホリデーに関わるものであり、有り体に言えばデートのお誘いであった。
 今度こそ盛大に舌を打って、クルーウェルはスマホを放り投げた。机に当たって派手な音を立てる寸前、ぴたりと止まったスマホはゆっくりとその場に寝そべった。
 クルーウェルのスマホは、ここ最近そんな扱いばかりを受けていた。それが仕事故に新着メッセージをお知らせするのだが、何が気に入らないのか、主人は数回に一度、健気に働く通信機器を放り投げていた。魔法のかかったカバーのお陰で勢いそのままに落下することは無いが。
 
 ───毎年毎年、よくもまぁここまで。
 
 相手に事欠かないクルーウェルは、それはもう当然のように毎年様々な女からホリデーを共にしないかという誘いを受ける。正直とても面倒だった。好きでもない女の機嫌を取りながら自分も満足いくように鞭を振るうのは、気分の乗らない時は中々にしんどい。
 だが、女達はめげずに連絡を寄越してくる。おそらくクルーウェルが多くの女から擦り寄られていることを知っていて尚、それでも優雅に足掻いてみせる。
 クルーウェルのスマホは再び新着メッセージを知らせるためにぴこんと鳴った。
「ええい喧しい、俺がいま連絡を取りたいのはお前たちでは、………………………ん?」
 はた、とクルーウェルはそれまで背を向けていたスマホを顧みた。
 スマホ。スマートフォン。携帯のバージョンアップ版。離れたところにいる知人と連絡を取るための通信機器。
…………あ、」
 そうだ、これか、とクルーウェルは指を鳴らした。
 何故リンに業務の指示を出すためにわざわざクルーウェルの方が足を運ばなければならないのか。
 
 ───リンが通信連絡手段を持たないからである。
 
 クルーウェルに突然「お前、スマホは持ってないのか」と聞かれたリンは、思わず面食らって「はあ、持ってませんけど」と盛んに目を瞬かせた。
 植物園の、備品が置かれている倉庫近くでのことである。多種多様な植物が温室の中で育てられている中に立派な毛皮のコートを着こなしたクルーウェルは分かりやすく浮いていた。
「どうしたんです、急に」
「効率的ではないだろう」
「なにが」
「お前に指示を出すのが」
「さては仕事を増やす気ですね?」
 リンは箒やバケツ、スコップやジョウロなどに不備が無いかどうかを確かめながらクルーウェルに応じた。
「申し訳ありませんけど、スマホに手を出せるほど余裕はありませんよ。通信費がどれだけ嵩むのかも分からないし……
「安心しろ」
「えっ」
 どこか身に覚えのある流れに、リンは恐る恐るクルーウェルに向き直った。
……まさか」
「経費で落とす」
「何言ってんだアンタ」
 確かに、スマホが手に入るのほとても有難いことだけれども。いざという時に誰かと連絡が取れるようになるのはとても心強いことだけれども。
 だからと言って個人的な通信機器とネットワーク使用料まで経費で落とすって。流石にそれは許されないのでは。
 難しい顔をして唸るリンに、クルーウェルは不敵に笑った。
「ふ、まぁせいぜい期待に震えて待っていろ」
 そしてリンの返事を聞かず、さっさとコートを翻して植物園を後にした。あっという間にモノトーンの後姿が遠くなる。リンは呆然とそれを見送るしかできなかった。
「あぇ……行っちまった……
「お前、スマホも持ってなかったのか」
「ウォゥワ!!」
 突如、死角から気配もなく声をかけられて、リンは大仰に肩を跳ねさせた。
「うわ、なにもう、びっくりした……レオナか……
 本来なら授業中であるはずのレオナ・キングスカラーがそこにいた。傍に居たのだろうか、リンは全く気付かなかった。
 心臓を逸らせたのが顔見知りであることに胸を撫で下ろしたリンに、レオナはぴしりと尻尾を揺らした。その双眸はどこか不満げだ。しかしリンは大して気にもとめなかった。レオナが不機嫌そうなのは今に始まった事ではない。
「あんた何してんのこんなところで」
……ここは俺の縄張りだ」
「え、なに、そういうのあんの? もしかして私がこの仕事押し付けられたのって皆あんたと出くわしたくないから?」
「知らね」
 レオナはくわりと欠伸した。ちょっと睨んでうるせえと言うだけでビビる事務スタッフのことなど、レオナは本当に知らなかった。
「それで?」
「ん?」
「クルーウェルとデキてんのか?」
「は? なんで?」
 リンが心底からそう言ったので、レオナは少し意外だった。
「それ、クルーウェルの趣味だろう」
「あぁ、服?」
 自分の格好を見下ろしながら瞬くリンに、レオナは意地悪く口端を釣り上げた。
「アイツの女になったんだろ? 少なくとも、お前はそういう理由で俺をフッたんだ」
「言い方……
 確かに、以前、とあることがきっかけでレオナがリン達の衣住を整えてやろうかという姿勢を見せた時に、リンは「お前の女でもないのにそういうことはするな」とがなったことがある。その心は「学生に貢がれてたまるか」というなけなしのちっぽけなプライドだ。
 リンは半眼になったが、やがて嘆息しながら「そういう訳じゃないんだよ」と言葉を選んだ。
「ミスターのポケットマネーだと思うでしょ?」
「違うのか?」
「自分が見ててストレス溜まるから職場環境改善のためとかなんとか抜かして経費で落としやがった」
「マジかよ」
「マジだよ…………
 まさかそんな、そうは学園長が卸すまい、きっと後でツケが回ってくる、とリンはしばらく戦々恐々としていたが、経理担当の人間が「受理したお」となんでもないような顔をして言ってきたので、あいつマジでやりやがった、「アッチョンプリケー!!」とリンは絶叫した。心の中で。
「あのひと毎回、経費で『落ちる』じゃなくて『落とす』って言うんだよな……
 経理担当に回されなくて本当に良かった、とリンは心底からそう思った。有言実行の男に無茶を通されようとしたら敵う気がしない。
 遠い目をするリンに、レオナは小さく舌を打った。
 レオナのそれは振った癖に、他の奴からのものは受け取るというリンの姿勢にどことなく苛立っていたのが馬鹿らしい。
 経費ということは、リンの衣服代は学園持ちだ。スマホや通信費なども、余り時を置かずにいずれはそうなるのだろう。
 リンやユウは闇の鏡が意図せず選定し、黒き馬車がこの世界に運んでしまった存在であるので、寧ろその対応は遅すぎるくらいだった。
 
 ───或いは、ある程度懐柔してからでなければあることないこと吹聴される可能性があったからかもしれないが。
 
 いくら原因不明とは言え、人間ふたりの人生を強引に引っ掻き回す結果となってしまったのだ。責任は学園、もしくは学園長が追求されることになるだろう。いずれそうなった際、少しでもその矛先を逸らせるように、ある程度の時間が必要だったのかもしれない。
 要するに隠蔽だ。クロウリーならやりそうだな、とレオナは考えたが、それだけだった。
 
 ───それぐらいで、どうこうできる女じゃねえだろうしな……
 
 やられっぱなしでは済まさない。少なくともレオナはリンのことをそういう性質の人間だと思っていたので、特に気にかけてやる必要もねえだろう、と考えていた。
「あとで連絡先寄越せよ」
 欠伸をしながら言ったレオナに、リンは目を眇めて口元だけで笑った。
「チェカくん対応させようとしてるだろ」
「さてな」
「授業が始まるごとにイタ電してやる」
………………
 これが男ならクソ野郎と罵っている。レオナは酷く顰めつらしい顔で、けれども結局何も言わなかった。
 
 
 
 
 
 新しいスマホはその日のうちに支給された。業務用スマホというのはこの世界にも存在するらしく、案外簡単に許可が降りたらしい。
 わざわざオンボロ寮にまでスマホを届けに来てくれたクルーウェルは、談話室に通された。スマホの簡単な説明、料金形態の内容などを端的に説明すると、クルーウェルはその場でリンと連絡先を交換した。
「理解が早いな。スマホはそちらの世界にもあるのか」
「ありますよ。私はリンゴのやつ持ってたけど、ユウは?」
「私はソニーのアンドロイドでした」
「音がいいやつだ。私も学生の時はそれだったなあ」
「操作の仕方は大丈夫か? 試してみろ」
「パッと見た感じだと大丈夫そうですけど……あー、でもアイコンとか微妙に違うな。これがブラウザ? これは?」
「それはチャットアプリだ」
「ショートメッセージのようなもんか」
 送信先を選択してください、とポップアップが表示される。クルーウェルはリンからスマホを受け取ると、手早く自分のアドレスを入力した。そして「なにか送れ」とリンにスマホを返す。
 んー、と少しだけ指を彷徨わせたリンは、「Bow Wow!」と入力した。クルーウェルのスマホが小さく震え、片眉を跳ねさせたクルーウェルがニヤリと笑いながら「Be silently」と返す。リンは肩を震わせた。
 そのやり取りを横から見ていたユウは、「これがスマートな連絡先の交換の仕方……!?」と静かに戦慄していた。
「ついでだ。仔犬、手を出せ」
「えっ、あ、はい」
 揃えた両手に、少し重みのある綺麗な箱が置かれる。ユウがおっかなびっくり箱を開けると、リンとは色違いのスマホが、その中に鎮座ましましていた。
……えっ!? 私のも!?」
「あらあ、いいんですか」
「ウィンターホリデーの間、ここに滞在する学園側の人間は実質お前だけだ。万一の時に備えて、連絡手段はあった方がいいだろう」
「ありがとうございます……!」
 目を丸くして礼を言うユウの頭を、クルーウェルは満足そうに「Good Girl」と撫でた。
 クルーウェルが帰宅した後、リンとユウはその日のうちにマジカメのアカウント取得や連絡先交換などの諸々を済ませた。
 この世界に来た時から分かっていたことだが、やはり画面に表示される文字はリン達の知っているものでは無かった。それでも、図書館にある本のように、書いてある言葉も、意味も、全てを恙無く把握することができる。
 脳の処理がバグりそうになるのをどうにか堪えながら、ふたりは数ヶ月ぶりのネットサーフィンを楽しんだ。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 さて、世界各国様々な国や地域から集められる生徒たちが実家へ帰省するには、いくつかの方法が存在している。
 ひとつは箒や魔導車など、学園から直接自分の足や公共交通機関を利用する方法。
 もうひとつは、闇の鏡を使う方法だ。ほとんどの生徒がこれを利用するが、大きく分けて二通りの生徒に大別される。
 実家の目の前まで鏡が『道』を繋いでくれる生徒と、そうでない生徒だ。
 帰省先まで鏡を利用し、学園から一歩で辿り着ける生徒は限られている。自分の実家に闇の鏡のような『道』の出口となる空間転移魔法をかけられた鏡、あるいはそれに類するものが存在している富裕層の生徒の他に、奨学金を利用する生徒もこれに含まれる。
 ほとんどの学生は各国主要都市までしか闇の鏡を使った移動はできない。しかし、そこから自宅までの交通費さえ捻出できないような生徒も中にはいるため、『奨学金利用者は自宅までの闇の鏡を使った移動が可能』とされていた。
 以上の事柄から、生徒達は闇の鏡を使える時間をある程度限定されていた。事前に提出するウィンターホリデー中の帰省先を記入したプリントには、いつ鏡を利用したいのかをも記しておかなければならない。
 そしてそれらの膨大なデータを全てまとめ、時間と人数を振り分け、「この国のこの都市に行きたいやつはこの日この時間になら鏡が使えるぞ」「実家に直行のやつはこの日のこの時間までに来ること」というお知らせを生徒達に再配布するのは事務局の役割だった。つまりは半分くらいがリンの仕事である。
「いやあこんなにもスムーズに事が進んだのは数十年ぶりですかねぇ! いや実に、実に素晴らしいその手腕! 大変助かりました、流石はリンさんです」
「はぁ……それはどうも……
 もちろん、リン以外にも事務員は居る。しかし成績処理や四年生の就職活動支援などが本格化するため、事務局は人手不足だった。
 秋学期末の事務局は、新参ながら、リンが居なければどうなっていたのだろうと思う程の仕事量と非効率っぷりだったのだ。リンの世界で言うエクセルを使いこなせないアナログ派の事務員が半数を占めると聞いた時は目眩がしたリンだった。
 いざとなれば魔法を使いまくればどうにかなったので、誰も問題視してこなかったのである。魔法の使いすぎはオーバーブロットの可能性を大きくしてしまうので推奨されていないはずでは? とリンは言いたかったが、「今年はなんだかいつもより楽だなあ」とほっとした表情の諸先輩方を見ていると、なんだか水を差す心持ちになってしまい、口を噤むしか無かった。
「まさに職員の鏡! いやあ当初はどうしたものかと頭を抱えましたがまさかこんなに優良物件だったとは!」
「オイ言い方」
「貴方の境遇には同情を禁じえませんが私は特に! 本当に! 感謝しているんですよ?」
「はぁ……
 リンは生返事をした。リンにとっては文字通り小手先の、大したことはしていないレベルの仕事でここまでヨイショされたところで、「さっさと切り上げてくんないかな」と思うだけである。こうしている間にも仕事は溜まっていくのだ。
 リンの思考回路のリソースの内、二割はこの後の仕事へ割かれていた。
「そこで私、この度、ホリデーの特別ボーナスを付けようかと思いまして」
「、……
 リンはこの後の仕事のことを考えることを一旦やめて脇に置いた。まじまじとクロウリーを見遣るリンに、学園長はにっこりと胡散臭いが人の好さそうな笑みを浮かべた。仮面で全てが台無しになっているが。
……ボーナス、ということは。普段のお給料に上乗せ、という形になるんですよね?」
「ええ、もちろん。休暇期間に入るからと言って、教職員やその他スタッフの賃金が下がるということはありませんから」
 それはリンも知るところであった。ちゃんと経理に確認を取っているので、心配はしていない。
……まさか派遣にボーナスが頂けるとは」
「私、優しいので」
「あぁ、はい、そうですね」
 リンはおざなりにそう返した。クロウリーはまったく気にせず、「その代わりと言ってはなんですが」と居住まいを正した。
「少々、お願いしたいことがありまして」
「あぁはい」
 やっぱりな、とリンは内心で吐き捨てた。この学園長がこれだけヨイショして、対価も差し出すとなれば、絶対に何かしらあるに決まっているのだ。
 できればボーナスだけ貰ってお役御免したいなあと頭の隅っこで考え始めたリンに、クロウリーは軽い声音で言った。
「いえね、難しいことではないんですよ。ホリデーの間、暖炉に薪をくべて頂きたいんです」
「暖炉。……大食堂の?」
「ええ、そうです、その暖炉です。毎日、休みなく。一日一度、朝一番に」
「はぁ……それはまたどうして」
 まるで処方箋のような言い方だ。生徒がいない校舎、しかも大食堂の暖炉に、何故薪をくべなければならないのか。リンの疑問に、クロウリーはまるで講義をするかのように答えた。
「この学園の食堂や暖炉の火は全て火の妖精の魔法によって賄われているのですが、彼等は住み着いている大食堂の暖炉に新しい薪の補充が無いと消えてしまうんですよ」
 聞けば、エアコンも無いのに学園が凍えるような寒さに包まれていないのは、全てその火の妖精の魔法のお陰だという。
「というわけで、休暇期間中の学園滞在手当とは別に特別ボーナスをお出ししますので。どうか暖炉の面倒を見て頂けませんか?」
…………
 結局、今回の労働に関する特別報酬は無いらしい。リンは指摘しようとして、やはり辞めた。あの大きな暖炉に薪をくべるくらいなら、リンにとってはそこまで過労にもならない。
「分かりました、承りましょう。ところで」
「、はい?」
 朗らかに礼を言おうとしていたクロウリーは、ぱちくりと瞬いた。リンは真っ向からクロウリーを見据え、にっこりと口元だけで微笑んだ。
「私たちが元の世界に帰る方法について、その後調査進捗は一体どうなっていらっしゃるんです?」
 クロウリーは、一度大きくぱかりと口を開けて、けれどもやっぱり、にっこりと、満面の綺麗な笑みを、そのかんばせ貼り付けた。
 
 
 
 
 
 学園長室を後にしたリンは、『たぬき開発プレゼンツ DAL Airlineのパイロットによる気まぐれミステリーツアー』と柔らかなフォントとほのぼのとした温かみのある写真で彩られたパンフレットを印刷した。パンフレットには、本来は島の住人にしか発行されない旅行券を期間限定で解放しているとの旨が記載されている。隅の方に小ぃーーーちゃく、「※行き先は離島、または無人島です。必要な物は各自ご用意ください」と書かれていた。
 リンは、これを、学園長室の机上に乱雑に片付けられていた南国の島々の観光パンフレットの山に紛れ込ませておくことに決めた。学園長は上手く視線を逸らせたと思っているかもしれないが、リンの視界にはばっちりそれらが映り込んでいた。
 己の責任をほっぽり出してひとり南国のバカンスを楽しむなど以ての外である。リンはこれからクロウリーが訪れるだろう南国のリゾート地が無人島である呪いと、観光パッケージツアーが無人島移住パッケージになる呪いをかけた。心の中で。
 
 ───まぁ、こんなパンフには引っ掛からないだろうし、たとえ無人島に行ってもミラクルなマジカル(笑)でどうにか戻ってくるだろうし、大丈夫だろ。
 
 リンの心は冷めきっていた。ホリデーのご馳走を確約されても、どちらかというとおせち料理派であるリンにとっては大した魅力にもならなかった。
 そう、おせち料理である。時は年末年始とくれば、リンにとってはおせち料理やつきたてのお餅、大掃除や初詣などが欠かせない歳時である。
 キリスト生誕やサンタクロースの伝承にかこつけてケーキを食し、大掃除をして家の中をすっきりさせ、料理屋に予め頼んでいたおせち料理を受け取り、年末に食べる寿司を取り寄せ、鍋用の具材を買い込み、蕎麦を用意し、テレビの特番で盛り上がり、除夜の鐘で煩悩を打ち消して神社に年始の挨拶をしに詣でる、宗教ちゃぽんここに極まれりな年末年始こそ、リンにとってのルーティンと言っても過言では無かった。
 リンの家はなんだかんだマメであったので、正月飾りも簡単なものながら門松以外はちゃんとしていたし、鏡餅もスーパーで売っている、中に切り餅の入ったプラスチックのやつを飾っていたのだ。
 しかし、今年はそうも言っていられないだろう。ホリデーにちょっと豪華なご飯を頂いて、できるところまで大掃除をして、ゴースト達と何かゲームをして……
 おせちは全ては無理なので、何品か作れるものには挑戦しよう。年越し蕎麦も、年越しうどんに変えたらどうにかなるかもしれない。
 
 ───そうだ、お年玉。……ボーナスも入るし、大丈夫だな。
 
 ポチ袋のようなもの、まさか購買にあるわけないわよね、と思いながらも、リンは今日の帰り道に、購買に寄って買い出しをし、食堂に寄って廃棄食品を頂くことにした。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 秋学期末日、鏡の間は多くの生徒でごった返していた。それでも例年より余程スムーズだと、アロハシャツで浮かれぽんちなクロウリーは嬉しそうに語った。この調子ならもう少しパンフレットを熟読できそうですなどとも宣っている。リンはクロウリーの幸運がEになり、アニメ一話につき一回以上は死んでしまうかもしれない呪いをかけた。心の中で。
「すみませーん、珊瑚の海アトランティカ方面、たぶんこれで全員ですー!」
「はいよー、学年と名前、言ってって!」
 今日この時間帯で珊瑚の海へ帰る希望を出している生徒の名簿リストと一致するかどうかを確かめて、リンは「ハッピーホリデー、良いお年を!」と生徒達を笑顔で見送った。大抵の生徒は「また来年!」と朗らかに返してくれるし、そうでなくても会釈してくれる。夕焼けの草原に帰るサバナクローの生徒などはここぞとばかりに「別れのハグ!!」だとかなんとか言ってじゃれつこうとしてきたため、リンは腕を突っ張って頭を鷲掴み、ぐしゃぐしゃと撫でて「はいまた来年」と鏡の中へ突っ込んだ。
「リンさん!」
「お、こりゃまた皆さん、お揃いで」
 荷物を持ったエースとデュースに、昨晩ぶりのユウがグリムを抱えて鏡の間へと顔を出した。
 最近のリンは仕事に忙殺されかけているので、ユウともまともな会話をすることができていなかった。朝早く館を出て、夜遅く戻るのが、ここ最近のリンの一日だった。
 リンはちらりと鏡の方を見やった。リストで確認済みの生徒が鏡を利用している真っ最中なので、少しだけなら会話をする時間はある。
「ユウ、ご飯食べた?」
「はい! リンさん、今日はその、早く帰れますか……?」
「うん、買い物して帰ろう。手伝ってくれると有難いんだけど」
「喜んで!」
 嬉しそうにはにかんだユウの背後から、エースがひょこっと顔を出した。
「リンさんリンさん、マジカメのアカ持ってんでしょ? 交換しよーぜ!」
「あぁうん、」
 リンがスマホを取り出そうとした直後、「スタッフさん、」と遠くから声が響く。「はぁーい!」とそちらに声を張って、リンはごめんね、と踵を返した。
「仕事中だから。アカウントはユウから聞いといて」
「うぃーっす!」
 リンと入れ替わるようにして、クロウリーがユウ達の方へ移動する。リンを呼びつけたのは予定よりも帰省日程が早まった生徒だった。行き先が変わらないなら特に問題は無いので、他の生徒と一緒に帰らせることにする。
 しかし、そろそろ個人宅へ直行する生徒達のために設けた時間になる。リンは生徒達にしばらく待つように言うと、見知った顔が居ないか、広間に視線を走らせた。
「あ、いたいた。リンさーん! ラギー・ブッチ、夕焼けの草原のスラム街までっス!」
「あいよ! 荷物、随分多いのね」
 ラギーはこれでもかというくらい、全身に荷物を背負っていた。その細い体のどこにそんな膂力があるのだろうか、全くもって分からない。
「落とさないように気をつけなさいよ」
「オレ、ハイエナっスよ?」
 ラギーはリンに向かってがじがじと何度か顎を鳴らし、悪戯っぽくシシッと笑って「また来年!」楽しそうに鏡を潜って行った。
「はい、また来年! さてお次は?」
「俺だ」
「あぁはいはい」
 ラギーとは対照的に、手ぶらで現れたのはレオナ・キングスカラーだ。尻ポケットに財布とスマホは辛うじて入っていたが、どうやらそれだけのようである。
「夕焼けの草原のー……王宮? でいいの?」
 リストにチェックを入れるリンに、レオナは「ん、」と少しだけよれた紙切れを差し出した。
「? ……なにこれ」
 ひとまず受け取って、折りたたまれたそれを開く。規則的に横線が引かれているそれは、どうやら便箋らしかった。その罫線を元気よく無視して、ぐちゃっとした記号のようなものが羅列している。リンはぎゅっと目を細め、どこか見覚えのあるそれを、矯めつ眇めつして見やった。
……れー、おー、なー、おー、じー、……あっ、これチェカくんから? この間のお礼の手紙なら、もうお返事は出したけど」
 つい先日、夕焼けの草原の王子であるチェカが、ナイトレイブンカレッジに遊びに来たのだ。王国のエレメンタリースクールがウィンターホリデーに入り、超特急で課題を終わらせたチェカは、どうしてもカレッジを探検したかったらしい。マジフト大会でチェカと知り合っていたリンは、一日チェカに付き合って、カレッジ中を散策した。
 最後にはこどもらしく遊び疲れて眠ってしまったチェカは、国に帰った後、「このあいだはありがとうございました!」とこどもらしい元気いっぱいの文字がぎっしり詰まった手紙を寄越してくれたのだ。そこには「こんどはぼくがおうきゅうをあんないしてあげるから、おじたんといっしょにきてね!」とも無邪気に書かれてあった。リンは、それに当たり障りなく、「機会があれば、」と返事をした。おじたんといっしょ! など、平和的なのは字面だけである。
「まって、この字が分からない、なにこれ」
「知るかよ……ただのいたずら書きじゃねえのか」
 ちょっとだけ身を屈めてリンの手元を覗き込んだレオナは、面倒そうに眉を顰めた。
「こんな言葉のど真ん中に解読不明の落書きする?」
「五歳児だからな」
「するなあ……
 リンはむつかしい顔をして、チェカからレオナに宛てられて一生懸命書かれた手紙を読んだ。曰く。
 
 ───こんどのほりでー、おじたんとまじふとがしたいです。りんさんとも、おじたんのおともだちとも、あそびたいです。いちばんは、りんさんと、カレーをつくりたいです。おじたんと、りんさんと、いっしょにおうきゅうたんけんして、マジフトがしたいです。おへんじ、まってます。
 
 チェカ、という名前に被せるように、小さい手形がぺとりと判子のように捺されている。一通り全て読んだリンは、「ウウン、」とむず痒さを感じて唇を引き結んだ。
「読んだな」
「読みましたけど」
 リンは、はい、と便箋をレオナに返した。レオナはそれをてきとうにポケットに突っ込むと、「めんどくせェことこの上ねえが」とリンを睥睨した。リンは真っ向からそれを見返した。
「お前を連れて行かねえと、もっと面倒なことになる」
「はぁ」
 いや知らんがな、と彼女は内心で呟いた。レオナは淡々と言葉を続けた。
「そもそも、俺が帰りたくねえのに帰るのも、後でごちゃごちゃうるさくなるからだ」
「左様で」
「つーわけで、欲しい返事は『はい』か『YES』だ」
「は?」
「安心しろ、悪いようにはしねえ」
 そう言いながら、レオナは慣れた仕草で屈みこみ、がっしりとリンの膝を抱え込んだ。
「、え?」
 そして、あまりにもあっさりと、リンを抱え、持ち上げた。
「ほわ!!? ちょ、え!!?!?」
 米俵のようにひょいっと担がれたリンは、思わずレオナの肩に手を着いて上体を起こした。一方のレオナはまったく動じず、リンの膝と腰をそれぞれの腕でぎっちりと固めた。これでは暴れようにも暴れられない。
「ちょっ、なに!? 仕事中なんですけど!!」
「暴れんな、うるせえ」
「嫌だ!! おじたんといっしょは嫌だ!!」
「リンさん!?」
 学園長と話していたはずのユウは、リンの慌てた声を耳にして、素早く視線を走らせた。そして分厚い人混みの向こうにリンを担いだレオナが鏡に向かっているのを見留めると、ぎょっと目を剥いて、反射的にむんずとグリムを引っ掴み、
「グリム、」
「ふな゛!?」
 
 ───それはもう勢い良く、宙へ放り投げた。
 
「『かえんほうしゃ』!!」
「体が勝手に、ふな゛~~~!!」
「うわ!!」
 放物線を描くグリムから放たれた青い炎が、凄まじい勢いで目前に迫る。レオナは舌を打つと、炎に向かってまっすぐに掌をかざした。瞬き一つで魔法陣のような紋様が宙に顕れる。難しくはないが、簡単でもない防御魔法だった。咄嗟にこのレベルの魔法を展開できる生徒は、一年生の中には居ない。
 拘束する腕が二本から一本に減った瞬間を逃さず、リンは身を捩ってレオナの腕から逃れた。こういう時は下手に暴れるよりも蛇のように体を捻る方がいいのである。
 レオナはそれでも逃がすまいと手を伸ばしたが、リンの羽織るショールすら、その掌をすり抜けた。グリムの炎魔法の勢いが凄まじく、下手にその場を動けなかったのだ。
 グリムは自身が放った魔法の反動で再び放物線を描き、ユウの腕の中に落着した。
「ユウくん、グリムくん……私の前で堂々と私闘を繰り広げるとは……
 学園長が腰に手を当てて眦を吊り上げる。グリムは「オレのせいじゃないんだゾ!」とユウの腕から逃れようと暴れたが、ユウはグリムを離さなかった。
「リンさんがレオナ先輩に拐われるところだったので正当防衛です!!」
「なんですって?」
 咄嗟に鏡の背面に隠れたリンが、顔だけを出してこくこくと頷く。クロウリーは、がしがしと頭をかいて舌を打つレオナを見やった。
「キングスカラーくん、一体どうしたんです? リンさんは持ち帰ることのできる荷物ではありませんよ」
……はぁ……
 レオナは心底憂鬱そうに溜息をついた。リンはそうっと鏡の背面からレオナに声をかけた。
「悪いけど、私、ホリデーの間も仕事があるから……、さっきのお手紙、ちょっと貸して」
「?」
 レオナから再び便箋を受け取って、リンはその裏に最近取得した自分の連絡先をさらさらと書き記した。
「チェカくんに、これで勘弁してって言っておいて」
……ふん、」
 仕方がねえなと言わんばかりに、レオナはリンから便箋を受け取った。そしてそのまま鏡の中へと進んで行く。その背中に、リンは「良いお年をー」とだけ投げかけた。
「リンさん、大丈夫ですか!?」
 たくさんの生徒が壁のようになっているので、ユウはなかなかリンの方へ進めないようだった。
「大丈夫よお~」
 リンは一度大きく手を振ると、「待たせてごめんね」と鏡を使う生徒に向き直った。
 
 
 
 
 
 ジャックの出身地が夕焼けの草原ではなかったことにちょっとだけ驚いたり、ケイトと「はっぴぃほりで~!!」とキャッキャしながら写真を撮ったりして皆を見送って、リンの仕事はようやく一段落ついた。
 鏡の間にあれだけごった返していた生徒も、ユウやグリムだけとなっている。リンは、やれやれと意識して肩の力を抜いた。
「お疲れ様です、リンさん」
「ありがと。ユウとグリムも、秋学期、いろいろあったけど、お疲れ様」
「ありがとうございます」
「おう!」
 がらんとして、静かになった鏡の間を見渡し、何か落とし物があったりしないかどうかを確かめて、リンはよし、と気持ちを入れ替えた。
「今日は私もこれで帰れるし。私達も、年の瀬の用意をしましょうか!」
「はい!」
「まずは、大掃除!」
「はい!!」
「ええーーーーっ!!!!」
 グリムの絶叫がこれでもかと轟く。ユウはグリムを逃がさないように、モンスターを抱える腕の力を強めた。
「なんちゃっておせちも作りたいね。黒豆くらいは炊けないかしら」
「栗きんとんの裏ごしは任せてください」
「年越しそばじゃなくて、年越しうどんでもいい?」
「私、足で踏んで生地を捏ねるの、やってみたかったんです!」
「ゴースト達と紅白歌合戦やろうぜ」
「いいですね!!」
 グリムの「掃除は嫌なんだゾーーー!!」という悲鳴は、ぽんぽんと交わされる楽しい応酬の合間に溶けて消えて行った。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 本格的に外気が冷え始めて数ヶ月経つと寒さにも慣れてくるが、雪が降る日は、他と比べても一段と冷え込む。それはナイトレイブンカレッジでも変わらなかった。
 学園長に頼まれた仕事は、事務連絡が無いかという定期的な確認と、大食堂の暖炉の世話だ。リンは購買部や食堂が閉まる寸前にめぼしい食材を仕入れ、うどんとおせち、そしてお餅を作る心積りでいた。杵と臼は自作するしかないが、話を聞いたグリムやゴーストが張り切っていたので、魔法でどうにかなりそうだった。
 ホリデーのお祝いは、ユウにも暖炉の世話を言いつけた学園長が、別途用意してくれるらしい。リンは初めて、クロウリーのことを「あら、珍しく気前の良い」と評した。
「それじゃあ、リンさん。行ってきます」
 掃除はもう嫌だと散々に駄々を捏ねたグリムを湯たんぽ代わりに抱え込んで、鼻を赤くしたユウが薪を背負う。
「はい、行ってらっしゃい。足元、気をつけてね」
「はーい!」
「ついでに、食堂に何か無いか見てきてやるんだゾ~」
 薪をくべる作業は、ユウの発案で、一日ごとに交代して行うことになった。どちらが先に行くかは、厳正なじゃんけんで決まった。
 ユウの腕の中から尻尾を振るグリムに、「無理しなくていいよお」と声をかけ、リンは館の中に戻った。そして袖を捲り、よし、と気合いを入れ直す。
 傍らに立てかけてあった箒を手に取り、くるりと回してとん、と床を突いたリンは、「いざ、館中の大掃除、」声を張り上げた。
「推して参る!!」
 ゴースト達の大歓声と共に、汚れとの戦いの幕が、鮮やかに切って落とされた。
 
 
 
 掃除は上から、という暗黙の了解と共に、リンは上階の窓を全て開け放ち、箒を逆さにして天井裏をはたきまくった。その間、ゴースト達が何やらリズミカルに楽しく歌って踊りながら窓を洗っている。まるでミュージカルだな、とリンは思ったが、特に邪魔することも、そのノリに混ざることも無かった。とは言え、リズムには乗って、拍子の合間に合いの手を入れてやってはいた。
 ユウから連絡があったのは、そろそろ昼休憩にしようかしらとリンが冷蔵庫の中身を思案している最中のことだった。
 お昼ご飯のことなんですけど、と切り出したユウは、終始恐縮して、申し訳なさそうだった。
「スカラビアに?」
 『はい……、流れで調理をお手伝いしたら、ご飯に誘われてしまって……すみません、グリムも行くって言って聞かないんです……
 ユウのほとほと困りきった声音に、リンは苦笑して「いいよいいよ、」と朗らかに言ってやった。そう言えば、スカラビアの生徒たちは帰省する者が少なかったな、とも思い出す。こんなに残るなら食堂を開けてやればいいのに、とも思ったが、担当のゴーストが初孫の顔を見に帰省するとの事なので、諦める他無い。リンは、ゴーストという存在が血を繋げられるという事実に、敢えてつっこまないことにした。
「楽しんでおいでな。こっちのことは気にしなくていいからね」
 『すみません……ありがとうございます』
 通話を切る。リンは小さく嘆息した。
 多少、思うところが無いでは無いが、掃除のスケジュールが切羽詰まっている訳でもない。ユウの交友関係が広がることも大事だ。リンは、昼食を簡単なおにぎりで済ませることにした。
 
 
 
 
 上階の部屋を全てと廊下、階段の掃除が終わる頃には、太陽が西の空に半分ほど姿を隠していた。作業に集中していたリンは、そう言えばユウが帰って来ないな、と夕飯の準備に取り掛かろうとして、初めて気が付いた。
……ま、学生にはよくある事だよなぁ~」
 友人と昼食を楽しんで、その後もなんだかんだ話が盛り上がってぐだぐだと駄弁っていたら、いつの間にか夕食の時間になって。やっぱり夕ご飯も要らねーわ! と母に連絡したことは、リンにとっても数知れず。リンは準備に取り掛かる前に、「夕ご飯、要るかどうかだけ教えて~」と出来るだけ気負わせないように訊ねることにした。
 ユウのことだ、すみませんすみませんと頭を下げ倒す未来は簡単に想像できる。
 リンは、改めてスマホを取り出した。起動させると、画面が明るくなって、幾つかの通知がずらりと並ぶ。ほとんどがマジカメに投稿した、ゴースト達のミュージカルへの反応だ。
 ゴースト達はカメラに映らないので、リンが投稿した映像は、どこからか高低様々な歌声が響き、掃除用具がひとりでに動き回り、時折、撮影しているリンの指示を出す声が混じるという、なんちゃって怪奇現象ホラー映像となった。
「年末の大掃除」「大祓」とだけタグ付けされたそれは、結構な速さで拡散されていた。フォロワーもどんどこ増えている。リンはツイッターで言う鍵みたいなのをかけるのを忘れていたとようやく気がついた。だが、もう遅い。
 まぁいいや、これで新しくコネクション作れたら元の世界に帰れる方法を真面目に探ってくれるようなひとと出会えるかも知れないし、とリンはその辺を気にしないことにした。
 エースは「いや怖lol」とコメントし、デュースは「事情を知らないひとが見たら卒倒しますよ」と呆れた表情のスタンプを添えてメッセージを送ってきた。リンは、「草」とか「www」じゃなくて「lol」なんだな、とまた一つ、役に立ちそうで、その実そうでもない情報を手に入れた。
 そこらへんの通知を凄まじいスピードで削除して、リンはようやく、ユウとのチャットを立ち上げた。何件かメッセージが届いていることを示す数字がアイコンの横に浮かんでいる。
「お? なんだこれ」
 幾つか送られてきていたのは、写真と動画だった。
 画面の大半を占めるしろがねの月に、まるで宝石のように星が瞬く夜空、そしてどこまでも広がる雲海。まるで別世界のような写真は、たった十数センチ四方の小さなスマホの画面でも、息を呑むような美しさだった。
 動画からは、びゅうびゅうと風を切る音が響いている。
 『これ、撮ってるのか?』
 がさがさと雑音が混じる中に、聞き覚えの無い声がはっきりと響いた。
 『はい! リンさん……お世話になっているひとに、送ろうと思って!!』
 ぱ、と画面に褐色肌に赤い目をした青年が映る。明るく輝くその瞳は、一瞬、驚いたように瞠目して瞬いたが、すぐに眦を緩めて、人好きのする笑みを浮かべた。
 『よお! オレはカリム・アルアジーム! リンって言うのか? 今度スカラビアに来てくれよな! めいっぱいもてなさせてもらうぜ!』
 
 ───えっ、宣戦布告?
 
 違うに決まってんだろうが、とリンは反射的に自分で自分の頬を張った。ぺちんと軽い音がする。カリムの笑顔は、スマホの画面からキラキラエフェクトが飛び散ってるんじゃないかと思えるくらいに明るかった。
 
 ───こんないい子そうな生徒がこの学園に居たとは……
 
 それとも陽キャなだけなのだろうか。動画はユウの『お昼ご飯、めちゃくちゃ美味しかったです!』という言葉の後に、ゆっくりと動き始めた。カリムがフレームアウトして、見事な景色が画面いっぱいに広がる。やっほーい、と下の方からグリムがぴょこんと飛び跳ねてカメラに映り込んできた。
 『あの、リンさん、また後で写真送るんですけど、私、今、魔法の絨毯に乗ってて! すごいです、星がダイヤモンドみたいで!! 別世界です!!』
 『綺麗だよな!! 今度はその、リンさんっていう奴も連れて来いよ!!』
 『いいんですか!?』
 『いいぜ!!』
 ごうごうと唸る風の音に混じって、素っ頓狂なユウの声と、カリムの朗らかな声が響く。楽しんでるなぁ、とリンは相好を崩した。
 動画の他に送られてきた写真は、景色が大半を占めていたが、最後の一、二枚は宙に浮いている絨毯と、それに乗っているユウやグリムが楽しそうに笑っている写真だった。
 そして、写真が送られてから少しのタイムラグを置いて『あの、夕飯の準備って、もう始まってますよね……?』というメッセージが届いている。ふふふ、とリンはユウの様子に微笑ましささえ覚えた。
「まだまだ、これからですよ、と」
 にこやかな絵文字を付けて送信すると、すぐに既読を示す記号が浮かんだ。どうやらずっと、チャット画面と睨めっこしていたらしい。
 
『その……夜ご飯にも、誘われてしまって。なかなか断りにくくて……お土産とかも、すごくたくさん、持たせようとしてくださって……
「いろいろ考えてるなぁ(笑) いいよ、そんなに気にしなくても。節約にもなるし()その分、おせちを豪華にできるから。お夕飯、楽しんでおいで!」
『うう、すみません……お土産に香辛料を持って帰りますので……! 期待していてください……!! なるべく早く帰ります!!』
「はーい、あんまり遅くならないようにね! 鏡舎まで迎えに行くから、帰る時にまた連絡して〜」
『了解です!』
 
 ユウからの返事を確認して、リンはスマホ画面を暗くした。ユウとグリムが居ないなら、今日は少し苦手なひとり分の夕ご飯だ。リンは冷蔵庫の中身を確認して、いくつかの材料を手に取った。
 
 



 しかし、数時間後、ユウからもたらされたのは『帰れなくなった』という、どうも様子のおかしい連絡だった。
……どういうこと?」
 さしものリンも、眉間に皺が寄る。リンはすぐに通話へと切り替えた。
『もしもし』
「ユウ? 大丈夫?」
『あ、はい。大丈夫は大丈夫なんです。でも、その……夕飯を頂いたらお暇するつもりだったんですけど……
 ユウはどこか、心苦しそうな様子で、なんとか声を絞り出していた。がさごそと音がしたかと思ったら、『ユウがな、』とグリムが割り入ってくる。
『スカラビアの寮長のカリムって奴が、最近、情緒不安定ってレベルじゃない落ち着きの無さだから、それをどうにかしてくれっていう副寮長のジャミルの頼みを安請け合いしちまったんだゾ! オレ様、やめとけって言ったのに!』
『断るつもりだったんですけど……気付いたら、分かりました、って口が動いてて……
……
 言葉だけ聞くと言い訳めいているが、ユウの声音がその全てを否定していた。ユウとて狼狽えており、どうすればいいのか分かっておらず、小さく混乱している節をなんとなく聞き取り、リンは少しの間だけ沈黙した。
『また明日来ますから、って今日はひとまず帰ろうとしたんです。でも、賓客として泊まっていってくれ、って、なんか……無理矢理ではないんですけど……押しが強かったというか……
『でも、自分たちの寮の問題は自分たちで解決すべきなんだゾ! だからオレ様たち、今のうちに脱走することにしたんだけど、途中で捕まっちまって、外から鍵をかけられちまったんだゾ……
……ふむ……?」
 私に鍵開けの技術があれば或いは、とリンは思案したが、無いものねだりをしていても始まらない。リンは「ユウ、それからグリムも」とようやく口火を切った。
「まず、スカラビアに素行不良な奴はあんまり居なかったはずだ。成績処理に携わった身からして、テスト結果云々はともかく、授業態度に問題がある生徒たちの中に、スカラビアは居なかった印象が強いから」
 前年度の成績を閲覧することもあったリンとしては、スカラビアは「今年に入って急に成績を落とした寮」という印象だ。昨年以前は期末テストでも他の寮と一、二を争う優秀さだったし、マジフト大会においても上位に食いこんでいた。
 だが、今年はレオナを筆頭とするサバナクロー寮のほぼ全員が関与した大会前の悪巧みや、オクタヴィネル寮長のアズールが仕掛けた詐欺まがいの悪徳商法により生徒の成績の底上げが───期末テストの時だけだとしても───行われた結果、スカラビアは「いつも通りの優秀な成績」を残せなかったのだ。
 マジフト大会前には有望選手が重くは無い怪我で出場を見送る結果になったし、テストでは、普段は眼中にも入らないような生徒たちが上位に食いこんできた。テストの順位に関しては、リンが発案した「同立順位制度」によってそこまで酷いものではなくなっているが、寮ごとに順位をつけるとなると、惜しくも最下位となってしまったのだ。
 しかし、実際の成績にはテストの結果だけではない、普段の授業態度も加味される。その辺に関しては、スカラビアは他よりマシどころかちょっと生意気な、どこにでもいる男子高校生レベルなのだ。周りのアクが強すぎるのでマシに見える、というのも勿論あるだろうが、それだけではない。
「だから、スカラビアは、たぶん、大丈夫。今日はひとまず、一泊お世話になりなさい。念の為に内鍵を確認して、かけておくようにね」
『はい』
「それから……
 言ったそばから、がちゃり、と鍵のかかる音がする。どうやら内鍵があったらしい。リンは小さく安堵の息をついた。
「不本意とは言え、一度『やる』と言ってしまったからには、やらないと」
『、でも、』
「そう、でも、グリムの言う通り、これはスカラビアの問題。ユウ、グリム、頼まれ事をしたからって、絶対にふたりがその問題を解決しなければいけない訳では無い」
…………
『どういうことなんだゾ……?』
 リンは、考え考え、言葉を選んだ。
「やっぱり私には無理でした、ごめんなさい、って言っていいってことよ。あなたが気になって自主的に調べたり協力したりするんだったら止めはしないし、私も外からどうにかできないか考えるけど、そうじゃないんでしょう?」
『はい』
 即答だった。よし、とリンは眼光鋭く、顎を引いた。
「明日、一日だけ様子を見て、てきとうに切り上げておいで。私も、手掛かりが無いか、いろいろやってみるから」
『分かりました。……ありがとうございます、リンさん』
「どういたしまして。それじゃあね、……おやすみ」
『はい、おやすみなさい』
『おやすみなんだゾ!』
 ぷつ、と通話が切れる。リンは、細く鋭く、息を吐いた。
……ひとまず、帰省届けを漁るか」
 ホリデーの前に提出しなければならない帰省届けには、寮に留まる旨を記す欄もある。帰省せず、寮に留まる場合は簡単にその理由を書かなければならないのだ。生徒の裁量に任せられるが、不足だと担任が感じれば追加のヒアリングをして、補足を記入する手筈となっている。
 家庭内暴力などを学園側からも把握するためのシステムだった。ホリデーが明けるまで、この書類は事務局に保管されている。
 
 ───明日の掃除は午後からに変更だな。
 
 リンは、やれやれと再び嘆息した。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 

 
 
 翌朝、リンはまず大食堂の暖炉に向かった。大きな暖炉の中央にはほとんど炭のようになっている薪が黒々としており、リンはそれらを灰カキ棒でがさがさと壊すと、てきとうに押し並べて広げた。
 そこへ新しい薪をごろごろと放り込む。リンが身を乗り出して薪の位置を調節していると、何もしていないのにボウ、と音を立てて炎が生まれた。
「ぉワッ、」
 リンは慌てて腕を引っ込めた。ぱちぱちと爆ぜる火の粉の中に、ふわりふわりと炎の欠片が花弁のように舞う。
 それらの中で、小さな、リンの掌ほどの大きさのヒトの形をしたイキモノが火の粉と戯れており、リンはまじまじと暖炉の炎を覗き込んだ。
 炎が、ヒトの形をしている。
 暖炉に住み着いている炎の妖精とはこれのことだろう、とリンはすぐに思い至った。
 
 ───きっと、炎に魅入られるのではなく、彼らの美しさに魅入ってしまっているのだ。
 
 埒外も無く、リンはそんな事を思った。そう思うくらいには、その炎は、妖精は、美しかった。
 おそろしいものは美しい。美しいものをこそ、ヒトはおそれなくてはならない。リンはゆっくりと暖炉から体を離した。
 こどものように、妖精が笑う。まるで遊びように、ぱちぱちと爆ぜて、他を誘う。
……火遊びはしないのよ、私」
 にやりと笑うと、妖精はくすくすと笑って炎の中に戻って行った。リンは追加の薪を暖炉の中の隅の方に置いてやり、「また明日ね」と声をかけて踵を返した。
 
 
 次いで向かうは事務局だ。リンは慣れた仕草で扉の鍵を開けて中に踏み入ると、まずは自分のデスクのパソコンを立ち上げた。
 学園の事務に何かしら連絡が来ていないかどうか確認し、必要なものにはメールで返事をする。リンは時間をかけずに一連の作業を終わらせてすぐに立ち上がり、書類を保管している戸棚を開けた。
 最新の帰省届けがまとめられている分厚いファイルの背をなぞる。寮、そして学年ごとに分けてまとめられているそこから、スカラビア寮のものを四冊取り出して、リンはてきとうに中身を広げた。
……?」
 ほとんどの生徒が寮に残る旨を記している。リンは眉を顰めて書類に視線を滑らせた。
 『自主練のため』『課題消化のため』『寮員との特訓』等々、似たような理由がこれでもかと続く。何人かの生徒や四年生は就活などのために帰省しているようだが、これではほとんどの生徒が学園に残っていることになるなとリンは思案した。
 
 ───秋学期の成績がふるわなかったから、それで……
 
 なるほど真っ当な理由である。なんという向上心の塊だろうか。
 
 ───……この学園の、男子学生が……
 
 リンは思わず、全力で怪訝そうに顔を歪めてしまった。
 確かに美談だが、それにしては数がおかしい。たとえ秋学期の結果を挽回しようと個々が奮い立ったとしても、ほとんど全員が全員、学園に残ることを選ぶのは不自然だ。ホリデー中は購買も食堂も閉まるので、衣食の心配もしなくてはならない。それに、この学園の生徒がそんなに素直なわけあるか、とリンは内心で悪態をついた。
 そりゃあジャックのような生徒もいるにはいるが、それがこの学園において希少であることを、彼女は重々承知している。
「同調圧力に屈するタイプが多いというわけでもなさそうだし……というか、こんなに残る生徒がいるのに、なんで気付かなかったんだろ……
 ぽくぽくぽく、ちん! と音が鳴る。リンは「あぁ、」と膝を打った。
 この帰省届け、配布も回収も学年クラス別に行ったのである。クラスは七つの寮がごちゃ混ぜになっているので一クラスごとに残留する生徒が数名、という形に、表面上はなってしまっていたのだ。
 そして、書類回収後はすぐに情報をデータ化し、帰省先別で分類、整理して闇の鏡の使用スケジューリングに集中したため、学園に残る生徒情報に誰一人として見向きもしなかったのである。
 別に、ホリデー中の帰省が義務付けられている訳でもない。残るなら残るで、良識の範囲内で好きにしていていい、というのが学園の方針だった。
……寮長の情緒不安定と、何か関係あるのかな……
 ちょっとだけ思案して、リンは自分のパソコンに向き直ると、今年度秋学期の成績一覧を呼び起こした。
 リンが素早く操作を繰り返すと、スカラビアの寮長、カリム・アルアジームの成績が画面に映し出される。リンは十段階評価以外の部分に目を向けた。
 『天真爛漫』『朗らか』『協調性アリ』『根はいいがてきとう』『アジーム家次代当主』『人の話を聞かない』などの単語が散見される。リンは人の話を聞かないのに協調性があるというのはどういうことだろうか、と眉間に皺を寄せた。
 ついでに、副寮長のジャミル・バイパーの情報も覗くことにする。
 副寮長にしては珍しく、評価平均は十段階中の五だった。他の副寮長は、もう少し高い評価平均を保持している。
 しかし、リンの目を引いたのは、評価以外の部分に記された、『カリムの従者』『能ある鷹』という文言だった。『詰めが甘い』と補足しているのは、筆跡からしてクルーウェルだろうか。
……ははーん? きな臭いな……
 能ある鷹と評されているにもかかわらず成績評価は平々凡々。つまりは結果を残すことが不得手、或いは、器用なことに敢えてこの程度の結果を残している可能性がある。クルーウェルの言う詰めが甘いというのは、結果を残せないことについてか、それとも、そういうポーズの取り方についてか。推し量るには、情報が足りなかった。
 リンは嘆息すると、書類を片付けて、オンボロ寮に戻ることにした。
 道の途中で、雪の溶け残りに足を取られないように気をつけながら、ユウに「余裕ができたら連絡して」とメッセージを送る。
「昼飯は、軽めに済ませることにして……、さて」
 両手をアウターのポケットに突っ込み、リンは白い息を吐き出した。薄い煙のようなそれは、ほわほわと漂って、すぐに溶けて消えていった。
 
 
 
 
 
 ユウが連絡を寄越してきたのは、その日の夜も更けてからのことだった。
『リンさん、連絡が遅くなってすみません』
 覇気の無い声に、リンは一度、言葉を飲み込んだ。
「大丈夫? 随分、疲れてるように見えるけど」
 ユウのカメラが映す部屋の様子は明かりがついておらず、その分、ユウの顔色も悪く見えた。ただでさえ目元に疲労の色が見え隠れしている。リンは眉を顰めずにはいられなかった。
『大丈夫です。午前中に砂漠を10キロ往復して、午後は防衛魔法の特訓をしただけなので』
「だけ、って言っていい運動量じゃないわね……
 早めに話を終わらせて、休ませた方が良さそうだ。リンは「スカラビアの生徒たちのことだけど」と話題を切り替えた。
「ざっとの計算で、全体で百人程度よね。そのうち、約二十数名が四年生で、就活のために帰省してる。残りの八十人くらいが残ってるはずなんだけど……
『今日、見た感じだと、二クラス……六十人も居ない感じでした。見張り担当の生徒によると、脱走者が後を絶たないとか……
「闇の鏡は学園からなら誰でも使えるからな……特に届出は必要無いし。差分の二十人は、帰省してるかもね。万一の事があったら嫌だから、一応声はかけてほしいんだけど……
 事務員の立場としては迷惑だが、生徒にはそんな余裕も無いのだろう。リンは仕方がないと嘆息した。
「寮に残ってるのは秋学期の成績低迷が原因かと思ったんだけど、脱走者なんて言葉を聞くに、どうも自主的とは言えないみたいね?」
『寮長のカリムが発案だって、ジャミルも、他の生徒も言ってたゾ』
「そうか……
 やはり権力者の発案か、とリンは思案する素振りを見せた。
『にしても、なんでリンはスカラビアの生徒達が居残ってる理由が分かったんだゾ?』
「そりゃあ、私が賢いからだが」
 悪戯っぽく言ったリンに、グリムが半眼になる。リンは「当のカリムはどうだったんだ」とユウに話の水を向けた。
『午前中、砂漠のオアシスに着くまでは恐慌的だったんですけど、そこから昼食まではいつもの感じでした。あ、えっと……動画みたいな』
「あぁ、なんとなくわかった」
 ユウが先日送ってくれた動画を思い出す。冒頭で朗らかに自己紹介してくれた感じがいつもの、ということは、よっぽど明朗快活な人物らしい。
『でも、昼飯の後からは、また恐い方のカリムに戻っちまったんだゾ……
 グリムの耳がへにょりと垂れる。リンは口元に手を添えた。考え事をする時のリンの癖だ。
「うーん……、カリムは、……豹変するの?」
『豹変……はい、そう、そんな感じです。ゆっくり変わっていくんじゃなくて、二重人格とか裏表みたいにぱっぱって変わる印象です』
……きっかけみたいなのは、ある? これまで何度か見てきて、どう?」
……
……
 ユウとグリムは顔を見合せた。どちらからともなく視線が巡り、何かを思い出そうとする素振りになる。
……最初に豹変したのは、昨日の夕食前……、ジャミル先輩がカリム先輩を連れてきて、皆に話があるって……
『居残り特訓をやめて冬休みを始めるって決めたのに、突然、それじゃ全然生ぬるいって言いだしたんだゾ』
 リンは素早くメモ帳を取り出すと、ユウの話を図式化してメモした。
『その後はずっと恐かったんだゾ』
『今日、オアシスで、水を降らすユニーク魔法を使う直前まで、恐いままだったね』
「そのときは特に目立ったきっかけみたいなのは無い?」
『皆で疲れたーとか水が欲しーとか言ってたくらいで……
「おっけー、次は?」
『今日の午後です』
 えーと、とユウは眠そうな目をしぱしぱと瞬かせて、なんとか言葉を紡いでいるようだった。
『クラッカーとかを勧めてくれて……アイスもあるぞって……ジャミル先輩と一緒にデザートの準備をしに行って……戻ってきたら、恐い寮長になってました』
……確認なんだけど」
 リンは、メモ帳をペン先でこつりと叩いた。
「ふたりとも、カリムが豹変した瞬間を見てないね?」
『、あ』
『確かに……言われてみればそうなんだゾ!』
 グリムの声が上擦る。ユウもぱっちりと目を丸くした。眠気が飛んだようだった。
「ジャミルと一緒にふたりないし皆の前から姿を消して、戻ってきたら豹変してる……この空白の間に何かがあったと思うべきだけど」
『ジャミルのやつがカリムを操ってオレ達を騙してるってことか!?』
「まだ推論の域を出ないよ。証拠不十分だ」
『でも、』
 ユウが静かに切り込んだ。
『ここは、魔法がある世界。───物理的な証拠は、意味を為しません』
……まったくその通りだ」
 故に、証拠が無いからこそ、魔法を使って何かをしたのではないかという疑念が生じる。
 凡そ魔法は万能だ。この世の理に触れぬ限り、大抵の不可能を可能にする。
 そして、グリムの言った、人を操る魔法は存在する。少し前に、リンはアズールにその魔法を使用され、己の意志とはかけ離れたところでモストロ・ラウンジのVIPルームに通された。
「ジャミルが、その人身操作系の魔法を使えない証拠は無い。成績を見たが、……クルーウェル先生が気になることを書き残していたし……
『え?』
「なんでもないよ、こっちの話だ」
 最後の方は上手く聞き取れなかったのだろう。ユウは何度か瞬いたが、それまでだった。
「さて、こういう場合、唯一証拠になりうる物は動機以外には無いが……
……ジャミル先輩が人を操る魔法を使えるなら、私達じゃ敵いません』
 ユウは、何かを思い返す素振りを見せた。その目元に険が宿る。
『たぶん、私も使われました。ここに賓客として泊まることになったとき、確かに私は断るつもりだったのに』
 グリムがゆるゆると目を見開く。あのときか、と呆然として言うグリムに、ユウは『魔法を使ったかどうか、分からなかったでしょ』と苦々しげに言った。
『巻き込まれた。何に巻き込まれたかは具体的には分かりませんし、真正面から探るのは無理です。魔法で躱される。グリムは戦闘になると心強いけど、それ以外はまだ……
「そうだね。何かを成そうとしていているなら、協力者になってくれるか分からないユウ達に、正直に教えてくれる訳も無い」
『まだ、カリム先輩を操っているのがジャミル先輩だと確定したわけじゃありませんが……やられっぱなしは嫌です。リンさん』
「はいよ」
 力強い双眸が、カメラ越しにぎらりと光った、ように見えた。リンは、思わず頬を緩めた。
『私、グリムと必ず脱走します。それで……それから、どうするか考えます』
『賛成なんだゾ! リンの飯も食いたくなってきたしな!』
「よし来た」
 リンは笑みを深めた。ユウとグリムの表情には、生気が戻っていた。
「予定が決まったら、連絡をくれ」
『分かりました』
「ちなみに、脱獄の目処はついてるのかい?」
『オレ様に任せるんだゾ!!』
 意外にも、手を挙げたのはグリムだった。ユウが瞠目し、まじまじとグリムを見下ろす。
 その手には、大きなスプーンが握られていた。
……、へ?」
 まさか、とリンの目が点になる。
『これで地面に穴を掘るんだゾ!』
『なんって地道な作業』
……三日はかかりそうね……
 リンは思わず顔の半分を手で覆った。ユウは最早諦めの境地に至っている。
……せめて、スプーンの背中側に、黄色い星を刻みなさい」
……まさか、赤い金属バットの斬鉄剣的な……
「クリティカルヒットの確率を上げるスター発生100%アップの星出しスプーンよ、無いよりマシでしょ」
…………
 ユウは沈黙した。グリムはキョトンと小首を傾げている。
 本来の容や名を持つそれらと一切が無関係でも、同じ名を持てば同じ力を一時でも冠することができる、という考え方、もとい概念は、この世界では通用するのだということを、ユウ達は身を以て知っている。ゴースト退治で、マジフト大会で、アトランティカ博物館前で、円卓の盾の名を冠したフライパンは疑似宝具へと進化した。
 今回は、少しでもスプーンの容を本来のそれに寄せることで、恩恵に預かろうという腹積もりらしい。ユウはあんまり気が進まなかったが、それでも状況を鑑みれば、そんな甘っちょろいことを言っている暇など無いことは明白だった。
「インスタント麺でも一粒の飴玉でもカロリーミートでもなんでもいいから……とにかくちゃんと、補給はすること。ぶっ倒れないように、体調第一よ。いいわね」
『はい。分かってます。……ありがとうございます、リンさん』
 心配そうなリンの声に、ユウはいつものように微笑んで見せた。
「無理しないで。……ちゃんと睡眠も取ってね。……おやすみ」
『おやすみなさい』
 通話が途切れる。真っ暗になったスマホ画面に、リンは、長々と溜息をついた。
 
 ───保護者役が、聞いて呆れる。
 
 迎えに行くこともできないで、何が保護者か。力強く握り締められたリンの拳に、血管が浮いた。爪が掌に食いこんだが、今のリンにとっては些事だった。
 
 ───私が行ったところで、魔法を使われたら終わり。
 
 事務員だからなんだ。保護者だからなんだ。そんなものは、魔法という力の前では無に帰すのだ。折しもウィンターホリデーであるが故に、リン達が頼れる学園長を初めとした教師陣や味方になってくれそうな生徒達はいない。ユウがオンボロ寮に戻ってくるには、自力で脱出してもらうしかなかった。下手をすれば、ミイラ取りがミイラになって、ユウ達の足手まといになってしまう。それだけは避けたい───
 
……ちくしょう」
 
 ───無力だ。どうしようもなく。
 
 リンは唇を噛み締めた。自分への、そしてどうしようもない理不尽(魔法)への苛立ちや、腹立たしさが募る。
…………こんなことして、何になる」
 自分で自分に言い聞かせる、そのための言葉も怒気に満ちていた。
 怒りも、苛立ちも、今は脇に置いておけ。今、ユウ達のためにできることを探せ。脱出に協力できないなら、その後のことを考えろ。少しでも彼女達の負担を減らせるように、後顧の憂いなく、まずはゆっくり休めるように───
……あ、」
 そこまで考えて、リンはあることを思い出した。
 学生にしては大人っぽい、スリーピースといったファッションを纏う、三人組が思い浮かぶ。
 
 ───リンさん、ホリデーの間なんですけど、
 
 思い起こされるのは、ユウの言葉だ。ホリデーに入る前、麓の街へ買い物に降りた日。ユウは、様々なことを語って聞かせてくれた。
 エースのこと、デュースのこと、トレイのこと、グリムの言葉。
 そして、オクタヴィネル寮のアズールや、リーチ兄弟のこと。
 
 ───モストロ・ラウンジでバイトの研修が何日か入ると思うので、その日は薪のこと、お願いしてもいいですか?
 
 なんてことはない、夕飯の時間の、他愛無い会話だった。しておいた方がいい連絡事項とも言う。
 ユウのそれに、リンは気安く了承して、バイト、頑張ってねと笑って返したような。
……そうだ、あの子、バイトするって言ってた……
 具体的なスケジュールは分からないが、あの話、日程調整とか始まっているんだろうか。
………………明日、行ってみるか……
 脱出を手伝えないなら、せめてユウやグリムのためになりそうなことを、何かしなくては。
 どう話を切り出したものか、リンは難しい顔で、あれこれと思案を巡らせた。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 モストロ・ラウンジのど真ん中にあるテーブルで、長い手足を持て余した男が大の字になっている。フロイド・リーチである。
 傍のソファにはジェイド・リーチが腰かけて、黙々と冬期休暇の課題をこなしていた。微動だにしないフロイドの腹などは、ちょうどいいブックスタンド代わりとなっている。
 さて、この課題に必要な情報が載っていたプリントは、確か先程フロイドの足の方に置きましたかねとジェイドが手を伸ばしながら視線を巡らせた瞬間、「なんで!!!」とフロイドが跳ね落ちた。
 落ちたのである。起きたのではなく。ばったんばさばさという騒音が、これでもかと静かな店内に響いた。
 ジェイドは、ひらりと宙を舞っていたプリントをぱしっと掴むと、何事も無かったかのように課題を続けた。
「何事ですか」
 厨房の方から、錬金術の課題に取り組んでいたアズールが顔を出す。ジェイドは「なんでもありませんよ」と顔を上げずに答えた。
「あるよ!!」
 テーブルから落ちた姿勢そのままに、くわりとフロイドが牙を剥く。アズールは面倒そうな顔を隠しもしなかった。
「なんです、騒々しい」
「だって暇なんだもん!!」
「ジェイドを見習って課題でもしていなさい」
「やだあ~気分じゃねえ~」
 ごろごろごろ、とフロイドが寝返りを打つ。ばたばたとジェイドの参考書やプリントが巻き込まれて床に散乱した。ジェイドは気にする素振りすら見せなかった。
 フロイドは低く舌を打った。並の人間ならビビり散らかす怖さだった。
「全部小エビちゃんのせいだ」
「小エビ? ユウさんがどうかしましたか」
「だっていつまで経っても研修に来ねえんだもん」
「あぁ……
 ユウはホリデー明けから正式にモストロ・ラウンジでバイトをすることが決まっていた。その前に、ホリデー期間中を利用して、研修を行う予定だったのだ。アズール達は冬休みではなく春休みを利用して帰省するので、短期間で集中的に、かつ、効率的に手間を省けるので、お互いに都合が良かった。
 また後日伺わせて頂きます、と秋学期最終日、鏡の間で、ユウが双子に頭を下げたことは記憶に新しい。
「まあ、具体的な日時を決めていたわけでもありませんし、連絡手段も無いですし……ユウさんにも都合というものがあるでしょうから」
「はあーーー? 天涯孤独なのにィーーー?」
「リンさんがいますよ、フロイド」
「あヴ」
 変な唸り方をしたフロイドに、ジェイドは初めて視線だけを寄越した。ぎりい、とフロイドの歯が軋むが、ジェイドはやはり、何事も無かったかのように視線を手元の課題に戻した。
「あ、でも、新人ちゃんが居るならなおさらウチに来れねえじゃん」
 フロイドの言葉に、厨房に戻ろうとしていたアズールが動きを止めた。
「どういうことです? ユウさんのバイトは特に反対されている様子はありませんでしたが」
「だって、ここに居るのオレ達だけでしょ。そこにオンナノコひとり放り込むなんか、あの新人ちゃんがするわけないじゃん!」
「それは……
「アザラシちゃんも、まさか小エビちゃんについてくるわけねえしィ」
 だってユウは働きに来ているのだ。イソギンチャクだった時分、容赦無くこき使われたグリムは、客として以外でモストロ・ラウンジを訪れようとはしなかった。
 確かにそうですねえ、とジェイドが筆を止める。
「やはり僕たちは信用されていないのでしょうか。悲しいですねえ、しくしく」
「アズールが調子乗って新人ちゃんに催眠術なんか掛けちまったからじゃーん」
「は、はぁ!?」
 フロイドの言い草に、アズールは目を剥いた。
 確かに、アズールはユウとの勝負が大詰めになって、己の勝利を慢心すると、リンを手中に収めようと独断専行してしまった。素直にはアズールの領域を訪れないだろうリンに催眠術に近いものをかけて自我を奪い、VIPルームに連れ込んだのだ。
 それが直接の敗因となったわけではないが、ユウは、リンを巻き込んだその一点だけは許さない、と態度や言葉で以て表している。
「しかし、ユウさんは、『リンさんはもう気にしていない』と……
「わっかんねーよぉ? だってアイツ、ぜーーったい小エビちゃんの前ではいい大人として振る舞うタイプじゃん」
「本心を読ませない振る舞いは、流石の一言ですしねえ」
「それ、ジェイドにだけは言われたくねえと思うよ」
「おや、ふふ、そうですか?」
 ジェイドが口端を吊り上げる。ぎざぎざとした鋭い歯が唇の合間から覗いた。
「新人ちゃん、やられっぱなしで済ますタイプじゃねえのは確かだしぃ」
「報復しない、と、直接、確約された訳でもありませんしねえ」
……………………………………
 アズールは何事か反論しようとして、結局失敗した。
 リンの為人を考えれば、そんなことはありえないと言い切れる。しかし、これまでのアズールの経験が、果たして本当にそうなのか、としつこいくらいに囁いていた。
 リンは優秀だ。期末テストの際は、静かにアズールの出鼻を挫き、確実にその勢いを削いだ。
 そして何より、リンはアズール達の謝罪に対し、「許す」とも「不問にする」とも、口の端に乗せなかったのである。
 
 ───反省して、次はもっと上手くやんな
 
 ───次はへますんなよ!
 
 アズールの言葉や、やらかしたことを受けて、にやりと快活に、悪戯っぽく微笑むリンが思い浮かぶ。
 アズールはごくりと生唾を呑み込んだ。
 
 ───リンさんは、もう「アズールが繰り出す次」を想定しているのでは?
 
 ───そして、自分達を確実に叩き潰す機会を、静かに窺っているのでは?
 
 アズールの脳裏で、ひたりとこちらを見据えたリンが、うっそりと、わらった。
 
 すう、と背筋を冷たいものが伝う。
「っ……、」
 アズールは体中に走った怖気を押し殺した。自分を落ち着かせるために、ずれた眼鏡を指で押し戻す。
……たとえリンさんが報復を視野に入れていたとしても、それはそれ、これはこれ。ユウさんのバイトとは話が別です」
「えー? でも小エビちゃんは新人ちゃんの味方じゃん。積極的に利用されに行くかもよぉ?」
「ばかばかしい。仮にそうだとしても、返り討ちにしてやるまでです。寧ろ彼女のような優秀な駒が手に入るいい機会だと、」
 
 ───こん、こっここん、こん、
 
「おはなしをしよーおー!! とびらあけてー!!」
 
 大音声がびりびりとガラス戸を震わせる。
 アズールはびゃっと全身を跳ねさせたし、フロイドは目を丸くして起き上がった。おや、とジェイドもノックされた店の扉の方へと視線を巡らせる。
 リンの声だ。間違いなく、リンの声だ。
 噂をすれば何とやら。顔を見合わせた三人は、揃って「まさか」「マジで」「『お話』を」と声に出さずとも同じことを思った。
 
「いっしょにのもうよ、おつまみ、よういしたよぉーー!!」
 
 飲む、おつまみ、つまり酒。
 目の色を変えたフロイドが立ち上がろうとする。アズールは反射的にフロイドに飛びついてそれを阻止した。バランスを崩したフロイドが、アズールを支えきれずにテーブルに倒れ込み、ばん、がたんと派手な音を立てた。
 
 ───居るのが確実にばれた!
 
 どうせ客など来ないだろうと、アズールは店の扉にCLOSEの札をかけていた。このまま静かにしていれば会話をせずに済んだかもしれないのに、とアズールはフロイドを睨みつけたが、フロイドはどこ吹く風で鬱陶しそうにアズールを自分から引き剥がした。
 
「まだあいてる、じかんーでしょー、なぜあいてなーいーのー!!」
 
 がががががががががん、と勢い良くリズミカルにガラス戸が叩かれる。これは下手をすればダイナミックお邪魔しますされてしまう可能性があるのでは。アズールはそっとガラス戸の向こう側を見やった。瞬間、ばちりと二人の視線が合う。アズールは思わず体を強張らせた。
 それに目敏く気付いたのか、リンは足を持ち上げた。ヒールブーツの踵の照準をガラス戸のど真ん中に合わせる。
「おはなしをしよーおー、てまはとらせないよー」
「今開けますよッ!!」
「おっけー、待あーつ」
 
 ───いや、これはいっそ器物破損を誘導した方が良かったのでは?
 
 アズールはガラス戸の方に一歩踏み出してからそう思ったが、もはや後の祭りである。それに、上手くリンに罪を着せたとしても、なんやかんやアズールの方が上手く丸め込まれる気がしたし、後で倍返しされてはたまらない。
 憮然とした表情でリンを出迎えるアズールに、当のリンは不思議そうな顔をした。
「なに、やっぱりお邪魔だった? すぐ帰るけど」
「いえ、どうせ誰も来ないだろうと冬季課題に取り組んでいただけなので。どうぞ、いらっしゃいませ。お出迎えが遅くなり申し訳ございません」
「それなら、遠慮なく。お邪魔しまーす」
 そつのないエスコートを慣れた風情で受け取って、リンはラウンジに足を踏み入れた。
 立ち上がったジェイドは、素早くテーブルを片付けていたし、フロイドは「新人ちゃあん!」と気さくにリンへと飛びつき、さりげなくジェイドや課題、散らばった参考書などを己の体で隠しながらカウンターへと案内した。
「新人ちゃんタイミング良すぎ~」
「へ? なんの?」
「オレら、今ちょーど新人ちゃんに恨まれてんじゃね? って話してたとこなんだよね!」
 朗らかに言い切ったフロイドに、アズールは思わず綺麗なずっこけを披露するところだった。ジェイドはおかしそうにいつもの胡散臭い笑みを浮かべている。
「恨む? なんで」
「ほらァ、いろいろあったじゃん?」
「いろいろ……テストのときとか? なによお今更、」
 ぱちくりと瞬いたリンがにっこりと笑う。やれやれ、やっぱり杞憂だったなとアズールが肩の力を抜いた瞬間。
「もちろん覚えてるわよ♡」
「あ、やっぱりぃ?」
 ずががっ、と音を立てて言葉の槍がアズールの心臓を背後から抉った。思わず胸元を抑えるアズールに、ジェイドが「おやおや、大丈夫ですか?」と声をかける。
「ま、でもお互いやり始めたらキリが無いのは明らかだし、もっとスマートに行きましょうよ」
「新人ちゃんかっくいー! 何飲む?」
「日本酒ってある?」
「ニホンシュ?」
「無いなら、そうねえ。ビールでいいや、ハーフパイントで」
「おっけ~」
 ポンポン飛び交う軽い声音の会話がいっそ恨めしい。アズールはぎりぎりと胸中が引き絞られるような音を聞いたが、敢えて黙殺した。一度厨房に戻り、錬金術の課題のために広げていた材料や鍋などを一所に寄せて行く。ジェイドはエプロンを着けて手を洗い、いつでもオーダーを受けられるように準備を整えた。
 アズールはホールに出る前に、マジカルペンを一振りして己の衣装を整えた。フロイドは初めから寮服だったが、ジェイドとアズールは課題に集中するために、敢えて制服を身に着けていたのだ。己の寮服に乱れが無いかを確認すると、アズールは堂々とした足取りでリンの元へと移動した。
「お待たせ致しました。お隣、失礼しても?」
「えぇ、どうぞ」
「アズールはドリンクどうする?」
「僕は……
「タランチュラね、おっけ~」
…………
 普段なら聞け! とがなっているところだが、リンの手前、アズールは自重した。透き通るライトブルーの色をした液体がちゃぽんと揺れる。
「サンライズ? マルガリータ?」
「フロイド、ふざけないでください」
「マタドールね~」
…………
 アズールは思わず目元を手で覆って「あぁもう」とぼやいた。リンは静かに微笑んで、「酒以外には頼まないから、片割れも呼ぶといい」とカウンターに声をかけた。フロイドが「ジェイドォー! フードねえってー!!」とバックヤードに向けて大声を放つ。
「ほんとは飲む予定でも無かったんだけどねえ」
 リンは手拭いに包んでいた小さな木箱をぱかりと開けた。田作りと紅白なますが鮮やかに顔を出す。
「これは……
「お正月……新年のお祝いに作る料理のうちのひとつ。酒に合うよ~」
……止めないんですか? 僕達はまだ飲酒が可能な年齢ではありませんが……
「どうせ飲んでんだろ?」
「、……まぁ……
 リンはにやりと笑った。
「私はそこまで話の分からない奴じゃないよ。大人 と一緒だし、ここはお前達のテリトリーだ。外でバカな飲み方しない限りは止めないさ」
「そーいうのオレ大好き!」
 言いながら、フロイドがアズールにマタドールを出した。リンにもハーフパイントを差し出す。フロイドは自分とジェイド用にショットガンを作った。がん、と発砲音にも似たような音を立ててグラスがテーブルに叩きつけられ、泡が溢れ出す。
「いやこれは馬鹿でしょう」
 フロイドがぐいっとグラスを呷る横で、遅れて顔を出したジェイドは少々慌ててショットグラスを手に取った。
「はい、乾杯」
……乾杯」
 リンはビールで軽く喉を焼くと、ごまめをいくつか指で摘まんで口の中に放り込んだ。フロイドも遠慮なしに紅白なますにフォークを伸ばす。
「頂いて宜しいので?」
「宜しいよ。作りすぎちゃったやつだし」
 どちらも日持ちする料理なので、調子に乗ってしまったのだった。リンは「それで本題なんだけど、」とアズールに向き直った。
「ユウのバイト研修っていつから?」
 アズールは、思わず口に含んだ酒を噴き出すところだった。フロイドは咄嗟にカウンターにしゃがみ込んだ。ジェイドはにっこり笑っている。
 つい先ほどまで双子と話していた「ユウのバイトを利用してリンが何か報復的なことをしてくるのでは疑惑」がアズールの中でのっそりと頭をもたげた。
……具体的な日時は定まっていませんが、どうかしましたか?」
 アズールは、努めて平静を装ってリンに問い返した。フロイドはカウンターの狭いスペースで「ヒィーッ!!www」と笑ってしまうのを堪えようとして堪え切れていなかった。
「いやね、うちのユウさん、まーた面倒事に巻き込まれちゃってさあ。しばらくはバイト研修どころじゃねえのよ」
「面倒事?」
「それに、もうすぐ年末だし……バイトの研修、年明けからで構わない? いや、まあ具体的な日程は別に決めてもらっていいんだけど、ちょっと猶予が欲しいっつーかさ」
……ふむ……まぁ、構いませんが……
「ありがと」
 リンは満足そうに笑みを深めた。
「それで、ユウさんが巻き込まれた面倒事とは?」
 静かに身を乗り出したアズールに、ビールを飲み干そうとしていたリンは、思わずその動きを止めた。アズールの方を見れば、それはもう綺麗に、にっこりと笑っている。
 胡乱気な顔をして沈黙するリンに、アズールは眉尻を下げて言い募った。
「どうぞお教えください、僕にも何か力になれることがあるかもしれません。以前ご迷惑をおかけしてしまったユウさんのために、困っているようなことがあれば是非! 僕を頼って頂ければ」
………………うぅん……
 身を乗り出すアズールとは対照的に、リンはいささか身を引いた。なになに、とフロイドがひょこりと顔を出す。
「小エビちゃん、まーたどっかに首突っ込んでんの? 飽きないねえ」
「多くの生徒が帰省している中、問題が起こるとすれば……、スカラビア寮でしょうか。確かあそこは、カリムさんの発案で、寮ぐるみの居残り特訓をすることになっていたはずです」
 お前達の悪徳商法のせいでな、とリンは内心で付け足した。
「ジェイド、その情報、一体どこで手に入れたんです?」
「誰から、というわけではなく……聞こえてきた、と言いますか」
「あぁ、なるほど」
 おそらく、クラスメイトが愚痴か何かを零しているのを小耳に挟んだのだろう。困っている風情だったにも関わらず敢えて首を突っ込まなかったのは、期末テストの騒動からまだ間も無いことと、この藪を突けば「原因の一端はお前らオクタヴィネルだろうが」という蛇が出てくるのは想像に難くない、というのがあったからだ。
「え、小エビちゃん、今スカラビアにいんの?」
「一緒に居残り特訓を? そもそも魔法が使えないのに?」
「あ、アザラシちゃんに付き合ってんのか」
「失礼ですが、グリムさんは、進んで特訓に参加なさるような方では無いかと」
 ジェイドが眉を下げ、口端を吊り上げて肩を揺らした。それはまったくもって正しい、とリンは内心で頷いた。
「えぇ、じゃあなんでオレ達をほっぽってスカラビアなんかに行っちゃったの、小エビちゃんは。オレさびしーい」
 ぽて、とフロイドがカウンターに頬を乗せる。あのクソ長い体は一体どうやって仕舞われているんだろう、とリンは埒外なことが気になった。あぁフロイド可哀想に、というジェイドのわざとらしい言葉は無視である。
「何はともあれ、先約であるこちらをないがしろにされていることは事実ですが……
「不本意極まりない故あってのことだ。そもそも日程調整をおざなりにしていたのはお前達もだろう」
 アズールの言葉に、リンが素早く切り込んだ。
 ようやく口を開いたかと思えば容赦の無い攻めの一手である。ジェイドは目を細め、フロイドはうっそりと笑った。
 
 ───好機。
 
 アズールは、意識して表情を取り繕った。
……確かに、それは僕のミスですね。僕とした事が、うっかりしていた。それに、『不本意極まりない』理由があるようですし……
「小エビちゃん、首を突っ込んだんじゃなくて、なにかに巻き込まれたってことぉ?」
「この場合ですと、スカラビア寮の居残り特訓に、ということでしょうか。しかし……
 ジェイドが思案する素振りを見せる。彼が言わんとすることを察したのだろう、アズールも「えぇ、」と一つ頷いた。
「スカラビア寮長のカリムさんは、人の話を聞かない所は確かにありますが、根気強く接すれば話の分からないひとではありません。ユウさん達も、普通にお願いすればスカラビア寮からはいつでも解放されるでしょう」
「じゃ、やっぱサボってんじゃん」
 フロイドが口を尖らせる。「そこが『不本意極まりない』ことに引っかかってくるのではありませんか?」とジェイドが微笑んだ。
……不本意ながらもスカラビア寮の居残り特訓に巻き込まれたユウさんは、『何か理由があって』独力では寮から出て来られない状況に置かれている……ということで、どうやら正解のようですね」
 アズールが口元だけで笑う。リンは黙ってビールに口を付けた。
 沈黙を肯定と見做し、「さて、その理由ですが……」アズールは言葉を続けた。
「何か考えられることはありますか?」
「さぁ……こればっかりは、知っていそうな方に話を聞かなければ」
「新人ちゃん、ぎゅーって絞められて吐かされるのと、自分で喋るの、どっちがいーい?」
「そうだな、水をおくれ」
……いいよぉ」
 リンの言葉に、フロイドは双眸から優しい色を消し去ったが、それだけだった。グラスに砕いた氷と水を入れ、空になったハーフパイントのグラスと交換する。
「実の所、私も詳しいことは知らないんだ」
 からからと氷が音を立てる。熱を持っていた喉は一息に冷めて、リンは心なしかすっきりした気分になった。
「砂漠を十キロ行進したとか、防衛魔法の特訓をしたとか、そればっかりでね。脱け出すのは、寮長にばれたら大変だからと、許してもらえないらしい」
……ほう……?」
 リンの口ぶりから察するに、ユウは脱走を試みたことがあるようだった。しかし見張りか何かに阻まれて失敗したのだろう。
 ということは、ユウ達はある程度、監視されていることになる。それならばリンに上手く情報を流せていないのにも頷ける。アズールは、ひとまずリンの話を聞くことにした。
「どうしてこんなことになったかは、話していた気もするんだが、如何せん本人にも分かっていない部分があるようだったし、私からはなんとも」
 アズールの探るような鋭い視線を飄々と受け流し、リンはからからとグラスを揺らした。
「気になるなら直接スカラビアに行って確かめてみるといい。私が行って助けになるならいいんだが、私は魔法が使えないからね。足を引っ張る未来しか視えないだろう? 千里眼を持っていなくても分かることだ」
……
 暗に『魔法をかけられてユウを上手く助けられないかもしれない』とほのめかされ、アズールは押し黙る他無かった。リンに魔法をかけて自由を奪った前科があるからだ。
 もし同じような目に遭えば、ユウは必ずリンを助けようとするだろう。リンがユウに負担をかけないようにするためには、人質にならないよう立ち回る他無いのだ。
 
 だが、それだけで終わるリンではない。
 
「ユウは出来る子だからね。グリムも傍についているし、困っていないかもしれないが、困っているかもしれない。あの子は私に、『助けて』と、なかなか言ってくれないからね、私には分からないのさ」
 瞬き一つの間、少しだけリンの表情に陰が掛かった。しかし、直後、アズールに真正面から向き直ったリンは、整った強かな笑顔を浮かべていた。
「ま、私はユウのことを信じているから、ユウが帰ってきた後にゆっくり休めるように、業務連絡を代行しながらあの子たちの帰りを待っているとも!」
 リンはいっそ朗らかに言い切った。アズールは、思わず唇を引き結んだ。
 
 ───ユウさんのことを心配する素振りさえ見せないとは。
 
 リンが少しでも綻びを見せたのなら、アズールたちはいくらでもそこから付け込んで、リンのその態度を突き崩し、なし崩し的に何らかの契約を結ぶことができただろう。しかし、リンは「スカラビアで何か起こっているかもしれないが、私は別に困っていません」と言ってのけたのだ。これでは「はいそうですか」と、リンに対しては、引き下がる他無い。
 一方のスカラビアに対して、アズールは引き下がることはできなくなった。
 何せ、「困っているひとがそこにいる」かもしれないのだ。海の魔女のような慈悲の精神を寮の理念に掲げているオクタヴィネル、そしてその寮長であるアズールは、その事実を無視することはできなかった───たとえそれが、不確実な情報であったとしても。
……やるねえ、新人ちゃん」
「ん?」
「ええ、フロイドの言う通り。まさかこの僕をタダ働きさせようとは」
 スカラビアに行くという事は、アズールやリーチ兄弟といった、実力のある魔法士がユウ達の様子を見に行くことと同義だ。リンが単身乗り込むより、そしてアズール達に対価を引き換えとして頼むより、安価で確実だった。
「なんのことだ?」
 リンは心底からそう思っているような様子で言った。
「別に、スカラビアで何が起こっているのか気にならないなら、行かなくていいじゃないか」
 
 ───白々しい。
 
 アズールは胸中でそう吐き捨てた。
 
 ───オクタヴィネルが食いつくことを見越して、誘導したに違いない。
 
 今になってみれば分かる。アズール達が好機と確信した、リンがアズールに対して一手を打ったあの瞬間に、誘いこまれていたのだと。アズール達はまんまと餌に引っかかり、一息に釣られてしまったも同義だった。
 もしスカラビアに何かしらの問題があれば、アズール達はいつものやり方でそれに対処するだろう。ユウとグリムは最初から最後まで彼らに巻き込まれているだけで、アズールとスカラビア間のやりとりには直接的には関与しない。
 しかし、スカラビアの問題が解決すれば、ユウとグリムは自動的に解放される。オンボロ寮とオクタヴィネルの間に、対価等のやり取りは介在する必要がないのだ。
 腹立たしい事この上ないが、オクタヴィネル寮長のアズールとしては、最早これに乗るしか選択肢は残っていない。
 
 ───何が何でも、僕達の利になるようなことをスカラビアで見つけ出してやらなくては。
 
 幸いと言っていいのかは分からないが、折しも学園はウィンターホリデー真っただ中。学園には生徒を監督する教師はおらず、目の前のリンの肩書はただの事務員である。他寮で好き勝手するにはそれこそ好機だった。
……毎年同じ面子でターキーを突くのにも飽きますからね。たまにはいいでしょう」
「え、マジでラッコちゃんのとこに行くの?」
「行きますよ。手ぶらも失礼でしょうから、何か手土産を。お邪魔するお題目は、そうですね……彼らの特訓とやらに、お付き合いさせて頂きましょうかね」
「は~い」
「かしこまりました」
「見上げた自主性だ。頑張れよ、若人ども」
 リンは終始、にこやかな微笑みを崩さなかった。
 
 
 
 
 
 ユウのスマホがメッセージを受け取ったのは、グリムが一生懸命、スプーンで床をほじくり返している最中だった。
 巡回の生徒が来ないかどうか見張っていたユウが、ポケットの振動に気付き、グリムに声をかけて、一旦作業の手を止める。

 
 『お疲れ様。
 明日、オクタヴィネルの三人がスカラビアに行くことになった。後は奴らが勝手にやるだろうから、聞かれたことだけに答えてやりなさい。何も頼まなくていいからね。この件に関しては私が上手くやったので、対価とかは気にしなくていい。
 暖炉の火の妖精のことも、任せてくれたまえ!
 それと、バイトの研修、日程調整するなら年明けも候補に入れてってお願いしてきた!』
 『穴掘りを頑張らずとも脱出できるかもしれないから、ひとまず今日はゆっくり休みな。どうせ昨日もろくに寝れてないだろ? ちゃんと睡眠と水分をとること。脱水症や熱中症にはくれぐれも気を付けて。
 おやすみ。良い夢を』
 『追伸:迎えに行くのでスカラビアを出るときに連絡してくれ』
 

 ユウとグリムは、思わず顔を見合わせた。
 オクタヴィネルの三人って、とグリムがぱちくりと丸い瞳を瞬かせる。
「もしかしなくとも……
「アズールと、あの双子なんだゾ……?」
……
 二人は、揃って指定暴力団ポートマフィアオクタヴィネルスリートップを思い浮かべた。正しく海のギャングなリーチ兄弟は取り立て屋として有名だし、二人を率いるアズールは悪徳商法を大得意としている。
 そんな三人が、スカラビアに来る。しかも明日。何故、と首を傾げながら、二人はもう一度スマホに視線を落とした。
……『私が上手くやったので』って、どういうことだろう」
「あの三人がオレ様達を助けに来てくれるのか?」
「えぇ、まさかあ」
「だよなぁ」
 慈悲とは? と心底から問いたくなるような契約を持ち掛ける詐欺師サマ方である。ユウとグリムはナイナイ、と頭を振った。
「私達を助けるならそれなりの対価が発生するだろうけど、リンさんならそれは最終手段として取っておきそうだし……
「それなら、そもそも、なんでリンはオクタヴィネルなんかに行ったんだゾ?」
……うーん……
 ユウは眉間に皺を寄せてメッセージを頭から読み直した。何かそれらしい手掛かりはないかと目を皿にする。
……、あ」
「、なにか分かったのか?」

 
 『それと、バイトの研修、日程調整するなら年明けも候補に入れてってお願いしてきた!』
 

 ユウは、さっと血の気が引く音を聞いた。
「バイトの研修、すっかり忘れてた……!」
「バイト?」
 グリムが素っ頓狂な声を上げて、目を丸くする。
「あぁ、お前、モストロ・ラウンジでバイトするって……そう言えば、研修、ホリデーの内にやるって話だったな」
「ヤバイ、絞められ……あ! でも具体的な日時は決まってなかったはずだからセーフ……!?」
「お、おう、セーフなんじゃねえか……?」
 グリムはひとまず慰めてやることにした。オクタヴィネルの三人は、こじつけることはあるにせよ、なんだかんだ無体なことはしないはずだ。
「じゃ、もしかしなくとも、リンさん、私のバイトの件でオクタヴィネルまで行ってくれたんだ……!」
 ユウは肺が空になるほど息を吐くと、スマホを前にして手を合わせて拝んだ。きっとたぶん、おそらくメイビー、リンが上手く口添えてくれているに違いない。……果たしてその口添えが機能するかは彼らの胸三寸ではあるけれども。
「じゃ、そこでオレ様達、もしくはスカラビアの話を聞いて……
……何かしらの……理由で……明日、来るのかな……
 そして、リンは、それらを上手く活用して脱出しろ、と言外に告げているように思われた。穴掘りを頑張らずとも脱出できるかもしれない、という一文がそれに該当するように思われた。
……ふなぁ、なんだかオレ様、急に眠くなって、やる気を失っちまったんだゾ……
 ぺしょりと床にへばりつくグリムに、ユウは思わず苦笑した。
「昨日はほぼ徹夜で、今日も砂漠の行進でしんどかったもんね。……リンさんに甘えて、今日は休もう、グリム」
「おー……
 ユウはたぷたぷとスマホを操作して、『ありがとうございます。おやすみなさい』とメッセージを送信すると、スマホ画面を暗くした。芋虫のように這って進むグリムを抱え上げて、ベッドに寝かせてやる。
 グリムはすぐに寝息を立て始めた。ユウも、布団に入り、「今日はもう寝ていいんだ」と気が緩んだ瞬間、その意識はふつりと途絶えて夢路へと旅立って行った。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 翌朝、リンは暖炉に薪をくべた後、いつも通りに事務室へ立ち寄った。
 就活生からの必要書類に対する問い合わせや、保護者からの要望などに、事前に用意されていたマニュアル通りの返信を用意する。各教員に関わりそうなことは、詳細を認めたメールを即転送する。ホリデー中であるからという気遣いはそこに一切無かった。そんなことよりも報連相の方が大事である。
 
 ───どうせ仕事しになんか戻って来ねえだろうしな!
 
 リンは変な方向で教員や同僚を信頼していた。
 カタカタとリンの叩くキーボードの音だけが事務室に響く。外では雪が降っており、すべての音を吸い取っていた。どこまでも静かな空間で、リンは様々思案を巡らせながら小さく息を吐いた───直後。
 
 ジリリリリリ!!
 
「うぉぅわ、……あぁなんだびっくりした電話か……
 弾丸のように空間を切り裂いた着信に、リンは思わず小さく飛び跳ねた。やれやれと嘆息しながら移動し、受話器を取る。
「はい、ナイトレイブンカレッジ事務局でございます」
『あっ、もしもし、オレです、あ、いや』
「詐欺ですか?」
『は?』
 一瞬、変な間があった。リンは何となく電話をかけてきた相手に察しがついた。
『ちが、いやいやその声リンさんでしょ!?』
「すみませんが、流石に詐欺る相手は選んだ方がいいかと……この番号、教育機関の番号ですよ? あとでそのスマホか何かは破棄された方がいいと思います。逆探知されますよ」
『リンさん、ちょ、話聞いて、』
「あと、私、こどもはおろかまだ結婚もしてないのでオレオレ詐欺はどう足掻いても引っかかれないというか」
『あ、そーなんすか? 兄ちゃん良かったな!! リンさんフリーだって!! っていやそうじゃねーんですよ!!』
 大音声のノリツッコミである。リンは一旦、耳から受話器を遠ざけた。
『オレ!! エース!! ハーツラビュルの!! エース・トラッポラ!!』
「あんたクラスと番号なんだったっけね」
『A組二五番!!』
 叩きつけるように怒鳴られる。リンは「はいはい分かった分かった」といなすようにして言った。誰がいつ電話をかけてきたのか、一応記録しておかなければならないのだ。
『つーか、ふざけてる場合じゃないっしょ!? ユウがスカラビアに監禁されてるって知らねえの!?』
「知ってるけど。なんでお前も知ってるんだ?」
『ユウからメッセ飛んできたんだよ! スカラビアに監禁されたとかいうだけの詳細なんも分からんメッセが!!』
「そうか。うんまあ、ひとまず落ち着け」
 どうやら、ユウはユウでエースにヘルプコールを送っていたらしい。この分だとデュースの方にも連絡が行っているかもしれない。リンはどこから話したもんか、と少しだけ言葉を探しあぐねた。
「監禁されてるっつっても、別に乱暴されたりリンチされたりしてるわけじゃない。それなら私が何としてでもユウとグリムを学園から連れ出している」
『あ……そっか、そりゃまあ……
 そうだな、とエースがぼやく。そうだよ、とリンは鷹揚に頷いた。
「だから、まあ、驚かせて悪かったね。ユウも気が動転してたんだろう。勘弁してやってくれ」
『それは……まあ、いいっスけど……でも……マジで大丈夫?』
 エースの怪訝そうな声音に、リンは「うーん、」と唸ってしまった。通話口の向こうの空気が変わる。
……正直なところ、私も断定できないんだ。一応連絡は取っているが、実際に顔を見れてるわけじゃないからな」
『じゃあやっぱ行くよ、オレ等。学園。正直ゲームとかしかやってねえし、マジで。鏡って使える?』
 リンは思わず頬を緩めた。こうと決めた直後の行動力や向こう見ずさは正しく学生らしいと言える。
「ふふ、残念ながら使えない」
『あー……
 万一の不法侵入者などを防ぐため、ホリデー期間中は鏡の使用が認められていなかった。各国に配置された学園に繋がる鏡も、今は使用制限がかかっている。
 しかし、何事にも例外は存在する。リンは自分のパソコンを操作した。
「まっ、そこを使えるようにするのが私の仕事なんですけどね~」
『えっ』
 画面には、『闇の鏡を利用した移動に際しての許可申請書』なる書面が表示されている。この書類を、薔薇の王国の都市部にある、鏡を管理している部署へ提出し、リンがそれを処理すれば、闇の鏡を使った移動は可能になるのだ。
「本当は就活中の四年生向けの制度なんだけど。あんた達、マジで早めにホリデー切り上げるの?」
『いいっス全然!!』
「じゃ、書類データ送っとくから、ゲート管理部に提出してね」
 一枚の書類で、同伴者は三名までが認められていた。デュースも薔薇の王国に実家があるので、わざわざ書類をもう一枚作る必要は無い。
「最速、明後日の昼かな」
『了解! デュースにはオレから、リンさんが落ち着いてるぐらいにはユウは無事だって言っとくんで!!』
「どういう……いやまあいいけど」
 リンは苦笑した。やはりデュースにも話が行っていたようだ。
「それじゃ、頼んだよ」
『ウィーッス! あ、そうそう、リンさん』
「んあ?」
 受話器を置こうとしていたリンは、はたとその動きを止めた。
『マジカメなんだけどさ、ユウから連絡先貰ったんだけど』
「あー、はい、いいよ、別に」
『あ、うん、それで、リンさんさ。たぶん、オレ等からのメッセ、受け取れない設定にしてるでしょ』
「およ?」
 リンは思わず瞠目した。
……フレンド申請許可してなかったっけ……?」
『たぶんできてるんだけど、できてねえわ。オレ、どう頑張ってもメッセも通話もできなかったから』
……
 確かに、マジカメで連絡先を交換しているのだから、エースがわざわざ学園の事務局に電話をする必要は無かったはずだ。リンは思わず手で額を押さえた。
『コメントでも言ったけど、やっぱ気付いて無かったか。あの動画バズってたから、コメントの数えぐかったもんなー』
 エースが言っているのは、リンがマジカメにアップしたゴースト達との大掃除ミュージカル動画のことだろう。リンはぎりりと歯を軋ませた。
「すまん……勝手が分からなくて……
『いーって。マジカメって、フレンド登録してても大元の設定? みたいなところにあるメッセ受け取るかどうかのフィルターがさ、初期設定状態だとガチガチに厳しくて全部ブロックしてます状態だから』
「あー…………それは……知らなんだ……
『誰もが通る道だから気にすんなよ、リンさん。ユウもオレ達が教えるまで分かってなかった』
……さよか……
『それじゃ、今度はマジカメで!』
 そう言って、エースは通話を終わらせた。リンは脱力した腕をどうにか動かして、受話器を元の場所に戻した。
……地味にショック受けてる場合じゃねえぞコラ」
 リンは爆速でマジカメの設定をし直すと、エースに書類のPDFを送りつけ、さっさと仕事を片付けた。
 
 ───昼になったら、ユウに一度連絡しよう
 
 きっとオクタヴィネルの三人は既に行動を起こしているはずだし、合流も果たしているはずだ。リンはどうか事が上手い方へ転がっていますようにと祈りながら、学園の事務室を後にした。