もう一度あなたと、美しい日々を

Pixiv再掲
移動図書館運営者の松川とアパレル店員の花巻の話です、時系列が変わる場面が多いので読みづらさがあるかもしれません SFっぽさあります



(今)

「松川」
 今度ははっきりと、彼の名前を呼ぶ。振り返った松川は、厚手の濃紺のダッフルコートを着ていて、いつか車の中で見たランタンを灯してそこに佇んでいた。簡易テーブルの上に置かれたランタンの炎が揺れて、松川の腹辺りを照らしている。
 花巻は、着いた、とほっと囁く。
 心の中の八割の占拠率は囁きによって消え失せ、いつしか二割の伝えたかった言葉によって完全に埋められてしまった。やがてそれが花巻の中で形になったとき、花巻の呼吸は整って、それを待っていたかのように松川はそっと、手を差し伸べた。
「座る?」
「うん」
「走ったの?」
……うん、あの、松川」
 喉まで出かかっている、熱くて湿った塊が、ゆっくり胃に落ちていく。今最も花巻の頭を渦巻く洪水のような情報が、どう感情をコントロールしたらいいかわからず結局花巻を停滞させる。
「少し、昔話をしようか」
 松川は「買っておいたから」と言って花巻の行きつけのチェーン店のコーヒーを差し出してくれる。少しぬるくなっているけれど手で触れるのに心地良い温度のそれは、花巻の洪水のように溢れそうだった想いを鎮静化する。
 松川は、いつものように穏やかに、けれどその表情は昼間見た去り際の顔だった。切なく眉を下げ、目を細めて、目尻を少し赤く染めている。
「俺のいた小学校は、何の変哲もないただの学校だった。ある日、珍しく転校生が来てね。転校生は後ろ側の席で、次第に色んな人と打ち解けていった」
 それぞれが椅子に座り、ランタンの揺らめく炎を挟んで、見つめ合う。
「でも、学校にはいじめがあった。標的だった子を庇ったその勇敢な転校生は、次のターゲットにされた。俺はあの時、途中からさすがにあり得ないと思って、間に入ることもあったけど、いじめの主犯たちは時間を変え場所を変え、転校生をいじめるようになった」
 花巻の手が、カタカタと震え始める。それはテーブルにまで振動を伝える。そっとその手を、松川が取った。温めるように包み込む。
「転校生のいじめられる原因は、ただ気に食わないからだ。もともとの標的だった奴を庇ったことも、抵抗してくることも、頭も良くて皆から好かれてたことも、そして」
松川は、花巻の頭をくしゃっと撫でる。
「その髪の色とかも、ね」
 短く髪が整えられている丸い頭は、ランタンの炎によって濃いブラウンから桃色の輝きまで、さまざまな色合いを見せた。
「俺は、その子と一緒にいたくて、庇い続けた。これは自分のエゴかもしれないけど、でも俺はとにかくそうしたかった。転校生がしばらくして、親の都合で転校することになるまで、俺は一緒にいた。いじめにくる奴らも大体わかって、俺は先生に伝えたりそいつの親に伝えたり」
……まつかわ」
「先生もそいつらの親も、全然いじめのこと知らなくてさ、腹立ったよ、俺。ムカついた。やっと対処してくれて、お前が笑うようになったころに、お前は転校することになってさ」
……うん」
「『俺ね、明日からもう会えないの』って。辛かったけど、お前がこんな目にもう遭わないように祈るしかなかった。俺はそのとき、花巻がこのことを忘れて過ごせたらいいな、と思った」
 こうしたの、覚えてる? と言って、松川は立ち上がる。花巻の白い額に触れて、そっと壊れ物を扱うみたいに近く。大事そうに、あの本たちを扱うように、松川は花巻の額にキスをした。
………ッな、なに……!」
「これで、なんでかわからないけど、花巻、ほんとに忘れちゃっててさ」
「あ……
 花巻は、夢のような感覚で描かれる風景を、目を瞑って思い返す。
 ──あの日、夏の暑い日だった。皆で制作した硝子の風鈴が総出で廊下に飾られ、特に蒸し暑い地域のその小学校で日除けになる木を探して、昼休みにそっと、日焼けした少年と、焼けづらい自分の肌を比べた。
 そうして、その南国がよく似合う黒髪の少年に、額に柔らかくひっそりとキスをされて。重なるように蝉の声も聞こえて。でもそれよりも。
 リーン……と鳴る風鈴の連なりの方が、やけに鮮明に花巻の脳裏をよぎっていくのだ。
 花巻は、そっと目のまえの、大人になった松川の頬を掴む。変わってしまった骨格、目の細さ、喉仏がくっきり見えた。でも花巻がいつも安心していた、その黒く光る瞳と癖のあるマットな黒髪、そして花巻の好きな、あの笑顔。今ならなぜ、あの笑顔が一番花巻が好きだったかわかる。
 ただ、松川、という重たい意味を持つ単語ばかりを述べていた喉は、湧き立つ感情の洪水を改めて起こす。ここに着いてから、ずっと頭を占める唯一の言葉。それは何度言っても言い足りないセンテンスだった。
「いっくん」
「なあに、はな」
「最後まで、学校、一緒に通えなくてごめんね」
 卒業まで一緒にいたかった、できることなら、その後もずっと。
 松川は、花巻の知る小学校のときの、幼い笑顔そのままに笑った。

「嫌なこと思い出させてごめん。俺もまさか、会えると思わなかったから」
「そうなの?」
「うん、花巻がここにいるっていうのはなんとなく、教えてもらったんだけど。肝心なのはわからなくて。きっと後は自分でどうにかしろってことだったのかな」
……誰か教えてくれる知り合いいたのか?」
「いや、本がね」
 花巻は、松川がそばに置いていた文庫本に気づく。それはいつも松川の側にあった。タイトルは『忘却の中の望み』。
「ここは借りる人の心を投影してるものが出てくる図書館だから」
「なあ、松川は……魔法使いかなんかなの?」
「違うよ、ただの車の管理人。この本だって、花巻と俺以外には普通の本に見えてるよ」
「じゃあもう、自分の心読まれない?」
 割と、自分を認めてくれる内容とかもあって、嬉しかったんだけど。花巻は少し照れ臭そうに、視線を逸らす。松川は、いつものように静かに言う。
「花巻が望むなら、いつでもやってあげる……あと、いつになったら名前呼んでくれるの?」
 だって大人になってまでいっくんは恥ずかしいだろ! と赤面しながら花巻が声を荒げると、松川も吹き出すように笑った。