もう一度あなたと、美しい日々を

Pixiv再掲
移動図書館運営者の松川とアパレル店員の花巻の話です、時系列が変わる場面が多いので読みづらさがあるかもしれません SFっぽさあります



 花巻は玄関を開けて、履き慣れたスニーカーの踵を踏みつけて足早に歩く。普段だったら絶対に踵なんて踏まない。それほど、花巻は急いでいた。ハ、ハと呼吸を乱して加速する。家からあの場所までは、少し遠いのだ。そのことを恨めしく思いながら、汗ばんできた額をこする。
 そのうち、車通りの多い交差点の信号が赤になる。逆風で持ち上がった前髪を後ろへ少し撫でつけ、白い頬を上気させて一息ついた。隣で同じく信号を待つ女子大生が、不審な顔で花巻を見ている。
 青になるかならないか、というところで花巻は駆け出した。足に引っかかるコートの裾がもどかしい。
 早く、着きたい。花巻の脳内を占める八割はこの言葉だった。
 あとの二割は。

 ◇

(三週間まえ)

 借りた本を返す為に花巻は十一時頃に家を出る。
 ちょうど近所のパン屋で、焼きたてのパンが並ぶ頃合いだ。サンドイッチもベーグルも、どれも美味しいのにリーズナブルなそこは花巻のお気に入りで、もしかしたらあの男も知ってるかもな、と思いながらも、フランスパンでできたスモークサーモンとチーズのサンド、ライ麦パンでできたパストラミビーフのサンド、カツサンドなど、籠に次々と入れていく。コーヒーはいつものチェーンで買うことにして、あとは、とパン屋の端を見る。
 鎮座するのは、アップルパイと、粉糖やカラフルなチョコレートのついたパンだった。

「昨日ぶり。あれ、大荷物」
「そんなんでもねえよ。はい、昼飯。結構食うんだろ?」
 ドサリと音を立ててカウンターにパンを置いた。隙間から見えるカツサンドが、男の目を輝かせる。
「カツサンドいいねえ、美味そう」
「俺、これとこれ食べたい。あとはお前の好きなの食って。食べきれなかったら俺の晩ご飯にするから」
「うん、ありがとう」
 彼は素直にビニール袋に手を伸ばすと、違和感に気づく。
「甘いのもあんの?」
「そ、お前、夕方終わった後、移動しながら食べられるだろ?」
 遅めのおやつタイム、と花巻が言うと、松川は片手に持っていた中盤くらいまで読み進んだらしい文庫本を置いて、そろそろと袋の中身を見る。スプレーチョコのついたパン、黄金色の実がずっしりしていそうなアップルパイが彼の目に飛び込んだはずだ。
「美味しそう。対比が、面白いね」
「対比?」
 男は、本当に面白いという顔で花巻を見る。切れ長の瞳は嬉しそうに細められて、
「こっちのパンは、お前みたい。色んな色があって、くるくる表情変わるし。アップルパイは俺みたい」
 さすが本の虫というような表現をされて、少し照れながらも花巻は尋ねる。
……不思議な例え、するんだな。で、そのアップルパイさんは、どんな子なの?」
 花巻は口の端を吊り上げて、男と同じように目を細める。自分が同じように表情を作ると、垂れ目の目尻にシワが寄る幼い表情になる。
「俺は、このパイシートの格子から待ってるの。早く見つけてもらうのを」
 松川は、長い指で中に詰まったりんごを指差して言った。
 煮詰められて芳しく、ぎゅうっとジューシーであろうそのりんごは、艶を放っていて美味しそうだったから、一際大きそうな一切れを選んで買った時のことを花巻は思い出す。
 あの大きい男の口の中に、これが入っていって、美味しそうに目を輝かせるところを想像する。少ししか話したことはないけれど、花巻の思い出せる、彼の少ない表情のレパートリーの中から、花巻は彼の笑顔をこのパイなら引き出せるんじゃないかと思って期待している。
(でもこれはおやつ用だから、俺はそれを見られないな)
 とあさっての方向にため息をついていたら、ガサゴソと音がして、男の手から件のパイがお目見えした。
「今食べようかな」
 期待通りのことが今まさに目の前に広がって、花巻は面食らう。存外大きな口をパクリと開けて、男は一気に半分くらいを噛み切る。端から、危うくりんごが溢れそうになる、絶妙なバランスだった。口周りのパイ生地を指で掬って、滑らせるように口内へ運ぶ。
「あ、美味い」
 ハッと我に返った花巻は、もう三分の一ほどしか残っていないアップルパイを見遣って、慌てて別の袋からコーヒーを取り出す。
「喉、詰まらない? 大丈夫か?」
「へーき」
「アップルパイさんに気に入られて良かったよ」
「松川」
「え?」
 花巻は、またリーン……と鈴の音を聞いた。
「松川、でいいよ。花巻」
 男──松川は笑いを沈めたまま、小さな声で言った。
「名前……なんで」
「さあ、なんででしょう」
 リーン……と前回よりもやや強く聞こえる音に、花巻はこれがなんの音かぼんやりと思い出せる気がして、頭を振った。
「それよりほら、本、借りるでしょ?」
 松川の気分の良い声に、花巻の霞みがかっていた意識が浮上する。
「あ、ああ、借りる。これ、読んだから返すな」
「ほい」
 昨日帰る時に名残惜しかった本が、手から離れる。タイトルは『悲しみの先に』。
 二人の男女が長い別離を経て再会する話で、風景や物の一つ一つの描写が細かく、まるでその男女が使っている物全てをはっきりと覚えていて、繊細に描いているようだった。