もう一度あなたと、美しい日々を

Pixiv再掲
移動図書館運営者の松川とアパレル店員の花巻の話です、時系列が変わる場面が多いので読みづらさがあるかもしれません SFっぽさあります


『あなたに教えましょう、どんなにあなたが私の支えであったかを
あなたに伝えましょう、幾夜の闇が襲っても、あなたの姿が思い出され、それが星のように照らして、道を教えてくれたことを
どんなに渇望しても、得られないものがある中で、私はあなたにこうしてまた出会えたことが喜ばしく、愛しく、懐かしく、
どんなにか嬉しいことであるか、あなたはすぐに知ることになるでしょう』



 花巻は、えんじ色の柔らかい質感の表紙を持つその本を閉じた。涙が一筋、その上に落ちる。染み込んだ涙は、ベルベットの表紙に吸い込まれるようだった。
 外はもう薄暗くちりちりと虫も鳴き、都会の中であるはずのこの部屋の外は、鬱蒼と茂る森のように静かで、花巻の感覚を研ぎ澄ます。彼は、側にあったサマーストールと薄手のコートを掴んで、立ち上がった。
 目指すは、あの場所。この本をいつも大事に大事に保管する、あの青年のいる場所だった。

 ◇

(一ヶ月まえ)

 花巻貴大はアパレルショップで働いている。都内の路地にそこまで広くない敷地をもって居を構えるそこは、名の知れたメーカーの作る物も扱えば、職人が一つ一つに拘って作るような一点物も扱う。本店の他に支店をいくつか持つものの客の入りは少ない。が、とにかくリピーターが多く、一点一点が高額なのでいやらしい話人一人あたりの単価が高い。そのため、平日にたまに三日休みをもらっても生活していけるくらい、ゆとりのある暮らしをしている。
 そもそも花巻は独り身で自宅の広さも拘りがないし、遠さもむしろ運動になる、くらいの感覚で徒歩20分以上は平気で歩く健脚であるから、質素な暮らしと職場の金回りの良さがマッチした結果と言える。
 花巻は家の近所のコーヒーチェーンで、買い食いをするのが好きだった。その日も二日続けて休みをもらい、通りすがりにそのチェーン店でコーヒーを、ミルク多めのカフェオレで頼んで、ついでに砂糖をまぶしてあるドーナツを買う。イートインをしないのは、接客業の悲しい職業病が顔を出すからだ。店員と他の客のやりとり、過ごす客の会話、一つ一つを耳に入れてしまって、俺だったらこう言うかな、とか、この返しはいいな、とか、つい人間観察というより会話観察をしてしまう。
 紙袋に入ったカフェオレとドーナツを掴んで、秋向けに買ったショートブーツとベージュのコーデュロイパンツを履いた長い脚をぐんぐん歩かせ、今日も近所の散策に余念がない。
 花巻は小さい頃から転勤族で、見知らぬ土地を探訪するのが好きだった。大人になってからも、転勤のある仕事をあえて選んだ。今日という日もまだこの土地に来て1年ちょっと。地域探検は花巻の心を躍らせる。特にこの土地を、花巻はいたく気に入っている。家から歩いて健脚は常にかなりの距離を行くが、いつ見てもいつ歩いても、知らない店や知らない景色、こんなのあったっけ? と思うような不思議な場所を提示してくれて、初体験を詰め込んだ箱庭のような空間に、花巻は嬉しくて休みの日を待ち遠しく思っている。
「ん……?」
 紙袋に入ったカフェオレを啜って、彼は細い路地に大きな濃いブルーのワゴン車が止まっているのが見えた。ワゴン車、というより、軽トラックののような。移動式飲食店によくある車の形をしたその中央に並べられているのは飲食物ではなく、本棚だった。
(初めて見た、移動図書館)
 日本各地を転々としたことのある花巻だが、移動図書館の車を見たのは初めてだった。その車の横に、長身の男が本を大量に抱えて歩いている。花巻もかなり背が高い方だが、男はそれよりも高く、黒々とした癖っ毛の特徴を持つ髪は、さやさやと風に揺れた。眉毛は太くて垂れていて人が良さそうなのに、その下にある目は切れ長で黒目も小さい。突き出たアヒル口がご愛嬌のようについているが、やはりどうも近寄りがたい雰囲気は隠せない。白いシャツに紺色のスラックス、上からカーディガンを袖を通さず無造作に羽織る彼は、抱えた本をどこかへ持っていこうとしている。
 花巻は、それら全てが新鮮に見えた。「初めて」にはとことん弱い。その移動図書館に吸い寄せられるように、ふらふらと近づいていった。
 ──そのとき、リーン……と小さく音が鳴る。
 耳鳴りのような、鈴のような、形容し難い小さな音だ。花巻はパッと耳を押さえる。不快ではないが、何か背筋に寒気が走る。
 移動図書館は変わらず目のまえに居を構えていて、何も変化は見受けられない──一つ変わったことがあるとすれば、花巻が観察していたはずの男が、今度はこちらを見ていたということだ。細く切れ長の目を驚きに見開いて、そうして小さく笑う。
 彼によそ見をさせてしまったせいか、本がバサバサと音を立てて地面に落ちていく。いやに重たそうな二冊だっただけに花巻は思わず顔を顰めた。本が損傷していないか心配だったのだ。
「ごめん! 俺が気ぃ散らせたな」
「いや大丈夫だよ、よくやっちゃうから。本、探してるの?」
「あ、うーんと……それも、ごめん、通りすがりで。移動図書館って初めて見たから」
「あはは、いいよ、ここじゃ珍しいかも。田舎の方とか、病院とかに行くことが多いからね」
 男のゆったりと水面を滑るような口調に、花巻はぬるま湯に浸かったような居心地の良さを感じる。小さい折り畳みのスツールを広げて、彼はそこへ座った。
「俺はここで納品された本、乱丁ないか調べるけど……本じゃなくても、車の中とか、どうぞご自由に」
「いいの? サンキュー」
 やった、と小さく付け加えて呟く花巻に、
「好奇心旺盛なんだね」
 と男は、薄く微笑みを残したまま静かになった。穏やかな表情でカウンターに本をどさどさと置き、一冊ずつを丁寧にめくる。
 きっとあれは大変な作業だろうと花巻は、長丁場になりそうな彼の作業をチラリと盗み見て、車の中へ思い切って入ってみる。
 小さな棚の中に、ぎっしり本が詰まっている。かなりの大きさのある物から、ポケットに入るサイズまで。棚からはみ出している物は移動の際に散らかるのか、方々に散っている。小さな赤い寝袋と、読みかけの文庫本が一つ、アウトドア用の古びたランタンが一つ。ここで彼が寝泊りするのだろうか? 花巻は想像する。
 あの大きな男は、こんな狭いところでランタン一つ、きっとこの群れのような本を読みながら眠りにつくのだろう。
「それにしても……すげぇ数だな、何があんだろ……
 思わず感嘆した独り言は、宙を舞う。
 リーン……
 小さな鈴のような音が、今度もまた花巻の耳の奥でこだまする。二度目でも、さして気にはしなかった。きっとこの車の内部の、何か計器の音なのだろうと軽い気持ちで、花巻はその音を忘れることにする。
 本には明るくない花巻だから、流行りや人気の著者が誰かはわからない。けれど、直感でこれがいい、と判断した本は、正しく花巻を本の世界へ没頭させるに至った。
 まずは、絵本。タイトルは『ふわり』。
 気持ちの高揚を表したその言葉通り、主人公の男の子が色んな感情をふわりふわりと湧き立つごとに言葉にする。怒り、悲しみ、哀愁、そして喜び、楽しさ、など。けれど最後は、嬉しさ、で終わる。柔らかな印象の絵のタッチと、嬉しさで溢れた言葉の端々に、花巻は思わず主人公の男の子の頬を撫でる。
 次に、詩集。タイトルは『らしさ』。
 四つの詩をそれぞれ解説付きで、あるいは実話に基づく情景付きで、細かく紐解かれていく。花巻は、このたった四つの詩に作者が込める思いが、並々ならぬことを知る。特に彼の頭に強くこびりついたのは、
『小さなことも、変化の兆し。日常を疑っていくことは、変化の現れ。変わることを恐れてはならない。でもあなたは、そんな変化をも楽しく受け取れるような人だけれど』
 花巻は少し、自分自身が褒められているような、このままでいいと包まれているような感触を覚える。それは物理的に誰かに触れているでも、何かに包まれたわけでもない。花巻の生きる日常全てを一切否定されなかったような、暖かな共感だった。
 最後にもう一つと思ったが、こんこんと車の扉を控えめにノックする音で我に返った。
「ごめんね、集中してるところ。そろそろ出てこられる?」
「そんな時間経ってた?」
「うん、そろそろ店じまいするね」
 手に取ったままのその本を、手放すのが惜しいと感じたのは何年ぶりのことか。花巻は迷って、その本を車内の棚へ戻そうとした。
「もし気に入ったのあったら、持っていっていいよ。明日の昼にまたここにいるから」
 ドア越しにあののんびりとした声がまた聞こえて、花巻は思わずドアを開けた。あの男が、どんな表情でそれを言ったのか見たかった。
「借りてく、ありがと」
 やはり男は予想通り、相変わらずと言っていいのか、柔和な顔つきをしていた。
「一冊だけ借りるな」
 と花巻が言うと、
「本当は何冊でもいいよと言いたいけど、選ぶ時間が無いもんね、また明日。十一時から十五時まで出してるから」
 それ、今度は冷めないうちにおいでよ。そう言って、花巻が手に持っていた少しドーナツの油が滲みた紙袋を指さされた。
「ちょっと中身見えたから。もしかしてそこのドーナツ買った?」
 男はにっこり笑って「そこの、よく袋に油滲みるから、俺も前買って散々な思いした」と言って、カウンターや椅子を片付けて、本もきれいに収納していく。重たそうな本棚なのに、簡単に内部に収まっていくのが不思議だ。バタン、バタンと折り畳まれ、あっという間に普通の車になる。
「これから、どこか回んのか?」
「今日はこの後、病院。小児科の先生にお願いされてるからね」
「ふうん、絵本あったもんな、あれ好き」
「どれ?」
「『ふわり』って題名の。かわいかった。久々に読んだわ、絵本なんて」
……そう、その本。ふふ、いいよね」
 たかが絵本の話一つをやりとりしただけなのに、少し低い甘味を含んだ声に花巻の心臓は魚のように飛び跳ねる。
「また明日来る。休みだから」
「うん、待ってるよ」
「昼飯、は?」
「え?」
 男はまた、目を見開いた。初めて花巻を見た時と、同じ顔をしていた。
「俺の買うついでに、お前の昼飯も買ってきていい?」
良い本、貸してくれるお礼だから。そんなことをしどろもどろに伝えたら、男は最初に見たときと同じく柔らかく、やさしく笑った。
「じゃあお言葉に甘えます。なんでも食べるから、好きなの買ってきて」
「わかった。量、食べる方?」
「恥ずかしながら、かなり食べる」
「はは、わかった」
 花巻もつられて笑う。ひどく居心地の良いこの距離感も、空間も、彼が車を発進させればおしまいだ。花巻は自ら、方向転換をしてその場を断ち切る。
 彼から「じゃあね」という言葉と車のドアを閉じる音は、なぜか聞きたくなかった。