もう一度あなたと、美しい日々を

Pixiv再掲
移動図書館運営者の松川とアパレル店員の花巻の話です、時系列が変わる場面が多いので読みづらさがあるかもしれません SFっぽさあります



 そろそろ呼吸が絶えてしまいそうだ。そう思いながら花巻は、ひたすら走ってきた道のりを振り返る。汗が額から落ち、地面で小さくポタリと水滴が跳ねた。
 小さな細い路地をいくつも抜け、花巻はコンクリートで出来た塀を通り過ぎる。いつもここに来るときの目印にしていた塀だ。これを、曲がれば。
「松川……
 少し寒くなってきた星の見え始めた空を、見上げて白い息を吐き、花巻に呼ばれてその顎の角度を落として、こちらを見る長身の男がいた。
 リーン……とはっきりと、鈴の音は二人に共鳴するように鳴る。
 もうすぐで冬がくる。しんと静まった空気は冷えているのに、二人が見つめ合う空気は、微弱なぬるさがあった。
 花巻の心を埋め尽くし始めた、あとの二割の言葉を思い出す。絞り出すように、花巻は口を開いた。

(今日の昼)

 あれから1ヶ月、花巻は休みの日のたびに毎回松川のいる移動図書館を訪れた。昼飯を奢るときもあれば、奢られるときもあった。寒そう、と言って洋服を貸すこともあれば、寒いからとカイロをくれるときもあった。
 部活なんかやってた? と聞くとバレーと返ってくることもあれば、花巻もでしょ? となぜか知った口ぶりで言われるときもあった。
 本を借りるときもあれば、借りずに話して終わるときもあった。借りる本は決まって、松川が「それは良い本だね」と言ってカバーをかけて渡してくれた。そしてそれらの内容はいつも、花巻の心を至極くすぐった。だけれどいつも、誰かを探しているような、追いかけているような、そんな描写のものが多い。まるで今の花巻の、ふつふつと湧き立つ焦燥をあけすけにしてしまっているようで、暴かれるような恐ろしさも感じた。
「松川は、俺のことなんでも知ってるのな」
 どうして、なんで、と何度も問い質しても、松川は答弁を避ける。その代わり「お客さんがこんなのくれたよ」なんて甘いお菓子のキラキラした詰め合わせを差し出したりするから、その彩りや美味しさに負けて、花巻はもぐもぐと咀嚼せざるを得ないし、その話はここでおしまい、と暗に煌びやかなお菓子たちが伝えてくる。
 最近は諦めたように、先程の言葉を花巻が投げつけて、いつも満足そうに松川は笑うのだ。その笑顔は、花巻の中の松川表情集には掲載されていなくて、そしてかなり気に入った笑顔だったから、出会って会話が進んでたら必ず口に出すようにしていた。
 松川は俺のことを、なんでも知っている、と。
「いつか、お前がモデルで店の服の写真撮りたいな」
「俺、そんなにスタイル良くないよ」
「いやいや、なに言ってんだよ。俺だってたまに着させられて店のSNSに載せられるんだから、お前も大丈夫。むしろお前の方が似合いそう」
「あらぁ、上手いこといって。アタシは店舗運営の為の駒なのね……
 ブハッと花巻はコーヒーを吹いてしまい、「やだきたなーい、これで拭きなよ」なんて松川のおかしそうな顔が見えた。ケタケタ笑う花巻は、コーヒーをさらにこぼすといけないから松川に預けて、腹を抱えている。
 松川は笑って、花巻の飲んでいたコーヒーに口をつける。ほろ苦くてわずかに酸味のあるそれは、口の中に広がってわずかに喉を潤しただろう。
 花巻は知らない。その豪快に笑う花巻の笑顔が、常に松川の中の花巻表情集の一面を飾っていることを。
「俺のコーヒー飲んだな」
 見かけによらず、子供っぽいところ。甘いものが大好きで、よく笑い、怒り、泣き、くるくると、明るく変化すること。冒険が好きなところ。新しい物が好きなところ。
「花巻」
 松川のコーヒー飲んでやる、とぶつくさ言っていた花巻に、松川は穏やかに声をかける。一段と冷え込んできた最近の風は冷たい。松川は、その白い首筋に大きめの自分のマフラーをかけてやる。
「俺ね、明日からちょっと別の場所行くんだ」
 ──俺ね、明日からもう会えないの。
 松川が言ったはずの言葉は、自分の中で幻影と重なる。いや、それは幻ではなく、残像だ。
 弱々しいそのビジョンの主は、紛れもなく花巻だ。どうして、同じ言葉を聞いて自分が言ったことのように感じるのだろう。
 リーン……とまた、鈴が鳴る。
「ま、つかわ」
「だから、今日、これ借りてって」
 差し出された本は、A4サイズの、古びた鍵がついていた。鍵はもう穴も錆びていておそらくかからない。簡単に開いたその本は、えんじのベルベットの表紙がしっとりと花巻の手に馴染む。
「今夜は、星がきれいそうだから、夜までここにいるから」
 花巻がどういうことだと口を開きかけると、後ろから、
「移動図書館、珍しいわねえ」
 と年老いた夫婦が懐かしむ声がする。
「どうぞ、見ていきますか?」
 松川はそう言って、夫婦をカウンターまで案内する。あれこれと本を見ていく夫婦の後ろから、また一人別の男性が来て、遠くから小さい子供もやってくる。
 ──花巻は、それきり松川とは話せなかった。飲みかけの松川のコーヒーが手元に残され、花巻のコーヒーはそっと運転席に松川が置いてきてしまった。
 客の問いかけにも柔らかく応じながら、松川はふと花巻を見る。それは、今までの花巻の中で、見たことのない松川の表情だった。