8話✧追械




翌年─

……この館も、ずいぶんと変わったな。」

ぽつりと、独りごとのように呟きながら、ルフレは談話スペースを見渡していた。かつて仲間たちとくつろいだその空間は、今や会議スペースへと姿を変えていた。ホワイトボードが立てかけられ、馴染み深かったソファはすっかり新しいものに置き換えられている。

館全体のアンティークな雰囲気は昔と変わらない。だが、照明器具や家具、床板の一つひとつに年月の変化が刻まれていた。新しいフローリングは、当時と同じ色合いを保ちながらも、滑らかな木目で磨かれている。

……600年も経ったなら、仕方ないか)

そう自分に言い聞かせる。けれど、変化というものは思い出の輪郭を薄くするようで、どこか寂しさをおぼえた。

ゆっくりと階段を降りる。古びて軋むその段差だけはあの頃とまるで変わっていない。それが少しだけ、心を落ち着けてくれた。

目指すのは、気になっていた「例の部屋」。扉を開けるとそこもまた、倉庫として整えられていた。ナーデルの浴室と共に過去の記憶を連想させるグロテスクな部屋はもう存在しない。心のどこかが、ほっとしたように息をついた。

そのまま、各々の部屋へと続く廊下の扉を開ける。

……まずは、一番端。カラベラフィルムさんの部屋から)

「08」と書かれた扉に手をかけ、そっと開く。

──ガチャ。

……?」

部屋の中を見回し、思わず声を漏らす。

「変わって……ない?」

目を凝らせば家具のいくつかが入れ替わっている。だが、空気の匂いや佇まいは、あの頃とほとんど変わらない。それが、不意に心臓を打つ。

他の部屋もひとつずつ見て回った。自分の部屋、シアノの部屋、フィリップの部屋……そして最後に、グラディエーターの部屋。

最後の扉を閉めると、胸が高鳴るのを押さえながら足早に大広間へ向かった。



扉の前に立つ。思い出されるのは、数分前に聞いた誰かの声。

『おはよう、ルフレ』 『みんな?う、うーん……いる、のはいるけど……』 『もう少しだけこの部屋でゆっくりしていったら?』 『え、えぇ、もう行っちゃうの!?』 『あ、あぁ……そっかぁ……

歯切れの悪い返事の数々。

……みんな、いないのかと思った)

でも、あの部屋には生活の痕跡があった。誰かがそこに「いた」と分かる空気が、確かにあった。

(だったら……この先に、みんなが……

心臓の鼓動が一段と速くなる。けれど、同時にそれが裏切られたらどうしようという不安が、喉元を苦しく締めつけた。

希望なんて持ちたくない。それでも──。

「っ……はぁ……

深く息を吸い込む。そして。

──バンッ!

勢いよく扉を開けると、飛び込んできたのは予想外の光景だった。

「「えぇ〜〜〜!!??」」

響き渡る声。

「なっ!ルフレ!!??」 「ルーちゃん!?もう起きてしもたん!!??」

脚立に登って何かを壁に貼り付けているグラディエーター。その脚立を抑えている樊凌。2人が驚きのあまり目を丸くしている。

「やっぱり!もっと早めに準備しておくべきだったじゃないですか!」 「……まぁ、このメンツじゃスケジュール通りに行くわけないですよね……

何やら荷物を運んでいる白浪とシアノも、困ったように口を揃えた。

「うむ……まだ終わりそうにないが……

カラベラフィルムが、壁の飾りを見上げながらつぶやく。

……これって……

目の前に広がる光景に、ルフレは息を呑んだ。
大広間には、風船やガーランド、色とりどりの飾り付けがそこかしこに配置されている。だが、机の上にはまだ膨らんでいない風船や貼られていない飾りが散らばっていた。

──なるほど、ヒストリアが渋っていたのは、こういうことだったのか。

くすぐったさと、彼らの詰めの甘さに思わず頬がほころぶ。

「ルフレさん」

ふいに、隣から声がかかった。振り向いた先にいたのは……

……っ!」

言葉が出ない。けれど、彼の姿は、心の奥底に深く刻まれている。

「フィリップです。僕は“消えた”らしいし、覚えてないでしょうけど」

彼は自嘲気味にそう言った。

「フィ、リップさん……

でも、彼の存在は……その声も、姿も、理由もなく、胸の隙間をそっと埋めていく感覚があった。

「それより、コレ」

……え?」

 差し出されたのは、まだ膨らんでいない風船だった。

……あの……この飾り付けって、何のために?」

「ルフレさんが目を覚ましたことと、全員が揃ったことを祝うためだそうですよ」

 その言葉に、思わず黙り込む。

……祝われる僕自身が……?)

 その戸惑いが顔に出ていたのだろう。すると、すかさず後ろからラートが花束を差し出してくる。

「風船を膨らますのが嫌なら、机の上に置く花瓶の仕事があるぞ。俺がやると爆発してるようにしか見えないと笑われたからな」

……いや、仕事を選んでるとかじゃないんですけど……

この人たちは本当に僕を祝う気があるのか

そんな皮肉めいた言葉が喉まで出かけて、けれど飲み込んだ。

「ははっ、せっかく全員が集まったんだ。全員で準備すればいいじゃないか!」

そう言って笑うグラディエーターが、脚立から軽やかに飛び降り、ルフレの肩をぽんと叩く。

「それに、俺たちだけじゃどうにも上手くいかなくてな」

視線を向けると、確かにガーランドは斜めに垂れ、ラートの花瓶はまるで花が爆発したかのような状態だった。

……はぁ、まったく。仕方ないですね」

呆れたように息をつきながらも、ルフレは風船を手に取った。ふと、横目で見たラートが、少しだけ目を細めている。

「僕がいないと、本当にダメなんですから」



自然とこぼれたその言葉には、叱るような響きではなく、懐かしさと、ほんの少しの喜びが滲んでいた。

誰も何も返さなかったが、空気がやわらかくほどけていくのが分かった。

「ほら、さっさと終わらせてしまいますよ!」



……



数時間後──

「よしっ!! これで終わりだ!!」

グラディエーターの快活な声が、大広間に高らかに響いた。
その声に続いて、「おぉ!! めっちゃええ感じやん!!」と、樊凌が手を叩いて喜ぶ。

華やかに飾り付けられた大広間。

色とりどりの風船やリボン、垂れ幕、手作りの飾りが天井や壁に所狭しと並び、どこか素朴ながら温かみのある空間が広がっていた。

樊凌とカラベラフィルムは、子どものようにはしゃぎながら完成した装飾を見渡している。
その様子を、フィリップは少し離れた場所──大広間の片隅から、静かに見つめていた。

……やっぱり、謝るべきかな)

ふと胸の奥に引っかかるような感情が浮かび、彼はそっと視線を落とす。
何が原因だったのかは曖昧で、記憶はところどころ霧に包まれていた。ただ、心のどこかで、うまく言葉にできない澱のような違和感が残っていた。

(でも……相手だって、同じはずだ)

もしも突然、「何が悪かったのか分からないけど」と謝ったら、それはそれで失礼なのではないか。思えば思うほど堂々巡りになり、結局なにも言えないまま、時間だけが過ぎていく。

気づけば、皆は片付けに移っていた。

「とりあえず……もう使わない道具類はこれだけですかね」

白浪が淡々と確認すると、隣にいたシアノが頷く。
ふと、シアノと目があった。

……この量なら、四人いれば十分でしょう。自分と白浪、ルフレとグラで運びましょうか」

「えぇ、また僕ですか?」

「ははっ! 重くて持てないと言うのなら、ルフレの分まで俺が代わりに」

……あーもう、わかりました、運びますよ。このくらい僕だって持てますから」

小さく拗ねたようなルフレの返答に、グラディエーターが楽しげに笑う。
それに続いて白浪とシアノも、黙って荷物を手に取り、四人は自然な流れで大広間を後にしていった。

(気付かれてた……?)

彼の行動にふいに首を傾げる。

残されたのは、樊凌とカラベラフィルム、ラート。そしてフィリップ。
前の二人は深くは気に留めていない様子で、飾りの一部を手直ししながら椅子に腰かけ、雑談を始めている。

……謝るなら、今しかない)

このタイミングを逃せば、きっとずっと言い出せなくなる。
それが分かっていても、心と身体がちぐはぐで、あと一歩が踏み出せなかった。

そのときだった。

「フィリップ」

背後から、穏やかでどこか低く落ち着いた声が届いた。

肩がびくりと震え振り返る。そこにいたのは、ラートだった。

……ラートさん。どうしました?」

声をかけた彼は、いつになく真剣な面持ちをしていた。
まっすぐこちらを見据えるその視線に、思わず胸の奥がざわつく。
ラートは僅かに眉を動かし、何か言いたげに口を開いた。

だがすぐには言葉が出てこない。
躊躇っているようにも見えたし、慎重に言葉を選んでいるようにも思えた。

ほんの数秒の沈黙……
意を決したように口を開いた。

……”あの日”は、ごめん」

……え?」

思ってもいなかった言葉に声が漏れる。

あの日がいつだったのか何があったのかもう、はっきりとは覚えていない。でも、それでもどうしても謝らなければならない気がしていた。」

真っすぐな瞳。その誠実な声音に、不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。
こちらの心を見透かすようなその言葉に、思わず口元がほころぶ。

……そんなに気にしなくてもいいのに」

フィリップが柔らかく微笑むと、ラートも安心したように顔を緩めた。

……それと、もうひとつ」

……?」

「何があっても、俺は味方だ」

穏やかなのに、力強い声だった。

「辛いことや、抱えきれないことがあったら……いや、どんな些細なことでもいい。誰かの手が必要なときは、いつでも頼ってくれ」

その言葉が、深く心に染み込んだ。
ふいに、ぐっと胸が締め付けられるような感覚が押し寄せる。

ずっとその言葉を求めていたように、心が満たされる感覚。
彼にそう言って貰える日を待ち望んでいたような……

…………

言葉にならない感情をぐっと飲み込み、フィリップは少しだけ視線を逸らしてそれから意を決したように言った。

「それじゃ……お言葉に甘えて……

そっと、彼の手を取る。

「2人に謝る手伝いをしてくれませんか?」



握ったその手から伝わる、人の温もりは本物の火よりもずっと暖かく、そして心地よかった。
ラートは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて頷く。

「あぁ、もちろん」

その言葉とともに、ラートは一歩を踏み出した。
手を引くようにして、2人が待つ方へと進んでいく。

「樊凌、カラベラフィルム。実は──」

窓から差し込む陽光がラートの背をやさしく照らしていた。
金色の髪が光を受けて柔らかく煌めく。

その後ろ姿は、どうしようもなく眩しかった。



心がじわりと熱を持つ。

フィリップは一回り大きなその手の温もりを確かめるように……握られた手をぎゅっと握り返した。