8話✧追械




5年後─

まだ青白い夜明けの空の下、冷たい朝の風が野の草花をそよがせている。



……ヒストリア殿の話では、この辺りに……

ふと、風に混じって懐かしい匂いが鼻先をかすめた。花々の甘やかな香りとは違う、あの香り。
足を止め、そっと顔を上げた。

……あっ」



花々が咲き誇る静かなこの丘。
その奥には墓石がいくつも並んでいた。
その中央に、ぽつりと佇む人影がある。

橙色の朝陽が、その白い髪を淡く照らし出していた。

一歩。二歩。
無意識のうちに足が動く。
気がつけば、彼のもとへと向かっていた。

「っ、シアノ……

声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。

「随分と深い眠りだったみたいですね。11年も寝てたなんて。」



逆光でその表情はよく見えない。まして、マスクと深い黒の瞳がその心を隠してしまっている。
それでも……

……想像以上に、嫌なもんですね。待つっていうのも、残されるっていうのも。」

ぽつりとこぼれたその声は、ひどく悲しげで、どこまでも寂しそうだった。



次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
気づけば足が地を蹴り、彼の身体を抱きしめていた。

……っ、すまない、シアノ……



震える声が、自然と漏れた。
けれど、彼は肩越しにくすりと笑う。

……っはは、別に……お互い様ですし」

その声はさっきまでの寂しさとは違って、どこか安堵と喜びがにじんでいた。

少し間を置いて、彼は小さく呟いた。

……おはよう、カフィ。」

やっと触れることができた、その温もり。
やっと聞くことができた、その声。
胸の奥に押し込めていた想いが、堰を切ったようにあふれ出し、瞳が溶け出しそうになる。
名を呼ばれただけで、こんなにも胸がいっぱいになるなんて。
その温もりを確かめるように、もう一度、強く彼を抱きしめた。

……っ、おはよう、シアノ。」

声は震え、滲むように空へ溶けていく。
気がつけば、自分の瞳と同じ色夜明けの淡い橙が、あたり一面を優しく包み込んでいた。



……



墓標がぽつぽつと立ち並ぶ、色とりどりの花畑の丘。
どこか異質で、けれど不思議と穏やかさも漂うこの場所に2人は静かに並んで腰を下ろしていた。

遠く、水平線の先には、ゆっくりと朝日が昇っているのが見える。

しばらくの沈黙の後、風に吹かれる花が揺れる音を聞きながら、ふと、ずっと胸に引っかかっていたことを言葉にした。

……核心は、叶えられましたか?」

唐突に聞こえたかもしれない。けれど、長く抱えていたその疑問は今しか問えなかった。

カラベラフィルムは少し目を伏せる。言葉を選ぶように短い間を置いた後、小さく笑った。

……あぁ。私たちがこうして再会できたということが、核心が叶えられた証だ」

どこか含みのあるその言い方に、思わず首を傾げる。
その仕草に気づいてか、彼はまた少し笑って言った。

……その話は、いつか改めて話そう。」

 そして、ぽつりと付け加えた。

「私の生に悔いはなかった。けれど……

「けれど?」

「貴殿がいないのは、どうにも物足りなかった。」

さらりとした言葉だったが、その瞳は真剣だった。
オレンジ色の朝焼けに照らされて、彼の輪郭がどこか遠くの記憶と重なる。
あの日、最後に見た景色を思い出し、胸に鈍い痛みが走った。

……

(あの後、カフィは幸せに生きられたのだろうか。)

(もし、自分の死が枷になってしまっていたら。)

この世界で目を覚ましてからというもの、ずっとそればかりを考えていた。

(……やっぱり、自分のせいで……)

そう自責の念に駆られそうになる。
しかし、彼の言葉は続いていた。

……しかし、それはもう過ぎたこと。こうして今、貴殿が隣にいてくれるのなら、それだけで私は十分だ」

そう言って彼は静かに立ち上がり、こちらに手を差し出す。

……?」

……あの館いや、あの研究所で皆が過ごす中、貴殿だけが長くここにいると聞いた」

彼の声は、どこまでも穏やかだった。けれど、その奥にある想いは確かだった。

「貴殿が静かな場所を好むことは知っている。だが、それでも私は、貴殿にも皆と同じあの館で、日々を共にしてほしいと願っている。」

そんなまっすぐな願い。

その言葉に、思わず視線を逸らしてしまう。

(……研究所……)

その言葉を聞いて思い出すのは、彼が眠っていたあの日々。

ひとり、またひとりと仲間たちが目を覚まし、日常を取り戻していく。
けれど彼だけは、ずっと目を開けなかった。
……形のないものを相手にするその研究は、あまりに難解で、果てが見えなかった。

そうだね、まだ時間がかかるかな』
『今はひとまず別の作業を……

いつ起きるのか、何度問いかけても曖昧な答えが返ってくるだけ。
自分にはただ待ち続けることしかできなかった。

そしてある時ふと思ってしまった。

……もし、カフィだけがカラクリになれなかったら)

その想いが頭から離れず、次第に研究所へ足を向けることが重荷になっていった。

もちろん、共有すべき情報があれば行った。研究の進捗を手伝うこともあった。
けれど、それ以上の理由であの場所にいることが、どこか怖かった。

……それに。

……まだ、二人きりがいい、なんて……言えないな)

自嘲気味に息を吐いて、彼の差し出された手を見る。
そしてゆっくりと視線を上げ、まっすぐに見つめ返した。

……嫌だと言ったら?」

「この件に限り、妥協するつもりはない。貴殿が頷くまで、私はここにいよう」

彼はそれだけを真っ直ぐに言った。そして、少し肩の力を抜くように笑みを浮かべる。



……それに、ここで断られたら……今世は、死んでも死にきれないな」

「なっ……

思わず声が漏れる。そんな言葉、予想していなかった。

ただ、笑みを浮かべてそんな言葉を言う彼に、気付けば胸の奥に溜まっていた何かがふっとほどけていた。

「っはは……それは、ズルでしょう」

笑いながら、そっと彼の手を取る。
確かな温もり。何度も夢で追いかけて、届かなかったその手が今はここにある。

……せめて、ゆっくり話しながら帰りましょう?」

そう言いながら、少しだけ強く手を握り返す。
足元の花を踏まぬように、ふたりは朝の丘をゆっくりと歩き出した。

朝日は高く昇り、眠っていた世界をやさしく照らしていく。
暖かな風がふたりの頬をそっと撫でていった。