5年後─
まだ青白い夜明けの空の下、冷たい朝の風が野の草花をそよがせている。
「
……ヒストリア殿の話では、この辺りに
……」
ふと、風に混じって懐かしい匂いが鼻先をかすめた。花々の甘やかな香りとは違う、あの香り。
足を止め、そっと顔を上げた。
「
……あっ」
花々が咲き誇る静かなこの丘。
その奥には墓石がいくつも並んでいた。
その中央に、ぽつりと佇む人影がある。
橙色の朝陽が、その白い髪を淡く照らし出していた。
一歩。二歩。
無意識のうちに足が動く。
気がつけば、彼のもとへと向かっていた。
「っ、シアノ
……」
声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。
「随分と深い眠りだったみたいですね。11年も寝てたなんて。」
逆光でその表情はよく見えない。まして、マスクと深い黒の瞳がその心を隠してしまっている。
それでも
……
「
……想像以上に、嫌なもんですね。待つっていうのも、残されるっていうのも。」
ぽつりとこぼれたその声は、ひどく悲しげで、どこまでも寂しそうだった。
次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
気づけば足が地を蹴り、彼の身体を抱きしめていた。
「
……っ、すまない、シアノ
……」
震える声が、自然と漏れた。
けれど、彼は肩越しにくすりと笑う。
「
……っはは、別に
……お互い様ですし」
その声はさっきまでの寂しさとは違って、どこか安堵と喜びがにじんでいた。
少し間を置いて、彼は小さく呟いた。
「
……おはよう、カフィ。」
やっと触れることができた、その温もり。
やっと聞くことができた、その声。
胸の奥に押し込めていた想いが、堰を切ったようにあふれ出し、瞳が溶け出しそうになる。
名を呼ばれただけで、こんなにも胸がいっぱいになるなんて。
その温もりを確かめるように、もう一度、強く彼を抱きしめた。
「
……っ、おはよう、シアノ。」
声は震え、滲むように空へ溶けていく。
気がつけば、自分の瞳と同じ色
…夜明けの淡い橙が、あたり一面を優しく包み込んでいた。
……
墓標がぽつぽつと立ち並ぶ、色とりどりの花畑の丘。
どこか異質で、けれど不思議と穏やかさも漂うこの場所に2人は静かに並んで腰を下ろしていた。
遠く、水平線の先には、ゆっくりと朝日が昇っているのが見える。
しばらくの沈黙の後、風に吹かれる花が揺れる音を聞きながら、ふと、ずっと胸に引っかかっていたことを言葉にした。
「
……核心は、叶えられましたか?」
唐突に聞こえたかもしれない。けれど、長く抱えていたその疑問は今しか問えなかった。
カラベラフィルムは少し目を伏せる。言葉を選ぶように短い間を置いた後、小さく笑った。
「
……あぁ。私たちがこうして再会できたということが、核心が叶えられた証だ」
どこか含みのあるその言い方に、思わず首を傾げる。
その仕草に気づいてか、彼はまた少し笑って言った。
「
……その話は、いつか改めて話そう。」
そして、ぽつりと付け加えた。
「私の生に悔いはなかった。けれど
……」
「けれど?」
「貴殿がいないのは、どうにも物足りなかった。」
さらりとした言葉だったが、その瞳は真剣だった。
オレンジ色の朝焼けに照らされて、彼の輪郭がどこか遠くの記憶と重なる。
あの日、最後に見た景色を思い出し、胸に鈍い痛みが走った。
「
……」
(あの後、カフィは幸せに生きられたのだろうか。)
(もし、自分の死が枷になってしまっていたら。)
この世界で目を覚ましてからというもの、ずっとそればかりを考えていた。
(
……やっぱり、自分のせいで
……)
そう自責の念に駆られそうになる。
しかし、彼の言葉は続いていた。
「
……しかし、それはもう過ぎたこと。こうして今、貴殿が隣にいてくれるのなら、それだけで私は十分だ」
そう言って彼は静かに立ち上がり、こちらに手を差し出す。
「
……?」
「
……あの館
…いや、あの研究所で皆が過ごす中、貴殿だけが長くここにいると聞いた」
彼の声は、どこまでも穏やかだった。けれど、その奥にある想いは確かだった。
「貴殿が静かな場所を好むことは知っている。だが、それでも私は、貴殿にも皆と同じあの館で、日々を共にしてほしいと願っている。」
そんなまっすぐな願い。
その言葉に、思わず視線を逸らしてしまう。
(
……研究所
……)
その言葉を聞いて思い出すのは、彼が眠っていたあの日々。
ひとり、またひとりと仲間たちが目を覚まし、日常を取り戻していく。
けれど彼だけは、ずっと目を開けなかった。
水
……形のないものを相手にするその研究は、あまりに難解で、果てが見えなかった。
『
…そうだね、まだ時間がかかるかな』
『今はひとまず別の作業を
……』
いつ起きるのか、何度問いかけても曖昧な答えが返ってくるだけ。
自分にはただ待ち続けることしかできなかった。
そしてある時ふと思ってしまった。
(
……もし、カフィだけがカラクリになれなかったら)
その想いが頭から離れず、次第に研究所へ足を向けることが重荷になっていった。
もちろん、共有すべき情報があれば行った。研究の進捗を手伝うこともあった。
けれど、それ以上の理由であの場所にいることが、どこか怖かった。
……それに。
(
……まだ、二人きりがいい、なんて
……言えないな)
自嘲気味に息を吐いて、彼の差し出された手を見る。
そしてゆっくりと視線を上げ、まっすぐに見つめ返した。
「
……嫌だと言ったら?」
「この件に限り、妥協するつもりはない。貴殿が頷くまで、私はここにいよう」
彼はそれだけを真っ直ぐに言った。そして、少し肩の力を抜くように笑みを浮かべる。
「
……それに、ここで断られたら
……今世は、死んでも死にきれないな」
「なっ
……」
思わず声が漏れる。そんな言葉、予想していなかった。
ただ、笑みを浮かべてそんな言葉を言う彼に、気付けば胸の奥に溜まっていた何かがふっとほどけていた。
「っはは
……それは、ズルでしょう」
笑いながら、そっと彼の手を取る。
確かな温もり。何度も夢で追いかけて、届かなかったその手が今はここにある。
「
……せめて、ゆっくり話しながら帰りましょう?」
そう言いながら、少しだけ強く手を握り返す。
足元の花を踏まぬように、ふたりは朝の丘をゆっくりと歩き出した。
朝日は高く昇り、眠っていた世界をやさしく照らしていく。
暖かな風がふたりの頬をそっと撫でていった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.