ひんやりとした空気が、肌を優しく撫でる。
遠い記憶の中にあった風のようでどこか懐かしい感触。
「おはよう。調子はどうかな?」
ふと、誰かの声がかすかに耳元で響いた。
穏やかで柔らかく、ハツラツとした女性の声。
その声に徐々に意識が鮮明になり、まぶたの裏にじんわりとした光がにじんだ。
同時に、どこか埃っぽい不思議な匂いが鼻をかすめる。
「っあ
……」
何も分からないまま、試しに口を動かしてみると息とともに微かな声が漏れた。
「ああ、すぐには動けないだろうし、ゆっくりでいいよ」
その言葉に、ゆっくりと、首を動かしてみる。
途端に「ぎ
……っ」と、耳元で鈍い音がした。まるで久しぶりに動かした関節が軋むかのような音だった。
(
……身体が、重い)
やがて、指先にじんわりとした感覚が戻ってきた。
ほんの数ミリ。意識を集中させると、指がぴくりと震える。
(
……動ける)
そう確信し、ゆっくりと目を開けた。
色味のない、けれどどこか冷たく澄んだ光がまぶたの隙間から差し込んでくる。
(っ
……まぶしい
……)
目を細めながら、少しずつまぶたを持ち上げていく。
瞳に世界の色がじわじわと流れ込み、輪郭を取り戻していった。
そして
……
「おっ、目が覚めたみたいだね」
声の主は、まるでずっとこの瞬間を待っていたかのように、すぐ目の前にいた。
色素の薄いその髪は光を受けてかすかにきらめき、白衣を羽織った姿は研究者のようにも見えた。
彼女の背後には、天井まで届きそうなほどの棚が並んでいる。瓶や書類、奇妙な部品たちが並ぶその光景は、どこか実験室めいた空気を醸し出していた。
(
……研究室
……?)
脳裏にそんな言葉が浮かび上がるのと同時に、目の前の少女と視線が交わる。
その鮮やかな赤い瞳は遠い昔の誰かを思い出させた。
名前も分からないが
……確かに自分はこの瞳を持った誰かを知っている。
彼女はそんな自分の内心に気づいているかのように、ふわりと微笑んだ。
嬉しそうに、懐かしそうに。
まるで、長い旅の末にようやく出会えた、旧友に対するような微笑みだった。
そして、彼女は口を開いた。
「おはよう。吹雪型駆逐艦、白浪」
静かな言葉が、耳の奥に染み込んでいく。
(
……え?)
その名前に、胸の奥で何かが反響する。
(僕は
……)
“あの日”、二度目の終焉を迎えたはずだった。
暗い深海の中で、自分は確かに海に解けてしまったはず。
心が凍っていく感覚も、視野がぼやけている感覚も全て覚えているのに
…
(なのに
……どうして?)
戸惑いながら周囲を見渡していると、彼女は肩をすくめるように笑い小さく息を吐いた。
「ここは平叶870年。君が死んでから、だいたい600年以上が経った世界だよ」
「
……え
……?」
その言葉は、まるで冷水を頭から浴びせられたような衝撃だった。
(600年
……?)
思考が追いつかない。
けれど、そんな中でも心の奥に引っかかったものがある。
「
……ほ、他のみんなは
……!」
思わず身を起こそうとしたその瞬間。
ピシッ─!
「っ
……!」
腕に走る違和感と痛み。視線を落とせば、自身の腕から何本ものコードが伸びているのが見えた。
無機質な金属の線が肌に絡みつき、その先は背後の何かへと接続されている。
「
……配線
……?」
困惑の中、後ろを振り返る。
そこには、巨大な電子基板のような装置が鎮座していた。精密なパーツが複雑に組み合わさり、時折微かに点滅する光が脈動のように瞬いている。
一体自分の身に何が起きているのか。
他のみんなは無事なのか。
(
…こうしちゃいられない)
腕のコードに手を伸ばし、強く握りしめ引きちぎろうとしたそのとき。
「ちょ、ちょっと待った! 今、外すから!」
彼女が慌てて駆け寄り、素早く器用な手つきでコードを外していく。その手際は、まるで何度もこの作業をこなしてきたかのようだった。
(
…すぐに外してくれてる
……?なら、この人は敵じゃないのか
……)
そう思うと少しだけ体の緊張がほぐれた。
「よし
……これで動けるよ」
数分後、最後のコードが外され彼女が言った。
自由になった腕を支えにして、ゆっくりと体を起こす。重たかった身体が、少しずつ自分の意志に従うようになっていく。
(
…この感覚
…過去に戻った時と似てるな
……)
そんなことを考えながら立ち上がると、視界が一気に広がった。もう一度辺りを見渡すがやはり仲間の姿は見当たらない。
「それで
……」
もう一度聞こうと口を開こうとした白浪に、彼女が先に言葉を重ねる。
「ああ、そうだった。みんなのこと、だったね」
彼女はふっと微笑みを消し、初めて少しだけ真剣な面持ちを見せた。
「
……今、“作動”できるようになったのは、君だけだよ」
「
……作動?」
“作動”
まるで自分が、機械であるかのような言い方に息を呑んだ。
(機械
……)
その単語が頭の中で反響し、さっきまで繋がれていたコードの感触が鮮明に蘇る。
(もしかして
……僕は
……)
呆然とした白浪の表情に、彼女はそっと微笑みを返す。
「大丈夫。一つずつ説明していくよ。今の世界がどうなっているのか」
「それに
……君たち、“械(カラクリ)”についてもね」
……
「械(しかけ)」
それは、処刑・拷問・兵器など、かつて人類が用いた残酷な装置の総称。
約600年前、ようやく手に入れた人類の平和は、「八械」と呼ばれる人の姿を得た“械”によって破壊された。
時の政府は国の総力を挙げて彼らを撃破し、世界に平和を取り戻した。
それが、今に伝わる歴史
……
そして現在。
「君たちは、械の想いを原動力とするアンドロイド、“カラクリ”だ」
そう語ったのは、目の前の女性、ヒストリア・バートリー。
彼女は、白く透き通るようなガラス片を手にしていた。
「
…原動力って
……僕たちの核心を、ということですか?」
「ああ、その通り。君たちの核心には、元の姿の一部出ある遺物
……このガラス片のような破片が収められていた。私たちはそれに記憶が宿っていると信じ、研究を続けてきたんだ」
「
……物に、記憶が
……」
その瞬間、ふと、自分の最後の光景が脳裏をよぎった。
「
……僕の破片って
……どうやって見つけたんですか?」
あの日、自分は海の底に沈んだ。
広大な海から、手のひらほどの破片を探し出すなんて不可能に近いはずだ。
その問いに、ヒストリアはどこか誇らしげに口角を上げて笑った。
「よくぞ聞いてくれた! それはね──」
思わず、ごくりと息を呑む。
「それは、初代の記録をもとに、ひいおじいちゃんが“根気”で見つけたんだ!」
「こ、根気
……!?」
思いがけない言葉に、思わず声が漏れた。
「ああ。正確には、ひいおじいちゃんよりも前の代から探し続けていたんだよ。何世代にもわたる執念で、ようやく見つけ出したのさ」
彼女は目を細め、静かに語る。
「でも
……どうして、そんなにまでして
……? あなたたちにとって僕たちは“因縁の相手”のはずじゃ
……」
不思議そうな顔をしていた彼女だったが、ふと何かを思い出したように「あっ」と声を上げる。
「そうだった。まだ“君たちが必要な理由”を話してなかったね」
そう言うと彼女は1枚の紙を取り出した。そこには、何かしらのグラフが描かれている。
「これはこの世界における犯罪者の推移を表したグラフだ。見てのとおり、ずっと右肩上がりさ」
確かに、そのグラフに下がりの兆しはない。
けれど、それと“僕たち”に何の関係があるのだろうか?
疑問を浮かべる白浪に、彼女は続けた。
「この世界には最低限の法律しかない。“人の善意”を信じる社会を目指した結果だけど、やはりそれだけじゃ限界がある」
「
……とはいえ、かつての人類のように法を増やし、人間が人間を裁けば、きっとまた“自由”は縛られ、同じ歴史を繰り返すことになるだろう。」
彼女は視線をまっすぐに向けて言った。
「だからこそ
…君たちの存在が必要なんだ。人々の良心を呼び覚まし、“自らを律する”力を取り戻す。真の自由、真の平和を人々の手に取り戻してもらうために」
「
……そしてもう一つ。君たちには、過去の“歴史”を知る存在として、人々に見聞を伝える役割も担ってほしい」
呆気に取られる白浪に、ヒストリアは続ける。
「それに
……君たちにはまだ“生きて罪を償う必要がある”っていう初代からの“遺言”があってね」
「
……初代の、遺言?」
「詳しくは私にもわからない。八械の存在自体、今じゃ一部の研究者や有識者しか知らない。けれど、初代がそう言い残したからこそ、私たちの一族は代々この研究を受け継いできた」
彼女は一瞬、視線を伏せて呟いた。
「私自身、なぜそこまでこの遺言に従ってきたのかは、正直わからない。でもね、」
再び顔を上げ、こちらをまっすぐに見据える。
「“思いを繋ぐ”って、なんとなくかっこいいと思わない?」
「っ」
「
……っはは、そんな理由ですか
……?」
あまりにもあっけない答えに思わず笑みがこぼれる。
けれど
……
「
……でも、確かに、かっこいいと思います」
かつて、祖国を支え、戦場で散っていった仲間たち。
何百年も前から積み重ねてきた伝統。
“思い”を継ぐことの重さと誇りを、自分は誰よりも知っていた。
そっと胸に手を置けば、共に戦い抜いた弟たちの姿が浮かぶ。
─日本は、どうなったのだろう。
自分が消えた後
……本当に、元の歴史の通りに日本は負けて終わってしまったのだろうか
……
そんな想いが胸をよぎる中、ふと、別の疑問が浮かんだ。
「そうだ
……なぜ僕が最初なんです? 他の方々は、破片が手元にあった分、もっと早く作動できたんじゃ
……」
その問いに、ヒストリアは「いい質問だ」とばかりに微笑むと、ビシッと指をこちらに向けた。
「これから平和を築く者のトップバッターには、“平和の象徴”である君以外にいないだろう?」
「
……!」
その言葉に、思わず目を見開く。
「もちろん、私だって“八械”が素直に話を聞くような存在じゃないことは承知している。でも、君なら
……きっと、力になってくれる。そう信じてる」
「それに
……実は、研究が行き詰まっていてね。どうしても“械”本人から話を聞き出す必要が出てきた」
「
……僕から?」
「ああ。破片から情報を読み取るのは、言葉では言い表せないほど複雑で地道な作業なんだ。たとえ文字が読み取れたとしても、その意味が理解できないことが多い。だけど、君ならその文字が指す“情景”を知っているはずだ」
「それを読み解ければ、他の“械”たちも目覚めさせることができる」
ヒストリアは一歩前に出て、まっすぐに目を見つめてくる。
その瞳には、確かな決意と熱意が宿っていた。
「白浪。この実験は、気が遠くなるほど地道なものだ。仲間と再会できるまで、何十年、あるいは何百年もかかるかもしれない。成功する保証も、君がその時まで生きていられる保証もない」
「それでも
……この国のために。仲間のために。力を貸してくれるかい?」
そう言って、彼女は群青の軍帽を差し出す。
「
……何百年
……」
その言葉が、自然と口をついて出た。
もし、本当に永遠に一人だったら
……
心が凍るような恐怖が胸を刺す。
だが、この世界で目覚めた瞬間から、すでに自宅の宿命は決まっていた。
ならば
……
それを貫くだけだ。
白浪は深く頷き、その軍帽を手に取って静かに被った。
そして、かつてのように背筋を伸ばし、敬礼を決める。
「吹雪型駆逐艦・白浪。任務を確認。全力を尽くし、必ず成功させてみせます」
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.