氷紀
2024-12-23 03:20:09
15387文字
Public とある息子たちの話
 

とある放蕩息子の追憶

養父の思い出を引きずっているゲタくんが、モブの老人と出会って別れる話。CPとしてはモブゲタ。
『とある息子たちの話』シリーズ(※こちらのシリーズはゲタ沢)の前日譚です。
※モブゲタwebオンリー『モブの下高校』出展作品



 田中君は、甲斐甲斐しかった。
 時間はまちまちだが、昼か夜にやってきて、時間が合えば食事の上げ下ろしをし、本のことを話し、買い物やら掃除やらをして再び本を眺め、決められないからまた来ますと言って去り――
 そんな一週間と少しのあいだに、薬の守りを食い破った病魔は、いっきに私の体を蝕んでいった。強い痛み止めは予め処方されていたから、それで何とかしのいではいるものの、もう、残り時間が少ないのは分かる。

 今月もあと五日を切った日。
 降り続く長雨の夜、私はとうとう耐えきれなくなって、帰ろうとする彼を呼び止めてしまった。
……君の都合が許すなら、泊まっていってくれないか」
「それは、構いません、けど。……いいんですか」
「ああ。……どうにも、一人の夜は気が滅入っていけない。寝床は、そこのベッドしか空いていなくて、悪いが」
 視線で、今私が寝ているベッドの隣に横たわっている、空のベッドを指す。数日前、田中君の手ですっかりきれいに整えられたその空きベッドが、元々誰のものだったかは、きっと言うまでもなく伝わっているだろう。
 私が弱音を吐ける相手は、妻だけだった。妻を喪ってから、あとは死を待つばかりの暮らしで――そこに彼が現れて、私はつい手を伸ばしてしまったのだ。
「わかり……ました」
 やや遠慮がちに、ではあったが、田中君は頷いてくれた。

 田中君がシャワーを使っている水音を聞きながら、考える。
 己に迫る死の気配を感じると、やはり誰かに縋りたくなるものなのか。特に深い信仰というものも持たない身は、ただソレの前で呆然とするしかない。……誰でもいいから、ただ側にいて欲しい。最後に残った欲と呼べそうなもの。

 シャワーから戻ってきた田中くんは、洗面器を抱えていた。中に一本タオルが投げ入れてあって、それで彼の意図は知れた。
「あの、良かったら……体、拭きましょうか。上半身だけでも」
……ありがとう。お願いするよ」
 二台のベッドの間にあるテーブルに、洗面器の置かれる微かな音がする。タオルを絞る水音が、雨音に紛れて響いた。
「失礼します」
 私の体を抱え起こして、着ている病衣――これも田中君が手配してくれたものだ――をそっと剥ぎ取り、心地よく熱いタオルの感触が肌に触れる。病んだ体を目にしても、田中君は何も言わなかった。
 背中、胸、腕。時折絞り直して、少しずつ温くなっていくタオルの向こう、田中君の手に迷いはない。
「下は、どうしますか」
「膝から爪先の方まで、頼む。他は自力で何とかなるが、腰が痛くてかがめないから……
「分かりました」
 タオル越しに若い肌の気配を感じて、我が身の老いが浮き彫りになった気がする。
 右足のふくらはぎを拭いているあたりで、浮かんだ思いが言葉になった。
「随分……慣れているね。この間来たヘルパーとは大違いだ」
「ヘルパーの人、頼んでたんですか」
「ああ、一応。……でも、どうにも乱暴でいい加減な奴でな。交代の話もあったが、断ってしまったよ。かわりに、洗面所に通報装置を付けろと……たかが一ヶ月のことに、なあ?」
 雨音を透かして、田中君が小さく笑う声が聞こえた。
「僕はいいんですか」
「話を聞きもしない無駄な世話焼きよりは、ずっと」
「それなら……良かった、ナ」
 田中君は、足の指の間まで丁寧に拭っていく。ろくに知りもしない、老いと病に蝕まれた男の体を、まるで壊れ物のように扱う手。
 何か人間離れした情愛を感じた。神というにはずっと身近で、悪魔というには繊細すぎて、精霊というには少しだけ重いような。
「ありがとう。……不思議な男だな、君は。私は君のことを何も知らないが、何故か、酷く落ち着くよ」
「僕は、……僕も、黒岩さんに会えてよかった、って思ってます。きっと、これから先も、ずっと」
「若い君の時間を、こんな年寄りに使わせて悪いな」
 白い髪が、ふるりと横に揺れるのが見えた。右足を拭き終わった彼の手は、今度は私の左足に伸びる。
……いいんです。僕が、こうしたいから」
 泣き出す寸前の声音だった。
 あまりにも気になって、つい問いを重ねてしまう。
「何か、理由があるのかい」
……それは、」
「辛ければ、無理には聞かないよ。しかし、……どのみち、遠からず墓場に沈む身だ。君の重しのひとつくらいは、一緒に抱えていってやれないこともない、と思うんだが」
 一拍の沈黙。
 その間に彼は、洗面器でタオルを絞り直した。もうだいぶぬるくなっているが、その感触もまた心地良い。
「じゃあ……お伽噺だと思って、聞いてください。僕、人間じゃなくて妖怪……の、ようなものなんです」
「ほう」
 そう来たか。
 ……カラスと仲良しだったことといい、もう真実か否か問う段階ではない。
「でも、義父は人間でした。体を損なった父の代わりに、僕を大事に育ててくれて、……人間の世界のこと、たくさん教えてくれました。僕は義父が大好きで、本当に……だいすきで、」
 俯く田中君の表情は見えない。
 でも、足の上にぽつりと落ちる感触が何か、と思えば――その表情は、想像で充分補える。
「だけど、僕が十のときに、……暮らしていた家が、水害で流されて。……僕の目の前で、あの人は……、」
 ぽたり、ぽたり。雨音に似たちいさな音。
 足を拭く手が、先ほどから同じところを往復しているが、それを咎める気にはならなかった。
……それから少しして、僕は自分の年を数えるのを止めました。お義父さんとの思い出の距離なんか、知りたくなくて」
「それは……辛かったろう」
「それでも実の父、父さんが、いたから……でも父さんは体を損なっていたから、あの頃の僕は、ひとりで頑張るしかなくて。……今はもう、父さんは元気、なんですけどネ」
 取り繕うような声音。
 田中君は、一度拳で自分の顔を拭ってから、続けた。
……もし、お義父さんが生きていたら、って。人間は僕や父さんよりずっと早く死んでしまうって、分かっていたけど。……もっと、一緒に過ごしたかった。年をとって、寝込んでも、こうやって……体を、拭いてあげたかった、って……
 その言葉が真実だとすれば、……なるほど、彼に対して覚えていた様々な違和感は、きれいに辻褄があう。生きた時代がズレていること、傷の治りが異様に早いこと、白い手とその雰囲気。
「では、君が熱心に読んでいた本は……その、お義父さんという人に関わる本なのかな?」
「はい。……お義父さん、帝国血液銀行に勤めていたんです。一張羅のスーツで……、営業の話のネタだって言って、ベストセラーを読んだりなんかして。生活にそんなに余裕はなかったけど、月に一度くらい、映画を見にいったりとか……よく、覚えてます」
……そう、か。君はそんな時代から生きているんだな」
 あの時代を直接記憶している人間は、もう一人残らず墓の下だ。人間は長くても100年少々で大体死ぬとすれば、今の地球上に残っている筈がない。そういう年代だ。
「いろんな人と会って、見送って、友だちになったり、いがみ合ったり、殺し合い寸前まで行ったことも何度も、……でも、何をしても、何があっても、人間はみんな僕の側からいなくなる……お義父さんが最後に教えてくれたのが、それだったんです、きっと」
 私の左足を拭きながら、虚空に向かって喋っている風だった。
 それでもいい。冥土の土産、というのとは少し違うだろうが、彼の心にある荷物を、少しでも軽くできるなら。
「君はきっと……さみしい、のだね。お義父さんという人に、置いていかれたのが」
……たぶん」
「そうだな……置いていかれるというのは、心にも体にも、堪えるものだ。とはいえ、いずれ死んだら会えると思えば、……ああでも、そうか。君は……
 そこで足を全て拭き終わり、田中君は顔を上げた。
 涙の痕を残した顔で、私に向かってにかりと笑ってみせる。
「なんて、……ただの、お伽噺ですヨ。お湯冷めちゃいましたから、替えてきますネ」
 サイドテーブルの洗面器を持ち上げる横顔は、――なにかひどく、綺麗な生き物の顔だった。