氷紀
2024-12-23 03:20:09
15387文字
Public とある息子たちの話
 

とある放蕩息子の追憶

養父の思い出を引きずっているゲタくんが、モブの老人と出会って別れる話。CPとしてはモブゲタ。
『とある息子たちの話』シリーズ(※こちらのシリーズはゲタ沢)の前日譚です。
※モブゲタwebオンリー『モブの下高校』出展作品



 黒岩さんの家は、あまりにも居心地がよかった。古い本があって、他の場所から切り離されたような気配がして、行けば食べるものを出してくれて、怪我の心配までしてくれる。あまり一カ所に入り浸るのは良くないし、人間に思い入れすぎるのも良くないって分かっていても、どうしても、足が向いてしまう。

 父さんと一緒にいるのが苦しくなって、妖怪たちが隠れ住むあの森を離れてから、もうどれくらい経つだろう。マトモに数えるのを止めたまま、僕は人間の街をふらふらしながら暮らしてる。適当に嘘をついて誤魔化して、夜の街に入り浸って、ろくでもない暴力を振るわれたり、一夜の宿と引き換えに、心にもない甘い言葉と下世話な欲望を売ったりしている。だけど人間より遥かに頑丈なこの体は、何をされても何があっても、すぐに治ってしまうから、問題にもならない。だから暴力の痛みも、即物的で薄っぺらな快楽も、僕にとっては同じこと。ただ、いつも何か渇いていて、空腹だった。それだけ。

 前に一回、真っ当な暮らしをしている人間を暴力沙汰に巻き込んで、おそろしく面倒なことになって以来、極力昼の街には近づかないことにしていた。夜の方がまだ、僕の居場所だ。だから――黒岩さんが声を掛けてきたのは、本当に想定外のことだった。
 
 早く逃げれば良かったのに、入り浸ったらいずれ痛い目を見るのは僕なのに、声の調子があまりにも水木さんにそっくりで――見た目形は全然違っても、あの人の面影を感じてしまったのが、まずかったんだと思う。

 水木さんのことは、心に焼き付いてる。顔も声ももうすっかり遠くなったと思っていたのに、見知らぬ誰かを『似ている』と判断できるくらいには。今の僕をあの人が見たら、なんて言うだろうか。僕をどうするだろうか。……きっと、ホットケーキでも焼いて、傷の手当てをしてくれるだろう。だからだ、黒岩さんのところに足が向いてしまうのは。

 美容師見習いが嘘だって、きっともう黒岩さんは分かっているだろう。いくらなんでも負傷の回数が多すぎる。
 傷の治りが早いのも、『体質ですヨ』と言い張っているけれど、これもいつまで続くだろう?
 そんなことを考えていた、とある雨の降りしきる夜。
 僕は全身ずぶ濡れになって、黒岩さんの家の玄関先に転がり込んだ。いつものように玄関を開けてくれた黒岩さんが、大きく目を見開く。
「田中君、一体」
「ちょいとドジ踏んじゃいましてネ。屋根をお借りしたくて」
……少し待ってくれ、今タオルを持ってくる」
 黒岩さんが家の奧にとって返すのを、ぼんやり見送る。足音が、いつもより不規則な気がする。
 それでつい、足に意識が向いた。傷が痛む。左足のふくらはぎあたり、変態(と言って良いだろう、たぶん)の客に肌を噛み千切られた痛みは、流石に堪えた。主に傷そのもの以外の理由で。適当に絆創膏を貼っているけれど、その絆創膏のメーカーは、黒岩さんの救急箱にあったのとおなじもの。薬店の棚にある絆創膏の中、それだけは見覚えがあったから。

 いい加減不審が極まっていてもおかしくないのに、黒岩さんは僕のことを問いただそうとはしなかった。大きなバスタオルを持ってきて、体を拭いた僕をいつものように迎え入れて、温かいほうじ茶を出してくれた。
「スミマセン、着替えまで借りちゃって……
「サイズが間に合ってよかったよ」
 居間の隣のキッチンスペースから、穏やかな声がする。
 僕が着せられたのは、温泉旅館に備え付けられているような浴衣だった。黒岩さん曰く、前に寝間着として買ったらサイズを間違え、そのままタンスの肥やしになっていたものだという。確かに黒岩さんの身長は、僕より頭一つは低い。
 いつもの服は洗濯機の中で回っている。……霊毛を編み直したセーターまで洗う必要はなかった気がするけど、マア、洗濯を断って不信感を深めるのも良くない。
 ソファの上でほうじ茶を啜りながら、本棚からいつもの一冊を取り出す。帝国血液銀行について論じた本だ。あの組織について歴史学者が考察した本で、文章の内容はあまりにも難解すぎて、正直よく分からない。でも、ところどころにある写真を眺めていると、水木さんが生きた場所の面影が感じられるから、それが好きだった。

 その日、出されたのはレトルトのカレーだった。昔から、それこそ水木さんの生きていた時代から続いてる、あのカレー。前にも出されたことがあって、これは黒岩さんの好物なのだという。もうここで何度も食べた。
 でも、この夜がいつも違ったのは、そのとき出てきたのが僕の分だけだったということ。黒岩さんは先に夕食を済ませてしまったからと言ったが、……思えば、これが終わりの始まりだった。

 僕がカレーの皿を空にするのを、黒岩さんはいつも通り、にこにこ笑って見守ってくれた。何でも、年をとった人間は、若いのが元気に食べている様子を見ると嬉しくなるものだから、……だそうだ。

 その皿を台所に下げようとしたとき、黒岩さんは転倒した。
 慌てて駆け寄ると、おとついから少し腰が痛くてね、と苦笑が返ってきたけど――そういえばさっき玄関先で、タオルを持ってきてくれたときも、歩き方が少しおかしかったような。
「大丈夫ですか」
 肩を貸して、黒岩さんをさっきまで僕の座っていた場所に座らせる。転がったカレー皿は一旦テーブルに戻したけれど、後で僕が台所に持って行った方が良さそうだ。年は取りたくないね、と呟いたきり、黒岩さんは沈黙した。
 その視線の先にあるのは、古い型の仏壇だ。位牌と線香立てと、くすんだ真鍮色のりん 。それら全ての中心にあるのは、優しそうな、老齢の女性の写真が一枚。ゆるく巻いた白髪の印象も合わせて、何だか春の雲みたいな印象の人だった。
 僕の疑問の視線に気がついて、黒岩さんはぽつりと呟いた。
「ああ、妻だよ。しばらく前に、交通事故でね……
 雨音の響く中、黒岩さんは静かに続ける。
「田中君」
……はい」
「この家にくるのは、今月限りにしてほしい。……本当はもう少し、君と過ごしてみたかったんだが、どうも時間切れのようだ」
 いつかは、と覚悟していたことだった――だから少し辛い言葉だったけど、動揺はしなかった。それでも時間切れという言葉は気になる。
 ソファの上、黒岩さんの隣に座って問いかけた。
「時間切れ、って……?」
……もう随分前からな、病気だったんだ。長いこと薬で抑えていたんだが、それがどうも、ぼちぼち効力切れのようでね。元々、今の薬が効かなくなったら終わる命だと宣告されていた身でな、それはもう覚悟の上なんだが……
 眼鏡越しの、優しい視線が僕に注がれる。
 もし水木さんがこの年まで生きていたら、こんな顔をしたんだろうか。
「心残りなど、増やすつもりもなかったんだが。君には、つい手を伸ばしてしまった……、」
「黒岩さん、……これから、どうするんですか」
「来月、施設に入ることにした。もっとも、その施設にも、どれくらい居ることになるのやら……ではあるが」
 再び、黒岩さんの眼鏡越しの瞳が仏壇に向けられる。僕は黒岩さんの背景事情を詳しく尋ねたことはない。大学の講師を辞めて、今は年金で一人暮らしをしていること以外は、何も――
「本当は先週言おうと思っていたんだ。……でも、君の顔を見ていたら、言いそびれてしまってね。許して欲しい」
……、」
 僕は何も言えなかった。
 だって僕は、黒岩さんの人生に対してはただの闖入者ちんにゅうしゃだ。むしろ、何も言わず聞かず、ただ家にいることを許してくれた黒岩さんの方が変だと言ってもいい。
……惜しんでくれるのかい」
 ただひたすら優しいだけの表情で問われれば、頷くしかない。
「残念、です。僕ももう少し、ここにいたかった……この本たちは、どうなりますか?」
「甥っ子がね、これがまた変わり者で、歴史学をやっているのが一人いるんだ。私が死んだ段階で残っている全てを、その甥っ子に譲ると決めてある。覚え書き程度だが、書類も作って……そう、今の薬を使い始めた頃だから、五年程前かな。サインをしたよ」
 密かに小さく、息をつく。その甥っ子という人がどんな人か、僕は知らない。ここが見知らぬ誰かのものになってしまうなら、もう、来たいとは思えなくなるだろう。
「だが、今はまだ私のものだ。だから田中君、……今月いっぱいかけて選んでいいから、好きな本を持っていってくれ」
「えっ」
「私が死ぬまでは、譲るも捨てるも私の自由。だったら、君に贈るのも自由だろう? ……何か言われたら、本の目録を整備する途中で力尽きた、ということにしておくさ」
「どう……して」
 何故、そこまで。視線に込めた問いは正確に伝わったらしく、黒岩さんは眼鏡の下の目を細めて、柔らかく笑う。
「君がよく読んでいた、あの帝国血液銀行の本。……このままなら甥っ子の資料だろう。だが、君が持てば心の拠り所になるはずだ。本の用途としてどちらの方が望ましいのか、などと言う気は毛頭ないが、甥っ子は大学に住み着いているからね。いくらでも、あれを読むツテはあるだろう。しかし、君がもう一度あの本を手にするのは、難しいと思うんだよ。他の本もおおむね、同じようなものではないかな」
 難しい、どころではない。よくある書店どころか、古本屋を回ったってそうそう見つかるとは思えない。
「といっても、ここにある本全部を持っていって良いとは言えない……というか、無理だろう」
「まあ、さすがに」
 今の僕は、夜の街で適当に一夜の宿を求めて彷徨いつづけている身だ。カバン一つに入れられる本は、黒岩さんの言う通り、二冊程度が関の山だろう。
……じゃあ、黒岩さん。今月いっぱいかけて二冊、選びますから。その、……決まるまで、毎日きてもいいですか」
「構わないよ。ああ、体がこのザマだから、飯までは出せないかもしれないが」
「それなら、僕がやります……
 家事はお義父さんが教えてくれた。厨房の仕事で糊口を凌いでいた時期もある。
 この穏やかな時間をくれた人に、最後の最後、できることがあるなら――せめてもの慰めだろう、と思った。