氷紀
2024-12-23 03:20:09
15387文字
Public とある息子たちの話
 

とある放蕩息子の追憶

養父の思い出を引きずっているゲタくんが、モブの老人と出会って別れる話。CPとしてはモブゲタ。
『とある息子たちの話』シリーズ(※こちらのシリーズはゲタ沢)の前日譚です。
※モブゲタwebオンリー『モブの下高校』出展作品

 私が彼と出会ったのは、亡妻の三回忌の翌日だった。
 立春はとうに過ぎたというのに妙に肌寒く、ストーブを引っ込めずにいた無精にかえって感謝したくなるような、そんな夜のこと。

 行きつけのスーパーで、一人暮らしに必要な食料品と日用品を買い込むところまでは、妻を喪ってから続く灰色の日常の延長だった。こう冷える夜は腰と膝が軋む、若い時分は何でもなかったことが、そろそろ八十という年の体には堪えるものだ――と、考えていた。
 彼が現れたのは、その帰路のことだ。家に続く最後の曲がり角を曲がった瞬間、ほんの数歩先に、彼は立ち塞がっていた。
 私より遥かに真っ白な髪、黄と黒の横縞模様のセーターと紺色のボトム、履き古しではあるものの、頑丈そうなスニーカー。片目を隠す変わった髪型からして、美容師でもやっている男なのか、それともバンドマン崩れなのかと想像していると、不意に彼が呼びかけてきたのだ。
「こら、ダメだって。その人は違う」
 よく通る、青年の声だった。しかし何も思い当たる節はない。
 戸惑っていると、彼がもう一度口を開く。
「お礼のリンゴはさっき渡したでしょ。早く帰りなヨ」
 その声が、私ではなく私の斜め上方向に向けられていると気づいて、とっさにそちらへ視線を向ける。そこには、家の塀の上にカラスが三羽、止まっていた。
 その中の一羽が、カァ、と大きく鳴いて羽ばたき、夜空へ消えていく。残る二羽も、それを追うように――こんな時間にカラス、という不自然が気になったが、それ以上に気になったのは、その青年が着ているセーターにできている、大きなシミだった。……街灯の明かりの下、ソレは黒に見える。が。
 夜風の中に混ざるにおいが、そのシミの正体を告げていた。
 思わず声が出る。
「君、怪我をしているのか」
「ん、まァちょっとだけ。大丈夫、何でもないんで……道ふさいでスミマセン」
 そう言って私の隣をすり抜けようとする彼の肩を、とっさに掴んでしまったのは――おそらく、その血のシミが亡妻を思い起こさせたからだ。

 飲酒運転の軽トラックに跳ね飛ばされただけなら、まだ助かったかもしれない。
 妻の死因は、跳ね飛ばされた先、民家の尖った柵で腹を串刺しにされたことだった。
 診断は外傷性肝損傷。即死だった。

 よぎる記憶を押し殺して、口を開く。
「何か事情があるんだろうが、その血はただごとじゃないね。私の家はすぐそこだ、手当てを」
「大丈夫ですって」
「それとも救急車を呼ぼうか。いっそ警察に通報しても良いが」
 ぎくり、と青年が動きを止めた。読みが当たったことに安堵半分、呆れ半分の気分がやってくる――何か相当な訳ありだと、妻を喪うまで保護司をやっていた己の勘が告げていた。

 結局、その青年は大人しく私の家まで着いてきた。玄関を潜るときに、お邪魔しますと軽く会釈をして、脱いだ靴はきちんと揃えて上がる……という動きはよどみなく、ますます違和感が酷くなる。少なくとも彼の人生の中に、基本的な礼儀を教える者がいたのは確かだ。彼は、いわゆる破落戸の類ではない。
 ともあれ、まずは怪我の手当てだ。
「失礼するよ」
 居間の隅でホコリを被っていた救急箱を開け、リビングのソファに座らせた彼のセーターをまくり上げると――痩せた腹に、刺し傷が一つ。ただ、もう完全に血は固まっていて、傷の縁に少し赤みが差している状態だった。つまりは、治りかけ。
「マァ、大したことないんで……
「どうも、そのようだな。しかし絆創膏くらいは貼っておくといい」
 一枚だけ残っていた大判の絆創膏で、その傷を塞いでやる。そうしたら、その青年の腹が派手に鳴るのが聞こえた。腹を減らしているらしい。
……はは、失礼。ちょっとマトモに食べてなくて」
 片方だけ見えている瞳が困ったように笑う。
 先ほど見た、痩せた腹からするに――ちょっと、ではないだろう。
「ついでだ、食べていきなさい。冷凍のパスタでよければ」
「あ……スミマセン、ありがとうございます」
 青年は少し迷ったようだが、結局腹の虫には勝てなかったらしい。過去、保護司として関わってきた青年たちの姿を思い出す。皆事情は違っても、共通の敵は寒さと空腹、というのだけは真実だった。
 買い物袋から取りだしたトレイの冷凍パスタを二つ、電子レンジで解凍して出してやる。来客用のフォークを出すのは、本当に久しぶりだった。
「いただきます」
 そう手を合わせる彼の仕草も、食べ方も、崩れた気配は全くない。
 ますます、おかしい――自分でもパスタを口にしながら、私はつい問いかけた。
「あの傷は、どうしたんだい?」
「女に刺されたんです。勝手に惚れてきて勝手に浮気するなと言って、いい加減にしろって言ったらこう、刃物を持ちだしてきて……
「それは、……災難だったな」
「何日か逃げ回ってたんですけどネ、なかなかしつこくて。最終的にはカラスたちが助けてくれて……、さっきの子たちですヨ」
「そういえば、リンゴがどうとか言っていたね。しかしこんな時間にカラスが飛んでいるのは……
「僕ァカラスと仲良しなんですヨ、親友です親友。あいつら僕のピンチに飛び起きて、文字通り飛んできてくれたンです」
 片方だけ覗くまるい目が、にかりと笑う。奇妙な愛嬌のある表情だった。
 やはり不思議な青年だ――まるで妖怪のような、と思ったが、それにしてはあまりにも人間すぎる。狭間で居場所をなくしたまま漂っているようなモノ、という印象が一番近かった。
 そのまま二口ばかりパスタを飲み下した彼は、ふと壁の本棚に視線を移した。
……あ。南極越冬記」
 整理の悪い本棚の隅、一冊だけ横倒しになっているのが目に留まったのだろうか――ますます違和感が強くなる。
「本が好きなのかい?」
「あ、いや。そこまでじゃないンですが、前に読んだことがあったから……懐かしいナ、って。他の本も、なんだか図書館みたいな品揃えですネ」
「昔のものさ。大学で近代文学を教えていたことがあって、辞めるときに随分整理したんだが……どうにも手放し難いものだけ、残したんだよ」
「そうですか、それで……ふふ、見覚えあるのばっかりだ」
 リビングの壁一面を埋め尽くす本棚は、私がかつて所蔵していた本の一部だ。定年で大学を辞したとき、蔵書は大幅に整理したのだが、その南極越冬記はある年の教え子からのもらいものだった為、手元に残した一冊である。
 しかし、……彼は、本に縁があるような暮らしだったのか?
 そこで横倒しになっている新書版の南極越冬記の初版は、もう数十年前である。確かに当時のベストセラーではあるが、今の時代に、しかも彼くらいの年齢で読んでいる人間は、かなりの少数派の筈だ。
 先ほどから感じる、あまりにもちぐはぐな気配に、興味が湧いてきた。
「君は随分若いのに、珍しいね。昭和の文学なんて、今時はやらないのに」
「そう……かもしれませんネ。でも僕を育ててくれた人が、何しろ古い人だったから……小さい頃の絵本なんかも、古い本ばっかりで。懐かしくて、……
 古い人、という言い方が気になる。祖父母とは違うのだろうか。
 気がつけば手元のパスタの皿は空っぽだ。それでも彼は懐かしそうな、……どころか泣き出しそうな顔で本棚を見ているので、私はつい言葉を重ねていた。
「良かったら、ここを君の図書館代わりにするかい」
「え?」
「何、年寄りのヒマ潰しだ。君なら、本を粗末にすることはないだろうし……ただ、他の誰かを連れ込むのだけは止めてほしい。それさえ守ってくれたら、いつでも来てくれ」
「カラスたちもダメですか?」
「カラスは……、そこの庭先までなら」
 ……彼にとってカラスが親友だというのは、どうやら冗談ではないらしかった。

 帰り際の玄関で、私が黒岩くろいわ ただし という己の名を名乗ると、その青年は田中ゲタ吉と名乗り返してきた。彼は隣の市で美容師見習いをしながらアパート暮らしをしているのだと言ったが、名前も、その暮らしぶりも、少なくとも何割かは嘘だと私の直感が告げていた。
 しかし、それを暴こうとは思わなかった。本棚を見つめる横顔が、あまりにも真摯な悲嘆と愛着に満ちていたから――過去に何か余程のことがあったのだろうと推察はできたし、私にとってはそれで充分だった。

 そうして出会ってから三ヶ月ほど、週に二、三度くらいの割合で、彼は私の家を訪ねてくるようになった。その度に腹を空かせて、そして月に数回は生傷を負って。傷の理由を問えば、ほとんどが色情絡みの刃傷沙汰だ。一回だけカラスの喧嘩に巻き込まれたというのもあったが、どこまで真実なのかは微妙なところだろう。
 ともあれ、食わせてたまに手当てをして、の繰り返しだったが、気がつけば、私にとって彼の来訪は一つの楽しみになっていた――妻を亡くしてから、私の暮らしの中に『自分以外の誰か』はいなかったから。
 飯を食わせて、読んだ本の感想を語りあい、その隙間にぽつぽつと彼自身のことを聞き出し、という時間が重なって、だいたい事情が見えてきた頃には、季節は春から梅雨へ差し掛かろうとしていた。

 彼の名乗る田中ゲタ吉という名前、そして美容師見習いという自称は、おそらく嘘だ。雰囲気があまりにも不自然だし、負傷の回数が多すぎる。それに手の肌が、爪が、職人仕事をやる男としては、どうにも『何もなさすぎる』のだ。本当はホストか、あるいはその手の店の黒服か、だろう。
 更に、手と雰囲気の不自然を遥かに上回るものが、彼の語る言葉の中にあった。主に随筆の感想から感じたことだが、昭和中期の暮らしにやたら詳しいのだ。その頃に流行った映画のタイトルをいくつも挙げられたり、当時の流行歌のサビだけ歌えたり、まるであの時代を生きたことがあるかのように――二十歳そこそこにしか見えない青年が語るには、あまりにも具体的すぎる。

 それとなく問いただしたら、それらは全て育て親の影響なのだと彼は言った。何でも、彼が生まれた時に母親は死んでしまい、父親も病で体の自由がきかず、赤ん坊の彼を世話していたのは、特に血縁でもない父の親友だった……らしいのだ。古い人、というのも尋ねてみれば単純な話で、彼の父と事実上の養親とも言える男の年齢差は、相当なものだったという。それだけ年の離れた友がいるというのも珍しい話ではあったが、ともあれ一応の説明には違いない。その信憑性はといえば、やはり疑問符を付けざるを得ないが。

……僕は、その人が本当に大好きで」
 雨の降りしきる日に訪ねてきた彼は、本を手に取るでもなく、ただ棚を見つめて呟いた。
「父がいないときは、お義父とう さん、ってこっそり呼んでたんですヨ。嬉しそうでした、とても」
 懐かしそうな、泣き出しそうな顔。
 寄る辺を無くした迷子のような表情で、彼は続ける。
「だから……この時代の本を見ると、どうしてもお義父さんを思い出してしまって。もう、随分前に亡くなったんですけどネ」
「そうだったのか。いや、立ち入ったことを聞いてすまない」
「いえ、……黒岩さん、何だか雰囲気がお義父さんに似てるから。つい」
 はにかんだような笑顔に、何か心が揺れた気がした。
 もし自分に孫がいたなら、こんな顔をするのだろうか――つい、そんなことを考えてしまうくらいには、幼く甘い笑顔だった。